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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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カテゴリ:未分類( 90 )

本論:Ⅰ・「つぶやきを聞かれる主」

     A.イスラエルのつぶやき

      イスラエルは神様の大いなる愛と憐みによってエジプトを脱出し救い出された。しかし、時間

の経過と共にその喜び、感謝は薄れ、次第に文句を言うようになった。神主体から自分主体へ

の転換。しかし神はそのような民のわがままにも耳を傾けてくださった。神の偉大な愛を知る。

    B.つぶやきに応答された主

      飢え死にすると文句を言い、主に責任転嫁した民に対して、主は彼らに十分な食物を与えた。

人は自力でできることなど大したことはない。しかし主には何でもできる。主がこの世すべて

を支配されているために、信じられないようなことも普通に行うことができる。

   Ⅱ・「主を知ることになる」

    A.主を知ることになる

      何も食べ物がないような場所に、突然肉が備えられ、朝にはマナが備えられた。民はこのこと

を通して何を学ぶことができるのだろうか。すべてが神の支配のうちにあり、すべてが神の手

にあるという事実。この世にあるすべては神の作品であり、そこに神を見ることができる。

    B.目に見えないお方を見る

      私たちの生活においても、多くの神の恵みを味わうことができる。しかし多くの人はそれを見

て味わっていても、そこに神の姿を見ることができないが、この世の多くの自然に目を向ける

だけでも、主を知ることができる。創造の御業を、神の支配の偉大さを見ることができる。

結論:この5月は特に自然の美しさを実感できる季節。空を見上げても、きれいな花を見ても、あらゆる自然物に神の作品を見ることができる。この自然を造りだした神を見よう。その神は私たち人間にどれほどの愛を注いでくださっているか。私たちの日々の食事を備え、季節を与え、美しいこの国を与えて下さった。壮大な神のみわざを通して、主を知ることができるとき、私たちはさらに自然の美しさを喜び、感謝をもって味わうことができるのではないだろうか。


by ontheway-chapel | 2019-05-16 18:05 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ハンナの悩み」

