聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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カテゴリ:未分類( 75 )

~~あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。~~

本論:Ⅰ・「時代に翻弄された赤ちゃん」

     A.パロの命令

      かつてヨセフが家族をエジプトに連れて来て、そこで彼らは守られ祝されていった。しかし、

イスラエルの民が増えていくにつれ、エジプトにとっては脅威となったためイスラエル人た

ちを奴隷として扱うようになり、男の子が生まれたら殺すようにと言う命令が出された。

B.ヘロデの命令

      東方の博士たちがユダヤ人の王を探している、という声を聞いてヘロデ王は自らの立場が奪

われることを恐れた。そしてそのタイミングで産まれたであろう男の子を一人残らず殺すよ

うにと命じ殺させた。そのため、御使いによって一時的にヨセフたちはエジプトに逃れた。

Ⅱ・「奴隷とされた民」

A.エジプトの奴隷とされていた

   イスラエルの民はエジプトの地でどんどん増えていった。彼らはまた勤勉で、有能であった。

それだけにエジプトにとっては放っておけない存在となったために、かれらはエジプト人の

奴隷にされてしまった。イスラエル人は奴隷からの解放を願い、神はモーセを立てた。

B.罪の奴隷とされていた

   イエスが生まれる前、預言者たちは400年にわたり現れなかった。民は繰り返し罪を犯し続

け、預言者を退けた。やがてローマにも支配され、ローマからの救いを求めていた。しかし

神は罪の奴隷と化していた民のために、真の救い主を世に送られた。

Ⅲ・「神の不思議なご介入」

A.ミリヤムとパロの娘

   モーセの出産に伴い、家族はモーセを何とか殺されないようにと隠し続けた。しかし、隠し

続けることができなくなり、川に置いて一切をゆだねた。その時、モーセを発見したのがパ

ロの娘であり、それを見守った姉のミリヤムが実母に世話をするように促した。

B.乙女マリヤ

   イエスのご降誕に際して神は、処女マリヤを用いられた。これは人間的にはまったく理解で

きない不思議な出来事であった。神は私たちの想像をはるかに越えたみわざをもって民を救

い、民を愛し、民を導いて下さる。私たちも神の不思議なご介入に従順でありたいと願う。

結論:モーセの登場はイスラエルのために神の大きな救いのご計画を示すものでもあった。そしてそれは、実にキリストの登場と同じような背景があり、出エジプト記は旧約聖書の心臓部と言われるほどに重要である。それは神の救済、贖い、契約が記されているからであり、全聖書の原点とも連なる重要な個所である。そして、出エジプト記がキリストにおいて成就していく様子が対比されていくとき、明らかにされていく。神の偉大なるご計画をここから学び、また私たちの信仰を新たにされ、より強いものとされていきたく願う。


by ontheway-chapel | 2019-01-10 17:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神からの恵みをいただいている」

     A.イエスの仕え人となる

       パウロは自らをイエス様に仕える人として生きる者と確信していた。そして異邦人のために、

一人でも多くの人が救われるようにと、その生涯をささげた。そして神の福音をもって、人々

を導こうとした。しかし、これを実現するためには自力だけでは決してうまくいかない。

B.聖霊による

       パウロは異邦人を聖霊によって聖なる者とされた、神に受け入れられる供え物とすることを

目指していた。パウロによってではなく、誰かによってでもなく、聖霊によって異邦人を聖

なる神の供え物となるようにと願っており、この働きに誇りを持っていた。

Ⅱ・「神が用いてくださる」

  A.御霊の力に頼る

    パウロはかつて神の働きと信じていながら、しかし自分の力によってキリスト者たちを迫害

していた。しかし、そのことが間違いと気づいたのは聖霊の働きによってであった。それ以

降、パウロは聖霊の力によってのみ、自らの進む道をゆだねていった。

B.神に用いられる器として

    かつてD.L.ムーディーと言う人がいた。彼は貧しい家庭に育ったこともあって、無学であっ

たが、神に従順であった。その彼が神に用いられた時、神学校にも行けない者が大説教者と

して福音を宣べ伝える者として立てられ、多くの人を救いへと導き神学校まで設立した。

Ⅲ・「神を見て、悟ることができるように」

  A.福音を知らない人へ

    パウロはローマ行きを切に願っていた。それは、まだ福音が伝えられていない人たちにが、

神を見ることができるように、福音を聞いたことのない人が真理を悟ることができるように

という思いからであった。私たちの周りにもそのような人が多くいるのではないだろうか?

