聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「永遠のいのちを獲得するために」

  1. 神である主を愛せよ

    律法学者がイエスに永遠のいのちを得るためにどうしたらいいか?と尋ねた。イエスこそ永遠のいのちについて語るにふさわしい人はいない。その答えはすべてを尽くして神を愛することであるという。自己中心の私たちの視点を神様に向けてみよう。誰も自分を大切にする。その本能的な自己愛を神様に向けた時、永遠のいのちに至る道が開かれていく。

  2. 隣人を愛せよ

    イエスは神様だけではなく、隣人にも愛を向けるようにと言われた。自分のことを好意的に見てくれる人には優しくなれる。自分の敵となるような人、自分が何かしらの害を受ける可能性がある人を愛することは決して簡単ではない。イエス様は全人類の救いのために、永遠のいのちを与えるために、十字架にかかって死なれた。すべての人がイエスの隣人であった。

   Ⅱ・「隣人はだれ?」

  1. 祭司とレビ人

    祭司とレビ人は当時人々からは尊敬され、人格者として人々を導く立場にありました。しかし彼らはもしかしたらそれぞれの都合を優先したのかもしれないが、傷つき倒れている助けを求めている人の隣人にはならなかった。見て見ぬふりをすることがある。ふと心が痛む。それが正常な反応かもしれない。チクリと痛む思いを行動に移せる勇気があればと思う。

  2. サマリヤ人

    このサマリヤ人だけは強盗にあった人の隣人になった。この人は仕事を捨ててまで尽くしたわけではない。できる範囲で精一杯のことをした。私たちも同じように自分にできることを精一杯できるようにしたい。その愛を、勇気を、行動力を与えて下さるのはイエス様。イエス様の願うことをするとき、私たちはイエス様の愛と永遠のいのちを獲得することができる。

結論:人間は誰もが弱い存在。一方でとんでもない可能性と力が与えられている。それぞれにできる範囲で精一杯の愛を自分に向けるように、隣人にも注いでいきたい。そしてその愛は神様が私たちを無条件で愛してくださった愛に由来する。この神様の愛に感謝し、神様を自分の全てを尽くして愛していくとき、私たちは隣人をそれぞれの方法で愛せるようになれる。イエス様は私たちにも「同じようにしなさい」と言われている。永遠のいのちを、本当の愛を示してくださったイエス様を目指して、イエス様が示され、願っていることを同じように実践しようとするとき、このイエス様を求めていくとき、私たちの人生はものすごく豊かにされ、笑顔になれ、心優しくなれる。イエス様をもっともっと求め、慕っていくお互いとさせていただこう。


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# by ontheway-chapel | 2017-10-11 14:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「厳しい現実」

  1. エレミヤが辿ってきた道

    エレミヤは南ユダの人たちを前に、神様からの言葉を語った。それは民を何とか救いたいという思いからであり、神に忠実でありたいという思いからでもあった。エレミヤは必死になって民を説得しようとしたが、その結果は民を怒らせ、エレミヤは捕らえられてしまった。

  2. 現実を前にして

    エレミヤは現実を前にして、気力が衰え、神の働きを捨てたいとさえ思うほどに打ちひしがれた。もう何も語りたくない。何もかもむなしく、恐ろしく、逃げ出したいと思うことがある。私たちは現実の大きさを前にうろたえ、絶望感に包まれてしまいそうになる。

Ⅱ・「抑えきれない衝動」

  1. 人から神へ目を移す

    私たちを取り巻く現実の巨大な力を前に気持ちが萎えてしまう。しかし、エレミヤは人(現実)からその目線を神へと移した。自分の生涯にわたってともにおられる神に目を向けるとき、そのお方に信頼するとき、厳しい現実を打ち砕く神の偉大さによって平安が与えられる。

  2. 燃え盛る火

    エレミヤが人ではなく神に目を向けた時、再びその心に火がともった。この火を燃やす原料は神から来ているので尽きることはない。この火によって私たちの心の内に冷えて固まった弱さが溶かされ、抑えきれない衝動となって神の目的のために歩むことができるようになる。

Ⅲ・「格闘の末に」

  1. ヤコブとエレミヤ

    かつてヤコブも神と格闘し、自分の内にある恐れに勝ち、神からの確信をいただき前に進むことができた。エレミヤも神との格闘を通して弱さを打ち砕き、神の働き人として再び立ち上がることができた。いずれも共におられる神との格闘の先に新たなる力をいただいた。

