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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「キリスト者の良心」

     A.聖霊によって変えられた心

      パウロは議会に立ち、まず神の前にきよい良心をもって生きてきたことを語った。神の導きこ

そが人生のナビゲーターとなる。これは聖霊によって新しく造りかえられた者だけができる尊

い歩みである。その歩みは人の目ではなく、神の目に正しい歩みであり、聖なる歩みである。

    B.きよい良心に生きる

      議会において大祭司を批判し、パウロは謝罪している。直接の言葉ではなく、みことばを引用

している。つまり大祭司に対する敬意ではなく神に対する敬意をもって詫びている。人だけを

見て生きるのではなく常に神を見て生きること。これがきよい良心に生きることである。

Ⅱ・「パウロの訴え」

  A.聖霊の導きに従う

   パウロは議会においてサドカイ派とパリサイ派が入り混じっているのを見て、特に彼らの間で

決定的な違いとなっている復活や御使いの存在について証しをした。それによって議会は混乱

した。これはパウロの機転というよりは聖霊の導きに従った歩みであるのではないだろうか。

  B.従った先に

   聖霊の導きに従って議会の混乱に至った結果、パウロに何も悪い点を見出せない、という声が

挙がった。千人隊長の判断など、すべてがパウロにとって最善に導かれていることを見ること

ができる。聖霊の働きに素直に従う時、私たちは神の最善の道を歩むことができるのだ。

Ⅲ・「主がそばにいる」

  A.主がそばに立たれた

   議会から守られたパウロに主がそばに立たれた。私たちはどのような時に主がそばにおられる

ことを意識するだろうか?どんな時でも主はそばにおられる。しかし私たちはその事実を時々

しか思い出せないかもしれない。主はいつも側におられる。これが私達の平安の根拠である。

B.勇気を出しなさい

   主が共におられることは私たちにとって最大の勇気である。ついにローマで主をあかしする道

が開かれた。それは困難な道でもあるが、主が共におられ、勇気を与えて下さる。私たちの人

生の至る道においても主が共におられ勇気を与えて下さる。勇気をもって前に進んでいこう。

結論:私たちの人生は様々なことが起こる。うれしいことも、悲しいことも、辛いことも喜びもある。そのいついかなる時も主が共におられる。聖霊の導きがそこにある。その人生において私たちは何を基準に生きるのか?人なのか?この世の常識なのか?私たちはきよい良心に生きる者とされた。その私たちに主がいつも共におられ、前に進む勇気を与えて下さる。どんな困難も主が共におられ、勇気を与えて下さって、私たちをそこから救い出してくださる。不安を超える恵みがそこにある。勇気を出して私たちもこの地上での生活を歩もうではないか。