B.福音を宣べ伝える

    では、誰が一体そのような人に福音を伝えるのか?そのまま滅びに至る様子を眺めていてい

いのだろうか?今年の標語聖句Ⅱテモテには時が良くても悪くても、と記されている。聖霊

に祈り求めよう。聖霊の示す時こそが私たちの都合関係なしに最善のチャンスである。

結論:福音を伝えるということは、口でいうほど簡単なことではない。しかし、無学な者であっても、口下手な者であって、主が用いられる時、そこには私たちの想像を超えたとんでもないことが起こる。自分にではなく、主に期待しよう。主に用いられやすい器となれるよう、日々備えていこう。福音を語ることは、この時代にあって、現代を生きる私たちに与えられている大切な使命である。そしてこの働きは決して恥ではなく、誇りとすべきことである。私たちの人生を一変させたすばらしい福音を、私たちも誰かに宣べ伝えていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2018-12-31 11:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「愛が与えられたクリスマス」

     A.愛から生まれたイエス

       神の御子であるイエス・キリストは本来ならば王座に座している存在であった。神は人を愛

された。しかし神に愛された人は堕落し、現状では永遠の滅びへとただ落ちるだけの状態で

あった。神は何とかして現状を打破するために、御子をこの地上に送られた。すべては人に

対する神の愛によるみわざであり、クリスマスは神の愛が明確に示された日である。

B.永遠のいのちへ誘ったイエス

       イエス・キリストが人となって来られた目的は、イエスを信じる者が滅びるのではなく、永

遠のいのちを持つためであった。それは、本来ならば永遠の滅びに行くしかない我々が、イ

エスの十字架の贖いによって再び神との正しい関係に立ち返るためである。また十字架の死

からの復活が、我々にも死からの復活の希望、完全なる勝利をもたらした。

   Ⅱ・「光が示されたクリスマス」

A.光が世に来られたクリスマス

       神はこの世の闇を彷徨い、何が本物で何が正しいのかわからなくなっている我々に、向かう

べき道はここだと光を示された。それがイエス・キリストである。今の時代も混迷を極め、

人々は不安を感じ、目先の希望に心惑わされる。クリスマスシーズン、街中はきらびやかに

光が灯るが、すぐに消えてしまう。しかしキリストの光は永遠に輝き続ける。

B.闇を打ち破ったクリスマス

       人々はやみの中でもがき苦しんでいる。そしてこの闇を自力で打ち破る方法はない。絶望的

に思える時、希望の光が灯された。この光こそ、我々を闇から救い出し、やみの支配を完全

に打ち砕くことができる。そしてこの勝利こそが、絶望の淵にいた私たちに栄光をもたらし、

神の愛が完全成就するのである。この光に私たちはすべてをささげて歩んでいきたい。

結論:クリスマスは多くの人にとって、楽しみであり、ワクワクする時でもある。おいしい食事に素敵なプレゼント。世界中で喜ばれ、待ち望まれている日である。しかしそれが自分たちを満足させるだけのイベントであるならば、本当のクリスマスの意味がない、空っぽの時となってしまう。クリスマスは神の愛が明確に形として示された、目に見える形で人々に示されたときである。神の愛が中心にあるのが本当のクリスマスである。そして、この愛によって、私たちは滅びることなく、永遠のいのちをいただくことができる。神の愛によって絶望の闇から、光によって救い出された。だから、クリスマスをお祝いする。心から感謝と喜びをもってクリスマスを待ち望む。今年のクリスマス、本当の意味をもう一度じっくり味わう時とさせていただこう。そして感謝と喜びに満ち溢れたひと時としよう。


by ontheway-chapel | 2018-12-25 11:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「平和とみことばを語った主」

