聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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カテゴリ:未分類( 68 )

本論:Ⅰ・「郷里から驚かれたイエス様」

     A.会堂で教えを聞いた

      イエス様は郷里に戻り、そこで安息日に会堂で教え始めた。イエス様の教えを聞いた人たちは

驚いたという。おそらくこれまでに聞いたことのないような、深い知識と洞察に満ちた教えを

語られたことだろう。人々はその教えを確かに聞き、驚いたが、それ以上ではなかった。

B.力あるわざを見た

      郷里の人たちは、イエス様がなさったみわざを直接見た。少数の病人を癒したと書かれている

が、何ひとつ力あるわざを行わなかったとも書かれている。みわざを見たり、教えを直接聞い

たりしても、人々の心は閉ざされたままであった。何が心を閉ざしていたのか?

     

Ⅱ・「郷里で尊敬されないイエス様」

A.大工ではないか

   人々の心を閉ざしていたのは、イエスは大工であるという視点であった。郷里の人たちにとっ

てイエスは独りの人であり、いち労働者でしかなかった。彼らの目は本当の意味で開かれては

いなかった。外見だけをみて、本質を見ることなしに物事を判断してしまわないようにしたい。

B.マリヤの子ではないか

   イエスは30歳になるまで郷里で生活をし、家族を支える働きをしていた。郷里の人たちにと

ってイエスはそれだけ身近な存在でもあり、それだけの存在であった。近すぎて、その素晴ら

しさを見つけることができなかった。家族伝道の難しさをここからも教えられる。

Ⅲ・「不信仰を打破する」

A.不信仰の現実

   イエスの家族はイエスが身近すぎて、先入観もあってイエス様の本当の姿を見ることができな

かった。目の前にイエス様がいても、そこで何を見聞きしても心が閉ざされていては信じ受け

入れることができない。癒しを拒む者に医者は何もできない。これが不信仰である。

B.使命に生きる

   決して諦める必要はない。イエスは郷里から離れて救われる魂を求めに出て行った。それは神

の使命に生きる姿である。私たちもその時できることに一生懸命でいたい。その先に神の時に

かなって美しい働きがある。諦めず、イエスの働きを助ける歩みをしていこうではないか。

結論:私たちはイエス・キリストの働きに参画し助けることができる一方で、その働きを拒否し妨げることもできるという、大きな責任を負っている。人々の心の扉を開き、不信仰を打破し、一人でも多くの人をイエス様の元へ届けたい。最も身近な家族は、それゆえに難しさをおぼえるかもしれない。イエス様でさえ苦労し、驚かれた。しかし、イエスの弟はやがて救われ素晴らしい働きをした。諦めず、神様から託された使命に生きるお互いでありたい。神は時にかなって、ふさわしい方法で私たちの祈りを聞かれ、家族を救いへと導いて下さることに期待していこう。


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by ontheway-chapel | 2018-11-14 16:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「初穂となられたキリスト」