     A.子どもが与えられない

      ハンナの夫には二人の妻があり、一人がハンナでもう一人はエルカナでエルカナには子どもが

与えられていたが、ハンナには子どもがいなかった。毎年行っていた巡礼の際には一人ずつ感

謝のいけにえをささげていたので、子どもがいる、いないで立場が明確にされてしまった。

    B.ペニンナのいじめ

      ハンナは子が与えられないことに悩んでいたが、ペニンナはそのようなハンナの心の痛みにさ

らに塩を塗りつけるような、わざと苛立たせるような仕打ちをしていたようである。ペニンナ

は夫の愛がハンナに向けられていることを快く思わなかったのか。嫉妬、憎しみの怖さを見る。

Ⅱ・「ハンナの祈り」

  A.もし~ならという祈り

   ハンナの祈り、というと2節以降が有名であるが、ここでのハンナの祈りは「もし男の子を授

けてくれるなら、私は~します」という祈り。私もかつて「もし私の願いを聞いてくれるな

ら信仰を持ちます」という約束を祈りの中でした。神を試す?神体験→献身となることもある。

  B.神に期待する

   神を試す、ということに疑問を感じるかもしれない。被造物が創造者に向けてとる態度ではな

い、と。しかし、その祈りの背後にある真剣な思いを神は知っておられる。その覚悟も知って

いる。本気で神に期待していると知っている。神はその祈りに確かに応答してくださる。

Ⅲ・「エリの応答」

  A.エリの勘違い

   ハンナの必死の祈りを見ていたエリはハンナが酔っていると勘違いした。これは当時の巡礼祭

が堕落していたこともあったかもしれないが、エリの性格的な欠陥を現していたかもしれない。

私たちも人の悩みや痛みに対して、寄り添えない、突き放してしまうことがあるかもしれない。

  B.励ましたエリ

   エリは自分の勘違いであるということがハンナの力強い言葉を通して示された。それに対して、

エリは「安心しなさい。神があなたの願いをかなえてくれるように」と励ました。私たちも様々

な課題をおぼえて祈るが、相手を励まし、慰める共感の祈りでありたいと願う。

結論:ハンナの必死の祈りは、様々な切実な悩みと苦しみであった。本当に辛い時、何とかここから抜け出したいと願う。そのような時、人は神がもし本当にこの祈りを聞いてくれるならば、私は、と誓いを立てるかもしれない。神をためるような祈りは、神に失礼かもしれないと感じるかもしれない。しかし、本気の祈りを神は聞いておられる。そして愛なる神はその祈りに応えてくださる。この必死の祈りに対して、エルカナのようにさらにその人を追いつめていくのか、それとも共感し励ましていくのか。イエス様がそうであったように、私たちもまた、人の痛みや悩みに寄り添い、励ましていきたい。
by ontheway-chapel | 2019-05-16 18:02 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「死はできれば避けたい」

      A.死は怖い

      多くの人は日々当たり前のように生きている。それだけに突然目の前に死を突きつけられると

 混乱し、恐れを抱き、不安を感じる。死というものをできれば避けたい。考えないようにした

 い。そう思うのはごく自然な反応である。ではなぜ、そのような反応をするのだろうか?

     B.死の先に何があるのか?

      死を恐れる理由はいくつもあるかと思うが、死の先に何があるのか?この地上での生活との別

 れの先に何があるのかわからない、という目に見えない漠然としたものへの恐れがあるのだろ

 う。だから日本人は4という数字を嫌い、死を避けようとする傾向にあるのだろう。

Ⅱ・「主イエスはよみがえられた」

   A.死に打ち勝った

   「ここにはおられません。よみがえられたのです。」という事実が語られる。死んだ人がよみが

 えるなどありえない、と多くの人は思う。事実弟子たちも諦めていた。しかし、イエスは死か

 ら勝利した。この事実が私たちに死の先に希望を見出すことができる初穂となるのだ。

   B.よみがえりの主と出会う

   弟子たちはよみがえった主と出会った。復活の日に5つの出来事が起こった。この事実を通し

 て、よみがえりの主との出会いによって、弟子たちは絶望から希望に生かされ、驚くほどに変

 えられた。彼らは教会を作り始めた。十字架の死が終わりではなかった。死は終わりではない。

Ⅲ・「キリストは生きている」

   A.復活のキリストを体験的に知る

   聖書にはたくさんの事実、驚くべき記述がある。しかしそれを知識として持っているだけでは、

 生きたキリストとの出会いを果たしたとは言えないかもしれない。体験的にキリストを知り、

 キリストと出会うとき、キリストは今も生きておられると力強く確信することができる。

   B.復活のキリストは語られた

   よみがえられたキリストは弟子たちに直接語られた。ペテロは後悔していたが、前を向いて力

 強く生きた。マリヤも悲しみに沈んでいたが、喜びへと変えられた。私たちにも生きておられ

 るキリストが直接語りかけてくださる。それによってどんな所からも立ち上がることができる。

結論:キリストは死に完全に勝利した。この事実こそが私たちを死の恐れから解放してくださる。死が終わりではなく永遠のいのちへの道であると知ることができた時、私たちは希望をもって、喜びをもってこの地上で精一杯切ることができ、さらにその先にある希望に生きることができる。キリストが今も生きておられるからこそ、私たちが苦難の時に声をかけてくださり、弱い者を強くし、嘆いている者を励まし、下を向いて落ち込んでいても、前を見て力強く歩むことができるようにしてくださる。復活のイエスと体験的な出会いを通して、私たちはさらに喜びの声をあげて、主を賛美し、希望に向かって力強く歩んでいこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-05-16 18:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「誰を救うのか?」

