聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「とれなかった魚」

  1. テベリヤの湖での出来事

    テベリヤの湖とはガリラヤ湖のこと。エルサレムで復活のイエス様と出会った弟子たちはガリラヤに戻っていた。そこで漁師だったペテロは必要な食物を求めて漁に出た。かつて彼らはこれから人間をとる漁師になるようにと言われていたが、この夜は全く釣れなかった。

  2. 夜更けと夜明け

    夜中は光のない状態。イエス様無き状態。本来ならば夜は魚を釣るには絶好の時間。しかし釣れなかった。イエス様無き宣教、イエス様に信頼しない宣教は実を結ぶことはない。夜明け、イエス様と一緒の時に魚は釣れた。イエス様に頼ることがどれほど大切なことか。

Ⅱ・「思い出した弟子たち」

  1. イエス様との思い出

    弟子たちはかつて同じような場面に遭遇していた。その時も自分たちの力で頑張ったとき、魚は全く釣れなかった。しかし、イエス様に言われたとおりにしたとき、大漁となった。それを思い出した時、彼らの目が開かれて、目の前にいるのがイエス様であると分かった。

  2. 少しでも速く!

    復活のイエス様との出会いはどのような時であっても人の心を喜ばせる。ペテロは湖に飛び込んで少しでも早くイエス様の近くに行きたかった。イエス様が共におられると実感して心躍り、飛び上がるほど喜びと感動があるだろうか?イエスが共におられるとは喜びである。

Ⅲ・「共におられるイエス様」

  1. イエス様を体験する

    彼らはそこにいるのがイエス様であるとわかっていたので、あなたはどなたですかとは尋ねなかった。多くの人はイエス様が共におられることを知らないから必死に色々なところに拝みに行き、助けを求め迷走している。私たちはもう名を尋ねなくても迷わなくてもよい。

  2. 神の大きな愛

    魚の数153匹について様々な解釈があるが、どんなたくさんの魚が入っていてもその網は破れなかった。天の御国もどれほどたくさんの人が救われ、天国に行くことができても十分に受け入れるだけの準備がなされている。私たちも網から零れ落ちることなく天国を目指そう。

結論:十字架の死に勝利した復活のイエス様は「世の終わりまであなたと共にいる」と約束された。そして弟子たちに世界宣教のビジョンを託された。そのおかげで日本に住む私たちも救いの対象となり、素晴らしい恵みを受けることができた。弟子がイエス様を見つけて居ても立っても居られない気持ちで湖に飛び込んだように、私たちもそのイエス様がいつも共におられることを喜び、感謝したい。決して毎日が楽しいわけではない。痛み、苦しみ、悩みもある。しかしイエス様が私たちと共にいてくださる。もうこれから決して離れることはない。死んでも離れない。ずっと一緒。だから安心して毎日を喜びと感謝をもって過ごそう。


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by ontheway-chapel | 2017-04-23 07:33 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活に見る人々の反応」

  1. 女性たちの反応

    イエスの墓を見に行った女性たちは、空っぽの墓を目撃した。しかも御使いを通してイエスがよみがえられたというではないか!そんなこと信じられない。ごく自然な反応であるが、彼女らは御使いの言われた通り、イエスの復活を大喜びで宣べ伝えに行った。イエスの復活は、人々に大きな喜びをもたらした。

  2. 祭司長たちの反応

    一方、墓からイエスがいなくなったことを知った祭司長たちは、墓の番兵に金を渡して嘘をでっちあげるように命令した。彼らは陰謀をもってイエスを捕らえ、嘘偽りを並べて裁判にかけて、イエスを十字架にかけた。そして復活の事実も捻じ曲げようとした。しかし、そのいずれも失敗に終わっている。どんなに人が知恵を振り絞っても、神のご計画は超えられないのだ。

   Ⅱ・「最後のみことば」

  1. 出て行きなさい

    イエスが弟子たちに現れたのち、弟子たちに「出て行ってキリストの弟子を作るように」と命じられた。それは現代において私たちにも託された命令でもある。たとえその人がどのような過去を持っていたとしても、イエス・キリストの十字架と復活を信じていくならば、全く新しい人生がスタートする。新しいスタートを共に切ろうではないか。

  2. 共におられる

    少し前までイエスの死に落ち込み、逃げ隠れていた弟子たち。そのような状態でどうして出て行ってキリストを伝え、弟子を作ることができるだろうか?しかし、イエスは「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」と約束された。私たちは弱い存在であり、欠けだらけな者。しかし、死をも克服され、勝利されたお方、不可能と思えたことを可能にされた方が共にいてくださるとき、私たちには勇気と力が与えられる。

結論:死んだ人がよみがえる。かつての私は最後の最後までこの事実を受け入れることができなかった。そんなこと有り得ない。証拠を見せて見ろと息巻いていた。しかし、キリストの復活は事実であり、今も生きておられる。だから私たちは死の先にある希望(天国)を見上げて生きることができる。このような本来ならば天国に行くに値しないような者にその切符が与えられている。これほどうれしいことはない。しかも、先に召された方々とそこで互いによみがえって再会できる。この事実を共に喜ぼう。そしてイースターをお祝いしよう。


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by ontheway-chapel | 2017-04-17 08:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「イエスの死」

