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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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2月25日「託された責任」マタイの福音書5:10~16

本論:Ⅰ・「苦しむ者の幸い」

  1. 厳しい現実

    私たちを取り囲む現実に目を向けるとき、当時の迫害と比べたら殉教とは違うが家族に、友人に信仰を告白し、救いへと導くことの難しさにおいては、かなり厳しい道を通らされる。時に家族を失い、友人を失うこともある。しかしそれは義への道であり、栄光への道である。

  2. 報いは大きい

    厳しい現実の中にあって、私たちには希望がある。迫害は嘆き、悲しみではなく、喜びへとつながっていく。なぜならばその先には栄光の義の冠が待っている。地上においては敗北者のように感じるかもしれないが、天における報いは大きく、そこにこそ本当の価値がある。

Ⅱ・「祝福に伴う責任」

  1. 地の塩である責任

    イエスの時代の人々にとって塩とは「純潔」を連想させるものであった。また、塩は「防腐剤」という役割もあった。そして最大の特質として「味を付ける」という特色があった。私たちは世の人たちに対してこのような存在として生きる責任が与えられている。

  2. 世の光である責任

    光としての役割には「人に見られる」というものがある。また「光は人を導く」役割がある。さらに「光は警告をする」私たちがこのような存在として世に輝く者であるようにという責任がイエス様から託されている。この世のいついかなる時も光を放つ存在でありたい。

Ⅲ・「父があがめられるように」

  1. 父と子の関係

    マタイの福音書の中で初めて神を父として表現しているのがこの箇所。父と子どもの関係は実に親密である。子どもは父親に全幅の信頼をもって接する。素直に感謝する。私たちと神様の関係もそうでありたい。自分の喜びを父が一緒に喜んでくれると信じる幼子でありたい。

  2. すべては父のために

    D.L.ムーディーはかつて徹夜祈祷会が終わった学生たちに「僕たちの顔輝いているでしょう」と言われたとき「モーセは自分の顔が輝いていることを知らなかった」と伝えた。私たちはつい自分を誇ってしまうが、すべて神がなしてくださったと確信して生きていきたい。

結論:私たちの全ての基準が神様に向けられるならば、イエス様をお手本としてイエス様のように生きようとするならば、この地上における様々な苦しみも、喜びへと変えられていく。そのように生きるとき、私たちへの報いは大きな祝福となる。そのためにも祝福に伴う責任を果たしていきたい。地の塩として世の光として生きるとき、私たちは託された責任を果たすことができる。そしてそれらすべては自分のためのように思えても神様のためであることを忘れないようにしたい。自分がほめられ認められるのではなく、父なる神が、イエス様があがめられるためにすべてのことを成していきたい。


by ontheway-chapel | 2018-02-27 10:10 | Comments(0)

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