聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「どん底からの希望」

  1. ナオミではなくマラ

    かつてナオミはイスラエルに戻った際(119~)ナオミ(快い)とは呼ばずにマラ(苦しみ)と呼ぶよう訴えた。確かにイスラエルを出てモアブの地において夫と2人の子どもに先立たれ、大きな苦しみを味わった。私たちもそのようなとき、神様を遠く感じるかもしれない。

  2. マラからナオミへ

    1章で苦しみ、卑しくされ、つらいめに会わせられたと感じたナオミ。しかしボアズとルツの出会いに神のしるしを見ることができた時、マラからナオミ(快い者)として扱われていることを再確認した。どん底と思えるところにも神の光は必ず届く。神の恵みを掴もう。

Ⅱ・「買い戻しの恵み」

  1. 買い戻しの権利

    当時の律法においてナオミは夫に先立たれたために、死んだ夫に最も近い親族がその家を買い戻し、未亡人と結婚することができたが、拒否することもできた。もし誰もその未亡人を助けようとしなかった時には、残りの人生を貧困の中で絶望と共に生きねばならなかった。

  2. ナオミを信じたルツ

    ナオミのルツへの申し出は、異邦人のルツには不思議に感じたかもしれない。しかしルツはナオミを信頼し、ナオミの言う通りに従った。ナオミの人柄にもよるが、その背後にある信仰、神の導きに従ったと見ることができる。納得しなくても従う信仰を求めてみよう。

Ⅲ・「買い戻された私たち」

  1. ボアズの誠実さ

    ボアズはルツに対して、とことん誠実であった。決して欲におぼれず律法に対しても忠実であった。そして愛と慰めに満ち溢れていた。私たちにとってのボアズは誰であろうか?一歩間違えばどん底に落とされる絶望から買い戻し愛と慰めと誠実に満ち溢れたお方がいる。

B.キリストによる買い戻し

ルツはボアズという存在と出会うことができた。私たちはキリストという存在と出会うことができ、十字架上の死によって罪による絶望から希望へ、苦しみから喜びへと贖い出し、私たちを買い取ってご自身のものとしてくださった。永遠に消されない財産が保証された。

結論:ナオミはルツの幸せを願った。そして、自らの苦しみの先にある希望を主の導きの中に見つけることができた。それはボアズであり、買い戻しの制度であった。ルツはその恵みの中で異邦人でありながら、この唯一まことの神の導き、神の律法に従い歩んだ。私たちも思いがけない苦難、痛みを覚えることがある。しかし、神は私たちを見捨てることなく、愛と慰めと誠実さをもって私たちを守り、救ってくださる。ルツにはボアズが与えられた。私たちにはキリストが与えられた。このキリストによって私たちは、絶望から希望へ、苦しみから喜びへとその方向を転換させることができ、栄光の勝利に向かう歩みへと誘われている。この恵みをしっかりといただき、存分に味わおうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:01 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「落ち穂拾いに行ったルツ」

  1. 律法に支えられたルツ

    当時イスラエルの律法においては貧しい立場に置かれている人(やもめや在留異国人など)に対して、施しを与えるよう奨められていた。神の目的はすべての人の幸せであり、神がすべての人を愛されたように、私たちにもすべての隣人を愛するよう願っておられる。

  2. ナオミに仕えたルツ

    ルツが働いた動機の一つには、自分の生活を守ることと同時にナオミの生活を守るためでもあった。ルツはあなたの神は私の神というほどに主を真摯に愛し、同時に自分の隣人であるナオミをも真摯に愛した。ルツの生き方は神(縦)と人(横)の関係においてお手本となる。

Ⅱ・「一生懸命働いたルツ」

  1. 重労働に励んだルツ

    落ち穂拾いの働きは、身分の低い人たちがする仕事であり、大変な重労働であった。身も心もくじけてしまいそうな働き。しかし、ルツは自ら出て行き、休みもせずに一生懸命働いた。私たちも本意ではない働きに召された時、このルツのような姿勢が求められていく。

  2. ひたすらに生きる

    私たちに与えられている働きは何だろうか?その動機は自分がしたいことなのか、神様から与えられているものなのか確認したい。いやだと思う働きでも、それが主から与えられているものであるならばそこに従いたい。その先には思いがけないチャンスが広がっている。