     A.どの国の人であっても

      ペテロはコルネリオとの出会いの中で、神が確かにユダヤ人だけに限らず、どの国の人であっ

ても、神を恐れかしこみ、神の目に正しいことを行おうとするならば、その人は神に受け入れ

られるのだということを確信した。神は世界中のすべての人をその救いの対象としておられる。

B.平和を宣べ伝えたイエス

   神はイエスを通して、平和を宣べ伝えた。イスラエルの人たちは軍事的力によってローマから

の解放を救い主に期待したが、神の平和は福音の力によって、みことばによって実現すること

をイエスを通して教えられた。そしてこのイエスもまたすべての人の主であった。

Ⅱ・「聖霊と力に満ちた主」

A.良いわざのみなさった

   神はイエスに聖霊と力を注がれた。そしてイエスはその導きによって、各地を巡り歩き、様々

な人と出会い、神を証しするため、神のご計画を人々に知らせるために、神の目において良い

みわざをなさった。それは福音書に記されている通りであり、神の御子としての働きであった。

B.悪魔からすべての人を癒す

   イエスは悪魔の虜、罪の虜となっていた私たちを解放されるために、何が必要かを説いた。病

の癒しなど、神の力でしかなされないことを目の前でなして、人々に神のもとへと立ち返るよ

うに示された。しかし、彼らは魂の癒しよりも目の前の奇蹟に、都合よいみわざを求めた。

Ⅲ・「罪を赦される主」

A.十字架につけられたイエス

   だから人々はイエスを本当の救い主と受け入れることができず、十字架につけてしまった。自

分中心の思い通りにならないとき、私たちは平気でイエスを十字架につけることをしてしまう

弱さがある。しかしこれもまた、神の救いのご計画の成就のため必要なことであった。

B.信じ受け入れるとき

   イエスは弟子たちに全世界に出て行って福音を語るようにと命じられた。それは御子を信じ受

け入れるならば、誰であっても、その名によって罪の赦しを受けることができることを語るこ

とであった。故に私たちは罪から解放された。イエスのご降誕を私たちは心から喜びたい。

結論:イエス・キリストのご降誕は、救い主がこの地上に来られたことをお祝いする時でもある。それは誰もが、どのような力をもってしても、どれほどの大金を積んだとしても不可能であった罪からの解放、永遠のいのちの獲得を実現するためであった。そしてその対象は全世界のすべての人である。だから世界中でクリスマスがお祝いされている。クリスマスは単なる楽しい行事ではない。自分自身の生涯に、人生に、死んだあとの歩みにまで影響するとてつもない、大きな出来事である。私たちは平和とみことばを語られた主を、聖霊と力に満ちた主を、罪赦される主を心から待ち望み、来週のクリスマス礼拝に備えていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2018-12-19 16:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「主のもとへ」