     A.復活の初穂

      パウロはキリストの復活がなかったら、すべてがむなしいと言った。しかし、実際にはキリス

トはよみがえられたという事実に着目していく。キリストの復活が、キリストに連なる民を導

き、復活の恵みが私たちに確かな約束となって与えられた。キリストの復活が道を開いた。

B.アダムの死から

      多くの人は死を恐れる。なぜならば、その先がわからないから。あの世という漠然とした表現

でそこに行けると何となく期待している。死はすべての人にある。しかし、キリスト者は死の

先にある確かな天の御国を見ることができ、永遠の希望に満ちた死を迎えることができる。

Ⅱ・「終わりが来る」

A.この世の支配の終わり

   私たちは何に支配されているだろうか?この世の価値観、この世の権威…しかし、それらはや

がての日には全く意味をなさなくなるという。なぜならば、この世のすべてを支配されている

お方がおられ、その支配の内に滅ぼされていくから。目に見えない方の権威に従うことが大切。

B.キリストの支配

   聖書には「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置く」とある。そしてその支配は、

死をも支配する。つまり、私たちにとっての恐怖である死をも完全に支配され、死に勝利され

るという。たとえ今、キリストの教えに逆行するものが支配しているように思えても。

Ⅲ・「万物の支配者」

A.すべて神のもとにある

   万物がキリストのもとにある。「神が、すべてにおいてすべてとなられる」と聖書にある。神が

全宇宙の支配者であるという。この事実とキリストの復活が、私たちの最大の恐れである死を

飲み込むほどの力となって、私たちをも勝利へと導かれる。万物を支配する神に従いたい。

B.私たちもこの恵みに与る

   万物を支配されるほどのお方は、私たちを愛しておられる。死に飲み込まれ滅んでいくことを

見過ごされなかった。神の愛と憐みの恵みの内にあって初穂となられたキリストに次いで、天

の御国に行くことが約束されている。だから、死んでも生きる。天国でみんな再会できる。

結論:天国にどうしたら行くことができるか?イエス様の十字架の贖いの死を信じること。そして死からよみがえられた復活のイエス様を信じ受け入れること。神様が私たちに天国行きのチケットを渡す時に、確認することである。これさえあれば、間違いなく天の御国へ行くことができる。そして先に召された方々は、このチケットをいただいて、天の御国へと旅立った。私たちもいつの日か、そこに行くことができる。そしてもうこの地上では会うことができないが、天の御国において再会し、永遠のいのちが与えられた中で、共に喜び、感謝に満ち溢れて主を賛美することができる。


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by ontheway-chapel | 2018-10-31 17:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪を認める祈り」

     A.私の主と呼べる関係

       クリスチャンは神に向かって私たちの父なる神様、主と呼べる神に向かって祈ることができ

る。それは神が愛と憐みに富み、寛容な心で私たちとの関係を持ってくださるから。ごく親

しい親密な関係でい続けてくださるゆえに、身近に神を感じて祈ることができる。

B.とりなしの祈り

       ダニエルは「私たち」と自分を含めたイスラエル民族の罪を告白している。これはイスラエ

ル民族のためのとりなしの祈りともいえる。自分は正しいから、ではなく、最も正しく歩ん

でいる者でさえ、誰よりも罪を認めて神の許しを求めて祈っている姿に教えられる。

Ⅱ・「神の憐みを求める祈り」

A.憐れみと赦しは神のもの

    ダニエルは真実に罪を認めて、悔い改めつつも、不信の罪による神のさばきの正当性を認め

た。すべての主権が神にあることをダニエルは知っていた。そのなかで現状からの救いを必

死に祈りつつ、罪の赦しを神の憐みにすがるしかないことを認めて神に求めた。

B.神の時を見定める

    ダニエルはすべて神の支配の内に行われていることを確信していた。だから、イスラエルの

罪に対しても、わざわいを下されたのがこの時であると受け止めることができた。自分本位

で罪の赦しを請うのではなく、さばきも赦しも神の時にあることを私たちも受け入れたい。

Ⅲ・「神に訴える祈り」

A.必死なる祈り

    かつてイスラエルはエジプトから救い出されたように、今度も神の愛と憐みの中で私たちを

救い出してくださいと懇願した。今やイスラエルは崩壊寸前であった。今こそ、主ご自身の

ために御顔の光を輝かせてください、とダニエルは神の祝福と顧みを必死に祈った。

B.心からの訴え

    ダニエルはこの祈りの目的が自分たちの正しさによって自分たちの祈りを聞いてください

と訴えているのではなく、自分たちはと覆い隠すことのできないほどの罪を犯している事実

を認め、ただあなたの大いなるあわれみによってのみ、赦しを訴えている。

結論:私たちも日々祈ることができる。その祈りをそれぞれに振り返ってみよう。自分の願うことばかり訴える一方通行の祈りになってはいないだろうか?神は私たちの訴えを聞いてくださるお方であると同時に、語りかけてくださる神でもあり、時にかなって実行してくださる神でもある。神からの語りかけをしっかり聞く祈りをしようではないか。その真実のやり取りの中で、自らの罪を認め、憐れみと赦しを慕い求め、切なる訴えをしていくダニエルのような祈りをしていきたい。神は私たちの祈りを聞いてくださり、語りかけてくださる。私たちも聞き、その導きを信じ、委ねていこう。


