聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「父なる神」

  1. 怒りの神

    私たちと神様の関係はかつて、神と敵対するような関係であった。私たちは平気で神様を悲しませることをしていた。神様などいないと本気で思っていた。その関係であるならば私たちは神の敵であり神のさばきの対象であった。神に見捨てられて当然の私たちであった。

  2. アバ(お父ちゃん)と呼べる神

    しかし、神はそのような私たちをそのまま放置するのではなく、壊れた関係を回復できる道を備えてくださった。そして私たちは父なる神を「お父ちゃん」とごく親しい間柄だけが呼ぶことができるような関係へと戻してくださった。本来あるべき関係に戻してくださった。

Ⅱ・「忍耐と慰めの神」

  1. 忍耐

    私たちにはいくつもの試練、理不尽な攻撃にあうことがある。クリスチャンじゃなければ相手に一言文句でも言いたくなる、手を出してやりたくなるほどの思いに駆られることもあるかもしれない。しかし、私たちは耐える。それは我慢とは違うのだとある先生は言う。

  2. 慰め

    私たちが体験する忍耐を要する試練や理不尽と思えることがあても、それが神の許しの中にあるならば、御手の中にあるならば、その先に必ず神の栄光を見ることができる。それまで神は私たちを慰めてくださる。その慰めをいただき私たちも誰かを慰めることができる。

Ⅲ・「喜びと平和の神」

  1. 希望の先にある喜び

    この地上の多くの人が人生に希望や喜びを見出せない。とても悲しいこと。しかし私たちは違う。私たちが神により頼むとき、そこに失望はない。つまり信仰がある時、そこに希望を見出すその信仰が、あらゆる喜びと平安を見出すことができる。それは神から与えられる。

  2. 平和の神

    聖書のいう平和は単に戦争や争いといったものが全くない、ということを意味しているのではありません。神ご自身が私たちの心に平安、心の穏やかさを与えてくださることを指す。クリスチャンでも問題は起こる。しかしその中にいつも神が共におられるから平安がある。

結論:私たちの神は神に敵対しままならば恐ろしいさばきの神であるかもしれない。しかし、神は私たちとの関係を取り戻す道を備えてくださった。それによって私たちはお父ちゃんと呼べるほどの親しい関係を持つようになった。その時、その神が忍耐と慰めを持ち、喜びと平和をもたらしてくださるお方であると知ることができる。私たちの人生、様々な問題があり、悲観してしまうことがある。しかし、主に信頼しより頼むとき、私たちには耐えることができるようになり、神の慰めをいただきながら、その先にある喜びと平和を見出すことができる。私たちの先にあるもの、それは失望や悲しみ、怒りではない。希望に満ち溢れており、喜びと平和が満たされることがはっきりと約束されているのだ。


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by ontheway-chapel | 2017-06-27 09:24 | Comments(0)

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by ontheway-chapel | 2017-06-21 16:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊に満たされた者」

  1. 大胆に語り始めた

    聖霊に満たされた人物には大きな変化が現れた。それは弟子たちが突然他国の言葉で語り始めたということに見ることができるが、同時に、それまで隠れて過ごしていたような弱さが全く消え失せ、大胆に神について語ることができた。皆が驚くばかりのみわざがなされた。

  2. 聖霊の働き

    聖霊は目に見えない。それだけにその働きを私たちは軽視してしまいがちかもしれない。また、その働きに満たされている人を見ても、あの人は変だ。おかしい、かかわらない方がいい、と思うほどの変化があるかもしれない。それほどに聖霊の力はすさまじく素晴らしい。

Ⅱ・「ペテロのペンテコステ」

  1. イエスに従いきれなかったペテロ

    ペテロは弟子たちの中でも本当にイエス様が大好きだった。それだけに色々と教えられ、また怒られ、最後までイエス様について行こうとしたが、そこでもイエス様に従いきれなかった。私たちにも同じような失敗があり限界がある。だからこそ聖霊の助けが必要である。

