聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「沖に出る」

     A.自分のやり方で

      人生、うまくいくときもあればうまくいかないときもある。多くの人が体験していることかもしれない。果たして本当にそうだろうか?自分のやり方においてはうまくいかないことでも、自分の方が正しいと思っていることでも、実は少し角度を変えてみると全く違った結果になる。

B.イエスの方法で

      ペテロは自分の方法で、それも自分の方がその道に優れていると思っている方法でうまくいかなかった。それを素人と思えたイエス様の言う通りに従ってみた時、思いがけない結果が生まれた。今の自分から一歩前に踏み出そうとするとき、導き手によって大きく人生も変わる。

   Ⅱ・「何もかも捨てる」

    A.自分の非を認めた

      ペテロは自分の愚かさ、弱さ、間違いに気づいたとき、イエスを遠ざけようとした。その瞬間イエスは今まで以上に身近な存在となり、これからの人生の旅路においてずっと一緒にいてくれることになった。自分を中心に据える生き方から、イエスと共に歩む生き方への転換。

    B.何もかも捨てて従った

      イエスと共に歩む人生は本当に幸いである。しかし、それを妨げるものがたくさんある。私たちはイエスに従うと言いながら、この世のたくさんのものを握りしめたままである。イエスの弟子になる時ペテロは何もかも捨てたという。この決断が実は旅立ちに一番必要なことである。

結論:私たちの人生という旅路において、備えあれば患いなしというように、より多くのものをもっていた方が安心と感じる。何かの時にこれが役に立つかも、あれが必要となるかも、と必要以上のものを求め、握りしめていく。しかし、そうしたものではどうしようもない、全く太刀打ちできない限界がある。どれだけお金を持っていても、どれだけ力を持っていても、どれだけ豊富な経験を持っていても、クリアできないことがある。しかし、イエスの方法に倣っていくならば、そこには限界がないので、すべてが満たされ、すべてが最善に導かれる。大切なことはより多くのものを握りしめることではない。むしろそれらを捨ててイエスに従うという決断をすることではないだろうか。


# by ontheway-chapel | 2019-03-15 09:57 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と真剣に向き合う」

     A.不安からの罪

       イスラエルの民はモーセが山から戻ってこないことに不安を感じた。指導者を失った民は

各々に自分の良いと思うことを勝手にする。神という指針を見失う時、私たちも自分が前に

出てきて罪を犯してしまう傾向がある。しっかりと神を見失うことなく歩みたい。

    B.モーセのとりなし

       神と民との契約は民の罪によって一瞬にして破棄されてもおかしくなかった。しかしモーセ

は自身の民を守るため、神との関係こそが大切であることを必死に訴えた。自分の様々な問

題については本気で祈れるが、誰かのために命を懸けるほどの祈りを私たちもしたい。

   Ⅱ・「応答される神」

    A.とりなしに応答される神

       神様はモーセの必死の祈りを聞かれた。私たちの神は必死の祈りを無視されない。むしろ心

開いて顔と顔を突き合わせて応答してくださる。憐れみ深く情け深い神の愛を私たちはしっ

かりと握りしめ、安心して必死の祈りに応答される神と交わりをもって行きたいと願う。

    B.咎と罪を赦す神

       神の恵みは千代にも保たれる。とこしえの恵みに満たされている。そして、私たちが必死に

自らの罪に対して、向き合い、とりなすとき、主はそれを取り除き赦してくださる。それは

イエス・キリストによって完全に成就された。この恵みに私たちも応答していきたい。

結論:神の愛の深さ、大きさは私たちの物差しでは決して測ることができない。このような大きな愛に私たちは包まれている。しかしそこには契約がある。この契約を破棄することなしに、私たちは神の愛に応答して恵みのうちを歩んでいきたい。私たちは罪を犯し、神を悲しませてしまう。しかし、それを素直に認め、とりなしの祈りをするとき、神はその祈りに応答してくださり、私たちを恵みの契約に立ち返らせてくださる。だから私たちは心から平安をもって、信頼をして神とともに歩んでいきたい。イエス様の契約を思い起こし、これからの聖餐の恵みに与ろう。