     A.主が来られた

       救い主は私たちが呼び寄せたから来たのではなく、神の恩寵によって与えられた。主の方か

ら私たちのもとへと来られた。それはこの世の闇、人の罪という絶望から希望へと人類を導く

ために必要なことであった。にもかかわらず当時の人たちは主から離れ、主を捨ててしまった。

B.神の目線で

       当時も現代の人にとってもイエスの存在は不必要と感じたかもしれない。しかし、神の目に

は尊い、大切な存在であった。それは私たち人生における大切な土台となる存在であり、決

して揺らぐことのない、なくてはならない存在であった。だからこの存在のもとへ行くのだ。

Ⅱ・「私たちの姿勢」

A.孤立してはいけない

    家(教会)を造るとき、しっかりした土台の上に一つ一つのパーツが重ね合わされて、初め

て完成する。そのパーツは孤立していたらどれほどの輝き、能力を持っていても意味がなく

なってしまう。私たちはイエスに連なる者として、孤立するのではなく、組み合わされたい。

B.躓きの石にならない

    私たちもかつてはイエスを必要としない、石を捨てた存在であった。しかし、今やこの石は

かけがえのないものである。と同時に、この土台に生きる者として、人々の証しとなる生き

方が求められている。私たちを通して、この石こそが大切なものであると人々に示したい。

Ⅲ・「最高の贈り物」

A.アドベント

    毎年、この時期になると町がクリスマスモードになる。しかし多くの人は、単なるイベント、

行事の一つでしかない。だから、自分たちだけが盛り上がって喜んでおしまいとなる。しか

し、クリスマスは感謝するときである。大切な土台が与えられた記念すべき日であるから。

B.闇から光へ

    最近のクリスマスの特徴にカラフルなイルミネーションが挙げられる。世界が、人生が闇に

包まれている中にあって、絶望の闇に一筋の光が灯されたのがイエスの誕生クリスマスであ

る。これは神のなさったみわざ。この光こそ神様からの最高のクリスマスプレゼントである。

結論:クリスマスにプレゼントを交換したり、光を灯して盛り上がったりする。自分たちだけで盛り上がっただけではもったいない。私たちにとって本当にうれしいプレゼントは何か?見つめるべき、美しくきれいな光はどこにあるのか?本当のクリスマスを味わうために、私たちは主の元へ行く必要がある。そして、私たちがこの事実を人々に宣べ伝えることを神は望んでいる。今年のクリスマス、最高のクリスマスプレゼントをまだ闇の中をさまよっている人々にと伝えていこうではないか。また、私たち自身もこのクリスマスプレゼントを堪能しようではないか。


by ontheway-chapel | 2018-12-12 17:19 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「呪われたいちじくの木」

     A.解読が難しい

      この箇所は非常に難解であり、私たちの常識に照らし合わせて読むと、理解不能である。まず

イエス様が非常に怒りっぽいというか、自分の都合によってそのみわざをなしたことである。

どのような誘惑にあっても、十字架を前にしても自分の都合で奇蹟をなさらなかった。

B.時期的にも理解不能

 この時期は過ぎ越しの季節であり、季節としては4月中旬であっただろうと思われる。しかし

いちじくの木が実をつけるのは、5月後半から6月であると言われている。いちじくの実がな

らなくておかしくないのに、イエスはそれに対して怒り呪われたことになる。なぜ???

    