# by ontheway-chapel | 2020-02-18 11:06 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「災いで終わらない」

     A.暗殺計画が・・・

      パウロはギリシヤからシリヤへ船出しようとしていたとき、ユダヤ人による陰謀を知った。こ

のため急きょマケドニアを経由してエルサレムに向かうことになった。予定が狂い、自分の命

の危険が狙われるという災いが思いがけず、かつて開拓した諸教会を再訪問する機会となった。

    B.青年の転落事故

      聖餐礼拝の最中、窓に腰かけていた青年が転落するという事故が起こった。医者であるルカが

その青年は死んでいたと表現していたなかで、パウロが駆け寄り抱きしめた時「心配するな、

まだいのちがある」と言った。とんでもない事故が結果大きな慰めを生み出した。

Ⅱ・「与えられている慰め」

  A.歴史ではなく、今も生きている神

   悲劇的な死を、また絶望的な現実において、神は今も生きておられて私たちをそこから救い出

し、慰め、励ましてくださるお方である。思いがけない出来事に遭遇した時、私達は慌てふた

めいてしまうかもしれないが、こういう時こそ、復活のイエスと全能なる神に信頼していこう。

   B.慰めを伝えていく

   多くの現代人も悩み、苦しみ、希望を見出せない中を必死に生きている。教会の一番の使命は

そうした人たちに、パウロがしたように福音を語り、聖餐の恵みを分かち合い、まことの慰め

を伝え、知ってもらうことである。この教会に慰めがある。私たちに慰めがあるのだ。

結論:今朝の個所で当時の人たちが慰められたことが記されている。これは死からの復活のいのちの慰めである。そして現代の教会もまた、神のみことば、礼拝、聖餐式の恵みを通して、癒しと慰めを多くの悩み苦しんでいる人たちに伝えていくことができる。私達は教会で、復活のイエス様と出会って、本当の慰めを知ることができた。死の先にある最大の慰め、永遠のいのちを知ることができた。私たちの人生、思いがけない災いが襲う。しかし、その先に大きな慰めがある。神の大いなる恵み、愛、憐れみを知ることができる。ここに、教会にまことの慰めがある。この恵みをもう一度深く味わう朝とさせていただこう。


# by ontheway-chapel | 2020-02-18 11:05 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ベレヤに到着したパウロ」

     A.テサロニケから追い出された

      パウロはテサロニケにおいて3週間で教会が建て上げられるほどに、その働きは祝された。し

かし同時に、その働きを良く思わないユダヤ人たちは妬みに駆られて迫害した。パウロはその

結果、テサロニケから出て行くことになってしまったが、ベレヤでの宣教の始まりとなった。

   B.パウロたちを受け入れた

      ベレヤの人たちはパウロを受け入れた。会堂でパウロの語る教えを受け入れた。その反応はテ

サロニケ以上に良いものであった。迫害に会うという苦しみのなかで、しかし神はパウロに新

しい宣教の場を備えておられた。神と歩む人生において苦しみは苦しみで終わることはない。

Ⅱ・「みことばに親しむ姿勢」

  A.みことばに対して心開かれていた

   ベレヤの人たちは良い人であったという。これは素直、寛大、開かれた心とも訳せる。ベレヤ

の人たちはパウロが語るみことばに対して「心開かれていた」と言える。聖書のみことばはあ

る人には救いの言葉となるが、心閉ざされている人には単なるストーリーで終わってしまう。

B.みことばに対して熱心であった

   ベレヤの人たちはみことばに対して熱心であり、毎日聖書を調べていたという。心開かれてみ

ことばを受け入れるだけではなく、それを熱心に獲得しようとしていた。みことばに対する熱

心さ、探求する姿勢が大切である。神の語りかけとしてその意味を深く味わいたい。

Ⅲ・「みことばから実践へ」

  A.みことばにとどまる

   残念ながらテサロニケでパウロたちを迫害したユダヤ人がベレヤにまで押しかけてきた。今回、

パウロだけが逃れ、シラスとテモテは現地にとどまったとある。ベレヤの人たちがみことばを

もっと深く理解し、みことばにしっかりととどまり、成長するために、彼らが必要であった。

B.みことばに生きる

   みことばに親しむならば、私たちは単に知識においてだけ成長するのではない。イエスがそう

であったように、その愛に触れて実践する者へと変えられていく。ベレヤの人たちはパウロを

逃すためアテネまで付添った。自分たちが攻撃されるかもしれない中、愛を貫くことができた。

結論:私たちの信仰生活は必ずしも自分の思い願う通りに行くとは限らない。様々な試練が襲ってくる。しかし神はそれらを通して、私たちに何かを教えようとしている。つまり私たちをより良い人生へと導こうとされている。だから私たちは試練の先にある神の祝福を信じ、神の守りの中でそれらを乗り越えたい。パウロは迫害の先でベレヤの人たちと出会った。彼らはみことばに対して心開かれており、熱心であった。大切な姿勢である。しかもみことばにとどまることを求め、みことばに生きることを実践した。それは熱心さによって培われた信仰であり行いであった。私たちの信仰はどうであろうか?神様は私たちに何を願っているか?みことばに対して心開かれているか?熱心であるか?それは自己満足で終わらず、実践し合いのある信仰生活へと結びついているか?この朝、振り返ってみよう。