  2. 私たち

    私たちも日々の生活の中で、信仰生活の中で思い通りに行かない、先が見えない試練と向き合う。巨大な現実を前にうろたえ絶望し、あきらめかけてしまうかもしれない。しかし神にしっかりと目を向け神との真剣勝負、本気の交わりを通る時、本当の強さと平安を手にする。

結論:エレミヤは現実を前にもうだめだ。神様が助けてくれると頭でわかっていても、心がついて行かなくなってしまいかけた。恐怖と絶望がエレミヤを襲った。でもその時、現実世界だけではなく、目の前にいる敵だけではなく、神様ご自身に目を向けることができた時、彼の内に燃え盛る火が再び点火され、もう一度立ち上がり、神とともに歩むことができた。徹底的に神と格闘したその先に、エレミヤは確かな確信をもって新たな力をいただき、現実の困難を乗り切ることができた。人ではなく神がなしてくださる。神ご自身が勝利してくださる。神の強さと平安をこの手に握って前に進むことができるようになる。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-25 12:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「失敗は悪くない」

  1. より良い人生を願う

    人は誰でも自分の人生をより充実したもの、素晴らしいものとなることをどこかで願っている。苦しいより楽しい方が、暗いより明るい方がいいと願う。様々なところをさ迷い歩いて捜し求める。これが良いと思っても裏切られたり、うまくいかなかったりすることがある。

  2. 失敗が成功への土台となる

 人はその人生の中でたくさんの失敗をする。小学生時代に学芸会で最後の締めのセリフを完全に忘れてしまい台無しにしてしまったことがある。それ以来人前で話すことが怖くなった。不思議なことに毎週人前で話をする働きに召されている。入念に備えるようになった。

Ⅱ・「完成させてくださる主」

  1. 失敗を見て直してくださる

    陶器師は神様であり、粘土は私たちである。陶器師は作品を完成させるために粘土のほころびを見つけては、練り直し、そして修正して完成へと近づけてくれる。それは実に忍耐のいる作業であるが、一切の妥協をせずに徹底的に向き合い、整えて完成へと導いていく。

  2. ご計画の通りに完成される

    粘土はもっとこうした方が格好いい、こうした方が機能的ではないか、と陶器師に逆らいたくなる。しかし陶器師の手は何と繊細で慈愛に満ちているだろうか?陶器師は決して作品をないがしろにしない。一つ一つに心を込めて、愛を詰め込んで最高の作品に仕上げてくれる。

Ⅲ・「陶器師に対する私たち」

  1. 心頑ななままか?

    時に粘土はわがままであり、陶器師の計画に逆らう。なぜならば神のご計画の素晴らしさを実感できず、全貌を見ることもできないのだから当然かもしれない。粘土が完成するために最後に火で焼かれなければならない。それを拒んでしまうならば、いつまでも完成しない。

  2. 素直に従うか?

    神に従って生きても、試練や困難はある。粘土が作品として完成に至るまでに時に何度も火を通されることもある。しかし、その完成した作品は実に美しい。神は忍耐をもって私たちを素晴らしい作品に完成させてくださる。その御手に信頼して従う者とさせていただきたい。

結論:神の造る作品はどれ一つと同じ作品はない。なぜならばすべて手作りで、それぞれに込められたご計画があるから。ある人は平皿かもしれない。ある人は花瓶かもしれない。でもどれもすべて美しく、優劣つけられない最高の作品である。神様は私たちの人生を最高のものとしてくださる。私たちを愛しておられるから。ろくろの上でもがくのか?それとも陶器師の手を信頼して委ねて形造られていくのか?すばらしい輝きを放つ作品とさせていただこうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-20 15:32 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「あるがままの私」

  1. 自分勝手な私

    ここに登場する弟は生前贈与を求め、財産を手にした後、自分の生きたいようにと願って父の元を離れた。その先にある新しい人生は非常に魅力的であり、希望に満ち溢れたものに見えた。私たちの人生においても、魅力的、希望に満ちた世界を、より良い生活を必死に探し求めている人がたくさんいます。みんな自分の人生を何とか良くしたいと願っている。

  2. ボロボロの私

    弟は財産を使い切ってしまった。財産がある時には近づいてきた人たちも、手のひらを反すように離れていく。そして大飢饉までが彼を襲った。自ら望んだ魅力と希望に満ちたはずの人生がボロボロになってしまった。人生のどん底にまで突き落とされてしまった。自分の力ではどうすることもできない現実を前に、一体どこに希望を見出したらよいのだろうか?