     A.第一の言葉

      十字架上の第一のことばとされているのが「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしている

のか自分で分からないのです」というものであった。イエスは苦しく辛い十字架上で、真っ先

に罪人らの赦しを願った。彼らは何をしているのか分からない。まさに闇の中、迷い子である。

B.周囲の言葉

      彼らはイエスに「あれは他人を救った。自分を救ってみろ」と言った。彼らはイエスを目の前

にして、真理を語っていた。しかし、本当の意味でイエスと出会ってはいなかった。多くの人

がイエスのことを知っており、その素晴らしさを知ってはいるが、イエスと出会ってはいない。

   Ⅱ・「イエスとの出会い」

A.精一杯のお願い

      同じ時に十字架にかけられた二人の人がいた。そのうち、ひとりはイエスに悪口を言った。し

かしもう一人は自らの罪を認め、イエスと共にいることを願った。二人ともイエスと同じ状態

にありながら、一人は確かに罪を認め、イエスとの出会いを果たすことができた。

B.第二の言葉

      その時、イエスは「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という第二のこと

ばを発せられた。イエス様は罪を認め、イエスに救いを求めた者に対し、その瞬間からパラダ

イスの生活を始めさせてくださる。イエス様との出会いの時、私たちもパラダイスにいるのだ。

結論:人は何によって生きるのか?その人が何を体験し、何を自分のうちに迎えたかによる。ものすごく感銘を受けた人との出会い、反面教師となった人との出会い。様々な出会いが、今の自分を構築している。しかし、本当に必要な出会いを果たしていない人がたくさんいる。イエス・キリストとの出会いこそが、十字架の救いの経験が人生の土台となっているか否か、それが本当にその人の人生を大きく変え、そしてそれによって、本当に幸いで、平和で、喜びと感謝に包まれたものとなっていく。イエスが罪人を救われた。イエスが私を救われた。この事実をおぼえ、感謝しよう。


by ontheway-chapel | 2019-04-16 10:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「人の弱さ」

     A.ピラトにあった葛藤

      ピラトはイエスの無罪と十字架につけようとする群衆の想いを見抜いていた。しかし、その核

心を貫くことができなかった。この世のしがらみ、自分を守りたいという気持ち。同時に正義

を貫きたいと思う気持ち。様々な思いが交錯した中で責任を放棄し逃げてしまった。

B.私たちの中にある戦い

      この世においてもクリスチャンであることで様々な戦いの中に置かれることがある。聖書の教

えが足かせの様に感じて信仰生活が窮屈に感じることがある。この世的な生き方と信仰生活の

狭間で戦いが起こる。そして私たちもまたイエスを十字架につけるようなことをしてしまう。

   Ⅱ・「弱さを克服するために」

     A.弁明しないイエス

      イエスはピラトを前にして一切の弁明をしなかった。イエス自身には一切の罪がなかった。し

かし今や、イエスは全人類の罪を負う事を受け入れ、十字架に向かっていた。イエスの沈黙は

罪がいかに弁解の余地がないものであるかを教えられる。真の神の小羊であることを証明した。

B.神に見捨てられたイエス

      イエスの十字架上の言葉に「どうして私を見捨てるのか」とある。本来ならば、私たち罪人こ

そが神に見捨てられるべき存在であったはず。しかしイエスが私たちの罪の身代わりとなって

十字架にかかってくださった故に、イエスがその辛いところを通ってくださった。

結論:心の弱さはすべての人が持っている。その弱さとどう向き合うかが問われる。自分の力ではどうすることもできないと気付き、イエス様にすがり、神の助けを求めていくのか。みんな弱いのだ、と開き直って好きなように生きるのか。イエスは私たちのそうした弱さ、弱さゆえの葛藤、闘いを克服してくださるために十字架にかかって死んでくださった。私たちはこの事実をしっかりと受け止めたい。私たちが心の弱さを克服する方法はただ一つである。それはイエス・キリストの十字架の贖いを、私のためと認め、私の弱さも含めてすべてを受け入れて、なお赦してくださる恵みに生きることを決心することである。ペテロの、ピラトの犯した罪、弱さは決して他人事ではない。同じ立場になったら、平気で同じことをしてしまうのが私たちのうちにある弱さである。それを素直に認めてイエス様の元へ行こう。イエス様がそのすべてを赦し、なおかつ祝福してくださった、私たちを前に進ませてくださる。


by ontheway-chapel | 2019-04-13 14:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ペテロの勇気」