# by ontheway-chapel | 2019-03-05 10:51 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「もし、守れないなら・・・」

     A.聞き従えないとき

      神の声に聞き従えない時がある。それは自分の声の方が大きくなる時。この世の声の方が大き

くなる時。私たちの知恵に頼るならば、その方が良く思えてしまうことがある。神は私たちを

満たされるはずなのに、満たされないと感じてしまうことがある。自分が真ん中に立っている。

B.守り切れない弱さ

      神の命令、教えこそが正しいと頭ではわかっている。しかし、私たちは守り切れない。実際に

イスラエルの民は神の大いなるみわざを体験しても、神の前につぶやき、神を見ずに後ろを見

て嘆き続けてしまった。そのように神に従えず守れないとき、どうしたらいいのだろうか。

Ⅱ・「限界の先にあるもの」

A.私たちには限界がある

   私たちには限界があるという事実と正面から向き合い、自分の弱さ、限界を素直身に認めるこ

とが大切である。誰が主なのか?神は全世界はわたしのものである、とおっしゃった。この立

ち位置の返還が必要。自分が真ん中に立っていると、限界の先を見ることができない。

B.私たちは主のもの

   神は全世界はわたしのものである、とおっしゃった。私も主のものであるという視点が大切。

   自分で頑張っているうちは限界があり、私たちは行き詰ってしまう。しかし、私たちは全能な

るお方のものであるならば、神が限界を取り払ってくださり、さらに前進させてくださる。

Ⅲ・「もし守るなら・・・」

A.宝としてくださる

   神は自分のものを大切になさる。それも宝のように大切にしてくださるという。私たちは神に

とって宝である。それほど高価で尊いものとして取り扱ってくださる。あなたの宝は何だあろ

うか?その宝のためならば何でもできる。神はそれほどの愛をもって私たちを守ってくださる。

B.神の憐みのゆえに

   私たちは神の命令のすべてを完全に守ることは残念ながらできない。だからと開き直ってはい

けない。私たちなりにできる精一杯をもって神に仕え、教えを守りたい。私たちの不足分は神

が憐れみをもって補ってくださる。そしてそれゆえに、私たちは神の前に正しい歩みができる。

結論:私たちは完全ではない。しかし、それは神が誰よりもご存知である。だから、神は不完全な私たちを赦し、救うためにイエス・キリストを世に送ってくださった。その恵みゆえに私たちは不完全でありながら、完全な救いをいただくことができる者とされた。私たちなり、精一杯をもって神の教えに聞き従い、守っていきたいと思う。その忠実さを神は喜ばれる。そしてそのような私たちを宝のように大切に取り扱ってくださる。宝物を粗末に扱う人はいない。神は宝物が救われ永遠のいのちを獲得し、天の御国に凱旋することを何よりも願っておられる。