# by ontheway-chapel | 2020-02-18 11:03 | Comments(0)

本論:Ⅰ ・「救いを妨げるもの」

     A.占いの霊

      占いの霊につかれた女奴隷が登場する。当時ピリピでは精神的に不安定な状態になっている女

性が、未来を語り告げることで偶像の神からの語りかけのようにふれこみ、だまされやすい人

がこの女性の語る占いに心を奪われるという、人の心の弱さに付け込む罪が横行していた。

B.自己中心

      この女奴隷に占いをさせてお金を儲けていたのは、その主人たちであった。人の弱さに付け込

み、罪の虜となってさらに悪事を平気で働く。これは自分だけが裕福になればいいという自己

中心的な考えのなせる業である。こうした占いに傾倒する・自己中心的な姿勢が救いを妨げる。

Ⅱ・「神様との交わりをもつ」

A.パウロの命令

   女奴隷は一見するとキリスト教を宣伝してくれているような発言をしているが、パウロはイエ

スの名によってこれを退けた。まずこの女性自身を罪と奴隷となっている状態から解放させた

のである。これが本当の救いであり、彼女のいう救いの道は偽物であり、本物が必要であった。

B.神に祈る

   女奴隷の主人たちはパウロたちを逆恨みして、結果としてパウロたちは鞭打たれ牢屋に入れら

れてしまった。しかし、パウロたちは息消沈するどころか、神に祈りつつ賛美していたという。

どのような時にも神様との交わりをもつことができる。祈りと賛美は救いの道において必須。

Ⅲ・「主イエスを信じること」

A.神のみわざを体験する

   パウロたちが祈り賛美をしているとき、大地震が起こった。看守はパウロたちがこのタイミン

グで逃げてしまったと思ったが、彼らはまだそこにいた。看守はパウロたちの前にひれ伏した

とある。看守はこの不思議な神様のみわざを通してこれまでの人生を変える決心へと導かれた。

B.心から喜んだ

   この家の家長であった看守が救われたとき、家族も救いへと導かれた。主イエスを信じること

のできた人生には喜びがある。様々な不安が人生にはつきまとう。だから占いや気休めのお守

りなどを求めるが、そこに本当の幸せ、喜びはない。本物は主イエスを信じた時に与えられる。

結論:私たちの人生を取り巻く様々な不安、恐れ。それを取り除こうと必死に占いをしたり、自分だけの幸福を求めたりする。しかし、それは罪に罪を重ねるだけで本当の救いにはならない。本当の救いはそうした偽物ではなく、本当の幸せ、喜びを与えてくれる神様との出会いが必要である。そしてそれまでの自分の間違った生き方を捨てて、主イエスを信じることが大切。自分の力で救いを獲得することはできない。しかし、イエス様が十字架にかかってくださったことで、それが可能となった。この十字架を受け入れ、主イエスを信じる時、私たちは本当に救われて、喜びと感謝に満ち溢れた幸いなる人生を送ることができる。


# by ontheway-chapel | 2020-02-18 11:02 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「迫害からの脱却」

     A.教会を襲った迫害

      初代教会は困難の連続であった。人種差別の問題、大飢饉の問題を切り抜けてきた教会に、今

度はユダヤ教、国からの迫害が襲ってきた。いつの時代も様々な形で困難が襲ってくる。残念

ながらそれらから完全に抜け出すことはできない。では困難にどう立ち向かったらいいのか?

B.ヘロデ王からの迫害

      ヘロデ王は純粋なユダヤ人ではなかったが、国を支配するうえで急速に勢いをつけてきたキリ

スト教に対して、ユダヤ教徒を取り込むことで打開しようとした。12使徒を傷つけることが

ユダヤ人に気に入られると分かった時ペテロを捕らえた。キリスト教徒は何をしたか?