Ⅲ・「主の恵みをいただいたルツ」

  1. ボアズとの出会い

    ルツとボアズとの出会いは、偶然行った先の畑の持ち主という関係ではなかった。主が与えてくださった祝福であった。ボアズは律法に定められている以上の行為をもってルツをもてなした。ルツが神様と共にいることを願ったとき、神様は喜びをもってルツを祝福した。

  2. どうしてこんなに親切に

    ルツはボアズにこのような自分に対する過剰なほどの施しに対して戸惑いと感謝の意を示した。神様は求める者には惜しむことのない恵みを与えて下さる。真摯に人に尽くし、真摯に働き、真摯に主を求めたルツに神は最高の(後のイエスにまでつながる)恵みを与えた。

結論:ルツの落ち穂拾いの話は絵画などでも有名である。しかし、その背後にある素晴らしい神様の恵みについては、見落とされてしまいがちである。落ち穂拾いができる環境を与えたのも主ご自身であり、ボアズとの出会いを演出されたのも主ご自身である。そして惜しみない恵みを注がれたのも主ご自身である。そこにルツの真摯な姿勢が加わる時、あまりにも美しい世界が広がっていく。私たちにも同じチャンス、恵みが備えられている。真摯に主を待ち望む者とさせていただこうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「キリスト不在の希望」

  1. 希望とは

    多くの人が希望とは何か?と問われたら「将来的に何か良いことが起こるのではないかという期待」というものを漠然と思い描くだろう。そしてすべての人がこうした希望を胸に抱く。しかし聖書に記されている希望とは、神を信じて救われた者に与えられる賜物である。

  2. 漠然とした希望

    こうした希望を抱く中で、その希望の根拠はどこにあるかと問う時、大きく二つに分かれる。それはキリストがそこにあるかないかである。キリスト不在の希望は無知であり、欲に満ちたもの(14節)であり、自分中心の虚しい、先のないものとなってしまう。

   Ⅱ・「キリストに満ちた希望」

  1. 聖なるお方から与えられた

    ペテロは私たちの信仰と希望は神にかかっている(21節)という。つまり、その根拠は神にあるとしている。神は聖なるお方であり、その神がなしたキリストの復活によって生ける望みが与えられた(3節)とあるように、地上のみならず永遠に約束された希望を握っている。

  2. キリストを信じる

    イエス・キリストを信じるという信仰、神に対する畏敬を希望の源とするとき、その人の人生は希望に満ち溢れたものとなり、喜びと感謝が心に迫って来る。神はすべての人に希望を求める思いを与えている。その根拠をどこに置くかが問われている。本物の希望を求めよう。

結論:目の前の小さな希望、遥か彼方にある大きな希望。誰もが抱く希望の根拠をどこに置くかによって、その希望の先にある大きな喜び、感謝にたどり着くか否かに分かれる。キリストによる希望は最終的には終末的な希望とつながっていくが、将来的なことに限らず、この地上においてもすでにこの希望によって私たちの日々の生活、人生がより豊かにされ、確かな根拠をもって希望を見据えて喜び、感謝して生きることができるようにされている。将来の希望が見出せない時代にあって、私たちは本当の希望をいただいている。確かな根拠をもって希望をはっきりと見出すことができている。この希望の光は、決して消えることなく、失われることがない。それが聖書の教えであり、神を源とした希望の確かさである。


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# by ontheway-chapel | 2018-02-06 16:59 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「逆境を通して輝く信仰」

  1. ナオミの試練

    ナオミはききんにより故郷を離れなければならなかった。しかもモアブはイスラエルに敵対していた土地。危険、不安様々な事柄が渦巻きながらナオミは夫と二人の息子と共に移住し、その地で夫に先立たれ、二人の息子はモアブ人の嫁を迎え入れた。霊的に希望がない状態。

  2. 神のご計画

    ナオミは息子とその嫁たちと約10年一緒に過ごしたとある。そこでの生活はどのようなものであったのだろうか。しかも息子たちにも先立たれた。信仰を捨ててもおかしくない過酷な試練の連続の中で、ナオミの信仰は決して衰えることなく、ルツを照らし続けていた。

Ⅱ・「ナオミの決心」

  1. ユダの地へ戻る

    ナオミのように未亡人となった者に対して、律法では死んだ夫に近い親戚が面倒をみるようなっていたが、息子たちも死に、頼れるのは二人の嫁であった。しかしその嫁の今後の幸せを願い、自分だけがユダの地へ戻ることを決心した。それは自らを無にする行為でもあった。