     A.ペテロが自ら語ったこと

      聖書は弟子の弱い姿を赤裸々に隠すことなく語っている。聖書は美化された物ではなく、私た

ちの人生に、日々の生活に実に密着したものである。マタイはマルコの資料をベースにしてい

るが、マルコはペテロの説教から記録している部分がある。つまりペテロの証しである。

B.ぎりぎりまでがんばった

      ペテロはイエスが捕らえられそうになった時、剣をもって戦おうとした。イエスが捕らえられ

た時、ひとり完全アウェーの中庭にまで追いかけた。逃げたいと思いつつ、しかしイエス様か

ら離れることをためらい、ぎりぎりのところで踏みとどまった。しかしまた見つかった。

Ⅱ・「心の葛藤」

A.イエスの弟子だとばれた

   ペテロがイエスを追いかけて大祭司の家まで行ったとき、中庭にいた女中に弟子ではないかと

ばれた。その場を去り入り口から様子を伺うも、そこでも身元がばれてしまった。さらにもう

一度イエスの弟子であるということがばれてしまった。結果3度もイエスを否定し呪った。

B.否定したくないけれども

   ほんのちょっと前まで、イエスの一番弟子は誰か?と弟子同士で言い争うほどであった。イエ

スと一緒にいることが誇りであった。ペテロは最初に逃げることもできたが、しかしそこにと

どまった。ペテロは否定したくはなかった。イエスが大好きだった。でも否定した。

Ⅲ・「ペテロを包む愛」

A.勇気と否定し、泣いたペテロ

   ここまでのペテロの行動を見るとき、決してペテロを非難することはできない。ペテロは本人

なりに必死であった。イエスを守ろうと戦い、必死に追いかけた。逃げ出すこともできたが、

結果3度も否定してしまった。ペテロはイエスが大好きであったがために試練にあった。

B.イエスへの愛、イエスの愛

   ペテロを支えたのはイエスへの愛。それと同時にイエスのペテロに対する愛もあった。愛ゆえ

にペテロは苦しんだ。泣いた。しかし、イエスの愛によってペテロの涙はぬぐわれる。イエス

の限りない愛がペテロを再び立ち上がらせる。弱さの先にイエスの深い愛を体験できる。

結論:ペテロのこの数時間は地獄のような苦しみ、試練であっただろう。イエスについて行かなければ体験しなくて済んだことである。しかし、この自らの弱さを体験し、それでもイエスを愛する思いとの葛藤の中を通して、ペテロはイエスの深い愛を誰よりも味わうことができた。私たちも思いがけない試練があるかもしれない。イエスについて行くことで通らなくてもよい道を通されることがあるかもしれない。その時私たちの心は揺れ動く。弱さを思い知らされる。しかしその先に、イエスの温かい眼差しがあり、偉大なる赦しがあり、何よりも深い愛を知って弱い者が強くされていくのである。


by ontheway-chapel | 2019-04-10 18:11 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「必死の祈り」

