聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「弱きを助ける救い主」

  1. 支えて起こしてくださる

    日々の生活において多くの問題が目の前に広がっているが、多くは自分の力で何とか乗り越えることができたと感じているかもしれないが、どうにもならない問題と遭遇したとき倒れ、生きる気力すら奪われるほどに動けなくなる。その時、助けてくださる存在がある。

  2. 弱さを補う恵み

    神は私たちに知恵と恵みを与えられる。物事の視点をダイナミックに変えさせてくださる。同じ試練を前にして、こんなに辛くひどいことと悲観的に見ることもできれば、これを通して成長させてくださると見ることもできる。主との出会いによって新しい視点が与えられる。

Ⅱ・「必要を備える救い主」

  1. 主を待ち望む視点

    主は最初の罪を犯したアダムの贖いのために、動物の皮の衣を備えた。以来、人の罪の贖いには動物が用いられた。どれほどの動物が犠牲となってきただろうか?しかし、たった一人のお方の贖いによって罪赦され、神との平和に生きることができる救い主が約束されていた。

  2. 願いを満たすお方

    神は人類すべてのために救い主を与えて下さった。このお方は私たちが願うすべてのものを満たしてくださる。人類の平和、幸せ、喜び、祝福、栄光。私たちの必要をすべてご存知であり、時にかなって与えて下さるお方。救い主を受け入れるとき、すべて満たされる。

Ⅲ・「守ってくださる救い主」

  1. 行くべき道を示される

    私たちは道に迷う存在。時にとんでもない危険な、闇の道へと突き進もうとしてしまう。しかし、救い主なるお方は私たちの進むべき道を光を照らして教えてくださり、軌道修正して間違った道に行かないように守ってくださる。私たちの救い主は悪から守ってくださる。

  2. 近くにおられる

    偉大なる救い主であるがゆえに、どこか遠くから見守ってくれるイメージを持ってしまいがち。しかし救い主はすぐ側におられ、いつも共にいてくださる。だから、いつでもどこにいても私たちは確かに守られている。だから私たちも救い主をほめたたえることができる。

結論:イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス。それは、誰かが決めたおとぎ話でもなく、自分とは直接関係ないイベントでもない。みんながお祝いしているから何となく、便乗する行事でもない。私たち自身の人生に、日々の歩みにとって、またその後においても、かけがえのない重大な出来事である。私のためのクリスマスと主体的に祝うことができる行事。そしてそのイエス・キリストは私たちといつも共にいてくださり、私たちのことをいつまでも守り続けてくださる。なぜなら私のことを愛してくださっているから。



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# by ontheway-chapel | 2017-12-05 13:57 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「祈りには力がある」

  1. パウロと教会の関係

    パウロがテサロニケの教会のために必死に祈ったように、テサロニケの教会もパウロの宣教の働きのために、祈りを通して積極的にその働きを支えていった。これが生きた霊的な交わりであり、そこにはどちらか一方だけではない、双方向の交わりと確かな結びつきがある。

  2. 祈ってください

    パウロが求めた祈りは福音宣教の広がり。主のみことばが広がることであり、またあがめられることであった。さらに悪の働きから守られることを願った。誰かの痛みを自分の痛みのように思い、必死にとりなしの祈りをささげることができるのが、キリスト者の特権である。

Ⅱ・「神の守りがある」

  1. 愛するがゆえに

    パウロの祈る先には真実なる神がおられるという絶対的な根拠をもって、神の守りの確かさを訴えた。神の守りのゆえに私たちは強く立たせ、守られる。それは神の愛が源流にある。神の愛の真実さのゆえに、いつも神の守りの中を歩むことができ、真の平安に包まれる。

  2. 心配してくださる

    神は私たちが信仰を持った時から、もう大丈夫と距離を置くお方ではない。いつも私たちが様々な攻撃、誘惑に負けないように心配してくださっている。テサロニケにおける迫害、パウロの宣教への迫害に対しても、神様はいつも愛ゆえに心配し、守ってくださっている。

Ⅲ・「私たちの喜びがある」

  1. パウロの喜び

    パウロは神にあってテサロニケの人たちが守られている事実を喜んだ。祈りの先には喜びがある。どんなに辛い状況に置かれた人がいたとしても、私たちは真実であり愛なるお方に祈りをささげ、離れていたとしても支えることができる。神に祈れることは大きな喜びである。