Ⅱ・「あるがままを受け入れる神」

  1. 待っていてくれる

    弟はふと我に返る。そうだ、父親のところに戻ろう。自らの失敗を素直に認め、そのうえでなお父を頼って帰ろうと思った。それも親子関係などおこがましい、父の奴隷でいいから側においてもらうという。父から離れた時の自分勝手な姿はなくなり、唯一の希望である父の元へとたどり着いた弟を、父は首を長くして待ち続けていて、ボロボロの彼を受け入れた。

  2. 祝ってくれる

    父は喜んで弟を迎えてくれた。それも盛大な祝宴まで用意して歓迎してくれた。弟はまさに私たちその物であり、待っていてくれた父は神である。神は自分勝手な私たちを見守り、待ち続けてくれる。そして受け入れてくださり、盛大な祝宴を用意して歓迎してくれる。ここに本当の希望があり、魅力あふれる人生がある。その招待状を私たちは手にしている。

結論:いただいた招待状は、有効期限がない。いつでもそこに行き祝宴を受けることができる。そのための唯一の条件は、弟がそうであったように自らの歩みを振り返り、本当に変えるべきところはどこか?本当の希望はどこにあるのか?どこに行ったら魅力ある人生を送ることができるのか?を見つけることである。招待状を手にしていても、どこに行っていいかわからず、さまよっている人がたくさんいる。でも神は待っていてくれる。そして戻ってきたとき、盛大な祝宴が開かれる。神はあなたを歓迎し祝宴を開くことを待っておられる。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-11 15:35 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エレミヤの嘆き」

  1. 地元、家族が敵となった

    エレミヤは忠実に神の働きに従い続けた。それは民の罪を暴き、しかし責めるのではなく、悔い改めて神に立ち返るようにという、民の救いのための働きであった。にもかかわらずエレミヤの語る言葉に地元も家族も敵対した。味方であってほしい身内からも見捨てられた。

  2. とりなしの祈りを聞かなかった

    民は闇の中にどっぷり浸かっていた。エレミヤは必死に民に真の光を示し、彼らのために時間と労をささげて祈り続けた。しかし民は彼に感謝することなく、むしろ責め立てられ、いのちの危険にさらされていった。虚しさが増してくる瞬間であるが、危険な兆候にもなる。

Ⅱ・「孤独と葛藤」

  1. 誰も助けてくれない

    エレミヤに味方はいなかった。少しでも彼の苦しみを分かち合い、嘆きを聞いてくれる人がいたら、どれほど救われただろうか?しかし、彼の本当の苦しみなど誰も知ることが無かったし興味もなかった。彼を助けてくれる存在はどこにもなかった。ただ死を待つばかり?

  2. 神の沈黙

    エレミヤは知っていた。この地上ではないところに本当の助けがあることを。しかし、その助け手が何もしてくれないと感じることがある。こんなに苦しいのに、どうしてわたしを見捨てるのか?と。これは忠実な献身者だから、神は答えるはずという高ぶりかもしれない。

Ⅲ・「解放される神」

  1. 道を示される

    エレミヤは神のことばを語るに疲れた。人間的な嘆き(卑しいこと)が口から出てきた。預言者は神のことばを語る口が与えられている存在。もし原点に立ち帰るならば、再び預言者として立たせると道を示された。ふさわしくない者が素晴らしい働きに召された再確認。

  2. 嘆き、孤独、葛藤から解放される

    私たちは嘆き、孤独を感じ、神との関係に葛藤を覚えるかもしれない。しかし神はそれを非難するのではなく、むしろ霊的孤独から解放させてくださり、もう一度強く立つことができるようにと導いてくださる。なぜなら主が「あなたとともにいて、救い助け出すからだ」

結論:私たちの日々の信仰生活でも、思い通りに行かない。神様との交わりがうまくできない。迫りくる試練、悩み、痛み、苦しみの中で思わず嘆くことがある。しかも、その助けを求めていながら誰も助けてくれない。神すら助けてくれないと感じることがある。しかし、神は必死に神に求め、すがろうとする民を決して見捨てることはない。なぜならば、神は私たちに最善の道を示され、私たちを霊的孤独から解放してくださるから。その根拠は「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い、助け出す」という神と私たちの交わりの確信、大前提にある。私たちはそこに立ち返り、もう一度力をいただき、前を向いて歩んでいきたい。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-05 10:04 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「イスラエルの辿った道」