  2. 嫁の反応

    二人の嫁はナオミの決心に対して、一度はナオミと一緒にいようとする。しかしナオミの説得でオルパはモアブの地へ戻った。一方ルツはナオミから離れようとはせず、その生涯をナオミと共に過ごす決意を語った。これはルツが自分を無にするかのような決心であった。

Ⅲ・「ルツの決心の背景」

  1. あなたの神は私の神

    ルツがこのように言えた背景は、おそらくナオミとの10年にわたる共同生活の中にあった。ナオミの神に対する誠実な信仰、忠実な生き方を見て、時に教えられていたと想像できる。この信仰を通して義理人情ではない、霊的な深いつながりが二人の間に生まれていたのだ。

  2. 逆境を用いる神

    ナオミにとってはいったいどこに神の守り、祝福があるのだろうかと思えるほどの試練、逆境があった。しかし神はそれを用いて、ルツにあなたの神は私の神と言わせた。神は信仰者を決して見捨てない。そして忠実に生きる者に大きな祝福と恵み、報いを必ず与えて下さる。

結論:私たちも思いがけない問題、試練を経験する。すべてが逆境のように感じることがある。しかし、神はそのような中にも働いてくださり、その先に素晴らしい祝福と恵みを与えて下さる。目に見える現状がどれほど厳しかろうが、神がともにおられる時それらは必ず祝福に変えてくださる。どのような時であって、自分の信仰を貫こう。その信仰者としての姿が私たちの隣人に光となって届き、その人の心までをも変えてくださる。自分の祝福だけではなく隣人の祝福も求めていこう。その時、主は両者を祝福してくださり、私たちが信じている神を見て、その神こそ本物であり、私の神であると言わしめるのだ。


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# by ontheway-chapel | 2018-01-10 13:43 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「勇気に満ち溢れる」

  1. 外なる人

    パウロはものすごい厳しい迫害を経験した。人間的に考えたらもうあきらめてしまう、心が折れてしまう。そのような時、私たちは絶望してしまうが、それゆえに永遠の報いを捨て去らないようにしたい。ピンチの先には必ずチャンスが待っている。

  2. 内なる人

    パウロがピンチの時、どこに拠り所を求めたのか。この世の力ではなく、私たちの内に働く聖霊からくる内なる力、強さに拠り所を求めた。目に見える現実の世界だけを見ているならば救いを見出せないかもしれないが、内に働く神への献身を持つとき、勇気に満たされる。

Ⅱ・「永遠の栄光に照らされる」

  1. 今の時の患難

    私たちの教会も今年は厳しいところを通された。目に見える現実を見るとき、どこにこの先の希望を持てばいいのかわからなくなる。自分たちでできることは喜んでしたいと思うが、そこには限界がある。しかし限界の先に神の益を発見することができる。

  2. 永遠の光によって

    苦しみを通る時、キリストの苦しみを思い起こすことができる。苦しみを通して謙虚になることができる。その先に展開に希望を求めることができる。苦しみから私たちを解放させる神の偉大なる力を証しする機会となる。そこに神の永遠の栄光を仰ぎ見ることができる。

Ⅲ・「神とともに」

  1. 見えるものではなくみえないものを

    神はどこにいるのか、神などいないと直接その目で見ないと信じないという人がいる。そういう人は見ても信じられない。なぜならばすでに神のみわざを見聞きし、体験しているから。でも見えない神のみわざを見ることができた時、神はいつも共におられると実感できる。

  2. 永遠の世界に生きる

    厳しい現実を前に神を見ることができた時、神の愛なる世界、痛みも苦しみもない世界で神と永遠に生きることを知ることができる。その神がこの世においても共にいてくださる。そこに希望をもって様々な困難を前にしても私たちは希望をもって生きることができる。

結論:神の愛は偉大である。私たちの想像をはるかに超えた素晴らしいみわざによって、日々私たちに注がれている。外の世界だけを見て、この世の現実だけを見ていると苦しみが永遠に続くように感じ、希望を見出せないかもしれない。しかし、内に働く神の愛、みわざ、聖霊の働きに思いを寄せるとき、現実は厳しくても、日々私たちの内に働いてくださる神によって私たちは勇気に満ち溢れ、前に進むことができる。そしてその先に神の永遠の恵みを存分に味わうことができる。この世の困難をも乗り越えることができる力をいただくことができる。神はこれまでも、今も、これからもずっと共にいてくださるから。


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# by ontheway-chapel | 2017-12-31 16:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「この世は闇」

  1. 人生はむなしいのか

    人は死んだらどこに行くのか?人生の大きなテーマ、永遠のテーマかもしれない。死の先に何があるのかわからない故に人生は闇であるという。「人生は3(産・誕生)+4(死)=0(むなしい)」と教えてもらったことがある。本当にそうだろうか?