# by ontheway-chapel | 2019-02-27 10:48 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰を持って渡る」

    A.信じたいけど信じ切れない

      ついさっきまで目の前に広がっていた海が分かれて、道ができました。その道を前進しなさい、

と言われてどれほどの人が安全を確信して前進できるだろうか?信じたいけれども信じられ

ない、信じ切れないという弱さを私たちは持っている。信仰をもって前進することは難しい。

B.不安な気持ちに寄り添う神

      かつてトマスは復活のイエス様の話を聞いて、この目で見るまでは信じないと言った。イエス

の弟子でさえ、信じたいけれども信じ切れない。しかしそのようなところへイエスは現れ、直

接その不安な気持ちに寄り添ってくださり、トマスが前進できるようにしてくださった。

Ⅱ・「人間的な視点で渡る」

A.神なき視点で前進する方法

   人は自分の想像を超えた出来事を前にうろたえる。しかし、それでも前進するとき自分なりに

前へ進む動機を探す。それは自分の知識や経験を元にして前へと進もうとする。もう何もすが

るものはないが、とにかく進むしかないという無鉄砲な気持ちで進むしかない。

B.神の守りなき前進の危険

   エジプトの民はイスラエルの軍を見つけて分かれた海を渡り始めたが、そこに待っていたのは

無残な結果であった。海は彼らを飲み込むように元通りの姿へと戻った。それはすべて神の支

配のうちにあったことであり人間の力の限界を教えられる。神なき人生の危うさがそこにある。

Ⅲ・「主が私たちを守る」

A.主が海と陸地へと分けた

   かつてこの個所を読んだとき、必死になって科学的にこうした現象が起こる得る可能性を探し、

それでこの個所を受け入れることができた。しかしその視点は間違っている。神が風を吹かし

て海と陸に分けたことが聖書には記されている。すべては主の支配のうちにある。主ありき。

B.主の守りの中で生きる

   イスラエルの民はこの出来事を通して、主の栄光を現そうとされた。民は主を恐れ主を信じた

と書かれている。主の実に不思議な守りを体験した時、彼らは喜びの賛美を歌った。主の守り

の中できることは自然と踊り歌うほどにうれしいことである。本当の幸いは主とともにある。

結論:神を見上げ、神と共に生き、信仰をもって歩もうとするとき私たちの人生は喜びに満たされる。いくつもの感動を体験する。そして必ず守ってくださる主にあって平安が与えられる。何一つ不満がない。しかしほんのちょっとしたことで私たちは不安を感じる。その都度、神は私たちに寄り添ってくださり、あらゆる方法をもって私たちを守り、支え、信仰を支えてくださり、再び喜びと感謝、そして感動に包まれた日常へと誘ってくださる。まずは主を信じて、期待して前へ一歩踏み出してみようではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-02-21 11:51 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神様のご計画」

     A.ペリシテ人の国の道

      神はエジプトを脱出したイスラエルの民を最短距離をあえて通らせることをしなかった。長い

 間奴隷であったイスラエルの民は戦うための道具、準備がなされていなかったことが想像でき

 る。神はイスラエルの民の状況を良くご覧になり、最善の道を備えてくださった。

    B.私たちの歩み

      私たちの歩みも同様に神様はご覧になっておられる。時に最短距離と思える、より効率的と思

 える方法ではない、私たちから見たら遠回り、無駄と思えるようなところを神様はあえて私た

 ちに通らせることがある。その時、自分の考えを優先するか、神に従うかが問われている。

   

Ⅱ・「ヨセフの遺言」

  A.ヨセフ遺言と預言

   ヨセフはかつて神は必ず顧みてくださる、そして必ず約束の地へと導かれるとイスラエルの子

らに伝えた。神の約束は永遠である。そして神の約束は必ず成就する。私たちの目で直接確認

することはできないかもしれない。しかしそれを信じる私たちは決して裏切られることはない。

  B.約束に従ったモーセ

   モーセはこの約束をどこかで伝え聞いていたのだろう。そして、いよいよエジプト脱出の際に、

このことを忘れなかった。私たちは神様からの約束をどれほど大切にできているだろうか?い

ざと言う時、自分のことばかり考えるのではなく神様の約束をすぐに思い出したいと願う。

Ⅲ・「神の守り」

 A.雲の柱と火の柱

   雲は主の臨在を象徴的に現していると言われている。雲の成分、空気中の成分を見るとき、雲

が直接目に見えなくても、いつも私たちの周りに存在していることを知る。神も目には見えね

どもいつも共におられる。火はすべてを温め、光を与え、焼き尽くす力を持っている。

  B.特別な方法を用いられる神

   神様は私たちを守り、導かれるために実に様々な不思議な方法をもって私たちを支えてくださ

る。神様はご自身のご計画を進めるにあたって、あらゆる方法をもって完全にやり遂げるお方。

私たちの想像を超えた方法であり、私たちがすべてを理解することはできない。

結論:私たちは日々当たり前のように生きているように感じる。当たり前のように一日が終わり、次の日が来ると思う。しかしそれは当たり前ではなく、神の守りの中にあり、神のご計画のうちにすべてがあることを知ろう。そしてその中で神は私たちを愛し、守り、支えてくださるお方。あらゆる試練においても、先頭に立って私たちを導いて下さる。だから安心して主と共に歩もうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-02-13 18:04 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「心をかたくなにする」