Ⅱ・「熱心に祈る」

  A.教会の祈り

   新しくできた生まれたばかりの教会にとって国家権力との戦いは、普通に考えたら圧倒的不利

な戦いである。それは強力な軍事力VS教会の霊の武具力の戦いである。しかし勝利したのは

教会であった。これ驚くべきことである。その勝利の秘訣は教会による熱心な祈りであった。

B.もっとも弱い者が強くなる

   跪き、両手を合わせ、こうべを垂れて祈る姿は、自分のできることはもう何もなく、ただ全能

なるお方の助けを求めるだけの弱い姿である。しかし、弱さを認め、全能なる神、復活のイエ

ス、真理の御霊にすべてをゆだねるとき、もっとも弱い人がもっとも強い者に変えられる。

Ⅲ・「祈りの結果」

  A.平安をもたらす祈り

   過ぎ越しの祭りにおいてペテロがいよいよ明日、引き渡されるという夜、ペテロは寝ていたと

いう。死を目前にしてぐっすり眠れるということは、なかなか信じがたいがペテロは眠ること

ができた。すべてを主にゆだねることができるならば、死をも乗り越える平安が与えられる。

   

B.不可能を可能にする祈り

   普通に考えたらヤコブに続きペテロも死から逃げることは不可能であった。しかし、教会の祈

りに応える神は御使いをもってペテロを救い出した。すべての災いは熱心な祈りによって神の

助けの中で脱却することができる。不可能を可能にする熱心な祈りを私たちも実践しよう。

結論:思いがけないピンチ、とんでもない試練は誰にもやってくる。そのとき慌てふためいてさらに試みだされていくのか、自分の力で何とかしようとして力尽きるのか。私たちはそうではなく、万軍の主に熱心に祈るという方法をもって解決の道を求めていきたいと思う。神様は教会の熱心な祈りを聞いてくださり、応えてくださるお方。どんなに不可能と思えることであっても、神様は可能にする力を持っておられる。私たちはこの祈りによって平安が与えられ、ただ安らぐだけではなく、そこからさらに前に進む力も与えられる。新しい年、熱心な祈りをもって前進するお互いとさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2020-01-09 18:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪を避けること」

     A.パウロの主張

      パウロはここでコリントの中にあった肉体は悪であり大切なのは魂、霊であるのだから、肉体

などどうでもいいという考えから派生する欲望に対しての崩壊的な発想に対して、警鐘を鳴ら

していることがこの個所における多きなポイントとなっている。本当に大切なのは何か?