  2. だからこそ希望を探す

    むなしいままで、ただ闇に向かって生きていくだけの人生から脱却したいと願う。どこかに希望はないか、闇ではなく光を求めてさまよっている。しかし聖書は「人生は3+4=∞(永遠)」であると教えてくれる。その+は十字架と読む。そこに唯一の希望がある。

Ⅱ・「闇に光が届けられた」

  1. 希望の光

    人々は闇から逃れるために、虚しさから脱却するために、光を求める。しかし世には偽りの光がたくさんある。しかし不完全な光は闇に打ち勝つことはできない。むしろ人々を惑わし、混乱へ追いやる。そのような世界に真の光が、本当の希望の光がすべての人に届けられた。

  2. 闇を追放する光

    イエス様の到来によって、絶望という闇が追放された。むなしいだけの人生から勝利の人生が与えられた。死という闇が追放された。そして、いつも共にいてくださる光によって私たちに生きる力、喜びが与えられ、神の子どもとされる特権が与えられた。何たる恵み!

Ⅲ・「光によって与えられたもの」

  1. 恵みの上にある恵み

    イエス・キリストを知れば知るほど、愛せば愛するほどに、私たちはよりキリストのすばらしさを味わい、その人生がさらに豊かにされる。それはどこまで行っても尽きることがない。

    そこにはむなしさも、絶望もない。これ以上ない最高の恵みがこの光によってもたらされた。

  2. 最高のプレゼント

    イエス様のご降誕をお祝いするクリスマス。なぜか、私たちはプレゼントをもらう。しかし本当のプレゼントはイエス様そのものである。この最高のプレゼントをまだ受け取っていない人がたくさんいる。どんなプレゼントに勝るイエス様をしっかりといただこう。

結論:クリスマスプレゼント、今までいろいろなものをもらってきた。しかし、それらはいつか無くなってしまう。人生においてあらゆる物事も同様にいつか無くなってしまう。私たちの命も。だから多くの人は死が恐ろしく、不安になる。死んだらすべてが無くなるならば何とむなしく、希望も無くなる。しかし、そのような闇が支配するかのようなこの世に光が与えられた。イエス様が来られたことで、すべての人がその光に照らされた。すべての人に希望を、生きる力を、最高の人生を、そして永遠のいのちがプレゼントとして差し出された。このプレゼント、絶対に手にしたい。素晴らしいクリスマスのプレゼントはあなたのために備えられている。


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# by ontheway-chapel | 2017-12-25 12:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「人間には限界がある」

  1. 処女が身ごもる

    私たちはかつて学校の保健の授業で生物が子孫を宿すための仕組みを学んだ。これは科学的にも証明されている事実である。しかし、その常識を打ち破る方法で救い主が誕生した。これはどんなに科学が発達しても決して人間にはできない。それがマリヤの身に起こった。

  2. 高齢の女性が身ごもる

    その直前に老夫婦ザカリヤの妻エリサベツが身ごもった。常識的には不可能と思える出来事。ザカリヤもマリヤもどうしてそんなことが起こるのか理解できません、絶対に有り得ないと思った。どれほどの立派な人でも不信仰に陥ることがある。そこには人間の限界があるから。

Ⅱ・「神には限界がない」

  1. 不可能を可能にする

    人間の常識、知恵の範囲では絶対にありえない、理解しえないことであっても、神にはそれができる。神はこの宇宙を、地球を、人間をすべてを創造するほどの力を持った方。無から有を造り出すお方。そしてそのすべてを支配する権威あるお方。神にできないことはない。

  2. 我々人間にそのみわざをなす

    神は遠い昔にとてつもないみわざをなしたが、そのみわざは過去にとどまらず、現代を生きる私たちにもそのみわざをなす。目を上げて周りを見渡す時、自分の人生を振り返ってみる時、いたるところに神の大いなるみわざ、理解を超えるみわざがなされていることを知る。

Ⅲ・「神のみわざへの応答」

  1. マリヤの応答

    マリヤは受け止めきれない事実を前におどろきとまどったものの「おことばどおりになりますように」と信仰を持って受け止めることができた。不可能を可能にする神のみわざに自分の思いではなく、神のご計画に全面的に従うという信仰をもって応答することができた。