  1. 南北イスラエルの罪

    主は背信のイスラエルと裏切りのユダを比較し、イスラエルの方が正しいとした。これは神による恩寵以外の何物でもない。本来ならばどちらも正しいとは言えない状況にあった。正しいというのは、神との関係において本来あるべき状態のこと。ユダはイスラエルの滅亡を見ていたにもかかわらず、自分たちの姿勢を改めることなく、神に背を向けてしまった。

  2. 悔い改めの呼びかけ

    神との霊的な婚姻関係を捨て、姦淫の罪を犯したイスラエルに対して、神は帰れ(わたしがあなたがたの夫となる)と再びその関係を回復する道を開かれた。本来ならば見捨てられ、しかるべき処罰を受けるべきイスラエルに対する一方的な恩寵であり、イスラエルに対する真の悔い改めを求めている。心からの悔い改めが神との関係回復において必要不可欠である。

   Ⅱ・「憐れみによる関係の回復」

  1. 御座に呼ばれる恵み

    エレミヤはエルサレムが悔い改めて再び神との関係を回復するとき、エルサレムそのものが主の御座となるという。そして万国の民がこの御座に集められるという終末的な預言を語る。これは私たちにおいても同様であり、やがての日に私たちに主の御座に呼ばれるという驚くべき恵みの約束が果たされる。そのためにも、神との関係を正しいものとしておきたい。

  2. キリストのゆえに

    私たちが神との正しい関係に帰るためには通る道は一つしかない。それはイエス・キリストの十字架を信じ受け入れること。私たちの罪はこの十字架によってのみ赦され救われる。そして神との正しい関係を回復することができ、神の御座に呼ばれ、永遠のいのちの恵みに与ることができる。神は厳しくも実に憐れみ深く、恩寵に満ちておられるお方である。

結論:今日は新生宣教団の赤松兄を通して中国宣教について話を聞くことができた。神は宣教の困難な地域を見捨てることなく、地上の民を用いて一人でも多くの人が神との正しい関係に立ち返ることを願っておられる。神の御座に一人でも多くの人を呼びたいと願っておられる。私たちは幸いにもその約束をいただいた。感謝しかないが、私たちだけがこの恵みを独占するのではなく、一人でも多くの人を主の御座へと招待したいと願う。神は主の御座に呼んでおられる。真の悔い改めがなされたとき、すべての人がそこに行くことができるのだ。


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# by ontheway-chapel | 2017-08-23 14:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「キリストがもたらした約束」

  1. いのちと敬虔を与える

    イエス・キリストの素晴らしさをペテロは大胆に語る。私たちはこの世において大切な人を守れない、苦しんでいる人を助けられないなど無力感を感じることがある。しかし、神の偉大なる力によってキリストは勝利によっていのちを、真実さによって敬虔を与えてくださる。

  2. 神の性質に与る者とされる

    私たちは本来、神によって造られた尊い存在である。しかし、罪が入ってきたことによって神ではなく人が中心となってしまった。本来は神の性質に与るものが与えられている。それが正しくいかされるためにはただイエス・キリストによって可能となり、真実となっていく。

Ⅱ・「私たちが備えるべきもの」

  1. 実践のために

    神が与えてくださっている栄光と徳を実践するとき、私たちは神の栄光を現すことができる。そのためにペテロはこの世にある欲のもたらす悪から離れる必要がある。私たちは常に、イエス様ならばこの時どうするだろうか?を意識したい。自分の思いを優先させるのではない。

  2. あらゆる努力をする

    キリスト者にできる最高の努力は、決して個人の力によるものではない。あくまで神との協働である。私たちの日々の生活に実践されない信仰は信仰とは言えない。神は私たちにただ委ねるだけではなく、約束を実践することを求めておられる。あらゆる努力が求められる。

Ⅲ・「増し加えられていくもの」

  1. 信仰から始まるもの

    ペテロはここで信仰から始まり徳を加えるように語る。まず信仰が大前提であり、それに徳が加えられていく。そしてそこに知識が増し加えられていく必要が語られる。これらの実践には勇気が必要かもしれない。しかし神は私たちに必要なものを惜しみなく与えてくださる。

  2. さらに加えられるもの

    さらに自制と忍耐が求められている。しかしこの自制と忍耐はその場で耐え忍ぶものではなく前進させるためのもの。そして敬虔がそこに増し加わる。これは神に対するものと人に対する両方である。そして最後に兄弟愛が必要という。その愛はキリストに基づく愛である。