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by ontheway-chapel | 2018-10-22 09:53 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の芸術作品」

    A.この世のすべては神の芸術作品

      聖書は「初めに、神が天と地を創造した」とある。この世のすべては神が造った作品である。

そして聖書は「神である主は土地のちりで人を形造」ったと記している。人もまた神の造られ

た作品である。つまり、私たちも大切な神の作品であり「高価で尊い」存在であり、その作品

の構造をのすべてを知れば知るほどに素晴らしい、唯一無二の芸術的な存在である。

B.この作品を大切に

      神はご自身の造られた最高傑作である人間を大切にしている。作品が朽ちて、滅びてしまわな

いように、永遠にその輝きを保てるようにと、イエス・キリストをこの地上に送り、人類を救

おうとされた。神はご自身が造られた人間を愛しておられる。その御子の命と引き換えにして

もである。イエスは私たち人間が救われ、永遠の祝福の実を結ぶために必要なことを説いた。

   Ⅱ・「収穫の秋に」

    A.みことばの種を蒔く

      イエスは蒔かれた種が祝されるために、良い地にみことばの種を蒔く必要を語られた。イエス

4つの地を譬え、種を蒔くことの難しさ、タイミングの重要さ、そして実を結ぶに至ること

の難しさを説いた。それは私たちのかつての頑なな心、無関心の状態であったかもしれないし、

伝道した相手の心の状態かもしれない。

B.収穫は確実にある

      イエスがこの譬えを語った中で、はっきりと語っていることは、確かに蒔かれた種の一部は実

を結ばなかったという事実である。しかし、同時にすばらしい収穫があったという事実がある

ということでもある。私たちが伝道するとき、その多くは失望に終わってしまうかもしれない

が、神は必ず収穫の恵みを備えておられる。忍耐を持って種を蒔こう。収穫は神が成すから。

結論:私たちが伝道しようとしている人たち、まだ神の救いの恵みを知らない人たち、イエス・キリストを受け入れようとしていない人たちはたくさんいる。毎日顔を合わせている家族の中にもいるかもしれない。なかなか思うように伝道ができない。福音を伝えても何ら関心を示さない。それどころか拒絶されたり、変な顔をされたりするかもしれない。しかし、イエスはすべての蒔かれた種がそのような失望に終わらないことを約束している。その実りの収穫は30倍にも、60倍にも、100倍にもなるという。イエス・キリストは私たちに行動することを促している。みことばの種を蒔くことを願っておられる。神の芸術作品を滅ぼすことなく、収穫にむけてできることをしていこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:49 | Comments(0)