     A.神がパロに働きかけた

     パロの心を神が頑なにさせた。その目的はしるしと不思議をエジプトの地で行うためでもあっ

た。神のご計画ではイスラエルの民をエジプトから救出することであったが、その実現のため

に実に多くの人や物(それは私たちの理解を超えている事柄)を用いて主の栄光を現している。

   B.かたくなな心の先にあるもの

     パロの心が頑なにされたため、神のしるしと不思議はさばきを伴ってなされた。神は災いを下

すことでイスラエルの民を救出されようとした。多くの教訓がそこには隠されている。私たち

も心頑なにするとき、その先にはさばきが待っているのかもしれない。

Ⅱ・「主であることを知る」

A.パロの心を砕く

  災いの目的と意義が語られる。それはイスラエルの民の救いと何よりも主が誰であるかを知る

ためであった。心頑なな者とは神を神と認めない。神を受け入れることを拒んでいる状態の人

である。自分の殻に閉じこもらず、思い切って主のもとへ飛び込んでいこうではないか。

B.イスラエルの民も見る

   神がエジプトに下すさばき、大いなる御手をイスラエルの民も目撃することになる。つまり、

イスラエルの民も誰が主であるかを知る必要があった。彼らもまた主の大いなるみわざを見な

がらも、主を疑い、目に見える事柄に救いを見出そうとしてしまうことになる。

Ⅲ・「モーセが用いられた意義」

A.モーセは80歳、アロンは83歳であった

   神の救いのご計画が示され、いよいよ実行されていくときに用いられたモーセは80歳であっ

たという。さらにこの先40年の荒野での生活が待っている。神はこうした人選をなさる方。

80歳でも立派に神に用いられる。逆に10代でも用いられる。いつでも備えていよう。

B.常識にとらわれない生き方を

   人間的に見たら80歳で新しい事をするのは、難しいと感じるだろう。先の事、健康のこと、

色々なことを考えたら神のご計画に参加することは難しいと判断しがち。しかし、神がそのよ

うに用いられるならば、そこに従いたい。自分の常識ではなく神のご計画の方が確かである。

結論:目の前に広がる災い。私たちの目には悲惨であり、むごたらしい、目をそむけたくなるかもしれない。しかしそこに神の目的、意義が隠されているならば、私たちはしっかりと目を留めていきたい。そして神のご計画を見極め、従っていきたいと思う。そのためには自分の常識にとらわれていたら見えるものも見えなくなる。心頑なにしているならば、従うこともできない。信仰をもって、心開いて、神の目的にこそ目を留めていきたい。そうするとき、私たちは主のみわざを目撃し、主をより深く知ることができ、幸いなる生涯を送ることができるようにされていく。


# by ontheway-chapel | 2019-01-26 07:43 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の壮大なご計画」

     A.モーセに示された計画

      神はイスラエルの民の苦しみの声を聞き、辛い道を通っている姿をご覧になった。私たちの

痛みを担ってくださる主が苦難の中にいるイスラエルの民をエジプトから救い出されるご

計画がモーセに語られた。神は民の苦難を放っておかず、救いの手を差し伸べてくださる。

B.モーセに託された主

      神によるイスラエルの民救出のご計画が示された後、モーセにパロのもとへと行くように命

じた。そして示された救いのご計画をイスラエルの民に告げ知らせるようにとも命じた。不

安を感じたモーセに主が共におられることが約束され、モーセを励ました。

Ⅱ・「不安をおぼえるモーセ」

  A.もし~だったら…

   モーセは神からの語り掛けを民に伝えるという使命が与えられた。それに対してモーセは慎

重でもあり、臆病でもあった。想定される民の反応を神に告げた。不信仰の反応とも思える

が、正直に自分の不安を、弱さをさらけ出し神様と語り合うことは大切である。

B.でも~だから

    神は私たちの不安を聞いてくださり、道を開いてくださる。しかし、私たちの経験からくる

不安や疑問はなかなか払しょくされない。神からの応答に対してでも、とさらにしり込みし

てしまう。でも神はとことん私たちに寄り添い、丁寧に語り合ってくださる。

Ⅲ・「応答される神」

  A.しるしを与える

    神はモーセの不安や疑問に対して実に丁寧に応対してくださる。そして、その解決策を示し

てくださる。それは私たちの理解を超えた方法であるかもしれない。2段階、3段階と記し

を用意してくださり、モーセの不安、疑問を晴らそうとされる。

B.助け手を与える

    モーセはさらに不安を口にする。それに対して神は助け手を与えられた。それぞれに賜物が

ある。神はふさわしい賜物をもった助け手を与えてくださるお方である。神の助けは底を見

ない。私たちに十分すぎるほどの助けを与えてくださる。だから信頼して従いたい。

結論:私たちは様々なことに不安を抱く。そして疑問をおぼえる。それは人として自然なことかもしれない。ある人はそれを不信仰と言うかもしれない。しかし、大切なのはそこでとどまらず、神様に不安な思い、疑問をぶつけていくことである。そして語り合うことである。神は私たちの不足を補ってくださる。不安や疑問にとことん応えてくださり、晴らしてくださるお方である。神がそこまで示してくださる道に対して、信仰をもって応答していく者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-01-15 08:41 | Comments(0)