  2. 私たちの喜びは神の喜び

    私たちが真実なる神を信頼し、ひたすらに祈ることを神は喜んでくださる。また、私たちが喜びをもって日々過ごせることを神は喜んでくださる。すべては主と共に歩むなかにあって、私たちは祈ることができ、そして大きな喜びに満たされた歩みをすることができるのだ。

結論:神の愛とキリストの忍耐。これがなければ私たちはいったいどうなっているのだろうか?と想像する

だけで恐ろしくなるばかりである。しかし、神は真実なるお方であるがゆえにその愛と忍耐を無限大に発揮してくださる。だから私たちはこの神の真実さを心から信頼して、日々平安に過ごすことができる。それは私たちの喜びとなり、また神の願う喜びでもある。


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# by ontheway-chapel | 2017-11-30 14:13 | Comments(0)


本論:Ⅰ・「人々の関心」


  1. 落ち着きを失う情報

    テサロニケの教会に向けてパウロはすでに第一の手紙において終末について大胆にそして生き生きと語った。しかしパウロによってもたらされた情報が思わぬ誤解や、人々に誤った興味関心を抱かせてしまった。それによって人々は落ち着きを失い、心を騒がせてしまった。

  2. パウロの主張

    パウロの宣教において伝えたかったことは「やがての日は近い」「主は近い」というものであった。しかしそれは必ずしも我々のカレンダー、時間軸でとらえる必要はない。主の御手に従い、信頼して歩むこと、新しい日を待ち望みつつ、現代にあって生きることであった。



Ⅱ・「警戒すべきこと」


  1. 惑わすもの

    パウロは私たち信仰者を惑わし、だます要素として背教と不法の人を挙げている。しかしそういう人たちに本当の勝利は訪れない。また自らを高く上げ、自分こそ神と宣言する高慢さ。そういうものに私たちは惑わされやすい。地上の目に見える力、輝きに惑わされてしまう。

  2. より頼むべきもの

    そうした私たちを惑わし、混乱させる勢力に対してどのように警戒し、対応したらよいのか?地上の輝きではなく、神の栄光の輝きにこそ目を向けることが大切である。砂の上ではなく、決して崩れることのない土台に立って歩むことが道を外さない唯一の方法である。



Ⅲ・「恵みに生きる」


  1. 滅びる人

パウロは真理への愛を受け入れず、悪を喜んでいる人たちを神はさばくと述べた。神を中心とせず、自分を中心に置く。神の栄光を見ず
に、この地上の輝きを追い求める。多くの人たちがそういう歩みをしている。しかし神はそこに愛という救いの光を差し込んでくださ
る。

2.生きる人
つまり、滅びる人が受け入れる者と逆のものを受け入れていくことが大切。それは神の愛を受け入れること。悪を喜ばないこと。そうい
う人は、神の愛によって救い出され、恵みを存分に受けることができ、この地上においても素晴らしい祝福の内を歩むことができるの
だ。


結論:パウロがお願いしていることは、人々が、また私たちが惑わされ、心乱されやすい情報、輝きにだまされず、しっかりと正しい道を歩むようにというもの。しかし実際には私たちを惑わす力が強い。ちょっと気を許すとあっという間にその波にのまれてしまう。でも神様はその愛ゆえに私たちを守り、支え、神の恵みに生きることができるように導いてくださる。パウロのお願いは、私たちが地域の方々、救われていない方々へのお願いでもあるのではないだろうか。




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# by ontheway-chapel | 2017-11-23 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「バビロン崩壊の預言」

  1. 希望の預言

    イスラエルの民がバビロンへ捕囚されたとき、人々には大きな失望があった。いつ解放されるかわからない恐怖があった。しかし神はイスラエルを決して見捨てないと約束された。バビロンが犯した罪ゆえに神が罰せられ、イスラエルの民はエルサレムに帰れるという。

  2. 成就する預言

    このエレミヤが語った預言は実際にはあと70年近く待たなければならない。すぐに結果を求めてしまいがちであるが、神の最善の時を待つ忍耐が求められる。それは神への信頼の深さによってなし得る。神の約束は必ず成就する。私たちの時ではなく神の時にである。

Ⅱ・「私たちのバビロン」

  1. 私たちの内にある罪

    バビロンは神によって滅ぼされた。私たちの内にもバビロンに象徴されるような弱さ、醜さ、残虐さなどの罪がある。それに屈するならば私たちはたちまち滅ぼされてしまう。そして自力で解決しようともがくほどに、罪の虜となり身動きできなくなってしまう。