  2. 私たちの応答

    マリヤに対して私たちはどうであろうか?どうしても自分の考えや希望が最優先されてしまいがち。でも自分の気持ちではなく神のみわざに優先権をもって物事と向き合う時、救い主をお与えになった神の大いなる恵みが惜しみなく与えられていることに気付けるのだ。

結論:神がマリヤやザカリヤを通して、聖書全体を通して驚くべきみわざをもって私たちの歩みを導いておられる。時にその意外性に私たちはひどく戸惑ってしまうかもしれない。あまりに受け入れがたい事実を前に不信仰の応答をしてしまうかもしれない。しかし、その先にある神の恵みに目を留めていくためにも、自分の思いではなく、神のみわざを信じ従順に受け入れていくことが求められている。イエス様はそうしたマリヤの従順さによってこの地上にお生まれになった。その神は私たちを用いてみわざをなそうとしている。おめでとう恵まれた方、といつも共にいてくださり、私たちを祝福してくださるのだ。


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# by ontheway-chapel | 2017-12-25 12:35 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「弱きを助ける救い主」

  1. 支えて起こしてくださる

    日々の生活において多くの問題が目の前に広がっているが、多くは自分の力で何とか乗り越えることができたと感じているかもしれないが、どうにもならない問題と遭遇したとき倒れ、生きる気力すら奪われるほどに動けなくなる。その時、助けてくださる存在がある。

  2. 弱さを補う恵み

    神は私たちに知恵と恵みを与えられる。物事の視点をダイナミックに変えさせてくださる。同じ試練を前にして、こんなに辛くひどいことと悲観的に見ることもできれば、これを通して成長させてくださると見ることもできる。主との出会いによって新しい視点が与えられる。

Ⅱ・「必要を備える救い主」

  1. 主を待ち望む視点

    主は最初の罪を犯したアダムの贖いのために、動物の皮の衣を備えた。以来、人の罪の贖いには動物が用いられた。どれほどの動物が犠牲となってきただろうか?しかし、たった一人のお方の贖いによって罪赦され、神との平和に生きることができる救い主が約束されていた。

  2. 願いを満たすお方

    神は人類すべてのために救い主を与えて下さった。このお方は私たちが願うすべてのものを満たしてくださる。人類の平和、幸せ、喜び、祝福、栄光。私たちの必要をすべてご存知であり、時にかなって与えて下さるお方。救い主を受け入れるとき、すべて満たされる。

Ⅲ・「守ってくださる救い主」

  1. 行くべき道を示される

    私たちは道に迷う存在。時にとんでもない危険な、闇の道へと突き進もうとしてしまう。しかし、救い主なるお方は私たちの進むべき道を光を照らして教えてくださり、軌道修正して間違った道に行かないように守ってくださる。私たちの救い主は悪から守ってくださる。

  2. 近くにおられる

    偉大なる救い主であるがゆえに、どこか遠くから見守ってくれるイメージを持ってしまいがち。しかし救い主はすぐ側におられ、いつも共にいてくださる。だから、いつでもどこにいても私たちは確かに守られている。だから私たちも救い主をほめたたえることができる。

結論:イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス。それは、誰かが決めたおとぎ話でもなく、自分とは直接関係ないイベントでもない。みんながお祝いしているから何となく、便乗する行事でもない。私たち自身の人生に、日々の歩みにとって、またその後においても、かけがえのない重大な出来事である。私のためのクリスマスと主体的に祝うことができる行事。そしてそのイエス・キリストは私たちといつも共にいてくださり、私たちのことをいつまでも守り続けてくださる。なぜなら私のことを愛してくださっているから。



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# by ontheway-chapel | 2017-12-05 13:57 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「祈りには力がある」

  1. パウロと教会の関係

    パウロがテサロニケの教会のために必死に祈ったように、テサロニケの教会もパウロの宣教の働きのために、祈りを通して積極的にその働きを支えていった。これが生きた霊的な交わりであり、そこにはどちらか一方だけではない、双方向の交わりと確かな結びつきがある。

  2. 祈ってください

    パウロが求めた祈りは福音宣教の広がり。主のみことばが広がることであり、またあがめられることであった。さらに悪の働きから守られることを願った。誰かの痛みを自分の痛みのように思い、必死にとりなしの祈りをささげることができるのが、キリスト者の特権である。