~~あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。~~

本論:Ⅰ・「時代に翻弄された赤ちゃん」

     A.パロの命令

      かつてヨセフが家族をエジプトに連れて来て、そこで彼らは守られ祝されていった。しかし、

イスラエルの民が増えていくにつれ、エジプトにとっては脅威となったためイスラエル人た

ちを奴隷として扱うようになり、男の子が生まれたら殺すようにと言う命令が出された。

B.ヘロデの命令

      東方の博士たちがユダヤ人の王を探している、という声を聞いてヘロデ王は自らの立場が奪

われることを恐れた。そしてそのタイミングで産まれたであろう男の子を一人残らず殺すよ

うにと命じ殺させた。そのため、御使いによって一時的にヨセフたちはエジプトに逃れた。

Ⅱ・「奴隷とされた民」

A.エジプトの奴隷とされていた

   イスラエルの民はエジプトの地でどんどん増えていった。彼らはまた勤勉で、有能であった。

それだけにエジプトにとっては放っておけない存在となったために、かれらはエジプト人の

奴隷にされてしまった。イスラエル人は奴隷からの解放を願い、神はモーセを立てた。

B.罪の奴隷とされていた

   イエスが生まれる前、預言者たちは400年にわたり現れなかった。民は繰り返し罪を犯し続

け、預言者を退けた。やがてローマにも支配され、ローマからの救いを求めていた。しかし

神は罪の奴隷と化していた民のために、真の救い主を世に送られた。

Ⅲ・「神の不思議なご介入」

A.ミリヤムとパロの娘

   モーセの出産に伴い、家族はモーセを何とか殺されないようにと隠し続けた。しかし、隠し

続けることができなくなり、川に置いて一切をゆだねた。その時、モーセを発見したのがパ

ロの娘であり、それを見守った姉のミリヤムが実母に世話をするように促した。

B.乙女マリヤ

   イエスのご降誕に際して神は、処女マリヤを用いられた。これは人間的にはまったく理解で

きない不思議な出来事であった。神は私たちの想像をはるかに越えたみわざをもって民を救

い、民を愛し、民を導いて下さる。私たちも神の不思議なご介入に従順でありたいと願う。

結論:モーセの登場はイスラエルのために神の大きな救いのご計画を示すものでもあった。そしてそれは、実にキリストの登場と同じような背景があり、出エジプト記は旧約聖書の心臓部と言われるほどに重要である。それは神の救済、贖い、契約が記されているからであり、全聖書の原点とも連なる重要な個所である。そして、出エジプト記がキリストにおいて成就していく様子が対比されていくとき、明らかにされていく。神の偉大なるご計画をここから学び、また私たちの信仰を新たにされ、より強いものとされていきたく願う。


# by ontheway-chapel | 2019-01-10 17:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神からの恵みをいただいている」

     A.イエスの仕え人となる

       パウロは自らをイエス様に仕える人として生きる者と確信していた。そして異邦人のために、

一人でも多くの人が救われるようにと、その生涯をささげた。そして神の福音をもって、人々

を導こうとした。しかし、これを実現するためには自力だけでは決してうまくいかない。

B.聖霊による

       パウロは異邦人を聖霊によって聖なる者とされた、神に受け入れられる供え物とすることを

目指していた。パウロによってではなく、誰かによってでもなく、聖霊によって異邦人を聖

なる神の供え物となるようにと願っており、この働きに誇りを持っていた。

Ⅱ・「神が用いてくださる」

  A.御霊の力に頼る

    パウロはかつて神の働きと信じていながら、しかし自分の力によってキリスト者たちを迫害

していた。しかし、そのことが間違いと気づいたのは聖霊の働きによってであった。それ以

降、パウロは聖霊の力によってのみ、自らの進む道をゆだねていった。

B.神に用いられる器として

    かつてD.L.ムーディーと言う人がいた。彼は貧しい家庭に育ったこともあって、無学であっ

たが、神に従順であった。その彼が神に用いられた時、神学校にも行けない者が大説教者と

して福音を宣べ伝える者として立てられ、多くの人を救いへと導き神学校まで設立した。

Ⅲ・「神を見て、悟ることができるように」

  A.福音を知らない人へ

    パウロはローマ行きを切に願っていた。それは、まだ福音が伝えられていない人たちにが、

神を見ることができるように、福音を聞いたことのない人が真理を悟ることができるように

という思いからであった。私たちの周りにもそのような人が多くいるのではないだろうか?