  2. 罪から解放される神

    しかし、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちのように、私たちにも解放がある。私たちはユダヤ人の歴史をそのまま体現したような不信仰、不従順を繰り返してきた。しかし神は私たちを見捨てることなく、本来あるべき立ち位置へと、神様の元へと戻してくださる。

Ⅲ・「語らずにはいられない」

  1. 無関心であってはいけない

    かつて職場の上司に知識の反対は無関心であると言われた。聖書の知識だけに熱心になってしまうとき、時に神様が自身に成してくださったみわざにたいして無関心になってしまう。神のみわざに関心を向け、幼子のように、理屈抜きで感動し、全身で喜びを味わいたい。

  2. 恵みの結果

    神様の奇しいみわざを、素晴らしい恵み体験したとき、私たちは幼子のようにそれを誰かに伝えたい。黙っていられないという衝動に駆られ、それをそのまま証ししていきたい。恵みを受けた分、祝福をいただいた分、語らずにはいられなくなるような信仰者でありたい。

結論:エレミヤの預言は人々に希望を与えた。そしてそれは神の時にかなって成就する。私たちも神の福音を聞いてそこに希望を見出すことができた。それこそが本物であると確信し信じ受け入れた。神が私たちに成してくださった数々のみわざ、恵み、祝福に対して無関心でいるならば、気付くこともなければ感動もしない。しかし、そこに目が向けられ、心開いて受け取る時、私たちはいかに神に愛され、そのみわざによって祝福を受けているかを知り、大きな喜びと感動、感謝で満ち溢れる。黙っていられない。隠しきれない喜び、幸せ、平安があふれ出てくる。主のみわざを存分に語り合おうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2017-11-07 14:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「目は開かれているか」

  1. 見えないものを見る

    神がエレミヤに巻物を記すように命令した目的は、民が自らの歩みの間違いに気づき、神に立ち返るためであった。それによって神は民の罪を赦すことができる。そして書き記された巻物が民の前に朗読された。みことばを聞いた時、見えない神の存在を見ることができた。

  2. 神のみわざを見る

    みことばを聞き神がこれからなそうとするみわざをおぼえ、恐れおののいた。真実と認めて受け取ることができる者もいれば、みわざを見ず、あえて見ないふりをしようとする者もいる。私たちも自分の都合で見ようとしたり、見ないようにしてしまったりしてしまう。

Ⅱ・「聖書を切り裂く小刀」

  1. みことばを疑う

    ついに巻物はエホヤキム王の前で朗読されることとなった。しかし、それは王にとって受け入れがたい内容であった。自分を否定し、立場を危うくする内容。彼は巻物を小刀で切り裂いた。我々も自分に都合の悪い箇所を拒絶したくなる誘惑に襲われる時があるかもしれない。

  2. みことばを焼き捨てる

    王はみことばを切り裂き、火で焼き尽くした。それは無かったことにする行為。聖書を、神のみことばとの決別を意味する。しかしそれは、自らの人生を切り刻み、焼き尽くす滅びに向かう行為である。神のみことばの全てを受け入れるとき、その人生は豊かにされていく。

Ⅲ・「みことばは永遠なり」

  1. 切っても焼いても滅びない

    これまで多くの人が聖書を疑い、拒否し、焼き捨ててきた。しかし、神のみことばは決してすたれることも、消え失せることもない。そしてすべてが真実であり、必ず成就していく。同じようにみことばに生きる人のいのちも決して滅びることなく永遠に生きるのだ。

  2. 聖書のみ

    31日はルターの宗教改革記念日。今年で500周年になる。聖書のみ、信仰のみ、万民祭司という提言は今も色あせることなく受け継がれている。聖書のみことばを疑うことなく、選り好みすることなく、ただ純粋に信じ、その通りに生きていく人生を目指していこう。

結論:クリスチャンはそれぞれに好きなみことば、聖書箇所があるかと思う。自分の指針となるみことばを握っていることは何と幸いなことだろうか。同時に、受け入れがたい、あまり信じられない、生理的に、心情的に苦手と感じる個所もあるかもしれない。しかし聖書のみことばはすべて神の霊感によって書き記された真実であり、一点一画も付け加えることも削ることもできない。だから私たちは全てを受け入れたい。多くの人はただの物語で事実ではないと疑い、自分には必要ないと拒否する。それではみことばを託した神の目的である救いを受け取れない。永遠なるみことばこそが事実であり、私たちに最も必要なことであるからこそ、神のみことばを大切に、日々いただき、素晴らしい人生、人間本来約束されている最高の幸せを手にしていこうではないか。