  1. 十字架上のイエスのことば

    イエスは十字架上で7つの言葉を発したといわれている。それは赦しであり、祝福であり、旧約聖書に記されていたことの成就でありました。イエスは最後まで神の御旨に従い、その使命に生きた。その目的は私たちの罪の身代わりであり、私たちの救いのためであった。

  2. わが神、どうして見捨てるのか

    十字架上における第4のことば。私たちにとって神に完全に見捨てられるほど恐ろしいことはない。人類すべての罪を背負ったイエスはその恐怖をも背負ってくださった。しかしこれによって私たちには神との真実の和解の道が開かれた。その中心にはイエスの愛がある。

Ⅱ・「勝利に向かって」

  1. 幕が裂けた

    イエスが息を引き取った時、神殿の幕が裂けた。この幕の奥には大祭司だけが年に一度だけ入ることができる神と人との隔ての幕であった。しかし、イエスが人類すべての罪を負って身代わりとなったことで、この隔てが取り去られた。古き時代の終わりの瞬間であった。

  2. 墓が開いた

    幕が裂かれた後に幕が開いた。これはまさに新しい時代の幕開けであった。つまり、イエスが死を克服された象徴でもある。イエスが死に勝利した、つまり私たちにも完全なる勝利の道が開かれたことを意味している。イエスを信じる者たちの未来への希望が開かれたのだ。

Ⅲ・「葬られたキリスト」

  1. 勇気をもって

    アリマタヤのヨセフというイエスを十字架につけた側のグループに属していた一人の人物が、勇気をもってイエスの埋葬を申し出た。それは自らのこれからの立場を危うくしかねない行為であったが、彼は人々の目よりもイエスのためにできる最善の道を選んだ。

  2. 死んで葬られた

    イエスは十字架上で完全に死に、そして墓に葬られた。これは間違いのない完全な事実である。なぜならば、私たちの罪が完全に赦されるためには完全に死ななければならなかった。他の人々と同じように墓に葬られた。しかしこれは敗北ではなく完全な勝利への道であった。

結論:イエス様は十字架上で何を考えていたのでしょうか?痛みから早く楽になりたい、この苦しみから逃げ出したい、どうしてこんな目に合わなければならないのか、などなど自分のことだけを考えていたのでしょうか?いや、おそらくご自身を通して神様が示そうとされた神の人類に対する愛を思っていたのではないかと思うのです。では、神が御子イエス様を通して示された犠牲の愛に対して、私たちはどのように応答すべきでしょうか?私たちがこの愛を知って、この愛によって生かされる。これまで培ってきた自分中心の自分を捨てて、全く新しい神の愛に生きる生き方を目指していこうではありませんか。


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by ontheway-chapel | 2017-04-11 15:11 | Comments(0)
本論:Ⅰ・「二人の息子の話」
  1. 口だけで従った者

    兄は父の願いに快く返事はしたが、実際には従わなかった。これはまさに表面的には宗教的敬虔さを装っていながら、実際には自らの名声を求めていた当時のユダヤ教指導者たちの姿である。彼らは「先の者」であり、イエスを救い主と認めることができなかった者たち。

  2. 実際に従った者

    一方、はじめは拒んだものの、悪いと思い出かけていったのは、取税人や遊女であった。彼らはカイザル(ローマ)に仕え、または姦淫を犯して神に背いていた人たちであった。しかし、彼らはヨハネの悔い改めを受け入れ、イエスに従うことができた「あとの者」であった。

Ⅱ・「ぶどう園の譬え」

  1. 譬えにおける登場人物

    この譬えにおいて、ぶどう園はイスラエルの民を、ぶどう園の主人は神ご自身を、農夫はイスラエルの宗教的指導者。しもべは預言者たちであり、息子はイエス様であった。そしてこの譬えは当時のパレスチナにおいてはごくありふれた身近な光景であったという。

  2. 譬えから教えられること

    この譬えにおいて神、人、キリストという3つのことについて教えられる。神は人を信頼し、忍耐された。人は特権と自由が与えられたが、同時に罪と清算が与えられていた。キリストは神の子であること、そして犠牲を負うという神のご計画と福音が明確に語られている。

Ⅲ・「キリストのさばき」

  1. さばきを与える主

    旧約聖書には石について語られている個所がいくつかある。(イザヤ書8章、28章、ダニエル書2章)そしてそれらはすべてイエス・キリストを指している。イエスはすべての礎となる石であり、すべてを組み合わせる石となり、拒む者にはさばきの砕く石となる。

  2. 罪に光を当てる主

    イエスはこれらの譬え話のなかで、人々に自らの罪を認めることができるようにと促し、気づきの機会を与えてくださっている。神の深い憐みと恵みに感謝しよう。このキリストの光に対して、罪を認めて悔い改めるのか、なお逆らい続けるのか。私たちは問われているのだ。

結論:私たちは神の恵みと憐れみを存分に受けているが、実は多くの人がそこに気づいていない。だから、イエス様の十字架も他人事で、自分には関係ない、必要ないと感じている。でもそのままでは、人間はやがて神のさばきにあって滅びの道に進んでしまう。そうならないために、神はイエス・キリストを通して、私たちが罪を認め、悔い改めて救いの道に進むことができるように道を備えてくださった。その道に進むのか、拒んで滅んでいくのかは私たち人間に託されている。自らの罪を認め、救いの道へ、天の御国を目指そうではないか。





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by ontheway-chapel | 2017-04-02 21:16 | Comments(0)