11月25日「枯れたいちじくの木」マルコ11:20~25
本論:Ⅰ・「呪われたいちじくの木」
A.解読が難しい
この箇所は非常に難解であり、私たちの常識に照らし合わせて読むと、理解不能である。まず
イエス様が非常に怒りっぽいというか、自分の都合によってそのみわざをなしたことである。
どのような誘惑にあっても、十字架を前にしても自分の都合で奇蹟をなさらなかった。
B.時期的にも理解不能
この時期は過ぎ越しの季節であり、季節としては4月中旬であっただろうと思われる。しかし
いちじくの木が実をつけるのは、5月後半から6月であると言われている。いちじくの実がな
らなくておかしくないのに、イエスはそれに対して怒り呪われたことになる。なぜ???
Ⅱ・「山をも動かす信仰」
A.弟子たちの反応
弟子たちはイエスが呪われた木が枯れているのを見て驚いた。しかしイエスはそれに対して、
「神を信じなさい」と伝え、祈りの法則について教えられた。それは時代を超えて私たちに祈
りの素晴らしさを伝えてくれる。山をも動かすお方への信仰の祈りを実践していきたい。
B.主に期待する
主に不可能な過去とは何一つない。しかし主の御心こそが第一であり、最善である。私たちの
祈りは期待に満ちたものであるかもしれないが、それは自分への期待ではなく、主の最善がな
されることへの期待を失わないように注意したい。主の最善こそが私たちの最善である。
Ⅲ・「イエスを受け入れなければ枯れてしまう」
A.イスラエルへの警告
イエスが到来した時、救い主を待ち望んでいたはずの神に選ばれしイスラエルの民は、それを
受け入れることができなかった。いちじくの木はイエスがそこにやってきたとき、実を結ばな
かった。そして枯れてしまった。私たちもイエスを受け入れるチャンスを活かしたい。
B.実を結ぶ歩みへと
いちじくの木は我々の常識に沿って、イエスの到来を前にしても実を結ぶことができなかった。
私たちはいつ、イエス様が到来してもよいように、いつも実を結ぶために備えている必要があ
る。自分の都合、常識ではなくイエス様に合わせた生き方こそが、実を結ぶ生き方となるのだ。
結論:私たちの生活はこの世を中心に回っているかもしれない。もちろん、この地上に生きている以上、それは当然のことである。しかし、私たちは時にこの世のすべての常識を覆してでも、世に逆らい、世を離れて、イエス様をお迎えし、実を結ぶ準備を怠ってはならない。そして、その時が来たとき、いつでも応答できるように備えていたい。イエス様はそのために必要なこととして神を信じなさい、と言われた。そして祈りの大切さを教えられた。日々の祈りを通して、主の最善こそが私の最善であると信じ、期待して祈り続ける歩みをして生きたい。そのような歩みをしているならば、私たちは決して枯れることがない。