結論:神様は私たちが、神の民として生きるに必要な一切を与えてくださるお方である。それも惜しむことなく、喜びをもって与えてくださる。そして、私たちはいただいたあらゆる恵みを、あらゆる努力をもって実践し、従っていきたい。しかし、その努力は自分だけの努力ではなく、神様との協働によってなされるものである。そしていただいたものをこの地上で実践できることこそが、神様が私たちに願っておられることである。神様に信頼して、また与えられた多くの恵みに感謝して、歩ませていただきましょう。それが、神様の栄光を現すことにつながり、キリストの偉大を証しすることにつながっていくのだ。


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# by ontheway-chapel | 2017-07-26 15:58 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「謙遜を身につけなさい」

  1. 謙遜とは

    かつて謙遜とはギリシヤにおいては「低いもの、卑しいもの、奴隷的な心の態度」ということで、徳のある品性とは見られていなかった。キリスト教において罪人である私が神の前に自らの罪を認め、告白することに謙遜を見ることができることで、初めて徳を見出した。

  2. 神との関係において

    神はへりくだる者に恵みを与えられるという。高ぶる者とは神に敵対する者のこと。自らを神の座に置くような態度をとること。謙遜は神の前にへりくだることから始まる。神に全幅の信頼を置き、従順に生きることである。そこには神の約束が、恵みが豊かにあるのだ。

Ⅱ・「神が高めてくれる」

  1. 神に依存する

    私たちはいろいろなものに依存する。時にギャンブル、お酒やたばこ、異性など。しかしそこには限界があり、裏切りがあり、やがて朽ちていく。しかし、神にすべてを依存するとき、そこには永遠があり、決して見捨てない神の愛があり、神の栄光の勝利がある。

  2. 神が心配してくださる

    なぜいろいろなものに依存してしまうのか?それは私たちを思い悩ませる思い煩いがあるから。平安がないから。心が一つのものに向けられず、あちこちに向けられる不安定さがあるから。しかし、神に集中するとき、私たちの心配、思い煩いはすべて神がぬぐってくれる。

Ⅲ・「私たちの確信」

  1. 恵みに満ち、栄光に招かれる神

    神は私たちのあらゆる困難を知っておられ、確かに苦難を通されるが、それはあくまでしばらくの有限であり、その先に無限の永遠の栄光が約束されている。だから、それまでは信仰に堅く立ち、あらゆる悪魔、誘惑、困難に立ち向かうようにと励ましている。

  2. 神がしてくれること

    神は私たちを弱さを補って完全にしてくださる。私たちが倒れそうなとき、堅く立たせてくださるように助けてくださる。そのために私たちの内なる力を強くしてくださる。そして不動の者としてくださる。これらは神がしてくださることであるから委ねていけばいいのだ。

結論:私たちはこの地上に生きているとき、本当に様々な試練が襲ってくる。次から次へと問題が目の前に立ちはだかる。そして多くの人は自分の力でそこを切り抜けようとして、疲れ果ててしまう。現代の多くの人が疲れ果てている。しかし、キリスト者は違う。なぜならば、そうした試練、問題に対して、神ご自身が心配してくださり、力を貸してくださり、その先にある栄光の勝利を見せてくださりながら、私たちを強く用いてくださる。私たちがこの確信に立つとき、本当の平安をもって主にすべてをゆだね、前進してける。神様が心配してくださるのだから、思い煩いを捨てて、ひたすらに主の道を力強く歩もうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2017-07-19 17:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「市民として生きる」

  1. キリスト者の義務

    キリスト者としてこの地上に生きるとき、誰もがそれぞれの国、地域のなかで市民としての義務を負って生きている。原始教会においてもこの問題は同じで、そのなかで何に従って生きるのか、その基準がすでに築かれていた。パウロもペテロもこの問題に触れている。

  2. 主のゆえに従う

    それぞれの国地域にある様々な制度は人が作ったものであるが、それらは神によって立てられ、神の御心にかなった人間の秩序であるという。同時に法と権威は神にあるのだから、キリスト者はその制度に従え、と勧められている。イエスも世の制度の中で生きた。

Ⅱ・「自由人として生きる」

  1. 神の奴隷として

    私たちはそれぞれの地域に生かされている。しかし、そもそものいのちを与えられ、生かしてくださるお方は神である。この前提があってはじめて人は本当の自由を獲得することができる。神の奴隷とされることはキリスト者の特権であり、自由人として生きる必要なこと。