B.人間的な弱さと向き合う

      ギリシヤ的な思想とパウロの教えを誤って捉えた新しい教えがコリント教会に広がる中で、パ

ウロは罪に対する私たちの姿勢を明らかにした。それは罪を避けることである。キリスト者は

自由であるが何をしてもいいという自由ではなく罪を犯さない自由が与えられ得ているのだ。

Ⅱ・「買い取られる必要があった」

A.からだに対する罪

   なぜ不品行を避ける必要があるのか?人はキリストと一体となるために創造された。聖書に性

交は二人を一つとするとある。(創世記2章)しかしそのように創造された私たちのからだが、

不品行を通してキリストではなく他の者と一体になるならば、それは避けるべきことである。

B.聖霊の宮として

   神の御霊が私たちのうちに住まわれるのだから、私たちのからだは聖霊の宮であるとパウロは

言う。ならば私たちのからだは聖なるものである。だから決して私たちの肉体は悪ではない。

と同時に、代価を払って買い取られたものなのだから、自分勝手に用いてはいけないのだ。

Ⅲ・「神の栄光を現すため」

A.自分の好きなように生きる

   「自分の人生、自分の体、どうしようが自分の勝手である」という人がいる。果たして本当だ

ろうか?それが真の生きる目的となり得るのだろうか?それは世的な習慣、己の欲望に屈服し

ているに過ぎない。欲望や世俗の奴隷になるために私たちの人生があるのではない。

B.生きる目的

   では、私たちの生きる目的はどこにあるのか?私たちがキリストによって代価を払って買い取

られた存在であるならば、私たちはキリストのものである。であるならばキリストが願う生き

方をすること、つまり神の栄光を現す生き方こそが、私たちに与えられた生きる目的である。

結論:生きる目的が神の栄光を現すためである。私たちはキリストに買いとられたのだから、キリストのものであるというと、そこに自由はないと反論が出てくるだろう。確かにこの世に目を向けているならば、そのように人生を惜しむかもしれない。しかし、それは実はこの世に縛られた生き方を求めているに過ぎない。そこに本当の自由はない。しかし、キリストにある生き方には自由がある。罪という束縛、この世という束縛から解放されている。一見不自由に見えるかもしれないが、実はキリスト者ほど自由人はいない。そこに正しく焦点を当てることができた時、私たちはそのような恵みを与えて下さった神の栄光を現す者として歩むことができるのではないだろうか。


# by ontheway-chapel | 2020-01-09 18:20 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「すべての人を照らす光」

     A.闇からの救いの光

      ヨハネはイエスのご降誕を前にすべての人を照らす光がもたらされる、と表現した。イエスの

誕生は誰か特定の人のためだけではなく、すべての人のためになされた出来事であった。しか

し多くの人は闇の中にいて、心を閉ざし、目を閉ざしていたため、この光を自分のための光と

して受け入れることができなかったが、神はすべての人のためにこの光を私たちに与えた。

B.神の栄光を見る

      ヨハネはこの方の栄光を見たと語っている。クリスマスの出来事を思い巡らす中で一つのキー

ワードがこの「見る」ということである。御使いは羊飼いに飼い葉おけにおられるみどりごを

見つけると語り、羊飼いたちはこの出来事を見て来ようと言った。シメオンは幼子を抱いてこ

の目で御救いを見たと喜んだ。私たちは今年のクリスマスに何を見ることができるだろうか。

Ⅱ・「恵みとまことをいただく」

A.恵みに次ぐ恵み

   ヨハネはキリストを受け入れたものの人生を「恵みの上にさらに恵みを受ける」と表現してい

る。しかしこれはこの世的な幸福を指してはいない。神がその時に最もふさわしい恵みを私た

ちに備えてくださることを指している。これ以上の幸いはない。律法は私たちの理想を示した

が、それだけでは幸せになれない本当の幸せを私たちにもたらしたのがイエスの誕生である。

B.イエスを知ることは神を見ること

   イエスがこの地上に来てくださったことによって、神ご自身を私たちに見せてくださった。イ

エスと出会い、イエスを信じ、イエスを受け入れることは神を見ることである。この肉眼で神

を直接見ることはできないが、イエス様を通して私たちは神の目撃者となることができる。そ

して、そこにあるすべての事に感動し、喜び、感謝に満ち溢れた歩みができるようになるのだ。

結論:クリスマス、イエス・キリストの誕生を祝うときに、私たちは何を祝うのか?何を喜ぶのか?答えは一つではないかもしれないが、私たちが神様を見ることができる者とされた。神の目撃者となることができた、ということも大きな喜びではないだろうか。神の栄光を見ることができたとき、私たちの人生は大きく変えられる。それまで見えていたもののすべてが、輝きを増し、味気ないと感じていた日々の何気ない時間が慈しみと恵みに満ち溢れていることに気づき、喜びに変えられていく。人生に不満を抱いていたり、先の見えない不安に恐れていたり、様々なしがらみ、関係に疲れていたところに、光が差し込み、勇気と希望を抱いて力強く前進することができる者と変えられていく。神の目撃者となった時、私たちの歩みは実に素晴らしいものとなる。この素晴らしい人生を送ることができるようになった、このクリスマスを共にお祝いしようではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「しるしを求める」