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# by ontheway-chapel | 2017-11-02 11:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「永遠のいのちを獲得するために」

  1. 神である主を愛せよ

    律法学者がイエスに永遠のいのちを得るためにどうしたらいいか?と尋ねた。イエスこそ永遠のいのちについて語るにふさわしい人はいない。その答えはすべてを尽くして神を愛することであるという。自己中心の私たちの視点を神様に向けてみよう。誰も自分を大切にする。その本能的な自己愛を神様に向けた時、永遠のいのちに至る道が開かれていく。

  2. 隣人を愛せよ

    イエスは神様だけではなく、隣人にも愛を向けるようにと言われた。自分のことを好意的に見てくれる人には優しくなれる。自分の敵となるような人、自分が何かしらの害を受ける可能性がある人を愛することは決して簡単ではない。イエス様は全人類の救いのために、永遠のいのちを与えるために、十字架にかかって死なれた。すべての人がイエスの隣人であった。

   Ⅱ・「隣人はだれ?」

  1. 祭司とレビ人

    祭司とレビ人は当時人々からは尊敬され、人格者として人々を導く立場にありました。しかし彼らはもしかしたらそれぞれの都合を優先したのかもしれないが、傷つき倒れている助けを求めている人の隣人にはならなかった。見て見ぬふりをすることがある。ふと心が痛む。それが正常な反応かもしれない。チクリと痛む思いを行動に移せる勇気があればと思う。

  2. サマリヤ人

    このサマリヤ人だけは強盗にあった人の隣人になった。この人は仕事を捨ててまで尽くしたわけではない。できる範囲で精一杯のことをした。私たちも同じように自分にできることを精一杯できるようにしたい。その愛を、勇気を、行動力を与えて下さるのはイエス様。イエス様の願うことをするとき、私たちはイエス様の愛と永遠のいのちを獲得することができる。

結論:人間は誰もが弱い存在。一方でとんでもない可能性と力が与えられている。それぞれにできる範囲で精一杯の愛を自分に向けるように、隣人にも注いでいきたい。そしてその愛は神様が私たちを無条件で愛してくださった愛に由来する。この神様の愛に感謝し、神様を自分の全てを尽くして愛していくとき、私たちは隣人をそれぞれの方法で愛せるようになれる。イエス様は私たちにも「同じようにしなさい」と言われている。永遠のいのちを、本当の愛を示してくださったイエス様を目指して、イエス様が示され、願っていることを同じように実践しようとするとき、このイエス様を求めていくとき、私たちの人生はものすごく豊かにされ、笑顔になれ、心優しくなれる。イエス様をもっともっと求め、慕っていくお互いとさせていただこう。


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# by ontheway-chapel | 2017-10-11 14:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「厳しい現実」

  1. エレミヤが辿ってきた道

    エレミヤは南ユダの人たちを前に、神様からの言葉を語った。それは民を何とか救いたいという思いからであり、神に忠実でありたいという思いからでもあった。エレミヤは必死になって民を説得しようとしたが、その結果は民を怒らせ、エレミヤは捕らえられてしまった。

  2. 現実を前にして

    エレミヤは現実を前にして、気力が衰え、神の働きを捨てたいとさえ思うほどに打ちひしがれた。もう何も語りたくない。何もかもむなしく、恐ろしく、逃げ出したいと思うことがある。私たちは現実の大きさを前にうろたえ、絶望感に包まれてしまいそうになる。

Ⅱ・「抑えきれない衝動」

  1. 人から神へ目を移す

    私たちを取り巻く現実の巨大な力を前に気持ちが萎えてしまう。しかし、エレミヤは人(現実)からその目線を神へと移した。自分の生涯にわたってともにおられる神に目を向けるとき、そのお方に信頼するとき、厳しい現実を打ち砕く神の偉大さによって平安が与えられる。

  2. 燃え盛る火

    エレミヤが人ではなく神に目を向けた時、再びその心に火がともった。この火を燃やす原料は神から来ているので尽きることはない。この火によって私たちの心の内に冷えて固まった弱さが溶かされ、抑えきれない衝動となって神の目的のために歩むことができるようになる。

Ⅲ・「格闘の末に」

  1. ヤコブとエレミヤ

    かつてヤコブも神と格闘し、自分の内にある恐れに勝ち、神からの確信をいただき前に進むことができた。エレミヤも神との格闘を通して弱さを打ち砕き、神の働き人として再び立ち上がることができた。いずれも共におられる神との格闘の先に新たなる力をいただいた。