Ⅱ・「山をも動かす信仰」

A.弟子たちの反応

   弟子たちはイエスが呪われた木が枯れているのを見て驚いた。しかしイエスはそれに対して、

「神を信じなさい」と伝え、祈りの法則について教えられた。それは時代を超えて私たちに祈

りの素晴らしさを伝えてくれる。山をも動かすお方への信仰の祈りを実践していきたい。

B.主に期待する

   主に不可能な過去とは何一つない。しかし主の御心こそが第一であり、最善である。私たちの

祈りは期待に満ちたものであるかもしれないが、それは自分への期待ではなく、主の最善がな

されることへの期待を失わないように注意したい。主の最善こそが私たちの最善である。

Ⅲ・「イエスを受け入れなければ枯れてしまう」

A.イスラエルへの警告

   イエスが到来した時、救い主を待ち望んでいたはずの神に選ばれしイスラエルの民は、それを

受け入れることができなかった。いちじくの木はイエスがそこにやってきたとき、実を結ばな

かった。そして枯れてしまった。私たちもイエスを受け入れるチャンスを活かしたい。

B.実を結ぶ歩みへと

   いちじくの木は我々の常識に沿って、イエスの到来を前にしても実を結ぶことができなかった。

私たちはいつ、イエス様が到来してもよいように、いつも実を結ぶために備えている必要があ

る。自分の都合、常識ではなくイエス様に合わせた生き方こそが、実を結ぶ生き方となるのだ。

結論:私たちの生活はこの世を中心に回っているかもしれない。もちろん、この地上に生きている以上、それは当然のことである。しかし、私たちは時にこの世のすべての常識を覆してでも、世に逆らい、世を離れて、イエス様をお迎えし、実を結ぶ準備を怠ってはならない。そして、その時が来たとき、いつでも応答できるように備えていたい。イエス様はそのために必要なこととして神を信じなさい、と言われた。そして祈りの大切さを教えられた。日々の祈りを通して、主の最善こそが私の最善であると信じ、期待して祈り続ける歩みをして生きたい。そのような歩みをしているならば、私たちは決して枯れることがない。


by ontheway-chapel | 2018-11-28 19:06 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ヘロデヤの問題」

     A.罪と向き合えない

      バプテスマのヨハネはヘロデ一家のねじ曲がった婚姻関係が間違っていることを指摘した。特

にヘロデと兄弟ピリポの妻であるヘロデヤとの関係を指摘していた。ヘロデはこのことでヨハ

ネを拘束していた。しかし、ヘロデヤは自らの問題と正しく向き合うことができなかった。

B.耳に痛いものを排除する

      自らの問題を指摘されたヘロデヤがしたことは、ヨハネを恨み、そのような耳に痛いことを語

る存在を消し去ることであった。私たちも褒めてもらうことは素直に受け入れても、間違いを

指摘されることはなかなか素直に聞き入れることは難しい。そうした声は聞き流そうとする。

Ⅱ・「個人的な感情に生きると」

A.ヘロデヤの要求

   ヘロデヤはヘロデの誕生日という機会を利用して、娘のサロメに祝宴の場で躍らせた。本来、

娼婦の仕事であるにもかかわらず、ヘロデのご機嫌を取るために策を設けた。そして見事に褒

美の約束をいただき、ヨハネの首を目の前に差し出すことを要求することに成功した。

B.ヘロデの弱さ

   ヘロデはヨハネを拘束しつつも、彼の誠実さを尊敬していた。ヨハネの鋭い指摘を恐れつつも、

彼の話を聞くことに喜びをもっていた。みんなの前で褒美の約束をしてしまったゆえに、サロ

メの要求に応えなければいけなくなった。自分の保身だけを顧みた浅はかな弱さがあった。

Ⅲ・「真理のために生きる」

A.偽りよりも真実を

   当時権力を握っていたヘロデ一家に対して避難を公然と語ることは、とても勇気のいることで

あり命がけでもあったが、ヨハネは悪事を見て見ぬふりをすることができなかった。それは個

人的な正義感ではなく、主の前に悪であるからであり、真実に生きることを選択した姿である。

B.神の目に正しい選択を

   様々な問題と向き合う。それは他人の問題もあるし、自分自身の問題でもある。人の問題は比

較的指摘しやすいが、自分の問題と向き合うことは難しい。また時に問題の指摘には勇気が必

要となる。どうしたら正しく生きることができるのか?ただ神を基準にして判断すること。

結論:自分の問題を指摘されたとき、素直に受け入れがたいかもしれない。相手を恨むかもしれない。しかし、黙して神と向き合う時、何が正しいのか、どうすべきかが見えてくる。個人的な感情だけに従うならば、その選択は大きく間違えることがある。しかし、真理のために、神の目に最善を求める時、私たちが本当にすべきこと、向き合うべきこと、生きるべき道が見えてくる。ヨハネは生涯をかけてそのような生き様を私たちに見せた。私たちもヨハネに倣って生きる道を目指していこうではないか。


by ontheway-chapel | 2018-11-22 17:40 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「郷里から驚かれたイエス様」

     A.会堂で教えを聞いた

      イエス様は郷里に戻り、そこで安息日に会堂で教え始めた。イエス様の教えを聞いた人たちは

驚いたという。おそらくこれまでに聞いたことのないような、深い知識と洞察に満ちた教えを

語られたことだろう。人々はその教えを確かに聞き、驚いたが、それ以上ではなかった。

B.力あるわざを見た

      郷里の人たちは、イエス様がなさったみわざを直接見た。少数の病人を癒したと書かれている

が、何ひとつ力あるわざを行わなかったとも書かれている。みわざを見たり、教えを直接聞い

たりしても、人々の心は閉ざされたままであった。何が心を閉ざしていたのか?