主題:神の守りは私たちの想像をこえた力をもってなされる。神の主権は永遠であり、私達にも適用される。

本論:Ⅰ・「思いがけない攻撃」

     A.王の取り巻きによる陰謀

      ダリヨス王はダニエルを寵愛していた。それに嫉妬した周囲の者たちはダニエルを陥れるため

に策をめぐらした。何の欠点も見いだせないなか、彼らはダニエルの忠実かつ熱心な信仰を攻

撃することにした。王様以外にいかなる神をも礼拝してはならないというものであった。

B.攻撃に対するダニエル

      ダニエルはそのような禁令が出されたことを知りつつも、いつものように神の前に祈りをささ

げた。ダニエルは決して妥協しなかった。自分が罰せられることを知りつつも、王様よりも、

神様を第一とする生活を変えることはなかった。何があっても揺るがない信仰を身につけたい。

Ⅱ・「勢いを増す攻撃」

A.ダニエルを訴える

   ダニエルを訴えようとしている者たちは、自分たちの計画通り忠実な信仰を持ち続けたダニエ

ルを訴えることに成功した。ここだけみると忠実な者が悪に屈しているかのように思える。い

つの時代も忠実ゆえに周囲から受け入れられず困難をおぼえることがあるかもしれない。

B.王様の心の内

   王様はダニエルを信頼し、彼の信仰の素晴らしさを見てきた。王様の心はダニエルを救いたい

と思っていた。王様ではなく神を第一としていたダニエルであったが、信仰によって王様の心

が変えられつつあった。地の塩、世の光として生きる者への大きな希望、励ましとなる。

Ⅲ・「神による助け」

A.ダニエルを守られる神

   かつてダニエルの仲間3人が燃え盛る炎の中から無事に救い出された。そのことを王が知って

いたかわからないが、ダニエルの信じる神が彼を救ってくれるのではないかと期待した。ダニ

エルはいつもと変わらず王様に丁寧なあいさつをした。王はダニエルの無実を喜んで認めた。

B.私たちを守られる神

   ダニエルを訴えた者たちが逆に処刑された。一見勝利を手にしたかに見えたが、神は神を利用

して悪事を働く者ではなく、神に信頼し共に歩む者を救われた。いつの時代も変わらない事実。

神の主権は永遠に続く。私たちは恐れることなく、神に信頼し続ける信仰をもって歩みたい。

結論:幾多の攻撃、試練が私たちを襲ってくる。人間的に見たら逃げられない、あきらめてしまう、絶望してしまうように感じることもある。しかし、うろたえることなく、いつもと変わらず神を信頼し、神とともに歩むことを選択したい。周囲から見たら愚かで負け組のように見えるかもしれない。自分でもそう感じるかもしれない。しかし、最後には主の守りの中、永遠の主権の中で私たちは勝利へと導かれる。妥協して一時的な勝利ではなく、信仰を貫いて永遠の勝利を目指していこうではないか。その主権は永遠であり、私たちを救い出し、私たちを永遠の勝利へと誘う主に期待して歩ませていただこう。


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by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:47 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の憐みの中で」

