聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「厳しい現実」

  1. エレミヤが辿ってきた道

    エレミヤは南ユダの人たちを前に、神様からの言葉を語った。それは民を何とか救いたいという思いからであり、神に忠実でありたいという思いからでもあった。エレミヤは必死になって民を説得しようとしたが、その結果は民を怒らせ、エレミヤは捕らえられてしまった。

  2. 現実を前にして

    エレミヤは現実を前にして、気力が衰え、神の働きを捨てたいとさえ思うほどに打ちひしがれた。もう何も語りたくない。何もかもむなしく、恐ろしく、逃げ出したいと思うことがある。私たちは現実の大きさを前にうろたえ、絶望感に包まれてしまいそうになる。

Ⅱ・「抑えきれない衝動」

  1. 人から神へ目を移す

    私たちを取り巻く現実の巨大な力を前に気持ちが萎えてしまう。しかし、エレミヤは人(現実)からその目線を神へと移した。自分の生涯にわたってともにおられる神に目を向けるとき、そのお方に信頼するとき、厳しい現実を打ち砕く神の偉大さによって平安が与えられる。

  2. 燃え盛る火

    エレミヤが人ではなく神に目を向けた時、再びその心に火がともった。この火を燃やす原料は神から来ているので尽きることはない。この火によって私たちの心の内に冷えて固まった弱さが溶かされ、抑えきれない衝動となって神の目的のために歩むことができるようになる。

Ⅲ・「格闘の末に」

  1. ヤコブとエレミヤ

    かつてヤコブも神と格闘し、自分の内にある恐れに勝ち、神からの確信をいただき前に進むことができた。エレミヤも神との格闘を通して弱さを打ち砕き、神の働き人として再び立ち上がることができた。いずれも共におられる神との格闘の先に新たなる力をいただいた。

  2. 私たち

    私たちも日々の生活の中で、信仰生活の中で思い通りに行かない、先が見えない試練と向き合う。巨大な現実を前にうろたえ絶望し、あきらめかけてしまうかもしれない。しかし神にしっかりと目を向け神との真剣勝負、本気の交わりを通る時、本当の強さと平安を手にする。

結論:エレミヤは現実を前にもうだめだ。神様が助けてくれると頭でわかっていても、心がついて行かなくなってしまいかけた。恐怖と絶望がエレミヤを襲った。でもその時、現実世界だけではなく、目の前にいる敵だけではなく、神様ご自身に目を向けることができた時、彼の内に燃え盛る火が再び点火され、もう一度立ち上がり、神とともに歩むことができた。徹底的に神と格闘したその先に、エレミヤは確かな確信をもって新たな力をいただき、現実の困難を乗り切ることができた。人ではなく神がなしてくださる。神ご自身が勝利してくださる。神の強さと平安をこの手に握って前に進むことができるようになる。


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by ontheway-chapel | 2017-09-25 12:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「失敗は悪くない」

  1. より良い人生を願う

    人は誰でも自分の人生をより充実したもの、素晴らしいものとなることをどこかで願っている。苦しいより楽しい方が、暗いより明るい方がいいと願う。様々なところをさ迷い歩いて捜し求める。これが良いと思っても裏切られたり、うまくいかなかったりすることがある。

  2. 失敗が成功への土台となる

 人はその人生の中でたくさんの失敗をする。小学生時代に学芸会で最後の締めのセリフを完全に忘れてしまい台無しにしてしまったことがある。それ以来人前で話すことが怖くなった。不思議なことに毎週人前で話をする働きに召されている。入念に備えるようになった。

Ⅱ・「完成させてくださる主」

  1. 失敗を見て直してくださる

    陶器師は神様であり、粘土は私たちである。陶器師は作品を完成させるために粘土のほころびを見つけては、練り直し、そして修正して完成へと近づけてくれる。それは実に忍耐のいる作業であるが、一切の妥協をせずに徹底的に向き合い、整えて完成へと導いていく。

  2. ご計画の通りに完成される

    粘土はもっとこうした方が格好いい、こうした方が機能的ではないか、と陶器師に逆らいたくなる。しかし陶器師の手は何と繊細で慈愛に満ちているだろうか?陶器師は決して作品をないがしろにしない。一つ一つに心を込めて、愛を詰め込んで最高の作品に仕上げてくれる。

Ⅲ・「陶器師に対する私たち」

  1. 心頑ななままか?

    時に粘土はわがままであり、陶器師の計画に逆らう。なぜならば神のご計画の素晴らしさを実感できず、全貌を見ることもできないのだから当然かもしれない。粘土が完成するために最後に火で焼かれなければならない。それを拒んでしまうならば、いつまでも完成しない。

  2. 素直に従うか?