  2. 大胆に語るペテロ

    そのペテロが今や、聖霊に満たされて大胆に福音を語った。ユダヤ教の正典でもある旧約聖書のヨエル書を大胆に解釈し、キリスト教化してしまった。どうしてこのような高度な解釈がペテロにできたのだろうか?聖霊に満たされた時、一介の漁師だった者が強く用いられる。

Ⅲ・「みな救われる」

  1. 幻、夢を見る

    最近の人たちはなかなか将来のビジョンを持てない、夢を語れなくなっていると言われている。そしてその中にクリスチャンも含まれているかもしれない。私たちが夢と幻を見て、そして聖霊に満たされて、現代における預言者として力強く神のことばを語る者でありたい。

  2. 主の名を呼び求める

    やがてキリストの再臨が必ず訪れる。その時、とんでもなく恐ろしい天変地異が起こると聖書にははっきりと書かれている。それは実に恐ろしいが、しかし主の名を呼ぶ者は、どのような人であっても救われるという。しかし聖霊の働き無しにそのようなことはできない。

結論:今日はペンテコステ(聖霊降臨日)である。イエス・キリストが十字架につけられ死んで後、3日目によみがえられた日から50日目ということで、この名前が付けられました。その日、聖霊に満たされた弟子たちは酒に酔っていると思われるほどに、人々に受け入れがたいほどの変化がもたされた。すべて神のみわざである。そして聖霊に満たされた時、弱かった弟子たちが大胆にキリストを語り、神の救いのご計画を明確に語った。私たちも聖霊に満たされるとき、大胆にキリストを語ることができる。そしてこの聖霊に満たされて、私たちはキリストを主であると告白することができ、その名を呼び求めることができる。その人はみな救われるのだ。


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by ontheway-chapel | 2017-06-05 09:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ユダヤ人の熱心」

  1. パウロの願い
    神様の願いであるように、パウロもまたすべての人が救いに導かれることを願っていた。そのために、あえてユダヤ人があまりに律法を順守することにおける間違いを指摘し、真実が何かを伝えようとした。

  2. ユダヤ人たちの熱心

    ユダヤ人たちは律法を一字一句守ることに熱心であった。しかしその熱心さは知識に基づくものではないとパウロは指摘した。知識とはイエス・キリストを知る知識である。イエス不在の熱心さはやがて自分自身の義を立てる行いに至る。このキリストへの不従順さがユダヤ人の態度の中心となってしまっていた。熱心さの方向性がずれてしまっていたのだ。

   Ⅱ・「私たちの熱心」

  1. 私たちの熱心はどこに

    私たちも日々、一生懸命神様を見上げ、イエス様の救いに感謝をし、神と共に歩もうと熱心に励んでいる。しかし、それは時に律法主義的な義務的な信仰になってしまう。それは難行苦行となる。私たちは神の愛ゆえに熱心でありたい。喜びと感謝が心から湧き出てくるような、信仰生活を送りたい。それが動機となる時、自分の義よりも神の義が第一となるのだ。

  2. ギデオン協会の熱心

    本日はギデオン協会の働きをおぼえての礼拝。かつて私もお手伝いをしたことがある。その尊い働き、熱心さには頭が下がる。10:1415。ギデオンの方が配った聖書をきっかけに救いに導かれた人がどれくらいいるのだろうか?自分たちの義を立てるためだったら、とっくに諦めて、心折れても仕方ない働き。主への熱心さ、信仰の義ゆえにできる働きである。

結論:私たちには限界がある。それを自覚しないで自らが完全であるかのようにがんばることは、キリストを蔑むことであるとパウロは指摘した。ユダヤ人たちは律法を完全に守ることに熱心であった。しかしそれは不可能なことであった。人間の努力で天に行くことはできない。神の力に頼るしかない。イエス様の十字架を信じるしかない。自分の努力を中心にするとき、それは自分を主とすること。私たちはキリストを主としたい。なぜならば、それしか救われる方法はないから。だれでも、イエスを主と告白するとき、私たちは祖の信仰ゆえに義とされ、救いに与り、天の御国へのチケットをいただくことができるのだ。

川越国際キリスト教会ホームページ
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by ontheway-chapel | 2017-06-01 16:28 | Comments(0)