     A.憐れみとは

      憐れみとはラテン語で「惨めさ、悲惨」と「心」という二つの言葉で構成されている。ヘブル

語では「内臓」を意味する。他人の苦しみや悲しみを、自分の心の中で深く感じること、母親

がお腹を痛め子どもに対する愛のようなものが憐れみであるという。神の憐みはそれ以上。

B.憐れみを信じる

      神の憐みはすべての人に向けられている。イエス様は苦しみ人や悲しむ人を見て、深く心を動

かされ、まさに内臓に至るほどの深いところで激しい痛みを感じられる。そして、深い憐れみ

をもって私たちに接してくださり、決して見捨てることなく守ってくださるのだ。

Ⅱ・「ダニエルたちを守られた神」

  A.とんでもない試練

   ダニエル達は燃えさかる炉に投げ込まれることになった。しかし、そこから神は必ず救い出し

てくださるとダニエル達は確信していた。どのような試練にあっても決して負けない。なぜな

ら主が共におられ、私たちを守ってくださるからだという信仰がダニエル達を支えた。

B.共におられる主

   ダニエル達は実際に火の中に投げ込まれた。しかし、王はそこに4人の存在を見た。そこには

主が共におられた。私たちの信仰は単なる迷信でも希望的観測でもない。真実である。私たち

は様々なことを心配するが、その先に主の守りがあることを決して忘れないようにしたい。

Ⅲ・「私たちを守り導かれる神」

A.教団を守られる神

   今年で65周年を迎える東京フリー・メソジスト教団の歩みも、決して順風満帆ではなかった。

様々な試練を通らされたと思われるが、主が共におられここまで守り導いてこられた。そこに

はたくさんの信仰の先輩方の祈りがあり、次世代による祈りがさらに積まれていく。

B.教会、個人を守られる神

   そしてこの神は川越教会にも、さらにはそこに連なる私たちにも共にいてくださり、守り導か

れる。だから私たちは決して恐れることはない。信頼して、安心して、主と共に歩み続けよう

ではないか。様々な試練が襲うかもしれないが、主の守りの中にいるならば決して負けない。

結論:主の守りの内に歩むことは、決して簡単ではない。それをはばもうとする様々な試練、誘惑が襲ってくる。時に負けそうになるかもしれない。でも、主に信頼し続けて歩むとき、主は私たちを憐れんでくださり、最後の最後まで守り導いて下さる。それはこれまでも、そして今も、さらにこれからも決して変わることはない。神の守りの中で勝利の歩みを、喜びと感謝の歩みをさせていただく者とさせていただこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-09-27 08:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ネブカデネザルの夢」

     A.神からのメッセージ

      ネブカデネザル王は夢を見た。その内容によって王は心騒ぎ眠れなくなったという。神様から

のメッセージは人の心に深く突き刺さる。しかしその内容を王は理解することができなかった。

多くの人が神からの語り掛けを受けているが、それをただしく受け取ることができずにいる。

B.神は隠される

      神様からのメッセージがもっとわかりやすく、単純であればいいと思う時がある。しかし神は

あえて隠されることがある。神の遠大なるご計画、偉大なるみわざを前に私たちはそのすべて

を理解することはできない。だからこそ、へりくだって神のメッセージを受け取る必要がある。

Ⅱ・「不安と恐れ」

A.真理を求める

   ネブカデネザル王は夢の解き明かしを求めた。神からの語り掛けの意味を知りたいと思う姿勢

はとても大切。自分でわかったようなつもりにならず、真剣に求め、素直に受け取ろうとする

姿勢が大切。神様は今日も私たちに何かを語りかけて下さっているから、しっかり求めよう。

B.真理のない不安

   王は夢の内容がわからず心騒がした。真理がわからない、真理を見出せないことは人を不安に

させる。現代ではその不安を様々なものに転換させてごまかそう、見なかったことにしようと

真理と向き合うことを避ける。そこには不安と恐れがずっとつきまとい平安のない日々がある。

Ⅲ・「ピンチを迎えた時に」

A.王の思わぬ命令

   誰も夢を解き明かすことができないことに王の怒りはバビロンにいる知者すべてを滅ぼすと

いう命令を下した。とんでもない命令が下され、それはダニエル達にも届けられた。思いがけ

ないピンチは誰にでもやってくる。その時、私たちはどう対処するだろうか?

B.ダニエル達はどうしたか?

   ダニエル達は知恵と思慮をもって応対したとある。ダニエルは仲間たちと共にこの危機に対し

て、まず祈りをささげた。自分たちの知恵に頼らず、神に助けを求めた。全知全能なるお方に

助けを求めることは実に理にかなっている。なぜならば神は絶対に間違いを犯さないから。

結論:人生の思いがけないピンチを前にして、多くの人はそのピンチに対してどういう意味があるのか?自分自身とピンチにしか目を向けようとしない。しかし、本当に知恵と思慮に満ちた人は、まず神に目を向ける。そして全能なる神に信頼し、そのお方が解決の方法を教えてくださり、道を示されることを確信して祈り求めたい。ダニエル達はそれを実践した。その時、神はダニエル達の祈りに応え、夢の解き明かしを示された。神に真理を求める時、神はそれを与えて下さる。ピンチの時、神を信頼し、神に目を向けてすべての解決を求めていこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-09-20 11:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ザアカイに声をかけたイエス」

