5月20日「父ちゃんと呼べる神」ローマ8:12~25
本論:Ⅰ・「果たすべき責任」
A.肉に従うこと
キリストの十字架によって救われ解放された私たちだからと言って、なんでも好き勝手にし
ていいわけではない。責任が与えられた。それは禁欲主義のように聞こえるかもしれないが、
私たちの内にある御霊を自由に働かせることであり、苦しみよりも喜びが勝るものである。
B.聖霊の火を通す
責任を果たすために、私たちの内に働く聖霊が、外側化入ってくるあらゆる欲や情に対して
勝利してくださる。旧約の時代には神へのささげものは生ではなく、完全に火を通して昇っ
ていく煙だけが受け入れられた。私たちの生き方も、聖霊の火を通したものでありたい。
Ⅱ・「神の子の確認」
A.御霊に導かれる
神の子とされるという事実をあやふやに感じることがあるかもしれない。とても不安に感じ
る。そういう時、私たちは御霊に導かれる、という受け身、主導権をすべて主に預けるとい
うことが大切となってくる。神の御霊が私たちを神の子にしてくださるから。
B.アバと呼べる神
神様とごく親しい関係になるためには、まず自分自身が神の前に砕かれ、主の愛によって罪
赦されるという関係に立ち返ることが必要。表面上ではない、魂の底からの関係がばれたと
き、御霊によって私たちは神を「アバ」と、日本的にはお父ちゃんと呼べる者とされる。
Ⅲ・「苦難の先にある恵み」
A.神の子とされる前
私たちが教会に行くきっかけ、神様を求めるきっかけは何だろうか?自分自身の問題、周り
の問題、世の中の問題と向き合う中で、様々な苦難を通り、悩み、うめいているところに、
点におられるお方がその声のところにまで降りてきて、恩寵によって救ってくださる。
B.神の子とされた後
クリスチャンになっても不自由さをおぼえることがあるかもしれない。神の子とされ神の家
族とされたが、しかし肉的にはまだこの地上にいて、栄光までの中間地点にいる状態。しか
し、先にある希望を確かに握っている。苦難の先にある希望に期待して歩む者とされたい。
結論:聖霊という目に見えないものの働きは、私たちにとってなかなかつかみにくい、実感しにくいものかもしれない。しかし、私たちの内にあって働いてくださり、私たちがクリスチャンとしてこの地上に生きるとき、果たすべき責任を全うさせてくださる。この御霊を自由に存分に働かすことができた時、私たちは心から神の子とされた恵みを実感することができ、より深い神との関係に導かれ、天の神をお父ちゃんと呼ぶほどに親しく、そして全幅の信頼をもって身をゆだねていくことができる。一方でこの世の現実の世界に生きる私たちは、御霊の導きをいただきながらも様々な苦難に遭遇する。しかし、私たちにはその先にある希望がある。御霊によって私たちはこの先にある恩寵を知ることができ、確かなものであると確信することができる。この希望を握って歩んでいこう。