  2. 私たち

    私たちも日々の生活の中で、信仰生活の中で思い通りに行かない、先が見えない試練と向き合う。巨大な現実を前にうろたえ絶望し、あきらめかけてしまうかもしれない。しかし神にしっかりと目を向け神との真剣勝負、本気の交わりを通る時、本当の強さと平安を手にする。

結論:エレミヤは現実を前にもうだめだ。神様が助けてくれると頭でわかっていても、心がついて行かなくなってしまいかけた。恐怖と絶望がエレミヤを襲った。でもその時、現実世界だけではなく、目の前にいる敵だけではなく、神様ご自身に目を向けることができた時、彼の内に燃え盛る火が再び点火され、もう一度立ち上がり、神とともに歩むことができた。徹底的に神と格闘したその先に、エレミヤは確かな確信をもって新たな力をいただき、現実の困難を乗り切ることができた。人ではなく神がなしてくださる。神ご自身が勝利してくださる。神の強さと平安をこの手に握って前に進むことができるようになる。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-25 12:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「失敗は悪くない」

  1. より良い人生を願う

    人は誰でも自分の人生をより充実したもの、素晴らしいものとなることをどこかで願っている。苦しいより楽しい方が、暗いより明るい方がいいと願う。様々なところをさ迷い歩いて捜し求める。これが良いと思っても裏切られたり、うまくいかなかったりすることがある。

  2. 失敗が成功への土台となる

 人はその人生の中でたくさんの失敗をする。小学生時代に学芸会で最後の締めのセリフを完全に忘れてしまい台無しにしてしまったことがある。それ以来人前で話すことが怖くなった。不思議なことに毎週人前で話をする働きに召されている。入念に備えるようになった。

Ⅱ・「完成させてくださる主」

  1. 失敗を見て直してくださる

    陶器師は神様であり、粘土は私たちである。陶器師は作品を完成させるために粘土のほころびを見つけては、練り直し、そして修正して完成へと近づけてくれる。それは実に忍耐のいる作業であるが、一切の妥協をせずに徹底的に向き合い、整えて完成へと導いていく。

  2. ご計画の通りに完成される

    粘土はもっとこうした方が格好いい、こうした方が機能的ではないか、と陶器師に逆らいたくなる。しかし陶器師の手は何と繊細で慈愛に満ちているだろうか?陶器師は決して作品をないがしろにしない。一つ一つに心を込めて、愛を詰め込んで最高の作品に仕上げてくれる。

Ⅲ・「陶器師に対する私たち」

  1. 心頑ななままか?

    時に粘土はわがままであり、陶器師の計画に逆らう。なぜならば神のご計画の素晴らしさを実感できず、全貌を見ることもできないのだから当然かもしれない。粘土が完成するために最後に火で焼かれなければならない。それを拒んでしまうならば、いつまでも完成しない。

  2. 素直に従うか?

    神に従って生きても、試練や困難はある。粘土が作品として完成に至るまでに時に何度も火を通されることもある。しかし、その完成した作品は実に美しい。神は忍耐をもって私たちを素晴らしい作品に完成させてくださる。その御手に信頼して従う者とさせていただきたい。

結論:神の造る作品はどれ一つと同じ作品はない。なぜならばすべて手作りで、それぞれに込められたご計画があるから。ある人は平皿かもしれない。ある人は花瓶かもしれない。でもどれもすべて美しく、優劣つけられない最高の作品である。神様は私たちの人生を最高のものとしてくださる。私たちを愛しておられるから。ろくろの上でもがくのか?それとも陶器師の手を信頼して委ねて形造られていくのか?すばらしい輝きを放つ作品とさせていただこうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-20 15:32 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「あるがままの私」

  1. 自分勝手な私

    ここに登場する弟は生前贈与を求め、財産を手にした後、自分の生きたいようにと願って父の元を離れた。その先にある新しい人生は非常に魅力的であり、希望に満ち溢れたものに見えた。私たちの人生においても、魅力的、希望に満ちた世界を、より良い生活を必死に探し求めている人がたくさんいます。みんな自分の人生を何とか良くしたいと願っている。

  2. ボロボロの私

    弟は財産を使い切ってしまった。財産がある時には近づいてきた人たちも、手のひらを反すように離れていく。そして大飢饉までが彼を襲った。自ら望んだ魅力と希望に満ちたはずの人生がボロボロになってしまった。人生のどん底にまで突き落とされてしまった。自分の力ではどうすることもできない現実を前に、一体どこに希望を見出したらよいのだろうか?

