1月19日「素直に受け入れる」使徒17:10~15
本論:Ⅰ・「ベレヤに到着したパウロ」
A.テサロニケから追い出された
パウロはテサロニケにおいて3週間で教会が建て上げられるほどに、その働きは祝された。し
かし同時に、その働きを良く思わないユダヤ人たちは妬みに駆られて迫害した。パウロはその
結果、テサロニケから出て行くことになってしまったが、ベレヤでの宣教の始まりとなった。
B.パウロたちを受け入れた
ベレヤの人たちはパウロを受け入れた。会堂でパウロの語る教えを受け入れた。その反応はテ
サロニケ以上に良いものであった。迫害に会うという苦しみのなかで、しかし神はパウロに新
しい宣教の場を備えておられた。神と歩む人生において苦しみは苦しみで終わることはない。
Ⅱ・「みことばに親しむ姿勢」
A.みことばに対して心開かれていた
ベレヤの人たちは良い人であったという。これは素直、寛大、開かれた心とも訳せる。ベレヤ
の人たちはパウロが語るみことばに対して「心開かれていた」と言える。聖書のみことばはあ
る人には救いの言葉となるが、心閉ざされている人には単なるストーリーで終わってしまう。
B.みことばに対して熱心であった
ベレヤの人たちはみことばに対して熱心であり、毎日聖書を調べていたという。心開かれてみ
ことばを受け入れるだけではなく、それを熱心に獲得しようとしていた。みことばに対する熱
心さ、探求する姿勢が大切である。神の語りかけとしてその意味を深く味わいたい。
Ⅲ・「みことばから実践へ」
A.みことばにとどまる
残念ながらテサロニケでパウロたちを迫害したユダヤ人がベレヤにまで押しかけてきた。今回、
パウロだけが逃れ、シラスとテモテは現地にとどまったとある。ベレヤの人たちがみことばを
もっと深く理解し、みことばにしっかりととどまり、成長するために、彼らが必要であった。
B.みことばに生きる
みことばに親しむならば、私たちは単に知識においてだけ成長するのではない。イエスがそう
であったように、その愛に触れて実践する者へと変えられていく。ベレヤの人たちはパウロを
逃すためアテネまで付添った。自分たちが攻撃されるかもしれない中、愛を貫くことができた。
結論:私たちの信仰生活は必ずしも自分の思い願う通りに行くとは限らない。様々な試練が襲ってくる。しかし神はそれらを通して、私たちに何かを教えようとしている。つまり私たちをより良い人生へと導こうとされている。だから私たちは試練の先にある神の祝福を信じ、神の守りの中でそれらを乗り越えたい。パウロは迫害の先でベレヤの人たちと出会った。彼らはみことばに対して心開かれており、熱心であった。大切な姿勢である。しかもみことばにとどまることを求め、みことばに生きることを実践した。それは熱心さによって培われた信仰であり行いであった。私たちの信仰はどうであろうか?神様は私たちに何を願っているか?みことばに対して心開かれているか?熱心であるか?それは自己満足で終わらず、実践し合いのある信仰生活へと結びついているか?この朝、振り返ってみよう。