     

Ⅱ・「郷里で尊敬されないイエス様」

A.大工ではないか

   人々の心を閉ざしていたのは、イエスは大工であるという視点であった。郷里の人たちにとっ

てイエスは独りの人であり、いち労働者でしかなかった。彼らの目は本当の意味で開かれては

いなかった。外見だけをみて、本質を見ることなしに物事を判断してしまわないようにしたい。

B.マリヤの子ではないか

   イエスは30歳になるまで郷里で生活をし、家族を支える働きをしていた。郷里の人たちにと

ってイエスはそれだけ身近な存在でもあり、それだけの存在であった。近すぎて、その素晴ら

しさを見つけることができなかった。家族伝道の難しさをここからも教えられる。

Ⅲ・「不信仰を打破する」

A.不信仰の現実

   イエスの家族はイエスが身近すぎて、先入観もあってイエス様の本当の姿を見ることができな

かった。目の前にイエス様がいても、そこで何を見聞きしても心が閉ざされていては信じ受け

入れることができない。癒しを拒む者に医者は何もできない。これが不信仰である。

B.使命に生きる

   決して諦める必要はない。イエスは郷里から離れて救われる魂を求めに出て行った。それは神

の使命に生きる姿である。私たちもその時できることに一生懸命でいたい。その先に神の時に

かなって美しい働きがある。諦めず、イエスの働きを助ける歩みをしていこうではないか。

結論:私たちはイエス・キリストの働きに参画し助けることができる一方で、その働きを拒否し妨げることもできるという、大きな責任を負っている。人々の心の扉を開き、不信仰を打破し、一人でも多くの人をイエス様の元へ届けたい。最も身近な家族は、それゆえに難しさをおぼえるかもしれない。イエス様でさえ苦労し、驚かれた。しかし、イエスの弟はやがて救われ素晴らしい働きをした。諦めず、神様から託された使命に生きるお互いでありたい。神は時にかなって、ふさわしい方法で私たちの祈りを聞かれ、家族を救いへと導いて下さることに期待していこう。


by ontheway-chapel | 2018-11-14 16:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「初穂となられたキリスト」