     A.ピンチに対する神の姿勢

  イザヤ書全体を通して神は、民に向かって信じるということを通して危機を乗り越えること

を求めた。それも穏やかに、静かにしてより頼む信仰を求めた。私たちも様々な危機が訪れ

るが、そう言う時こそ心穏やかに静まって祈り主の導きを求めたいと思う。

B.神に期待する

  神は全能なるお方であり、不可能なことは何もない。だからこそ、私たちは期待して神のみ

わざを待ちたい。しかし、つい自分の力で進もうとしてしまったり、待ち切れずに先走って

行動を起こしてしまったりしがちである。信じるということは忍耐を伴うことでもある。

Ⅱ・「しるしを与える」

A.報酬を与える神

    インマヌエルの約束は、自ら行動してしるしを求めるのではなく、信じてその時を待つこと

であった。神はただやみくもに私たちに信じろとはいわない。恵みと祝福の約束をもってお

られ、その約束を成就するからあなたがたは信じて従いなさいと求めるお方である。

B.超自然的なしるし

    処女がみごもるということは自然の摂理をはるかに越えた出来事である。それは神でなけれ

ばなされないこと。超自然的なしるしである。イスラエルの歴史を見ても超自然的なことが

何度もあった。それは神が世を愛し、人を愛しているからこそ成されたみわざであった。

Ⅲ・「成就したしるし」

A.救いをもたらすしるし

    このインマヌエル預言はイエス・キリストの誕生を指している。インマヌエルは「神がひと

と共におられる」という意味であるが、文字通りだけの単純なことではない。真の神と真の

人がこれ以上一緒にいることができないという形でお出でくださったことを意味している。

B.本当の敵を退けるしるし

    イザヤの預言は直接的にはユダを目の前の敵から救う預言として見ることができる。しかし

イエス・キリストとして見るならば、私たちの本当の敵であるサタンを退けるために来られ

た救い主として見るべきである。可能とするのは真の神であり真の人であるイエスである。

結論:インマヌエルというと私たちは単純に「神様が私たちといつも一緒にいてくださるのだな」と単純に受け取ってしまう傾向があるように思える、もちろんそれは正しい視点であるが、今年のクリスマスはインマヌエルの事実としてもう少し正しく受け取りたいと思う。真の神と真の人がナザレのイエスにおいて全く一つとなった。そしてこの地上に共においでくださった。だからインマヌエル預言の成就はイエス・キリスト以外においてありえないのである。そしてこのお方を信じ受け入れることによって私たちもまた、神と一緒にいることができる恵みが実現したのである。このイエス様のご降誕を共に祝える喜びをもって今秋を過ごし、来週のクリスマス礼拝に備えていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神のさばき」

     A.民の罪

      神は様々な要因をもってここでイスラエルにさばきをもたらそうとした。その背後にはイスラ

エルの民が求めた王制の限界があった。また、ダビデ自身も悪魔の誘惑、誘導によって神の命

令ではなく自身の意思によって本来あるべきではない形の人口調査をしてしまった。

     B.神のご計画

      このことを通して神は何をなさろうとされていたのか?罪に対するさばきにおいて、その責任

を一身に受けようとしたダビデの罪告白。あらゆる問題に対する最後の砦、唯一の希望が神以

外にないということを実体験すること、神の御名だけがほめたたえられるべきであること。

Ⅱ・「ダビデの姿勢」

  A.神の御手にゆだねる

   ダビデは神から与えられた3つの選択において、主の手に陥ること、主の憐みにすべてを委ね

ることを選択した。その結果、経済的格差も通じない、不公平のない一方的な神の御手が民に

下されることになった。ダビデはただ神の御手にゆだねる、そこにだけ最善があると選択した。

  B.王として

   ダビデは王として、自分の国の民を羊の群れと表現し、羊を守り自分に害が及ぶように願った。

ダビデは応答しての自覚、民を導くリーダーとしての自覚があった。大切な羊の群れを養うた

めには、自分の身を惜しみなくささげることのできるリーダーが必要。私たちのリーダーは?