B.福音を宣べ伝える

    では、誰が一体そのような人に福音を伝えるのか?そのまま滅びに至る様子を眺めていてい

いのだろうか?今年の標語聖句Ⅱテモテには時が良くても悪くても、と記されている。聖霊

に祈り求めよう。聖霊の示す時こそが私たちの都合関係なしに最善のチャンスである。

結論:福音を伝えるということは、口でいうほど簡単なことではない。しかし、無学な者であっても、口下手な者であって、主が用いられる時、そこには私たちの想像を超えたとんでもないことが起こる。自分にではなく、主に期待しよう。主に用いられやすい器となれるよう、日々備えていこう。福音を語ることは、この時代にあって、現代を生きる私たちに与えられている大切な使命である。そしてこの働きは決して恥ではなく、誇りとすべきことである。私たちの人生を一変させたすばらしい福音を、私たちも誰かに宣べ伝えていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-12-31 11:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「愛が与えられたクリスマス」

     A.愛から生まれたイエス

       神の御子であるイエス・キリストは本来ならば王座に座している存在であった。神は人を愛

された。しかし神に愛された人は堕落し、現状では永遠の滅びへとただ落ちるだけの状態で

あった。神は何とかして現状を打破するために、御子をこの地上に送られた。すべては人に

対する神の愛によるみわざであり、クリスマスは神の愛が明確に示された日である。

B.永遠のいのちへ誘ったイエス

       イエス・キリストが人となって来られた目的は、イエスを信じる者が滅びるのではなく、永

遠のいのちを持つためであった。それは、本来ならば永遠の滅びに行くしかない我々が、イ

エスの十字架の贖いによって再び神との正しい関係に立ち返るためである。また十字架の死

からの復活が、我々にも死からの復活の希望、完全なる勝利をもたらした。

   Ⅱ・「光が示されたクリスマス」

A.光が世に来られたクリスマス

       神はこの世の闇を彷徨い、何が本物で何が正しいのかわからなくなっている我々に、向かう

べき道はここだと光を示された。それがイエス・キリストである。今の時代も混迷を極め、

人々は不安を感じ、目先の希望に心惑わされる。クリスマスシーズン、街中はきらびやかに

光が灯るが、すぐに消えてしまう。しかしキリストの光は永遠に輝き続ける。

B.闇を打ち破ったクリスマス

       人々はやみの中でもがき苦しんでいる。そしてこの闇を自力で打ち破る方法はない。絶望的

に思える時、希望の光が灯された。この光こそ、我々を闇から救い出し、やみの支配を完全

に打ち砕くことができる。そしてこの勝利こそが、絶望の淵にいた私たちに栄光をもたらし、

神の愛が完全成就するのである。この光に私たちはすべてをささげて歩んでいきたい。

結論:クリスマスは多くの人にとって、楽しみであり、ワクワクする時でもある。おいしい食事に素敵なプレゼント。世界中で喜ばれ、待ち望まれている日である。しかしそれが自分たちを満足させるだけのイベントであるならば、本当のクリスマスの意味がない、空っぽの時となってしまう。クリスマスは神の愛が明確に形として示された、目に見える形で人々に示されたときである。神の愛が中心にあるのが本当のクリスマスである。そして、この愛によって、私たちは滅びることなく、永遠のいのちをいただくことができる。神の愛によって絶望の闇から、光によって救い出された。だから、クリスマスをお祝いする。心から感謝と喜びをもってクリスマスを待ち望む。今年のクリスマス、本当の意味をもう一度じっくり味わう時とさせていただこう。そして感謝と喜びに満ち溢れたひと時としよう。


# by ontheway-chapel | 2018-12-25 11:28 | Comments(0)