Ⅱ・「神の守りがある」

  1. 愛するがゆえに

    パウロの祈る先には真実なる神がおられるという絶対的な根拠をもって、神の守りの確かさを訴えた。神の守りのゆえに私たちは強く立たせ、守られる。それは神の愛が源流にある。神の愛の真実さのゆえに、いつも神の守りの中を歩むことができ、真の平安に包まれる。

  2. 心配してくださる

    神は私たちが信仰を持った時から、もう大丈夫と距離を置くお方ではない。いつも私たちが様々な攻撃、誘惑に負けないように心配してくださっている。テサロニケにおける迫害、パウロの宣教への迫害に対しても、神様はいつも愛ゆえに心配し、守ってくださっている。

Ⅲ・「私たちの喜びがある」

  1. パウロの喜び

    パウロは神にあってテサロニケの人たちが守られている事実を喜んだ。祈りの先には喜びがある。どんなに辛い状況に置かれた人がいたとしても、私たちは真実であり愛なるお方に祈りをささげ、離れていたとしても支えることができる。神に祈れることは大きな喜びである。

  2. 私たちの喜びは神の喜び

    私たちが真実なる神を信頼し、ひたすらに祈ることを神は喜んでくださる。また、私たちが喜びをもって日々過ごせることを神は喜んでくださる。すべては主と共に歩むなかにあって、私たちは祈ることができ、そして大きな喜びに満たされた歩みをすることができるのだ。

結論:神の愛とキリストの忍耐。これがなければ私たちはいったいどうなっているのだろうか?と想像する

だけで恐ろしくなるばかりである。しかし、神は真実なるお方であるがゆえにその愛と忍耐を無限大に発揮してくださる。だから私たちはこの神の真実さを心から信頼して、日々平安に過ごすことができる。それは私たちの喜びとなり、また神の願う喜びでもある。


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# by ontheway-chapel | 2017-11-30 14:13 | Comments(0)


本論:Ⅰ・「人々の関心」


  1. 落ち着きを失う情報

    テサロニケの教会に向けてパウロはすでに第一の手紙において終末について大胆にそして生き生きと語った。しかしパウロによってもたらされた情報が思わぬ誤解や、人々に誤った興味関心を抱かせてしまった。それによって人々は落ち着きを失い、心を騒がせてしまった。

  2. パウロの主張

    パウロの宣教において伝えたかったことは「やがての日は近い」「主は近い」というものであった。しかしそれは必ずしも我々のカレンダー、時間軸でとらえる必要はない。主の御手に従い、信頼して歩むこと、新しい日を待ち望みつつ、現代にあって生きることであった。



Ⅱ・「警戒すべきこと」


  1. 惑わすもの

    パウロは私たち信仰者を惑わし、だます要素として背教と不法の人を挙げている。しかしそういう人たちに本当の勝利は訪れない。また自らを高く上げ、自分こそ神と宣言する高慢さ。そういうものに私たちは惑わされやすい。地上の目に見える力、輝きに惑わされてしまう。

  2. より頼むべきもの

    そうした私たちを惑わし、混乱させる勢力に対してどのように警戒し、対応したらよいのか?地上の輝きではなく、神の栄光の輝きにこそ目を向けることが大切である。砂の上ではなく、決して崩れることのない土台に立って歩むことが道を外さない唯一の方法である。



Ⅲ・「恵みに生きる」


  1. 滅びる人

パウロは真理への愛を受け入れず、悪を喜んでいる人たちを神はさばくと述べた。神を中心とせず、自分を中心に置く。神の栄光を見ず
に、この地上の輝きを追い求める。多くの人たちがそういう歩みをしている。しかし神はそこに愛という救いの光を差し込んでくださ
る。

2.生きる人
つまり、滅びる人が受け入れる者と逆のものを受け入れていくことが大切。それは神の愛を受け入れること。悪を喜ばないこと。そうい
う人は、神の愛によって救い出され、恵みを存分に受けることができ、この地上においても素晴らしい祝福の内を歩むことができるの
だ。


結論:パウロがお願いしていることは、人々が、また私たちが惑わされ、心乱されやすい情報、輝きにだまされず、しっかりと正しい道を歩むようにというもの。しかし実際には私たちを惑わす力が強い。ちょっと気を許すとあっという間にその波にのまれてしまう。でも神様はその愛ゆえに私たちを守り、支え、神の恵みに生きることができるように導いてくださる。パウロのお願いは、私たちが地域の方々、救われていない方々へのお願いでもあるのではないだろうか。




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# by ontheway-chapel | 2017-11-23 17:27 | Comments(0)

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