     A.正直に祈る

      イエスはゲッセマネの園で祈った時、最初に自分の気持ちをアバ父よ(マルコ)と親しみを込

めて、全幅の信頼をもって正直に打ち明けた。十字架の苦悩、死と向き合うことは本当に辛く

できればそこから逃げたいと思うのは正直な気持ちでありイエスはそのまま神に打ち明けた。

B.しかし神第一

      イエスの願いは十字架から取り除かれることであった。しかしイエスの祈りはそこで終わらず、

神のみこころのままにしてほしいと続けた。自分の気持ちに正直でありつつも、しかし神の御

旨に従うというのはものすごい葛藤である。イエスも3度繰り返し祈る時が必要であった。

Ⅱ・「従いきることの大切さ」

A.寄り添うことの難しさ

   このイエスの必死の祈りを前に弟子たちはどうであったか?彼らは目をさましているように

と言われつつも、繰り返し寝てしまった。肉体の弱さ、限界を教えられる。どんなにイエスを

慕っていても、目の前でもだえ苦しみに共感できない、イエスに寄り添いきれない弱さがある。

B.自分中心の姿勢

   弟子たちの思いとイエスの思いにはずれがあった。イエスを裏切ったユダ。3度否定したペテ

ロ。いずれもイエスを信じ従っていながら、どこかで自分の思い通りに行かない現実を見た時、

彼らはイエスよりも自分を優先してしまった。従いきるということがどれほど難しいか。

Ⅲ・「決心へ」

A.後ろ向きから前向きへ

   イエスの必死の祈りにも心の揺れ、葛藤があった。十字架から逃れることはできないか、と後

ろ向きであったが最後には神の示す十字架へと前を向いた。その過程には徹底した試みとの戦

いがあった。祈りはその戦いに勝利し得る力があり、神には私たちを前進させる力がある。

B.さあ行こう

   神との交わりにおいて、決心した者の心とその歩みは強い。イエスは自分を捕らえに来た者た

ちに背を向けることなく、さあ行こうと前進した。神との徹底した交わりの先にはこの強さが

増し加わる。揺らぐことのない決心の先には、人知を超えた栄光の勝利が待っているのだ。

結論:目をさまし続けることは難しい。イエスに従い続けることも難しい。祈り続けることも難しい。何もかも難しいことだらけ。イエスも十字架を目の前にして苦しんだ。イエスでさえ苦しむことを私たちが悩み無しで進むことは難しい。でも、私たちにはアバ父と呼んで、本音で語り合い、ぶつかってもいいお方がいる。そのお方へ祈り続け、格闘した先には一つの道が開かれる。それは人から見たらいばらの道かもしれない。誰もが避けたがる道かもしれない。しかし、神との交わりで開かれた道の先には確かな勝利が待っている。そこに進む決心は自分の力ではできない。自分中心では無理。しかし、主が共におられる。主が誘ってくださる。だから私たちは決心し、前に進んでいくことができる者とされる。イエス自らがその道を進まれ、神の栄光を現した。私たちもイエスに続いていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-03-27 10:53 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「惜しまずにささげる」

     A.人の目にはもったいない

       一人の女性がイエスの頭に高価な香油を注いだ。この好意は周りにいた弟子たちにとっては

憤慨することであり、もったいないと感じることであった。人の目においては常識を逸脱し

ていると見えることであっても、主の目には正解であることがある。何を基準とするか?

    B.イエスを思う気持ちは無限

      周りから見たらもったいないと思うことであっとしても、女性にとっては全くもって惜しく

      なかった。むしろ喜んで行っているように見える。それはイエスのためになら何でもできる、

何でもしたいという思いから出た行為。イエスを思う気持ちは無限大に広がっている。

Ⅱ・「機会を逃さずに注ぐ」

A.いつでもできること

    弟子たちがもったいない、と言ったのはそれだけの香油があればたくさんの人を施すことが

できるというものであった。確かにその考えもわかる。でも世のすべてのことには神の時が

ある。弟子たちはこの時を見極めることができなかった。いつでもできることに固執した。

B.今しかできないこと

    一方でこの女性はもう数日後には十字架にかかってしまうイエス様に今できること、今しか

できないことを行うことができた。神の時に逆らい、後でやろうとして手遅れになることが

ある。神の時を、神の機会を逃さないように、私たちはいつも主を見上げ敏感でありたい。

Ⅲ・「イエスの望む事を行う」

A.埋葬の用意をした

    この女性はイエス様が一番望んでいたことを行うことができた。イエス様にとって目の前の

十字架が最大の関心事であった。女性はそのイエス様のみこころにかなう働きをすることが

できた。実際に死後、香油を塗りに行ったときイエスはもう墓にはいなかった。

B.美しい香りは永遠に

    イエスのこの地上での生涯において、特に最後は激しい憎悪、裏切り、政治的な陰謀に振り

回されたものであった。それだけに、この女性の行いは暗闇に光る憩いのひと時となった。

そしてイエスの言われた通り、この美しい行為は今日も教会で語られている。

結論:私たちの常識は、確かに正論であると感じるかもしれない。間違っていないこともある。しかし、その基準がこの地上における評価でしかないならば、本当の正解とはならない。大切なことは主の目にかなうかどうかである。この世的に人の目からは愚かであっても、私たちは主のために惜しむことなくできることを実践し続けていきたい。そしてその時を逃すことなく、しっかりといつも目をさましていたい。弟子たちはイエスの側にい続けていながら、この女性のような行動ができなかった。私たちも聖書を読むだけ、祈るだけでは十分ではないかもしれない。いつも聖霊により頼み、その時を逃さないように、イエス様の望まれることを望むタイミングでふさわしく行えるよう、いつも身構えていく必要があるのかもしれない。意識を少し変えて、目線を少し変えて、主の御旨を求め続けていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-03-21 11:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「沖に出る」