  2. 自発的な服従

    ペテロはキリスト者としてこの世の制度に従うとき、自由人であると勧めた。それは、キリスト者が神の奴隷であるという前提において、しかしそこには強制ではなく、主に仕える喜びをもって行う自発的な、積極的な服従であるという。そこにあるのは喜びである。

Ⅲ・「4つの勧め」

  1. 敬い、愛しなさい

    すべての人を敬う。言葉は簡単でもなかなか実践できないのが私たち人間の弱さである。当時のローマには6千万人もの奴隷がいたという。兄弟たちを愛する。キリストの共同体の中では当たり前かもしれない。決して簡単ではないが、本当に神を中心としたとき成し得る。

  2. 恐れ、尊びなさい

    神を恐れる。恐怖ではなく尊敬。主を恐れることは知識の初め。神との関係を正しく知ることがすべての始まりであり基準となる。同時にペテロは王を尊ぶように勧めた。当時の王はネロ?それも神に遣わされているならば、尊ぶべきであり敵をも愛するのがキリスト者。

結論:現代において、この日本において、一市民として私たちもそれぞれの地域に属している。そのなかで、どのように地域に仕えていくのか?キリスト者として生きるなかで、大きな課題となる。この世の悪ばかりを見ていたら、怖くて外にも出られなくなってしまうほど。しかし、私たちは勝利が約束されている。私たちが本当に使えるのは主のみ。すべて主のために、主の栄光のために生きる。この前提をしっかり握っているならば、私たちは自由であり、何も恐れることはない。と同時に、この世の人々を敬い、兄弟を愛し、主を恐れ、王をも尊びながら、生きていくことが求められている。それは喜びであるから。


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# by ontheway-chapel | 2017-07-12 15:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の力に守られる」

  1. 私たちの日々の生活において

    私たちの日々の生活はまるでジェットコースターのように、目まぐるしく変化する。良い時もあれば、苦しみの時もある。その中で、神の憐みによって自らの歩みに光が当てられ、認罪、悔い改め、信仰告白、救いへと誘われる。それによって新しく生まれ生ける望みを得る。

  2. 終わりの時まで

    信仰の生涯とは、この世界から永遠の世界への旅路である。その生涯すべてにおいて神の保護のもとに生かされている。守られるとは軍事用語。神は私たちを勝利へと導くために、あらゆる誘惑、試練、困難と闘う私たちを最後の最後まで守り通してくださるのだ。

Ⅱ・「試練の先にある栄光」

  1. 喜びを待ち臨む

    あらゆる試練、困難と言った戦いが襲ってくるが、それを忍耐をもって乗り越えることができる。信仰によってそれらが神の御手の中にあることをおぼえ、そこに働く神の助け、慰めを通して人は金が精錬されて純金へと姿を変えて行くようにその信仰が強められていく。

  2. キリストからの称賛

    こうした生涯を歩んでいく先に何が待っているか?どうして信仰によって耐え忍ぶことができるのか?それらすべてがやがての日、イエス・キリストの再臨の時、すべてが称賛とされ、光栄と栄誉となっていくことを信仰をもって確信しているから。信仰の力による。

Ⅲ・「見えないけれども知っている」

  1. キリスト信仰

    ペテロはこの地上において、実際にイエス・キリストと共に生活をし、会話をし、直接学ぶことができた。現代を生きる私たちはこの体験をしていない。しかし、キリストを愛している。目では見たことが無いけれども、信仰の目でイエスを見、体験し、堅く信じている。

  2. 信仰の力

    ペテロはこの信仰に生きるために、心を引き締め、身を慎み、キリストの恵みをひたすら待ち望みなさい、と言った。そのためには試練とも向き合い、キリストの恵みを日々体験し、感謝と喜びに満ち溢れ、その先にある栄光に希望を見つけだし、ひたすらに前進したい。

結論:私たちは信仰を持っている。もちろんその程度の差はあり、強い人もいれば弱い人もいる。でも人と比べるものではない。その人と神様との関係においてどうであるかが大切。私たちはいつも神に守られている。だから安心できる。多くの試練の先には栄光が待ち望んでいる。だから試練と向き合い、乗り越えることができる。キリストを見たこともない私たちがキリストを信じ続けることができるのはどうしてか?信仰の力によって、キリストを味わい、キリストの声を聞き、キリストと共に生きている実感があるから。そしてその先にある栄光の勝利を見ることができているから。なんと素晴らしい信仰の力だろうか。


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# by ontheway-chapel | 2017-07-04 17:05 | Comments(0)