    神に従って生きても、試練や困難はある。粘土が作品として完成に至るまでに時に何度も火を通されることもある。しかし、その完成した作品は実に美しい。神は忍耐をもって私たちを素晴らしい作品に完成させてくださる。その御手に信頼して従う者とさせていただきたい。

結論:神の造る作品はどれ一つと同じ作品はない。なぜならばすべて手作りで、それぞれに込められたご計画があるから。ある人は平皿かもしれない。ある人は花瓶かもしれない。でもどれもすべて美しく、優劣つけられない最高の作品である。神様は私たちの人生を最高のものとしてくださる。私たちを愛しておられるから。ろくろの上でもがくのか?それとも陶器師の手を信頼して委ねて形造られていくのか?すばらしい輝きを放つ作品とさせていただこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2017-09-20 15:32 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「あるがままの私」

  1. 自分勝手な私

    ここに登場する弟は生前贈与を求め、財産を手にした後、自分の生きたいようにと願って父の元を離れた。その先にある新しい人生は非常に魅力的であり、希望に満ち溢れたものに見えた。私たちの人生においても、魅力的、希望に満ちた世界を、より良い生活を必死に探し求めている人がたくさんいます。みんな自分の人生を何とか良くしたいと願っている。

  2. ボロボロの私

    弟は財産を使い切ってしまった。財産がある時には近づいてきた人たちも、手のひらを反すように離れていく。そして大飢饉までが彼を襲った。自ら望んだ魅力と希望に満ちたはずの人生がボロボロになってしまった。人生のどん底にまで突き落とされてしまった。自分の力ではどうすることもできない現実を前に、一体どこに希望を見出したらよいのだろうか?

Ⅱ・「あるがままを受け入れる神」

  1. 待っていてくれる

    弟はふと我に返る。そうだ、父親のところに戻ろう。自らの失敗を素直に認め、そのうえでなお父を頼って帰ろうと思った。それも親子関係などおこがましい、父の奴隷でいいから側においてもらうという。父から離れた時の自分勝手な姿はなくなり、唯一の希望である父の元へとたどり着いた弟を、父は首を長くして待ち続けていて、ボロボロの彼を受け入れた。

  2. 祝ってくれる

    父は喜んで弟を迎えてくれた。それも盛大な祝宴まで用意して歓迎してくれた。弟はまさに私たちその物であり、待っていてくれた父は神である。神は自分勝手な私たちを見守り、待ち続けてくれる。そして受け入れてくださり、盛大な祝宴を用意して歓迎してくれる。ここに本当の希望があり、魅力あふれる人生がある。その招待状を私たちは手にしている。

結論:いただいた招待状は、有効期限がない。いつでもそこに行き祝宴を受けることができる。そのための唯一の条件は、弟がそうであったように自らの歩みを振り返り、本当に変えるべきところはどこか?本当の希望はどこにあるのか?どこに行ったら魅力ある人生を送ることができるのか?を見つけることである。招待状を手にしていても、どこに行っていいかわからず、さまよっている人がたくさんいる。でも神は待っていてくれる。そして戻ってきたとき、盛大な祝宴が開かれる。神はあなたを歓迎し祝宴を開くことを待っておられる。


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by ontheway-chapel | 2017-09-11 15:35 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エレミヤの嘆き」

  1. 地元、家族が敵となった

    エレミヤは忠実に神の働きに従い続けた。それは民の罪を暴き、しかし責めるのではなく、悔い改めて神に立ち返るようにという、民の救いのための働きであった。にもかかわらずエレミヤの語る言葉に地元も家族も敵対した。味方であってほしい身内からも見捨てられた。

  2. とりなしの祈りを聞かなかった

    民は闇の中にどっぷり浸かっていた。エレミヤは必死に民に真の光を示し、彼らのために時間と労をささげて祈り続けた。しかし民は彼に感謝することなく、むしろ責め立てられ、いのちの危険にさらされていった。虚しさが増してくる瞬間であるが、危険な兆候にもなる。

Ⅱ・「孤独と葛藤」

  1. 誰も助けてくれない

    エレミヤに味方はいなかった。少しでも彼の苦しみを分かち合い、嘆きを聞いてくれる人がいたら、どれほど救われただろうか?しかし、彼の本当の苦しみなど誰も知ることが無かったし興味もなかった。彼を助けてくれる存在はどこにもなかった。ただ死を待つばかり?

  2. 神の沈黙

    エレミヤは知っていた。この地上ではないところに本当の助けがあることを。しかし、その助け手が何もしてくれないと感じることがある。こんなに苦しいのに、どうしてわたしを見捨てるのか?と。これは忠実な献身者だから、神は答えるはずという高ぶりかもしれない。

Ⅲ・「解放される神」

  1. 道を示される

    エレミヤは神のことばを語るに疲れた。人間的な嘆き(卑しいこと)が口から出てきた。預言者は神のことばを語る口が与えられている存在。もし原点に立ち帰るならば、再び預言者として立たせると道を示された。ふさわしくない者が素晴らしい働きに召された再確認。

  2. 嘆き、孤独、葛藤から解放される

    私たちは嘆き、孤独を感じ、神との関係に葛藤を覚えるかもしれない。しかし神はそれを非難するのではなく、むしろ霊的孤独から解放させてくださり、もう一度強く立つことができるようにと導いてくださる。なぜなら主が「あなたとともにいて、救い助け出すからだ」

結論:私たちの日々の信仰生活でも、思い通りに行かない。神様との交わりがうまくできない。迫りくる試練、悩み、痛み、苦しみの中で思わず嘆くことがある。しかも、その助けを求めていながら誰も助けてくれない。神すら助けてくれないと感じることがある。しかし、神は必死に神に求め、すがろうとする民を決して見捨てることはない。なぜならば、神は私たちに最善の道を示され、私たちを霊的孤独から解放してくださるから。その根拠は「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い、助け出す」という神と私たちの交わりの確信、大前提にある。私たちはそこに立ち返り、もう一度力をいただき、前を向いて歩んでいきたい。


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by ontheway-chapel | 2017-09-05 10:04 | Comments(0)