聖書のメッセージ

onthewaychapel.exblog.jp

川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

ブログトップ

<   2017年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

本論:Ⅰ・「味方である神」

  1. 神が味方であるならば

    パウロは神が味方であることを前提としている。それは御子を惜しむことなく私たちの救い、勝利のために、無罪となるために、十字架につけられたゆえである。神は私たちを滅び、敗北に向かうことを良しとはされなかったから。だから誰も私たちに敵対することはできない。

  2. 何も怖くない

    神を敵に回すことが一番怖い。天地を創造されるほどの力をもったお方、すべてを支配されているお方。この方に勝利できる存在はない。最強。絶対に負けない。それが決して裏切らずに必ず味方となってくれるならば、何を恐れることがあるだろうか?だから安心できる。

Ⅱ・「引き離されない愛」

  1. キリストについて

    私たちをキリストから引き離すことはできない。キリストは死、復活、神の右の座におられ、私たちをとりなしてくださっている。それは私たちをさばく為ではなく、弁護してくださるゆえに。私たちはそれゆえやがての日、神の前に立つとき、喜びと感謝と平安でいられる。

  2. 神の愛から離れない

    私たちが一番恐ろしいのは何か?この地上における患難、苦しみ、迫害、敵からの攻撃か?そうではない、神の愛から引き離されることである。しかし、イエス様が私たちの痛み、苦しみ、恐れのすべてを十字架上で背負ってくださった。これが神の愛。誰も邪魔できない。

Ⅲ・「圧倒的な勝利者」

  1. 私たちを愛してくださった方

    キリストは十字架にかかって死んだ。それは人から見たら完全な敗北かもしれない。しかし、それは圧倒的勝利であった。そしてその十字架の苦難と死に与る者は、キリストと共に復活の勝利と栄光に与る。これ以上の勝利はない。ビクトリーロードは私たちに示されている。

  2. キリストの愛ゆえに

    この地上で私たちを悩ますものはたくさんある。試練、痛み、悩み、苦しみ、理不尽な出来事、死。それに打ちのめされることもある。しかし、どれほどそれらの攻撃が厳しく、強くても、私たちからキリストを引き離すことはできない。キリストの愛に勝るものはないから。

結論:パウロは私たちは圧倒的な勝利者となる、と断言した。その根拠はどこにあるのか?私たちの努力や、能力によらない。それらには限界がある。しかし、キリストの愛が十字架上で私たちに示された。命を犠牲にした愛。それゆえに、私たちは勝利の道が開かれた。神が必ず私たちの味方となってくださるゆえに、私たちには平安がある。そしてキリストによって示された愛ゆえに、私たちは神から引き離されることなく、その生涯を歩むことができ、地上のみならず、天の御国においても永遠に一緒にいることができる。祖の歩みこそ、誰にも阻止することのできないビクトリーロードであり、キリストの愛ゆえに圧倒的な勝利者となることができるのだ。


[PR]
by ontheway-chapel | 2017-05-25 18:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と死」

  1. 死と向き合うとき

    パウロは最初にひとりの罪によって人類に死が入ったという。パウロはこの書の中で初めて「死」について語った。パウロは罪についてよりも死について意識を向けて語っている。死は人類にとって決して避けられないもの。死を見つめる。

B.罪と向き合うとき

       パウロは死と向き合うと同時にそこから救われる喜びを見出した。あれほど恐

ろしい死から救われる。私たちも救いの恵みをより深く味わうためには、自分

の罪と向き合うことが必要であり、そこから赦された恵みに目が向けられる。

Ⅱ・「ひとりの罪とひとりの義」

  1. アダムの罪

    パウロはここでアダムの罪に言及する。アダムは間違いなく人類すべての祖先。そのアダムが犯した罪によった与えられた死が後の全人類にまで及んだ。アダムと全人類との連帯。しかし、私たちもアダムと同じように罪を犯している。

B.イエスの義

    イエス・キリストが私たち全人類の罪の刑罰を身代わりとなって十字架におい

て受けてくださったゆえに人々の罪は赦された。同時にキリストは復活によっ

て死をも克服された。イエスと全人類との連帯。しかし、誰にもできないこと。

Ⅲ・「恵みによるいのち」

  1. 何に支配されるか

    人は必ず死ぬ。決して避けることはできない。だから死に支配されているのか?同時にキリストにあるいのちに支配されることについて言及している。死に支配されるならば死は絶望となり、いのちに支配されるならば死は希望となる。

B.永遠のいのちに至る恵み

    いのちに支配されるとはどういうことだろうか?私たちの生き方の中心を罪

(自分)中心から、いのち(キリスト)中心に変えるということ。自分の努力

ではできない。神の愛と憐みによって一方的に与えられる素晴らしい恵み。

結論:私たちは罪を犯します。心の中でとんでもない恐ろしい思いを抱くことがあります。時にはそれが表に出て、意図的、意図的でないにかかわらず、誰かを傷つけたり、逆に思い切り傷つけられたりもします。それら罪の先には死が待っています。しかし、イエス・キリストの十字架の贖い、復活の恵みによって私たちの罪が赦され、さらに永遠のいのちが与えられます。自らの罪を認め、悔い改めてキリストの支配に身を置くならば、アダム以来の罪と死がこのキリストの恵みによって覆われ、これらから完全に勝利されます。死はもはや恐れ、絶望ではなく、希望、喜びと変えられていくのです。


[PR]
by ontheway-chapel | 2017-05-15 08:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


[PR]
by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


[PR]
by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)