Ⅲ・「イエス様の姿勢」

  A.神の御手にゆだねる

   私たちにとってのリーダー、私たちが羊であるならば牧者はイエス様である。そのイエス様は

私たちの罪とそれに対するさばきのために何をされたか?一切を神の御手にゆだね、ご自身を、

自らのいのちを神にささげた。ダビデはそれが許されず、イエス様だけがそれを果たした。

  B.救い主として

   このイエス様の姿勢によって私たちは罪赦され、永遠のいのちまでいただくことができた。私

たちはこの救い主に対して何ができるのか。それはダビデの生涯から教えられる。ダビデも弱

く罪を犯し、また数々の試練にあったが神にゆだね、信頼し礼拝した。これが成功の秘訣。

結論:ここまでダビデの生涯を見てきたが、確かに素晴らしい王として用いられた人物である。しかし、いつ神に見捨てられてもおかしくないような失敗もした。それでもダビデは真実の悔い改めをし、一切を神の御手にゆだねるという姿勢を貫くことができた。私たちもこのダビデにならって信仰生活を送りたい。その道を貫こうとするとき、私たちもまた大いなる祝福をいただくことができ、喜びの賛美を声高らかにささげることのできる者とされる。私たちも羊の群れであるが、しっかりと牧者であるイエス様から目を離さずに、これからも歩んでいこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:24 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「守る神」

     A.ダビデを守る神

      ダビデはサウルからの執拗な攻撃に絶え抜いた。その日々は想像を絶する苦労と痛みがあった。

しかし、ダビデは倒れず、屈することなく逃れ続けることができた。それはダビデが優秀であ

ったとか、周囲の者が強かったからだけではなく、何よりも神の守りがあったからである。

B.私たちを守る神

      ダビデが普通ならば耐え難い試練を乗り越えることができた背後に神の守りがあったのと同

じように、神は今も生きておられ、私たち信仰者にも耐えがたい試練があった時、共にいてく

ださり私たちを守ってくださり、私たちが倒れることなく屈することなく歩めるようにされる。

Ⅱ・「成長させる神」

  A.神によって強くある民

   多くの人は神への信仰は自分で困難をクリアできないような弱い人が支えとして求めるもの

であると考えるかもしれない。しかし神は私たちがいつまでも弱い者であることは望んでいな

い。神は私たちが成長していくこと、主にあって強められていくことを願っておられる。

B.力を与える神

   神は私たちから試練を完全に無くすとは約束されていない。しかし、私たちが試練に立ち向か

うために必要な知恵と力を与えて下さると約束してくださっている。だからこそいつも共にい

てくださり、私たちを教え、訓練し、試練に打ち勝てるよう力を与えて下さるのである。

Ⅲ・「ほめたたえられる神」

A.ダビデの賛歌

    ダビデはこの神の守り、成長させてくださることによって力強く歩める者とさせてくださっ

たことをおぼえ、主の御名をほめたたえる歌を歌った。これは誰かに頼まれてしたのでもな

ければ、自分の名声のためでもない。ただ心から賛美せずにはいられなかったのである。

B.私たちの賛美

    私たちの日々を振り返ってみよう。どれほどの神様からの恵みをいただいているだろうか。

試練もあるが、しかしそこにある神の守り、力、恵みは計り知れない。それによって私たち

もまたキリスト者として成長させていただいている。心から感謝、賛美をささげよう!

結論:ダビデがこの歌を賛美した時、それはサウルの手から救われた時であり、ダビデが生涯を振り返りながら平安の内に神様の恵みを改めて覚えたときであった。私たちも日々の喧騒に追われていたら、なかなか神様への感謝、賛美をささげようと思えないかもしれない。しかし、静まって、改めて神様に思いを向けてみよう。数え切れない恵み、恩寵を思うとき、私たちは心から喜び、感謝の賛美をささげることができる。神様は私たちを守ってくださる方であり、ただ守るだけではなく、そうした中で成長させてくださるお方である。だから私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日、神様への感謝が増してくる。喜びが増す。人生における幸いを実感できる。その思いが、自然と私たちを喜びと感謝の賛美へと掻き立てていくのではないだろうか。


# by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:22 | Comments(0)