     A.自分のやり方で

      人生、うまくいくときもあればうまくいかないときもある。多くの人が体験していることかもしれない。果たして本当にそうだろうか?自分のやり方においてはうまくいかないことでも、自分の方が正しいと思っていることでも、実は少し角度を変えてみると全く違った結果になる。

B.イエスの方法で

      ペテロは自分の方法で、それも自分の方がその道に優れていると思っている方法でうまくいかなかった。それを素人と思えたイエス様の言う通りに従ってみた時、思いがけない結果が生まれた。今の自分から一歩前に踏み出そうとするとき、導き手によって大きく人生も変わる。

   Ⅱ・「何もかも捨てる」

    A.自分の非を認めた

      ペテロは自分の愚かさ、弱さ、間違いに気づいたとき、イエスを遠ざけようとした。その瞬間イエスは今まで以上に身近な存在となり、これからの人生の旅路においてずっと一緒にいてくれることになった。自分を中心に据える生き方から、イエスと共に歩む生き方への転換。

    B.何もかも捨てて従った

      イエスと共に歩む人生は本当に幸いである。しかし、それを妨げるものがたくさんある。私たちはイエスに従うと言いながら、この世のたくさんのものを握りしめたままである。イエスの弟子になる時ペテロは何もかも捨てたという。この決断が実は旅立ちに一番必要なことである。

結論:私たちの人生という旅路において、備えあれば患いなしというように、より多くのものをもっていた方が安心と感じる。何かの時にこれが役に立つかも、あれが必要となるかも、と必要以上のものを求め、握りしめていく。しかし、そうしたものではどうしようもない、全く太刀打ちできない限界がある。どれだけお金を持っていても、どれだけ力を持っていても、どれだけ豊富な経験を持っていても、クリアできないことがある。しかし、イエスの方法に倣っていくならば、そこには限界がないので、すべてが満たされ、すべてが最善に導かれる。大切なことはより多くのものを握りしめることではない。むしろそれらを捨ててイエスに従うという決断をすることではないだろうか。


by ontheway-chapel | 2019-03-15 09:57 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と真剣に向き合う」

     A.不安からの罪

       イスラエルの民はモーセが山から戻ってこないことに不安を感じた。指導者を失った民は

各々に自分の良いと思うことを勝手にする。神という指針を見失う時、私たちも自分が前に

出てきて罪を犯してしまう傾向がある。しっかりと神を見失うことなく歩みたい。

    B.モーセのとりなし

       神と民との契約は民の罪によって一瞬にして破棄されてもおかしくなかった。しかしモーセ

は自身の民を守るため、神との関係こそが大切であることを必死に訴えた。自分の様々な問

題については本気で祈れるが、誰かのために命を懸けるほどの祈りを私たちもしたい。

   Ⅱ・「応答される神」

    A.とりなしに応答される神

       神様はモーセの必死の祈りを聞かれた。私たちの神は必死の祈りを無視されない。むしろ心

開いて顔と顔を突き合わせて応答してくださる。憐れみ深く情け深い神の愛を私たちはしっ

かりと握りしめ、安心して必死の祈りに応答される神と交わりをもって行きたいと願う。

    B.咎と罪を赦す神

       神の恵みは千代にも保たれる。とこしえの恵みに満たされている。そして、私たちが必死に

自らの罪に対して、向き合い、とりなすとき、主はそれを取り除き赦してくださる。それは

イエス・キリストによって完全に成就された。この恵みに私たちも応答していきたい。

結論:神の愛の深さ、大きさは私たちの物差しでは決して測ることができない。このような大きな愛に私たちは包まれている。しかしそこには契約がある。この契約を破棄することなしに、私たちは神の愛に応答して恵みのうちを歩んでいきたい。私たちは罪を犯し、神を悲しませてしまう。しかし、それを素直に認め、とりなしの祈りをするとき、神はその祈りに応答してくださり、私たちを恵みの契約に立ち返らせてくださる。だから私たちは心から平安をもって、信頼をして神とともに歩んでいきたい。イエス様の契約を思い起こし、これからの聖餐の恵みに与ろう。


by ontheway-chapel | 2019-03-05 10:51 | Comments(0)