     A.復活の初穂

      パウロはキリストの復活がなかったら、すべてがむなしいと言った。しかし、実際にはキリス

トはよみがえられたという事実に着目していく。キリストの復活が、キリストに連なる民を導

き、復活の恵みが私たちに確かな約束となって与えられた。キリストの復活が道を開いた。

B.アダムの死から

      多くの人は死を恐れる。なぜならば、その先がわからないから。あの世という漠然とした表現

でそこに行けると何となく期待している。死はすべての人にある。しかし、キリスト者は死の

先にある確かな天の御国を見ることができ、永遠の希望に満ちた死を迎えることができる。

Ⅱ・「終わりが来る」

A.この世の支配の終わり

   私たちは何に支配されているだろうか?この世の価値観、この世の権威…しかし、それらはや

がての日には全く意味をなさなくなるという。なぜならば、この世のすべてを支配されている

お方がおられ、その支配の内に滅ぼされていくから。目に見えない方の権威に従うことが大切。

B.キリストの支配

   聖書には「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置く」とある。そしてその支配は、

死をも支配する。つまり、私たちにとっての恐怖である死をも完全に支配され、死に勝利され

るという。たとえ今、キリストの教えに逆行するものが支配しているように思えても。

Ⅲ・「万物の支配者」

A.すべて神のもとにある

   万物がキリストのもとにある。「神が、すべてにおいてすべてとなられる」と聖書にある。神が

全宇宙の支配者であるという。この事実とキリストの復活が、私たちの最大の恐れである死を

飲み込むほどの力となって、私たちをも勝利へと導かれる。万物を支配する神に従いたい。

B.私たちもこの恵みに与る

   万物を支配されるほどのお方は、私たちを愛しておられる。死に飲み込まれ滅んでいくことを

見過ごされなかった。神の愛と憐みの恵みの内にあって初穂となられたキリストに次いで、天

の御国に行くことが約束されている。だから、死んでも生きる。天国でみんな再会できる。

結論:天国にどうしたら行くことができるか?イエス様の十字架の贖いの死を信じること。そして死からよみがえられた復活のイエス様を信じ受け入れること。神様が私たちに天国行きのチケットを渡す時に、確認することである。これさえあれば、間違いなく天の御国へ行くことができる。そして先に召された方々は、このチケットをいただいて、天の御国へと旅立った。私たちもいつの日か、そこに行くことができる。そしてもうこの地上では会うことができないが、天の御国において再会し、永遠のいのちが与えられた中で、共に喜び、感謝に満ち溢れて主を賛美することができる。


by ontheway-chapel | 2018-10-31 17:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪を認める祈り」

     A.私の主と呼べる関係

       クリスチャンは神に向かって私たちの父なる神様、主と呼べる神に向かって祈ることができ

る。それは神が愛と憐みに富み、寛容な心で私たちとの関係を持ってくださるから。ごく親

しい親密な関係でい続けてくださるゆえに、身近に神を感じて祈ることができる。

B.とりなしの祈り

       ダニエルは「私たち」と自分を含めたイスラエル民族の罪を告白している。これはイスラエ

ル民族のためのとりなしの祈りともいえる。自分は正しいから、ではなく、最も正しく歩ん

でいる者でさえ、誰よりも罪を認めて神の許しを求めて祈っている姿に教えられる。

Ⅱ・「神の憐みを求める祈り」

A.憐れみと赦しは神のもの

    ダニエルは真実に罪を認めて、悔い改めつつも、不信の罪による神のさばきの正当性を認め

た。すべての主権が神にあることをダニエルは知っていた。そのなかで現状からの救いを必

死に祈りつつ、罪の赦しを神の憐みにすがるしかないことを認めて神に求めた。

B.神の時を見定める

    ダニエルはすべて神の支配の内に行われていることを確信していた。だから、イスラエルの

罪に対しても、わざわいを下されたのがこの時であると受け止めることができた。自分本位

で罪の赦しを請うのではなく、さばきも赦しも神の時にあることを私たちも受け入れたい。

Ⅲ・「神に訴える祈り」

A.必死なる祈り

    かつてイスラエルはエジプトから救い出されたように、今度も神の愛と憐みの中で私たちを

救い出してくださいと懇願した。今やイスラエルは崩壊寸前であった。今こそ、主ご自身の

ために御顔の光を輝かせてください、とダニエルは神の祝福と顧みを必死に祈った。

B.心からの訴え

    ダニエルはこの祈りの目的が自分たちの正しさによって自分たちの祈りを聞いてください

と訴えているのではなく、自分たちはと覆い隠すことのできないほどの罪を犯している事実

を認め、ただあなたの大いなるあわれみによってのみ、赦しを訴えている。

結論:私たちも日々祈ることができる。その祈りをそれぞれに振り返ってみよう。自分の願うことばかり訴える一方通行の祈りになってはいないだろうか?神は私たちの訴えを聞いてくださるお方であると同時に、語りかけてくださる神でもあり、時にかなって実行してくださる神でもある。神からの語りかけをしっかり聞く祈りをしようではないか。その真実のやり取りの中で、自らの罪を認め、憐れみと赦しを慕い求め、切なる訴えをしていくダニエルのような祈りをしていきたい。神は私たちの祈りを聞いてくださり、語りかけてくださる。私たちも聞き、その導きを信じ、委ねていこう。


by ontheway-chapel | 2018-10-22 09:53 | Comments(0)