Ⅱ・「あるがままを受け入れる神」

  1. 待っていてくれる

    弟はふと我に返る。そうだ、父親のところに戻ろう。自らの失敗を素直に認め、そのうえでなお父を頼って帰ろうと思った。それも親子関係などおこがましい、父の奴隷でいいから側においてもらうという。父から離れた時の自分勝手な姿はなくなり、唯一の希望である父の元へとたどり着いた弟を、父は首を長くして待ち続けていて、ボロボロの彼を受け入れた。

  2. 祝ってくれる

    父は喜んで弟を迎えてくれた。それも盛大な祝宴まで用意して歓迎してくれた。弟はまさに私たちその物であり、待っていてくれた父は神である。神は自分勝手な私たちを見守り、待ち続けてくれる。そして受け入れてくださり、盛大な祝宴を用意して歓迎してくれる。ここに本当の希望があり、魅力あふれる人生がある。その招待状を私たちは手にしている。

結論:いただいた招待状は、有効期限がない。いつでもそこに行き祝宴を受けることができる。そのための唯一の条件は、弟がそうであったように自らの歩みを振り返り、本当に変えるべきところはどこか?本当の希望はどこにあるのか?どこに行ったら魅力ある人生を送ることができるのか?を見つけることである。招待状を手にしていても、どこに行っていいかわからず、さまよっている人がたくさんいる。でも神は待っていてくれる。そして戻ってきたとき、盛大な祝宴が開かれる。神はあなたを歓迎し祝宴を開くことを待っておられる。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-11 15:35 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エレミヤの嘆き」

  1. 地元、家族が敵となった

    エレミヤは忠実に神の働きに従い続けた。それは民の罪を暴き、しかし責めるのではなく、悔い改めて神に立ち返るようにという、民の救いのための働きであった。にもかかわらずエレミヤの語る言葉に地元も家族も敵対した。味方であってほしい身内からも見捨てられた。

  2. とりなしの祈りを聞かなかった

    民は闇の中にどっぷり浸かっていた。エレミヤは必死に民に真の光を示し、彼らのために時間と労をささげて祈り続けた。しかし民は彼に感謝することなく、むしろ責め立てられ、いのちの危険にさらされていった。虚しさが増してくる瞬間であるが、危険な兆候にもなる。

Ⅱ・「孤独と葛藤」

  1. 誰も助けてくれない

    エレミヤに味方はいなかった。少しでも彼の苦しみを分かち合い、嘆きを聞いてくれる人がいたら、どれほど救われただろうか?しかし、彼の本当の苦しみなど誰も知ることが無かったし興味もなかった。彼を助けてくれる存在はどこにもなかった。ただ死を待つばかり?

  2. 神の沈黙

    エレミヤは知っていた。この地上ではないところに本当の助けがあることを。しかし、その助け手が何もしてくれないと感じることがある。こんなに苦しいのに、どうしてわたしを見捨てるのか?と。これは忠実な献身者だから、神は答えるはずという高ぶりかもしれない。

Ⅲ・「解放される神」

  1. 道を示される

    エレミヤは神のことばを語るに疲れた。人間的な嘆き(卑しいこと)が口から出てきた。預言者は神のことばを語る口が与えられている存在。もし原点に立ち帰るならば、再び預言者として立たせると道を示された。ふさわしくない者が素晴らしい働きに召された再確認。

  2. 嘆き、孤独、葛藤から解放される

    私たちは嘆き、孤独を感じ、神との関係に葛藤を覚えるかもしれない。しかし神はそれを非難するのではなく、むしろ霊的孤独から解放させてくださり、もう一度強く立つことができるようにと導いてくださる。なぜなら主が「あなたとともにいて、救い助け出すからだ」

結論:私たちの日々の信仰生活でも、思い通りに行かない。神様との交わりがうまくできない。迫りくる試練、悩み、痛み、苦しみの中で思わず嘆くことがある。しかも、その助けを求めていながら誰も助けてくれない。神すら助けてくれないと感じることがある。しかし、神は必死に神に求め、すがろうとする民を決して見捨てることはない。なぜならば、神は私たちに最善の道を示され、私たちを霊的孤独から解放してくださるから。その根拠は「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い、助け出す」という神と私たちの交わりの確信、大前提にある。私たちはそこに立ち返り、もう一度力をいただき、前を向いて歩んでいきたい。


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# by ontheway-chapel | 2017-09-05 10:04 | Comments(0)