     A.仲間を裏切り搾取していたザアカイ

      ザアカイは取税人で。当時、ローマの支配下にあったイスラエルではローマに税金を支払わな

ければなりませんでした。それをザアカイがしていた。ローマの手下のようにユダヤ人からお

金を集め、時には多めの金額を徴収して自分の懐に入れていた。裏切り者として嫌われていた。

B.嫌われ者に目を留めるイエス

      そのようなザアカイを見て、イエスは直接名前を読んで声をかけてくれる。イエスは私たち一

人一人の名前をも知っていて、そのすべての良い点、悪い点を知ってなお声をかけてくださる。

たとえすべての人が嫌い、咲けられているようなどうしようもない存在であっても。

   Ⅱ・「救いがザアカイに来た」

A.搾取する者から与える者へ

      ザアカイはイエスとの触れ合いによって、これまで自分のしてきたことの非を認めることがで

き、それまで搾取する側にいたが、今度は余分に与える者へと変えられた。誰も失敗はある。

しかしイエスとの出会い、触れ合いによって非を認めて新しく変わることができる。

B.ありのままを受け入れるイエス

      イエスはザアカイのありのままを知っていて受け入れてくださった。真珠貝は異物を入れられ

ることによって涙し、素敵な真珠を造りだす。イエスを受け入れることは苦しみを伴い涙する

かもしれないが、思わぬ素敵な輝きを手にすることになる。喜んでイエスを迎えよう。

結論:今、素直になって自分の心に手を当ててみよう。自分自身に正直になって、自分を見つめてみよう。素晴らしいところもあれば、誰にも言えないような痛み、傷、苦しみ、消し去りたい過去、今抱えている罪。色々あると思う。イエスはそのすべてを知っておられる。そのうえで、私たち一人一人の名前を呼んで声をかけてくださる。そのイエスとの交わりに入るならば、私たちの人生は劇的に変化することができる。その過程では辛いこともあるだろう。イエスを異物と感じて吐き出そうとするかもしれない。しかし、イエスを受け入れるとき、私たちの涙とイエスの十字架の血潮とによって、私たちの中に光り輝く信仰の果実が生まれてくる。それは何物にも代えがたい美しいものである。


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by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信念が曲げられる試練」

