12月29日「生きる目的」Ⅰコリント6:18~20
本論:Ⅰ・「罪を避けること」
A.パウロの主張
パウロはここでコリントの中にあった肉体は悪であり大切なのは魂、霊であるのだから、肉体
などどうでもいいという考えから派生する欲望に対しての崩壊的な発想に対して、警鐘を鳴ら
していることがこの個所における多きなポイントとなっている。本当に大切なのは何か?
B.人間的な弱さと向き合う
ギリシヤ的な思想とパウロの教えを誤って捉えた新しい教えがコリント教会に広がる中で、パ
ウロは罪に対する私たちの姿勢を明らかにした。それは罪を避けることである。キリスト者は
自由であるが何をしてもいいという自由ではなく罪を犯さない自由が与えられ得ているのだ。
Ⅱ・「買い取られる必要があった」
A.からだに対する罪
なぜ不品行を避ける必要があるのか?人はキリストと一体となるために創造された。聖書に性
交は二人を一つとするとある。(創世記2章)しかしそのように創造された私たちのからだが、
不品行を通してキリストではなく他の者と一体になるならば、それは避けるべきことである。
B.聖霊の宮として
神の御霊が私たちのうちに住まわれるのだから、私たちのからだは聖霊の宮であるとパウロは
言う。ならば私たちのからだは聖なるものである。だから決して私たちの肉体は悪ではない。
と同時に、代価を払って買い取られたものなのだから、自分勝手に用いてはいけないのだ。
Ⅲ・「神の栄光を現すため」
A.自分の好きなように生きる
「自分の人生、自分の体、どうしようが自分の勝手である」という人がいる。果たして本当だ
ろうか?それが真の生きる目的となり得るのだろうか?それは世的な習慣、己の欲望に屈服し
ているに過ぎない。欲望や世俗の奴隷になるために私たちの人生があるのではない。
B.生きる目的
では、私たちの生きる目的はどこにあるのか?私たちがキリストによって代価を払って買い取
られた存在であるならば、私たちはキリストのものである。であるならばキリストが願う生き
方をすること、つまり神の栄光を現す生き方こそが、私たちに与えられた生きる目的である。
結論:生きる目的が神の栄光を現すためである。私たちはキリストに買いとられたのだから、キリストのものであるというと、そこに自由はないと反論が出てくるだろう。確かにこの世に目を向けているならば、そのように人生を惜しむかもしれない。しかし、それは実はこの世に縛られた生き方を求めているに過ぎない。そこに本当の自由はない。しかし、キリストにある生き方には自由がある。罪という束縛、この世という束縛から解放されている。一見不自由に見えるかもしれないが、実はキリスト者ほど自由人はいない。そこに正しく焦点を当てることができた時、私たちはそのような恵みを与えて下さった神の栄光を現す者として歩むことができるのではないだろうか。