     A.バビロンによる捕囚

       ダニエル達は、神のご計画のうちにあってバビロンに捕囚の民として連れて行かれることに

なった。それはユダヤ人たち、ダニエル達にとっては受け入れがたい屈辱であり、痛み、苦

しみの試練であったかもしれない。しかしこれは主が主権をもってなされたみわざであった。

B.与えられた場所でどう生きるのか

       渡辺和子さんは思いがけず36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に任命された。本

人にとって願っていたものではなく、若さゆえにおかれた境遇をなかなか受け入れることが

できず苦しんだ。しかしある宣教師のことばで変えられた。置かれた場所で咲きなさい、と。

Ⅱ・「ダニエル達の信仰」

A.何を第一とするのか

    ダニエル達は英才教育を受けるため、優遇され王様の食べるような食事が与えられた。しか

し、それらは異教の神にささげられて汚れたものであった。これらを食することは異教の神

を礼拝すること、偶像礼拝に加担することを意味していた。ダニエル達はこれらを拒んだ。

B.この世的な感覚との戦い

    宦官の長は王様から直々にダニエル達の世話役が与えられていた。ダニエル達の言い分を聞

きつつも、王様からの叱責を恐れためらい戸惑っていた。しかし、ダニエルたちの誠実な願

いを、必死の信仰をみて試すことにした。私たちの必死の信仰の姿勢は人の心に必ず届く。

Ⅲ・「仕える者に応える神」

A.人ではなく神に仕える

    ダニエル達は王様から英才教育を受けるが、宦官長のように王様を恐れるのではなく、神を

第一として神を恐れた。ダニエル達は宦官長の立場を理解しつつ、神に仕えぬくことを選択

した。ダニエル達の信仰は主に仕えるだけではなく、人への配慮ももっていた。

B.神の応答

    結果、ダニエル達は野菜と水だけであったが、他の誰よりも健康に満たされ、誰よりも優秀

な者とされた。神に仕える者は、この世的には貧しい状況に置かれているように思えても、

誰よりも主にあって祝福に満たされる。神に仕える者は神によって用いられていくのだ。

結論:この世の多くの人は、目に見えない神よりも、目に見える人(物や価値)を恐れてしまう。しかし、それでは人からは評価されても、本当の祝福をいただくことはできない。人の評価は移ろいやすく、人の価値観によって左右されてしまう。しかし、神の評価は決して移ろうことなく、この世の価値観によって左右されることなく不変である。ダニエル達は信念をもって神に仕え続けた。そして神はそのような民を決して見捨てることなく、祝福し用いてくださる。私たちもおかれた環境は様々で不平不満を抱くことがあるかもしれないが、それでもなお、神を見上げ、神に仕えることを選択するとき、神はいかなる場所にあっても、決して見捨てることなく、祝福で満たしてくださる。


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by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「パウロの証し」

     A.神の国について証しした

      私たちも証しをするが、それは自ら経験した神体験を確信をもって主観的に語ること。と同時

に、聖書で語られていることが成就したことを客観的な視点を交えて語る。これらが聖霊の働

きによって、私たちの内において一つとされた時、証しは喜びと感動に満ちたものとなる。

B.イエスについて証しした

      パウロには神の国、イエスについて証しするに十分な時間と環境が与えられた。これもまた神

の不思議な摂理のうちになされたみわざである。いつでも、神とイエスについて証しする機会

が備えられているから、いつでも語れる準備と聖霊に導かれた時を逃さないようにしたい。

Ⅱ・「聞き、見たにもかかわらず」

A.人間的な反応

   パウロの証しを受け入れた者もいれば、信じなかった者もいた。これは人間的な素直な反応で

ある。証しを聞いて感動することはあってもそれですぐに信仰へと導かれるケースは決して多

くはない。人間的な感覚だけに頼っているならば、それは当然の反応であるかもしれない。

B.聖霊による反応

   しかし、聖霊が働く時、私たちの常識、感覚、価値観が一気に崩される。心頑なな者の心は一

瞬で溶かされる。同じ花を見て、ただきれいだなと思うのは人間的な反応。そこに神の創造の

みわざを見て感動できるのは聖霊がそこに働いているから。この反応を大切にしたい。

Ⅲ・「神の救いの大転換」

A.ユダヤ人から異邦人へ

   ユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた民であると自負していた。だから異邦人を見下し、

排斥してきた。しかし、今や神の救いのご計画が異邦人に向けられたと宣言された。心頑なに

またおごり高ぶり、福音を受け入れないならば、神の救いはそこからこぼれてしまう。

B.そして私たちへ

   神の救いは全世界へと向けられた。その恩恵を私たちは今受けている。神の救いはごく限られ

た民族、特定の人にだけ向けられているのではない。かつて軽蔑されたような、人数に数えら

れなかったような人にも神の目は向けられていた。私たちにも確かに神の目は向けられている。

結論:かつてユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた誇り高い民族として、他者を見下していた。しかし、聖霊の導きを無視し、心頑なに神の救いを拒絶するならば、その恵みを受け取り損ねてしまう。同時に神の目はユダヤ人だけではなく、全世界に向けられていた。特定の優秀な人、選ばれた民族だけのものではない。全世界が神の救いの対象であり、その愛の目が注がれている。私たちが福音を見聞きしたとき、聖霊の働きにゆだね、自分の思いではなく、心開いて神を受け入れるとき、救いの大逆転が起こる。そのチャンスはすべての人に向けられている。ぜひとも、この恵みを獲得しようではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-08-30 10:30 | Comments(0)