聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「祈りには力がある」

  1. パウロと教会の関係

    パウロがテサロニケの教会のために必死に祈ったように、テサロニケの教会もパウロの宣教の働きのために、祈りを通して積極的にその働きを支えていった。これが生きた霊的な交わりであり、そこにはどちらか一方だけではない、双方向の交わりと確かな結びつきがある。

  2. 祈ってください

    パウロが求めた祈りは福音宣教の広がり。主のみことばが広がることであり、またあがめられることであった。さらに悪の働きから守られることを願った。誰かの痛みを自分の痛みのように思い、必死にとりなしの祈りをささげることができるのが、キリスト者の特権である。

Ⅱ・「神の守りがある」

  1. 愛するがゆえに

    パウロの祈る先には真実なる神がおられるという絶対的な根拠をもって、神の守りの確かさを訴えた。神の守りのゆえに私たちは強く立たせ、守られる。それは神の愛が源流にある。神の愛の真実さのゆえに、いつも神の守りの中を歩むことができ、真の平安に包まれる。

  2. 心配してくださる

    神は私たちが信仰を持った時から、もう大丈夫と距離を置くお方ではない。いつも私たちが様々な攻撃、誘惑に負けないように心配してくださっている。テサロニケにおける迫害、パウロの宣教への迫害に対しても、神様はいつも愛ゆえに心配し、守ってくださっている。

Ⅲ・「私たちの喜びがある」

  1. パウロの喜び

    パウロは神にあってテサロニケの人たちが守られている事実を喜んだ。祈りの先には喜びがある。どんなに辛い状況に置かれた人がいたとしても、私たちは真実であり愛なるお方に祈りをささげ、離れていたとしても支えることができる。神に祈れることは大きな喜びである。

  2. 私たちの喜びは神の喜び

    私たちが真実なる神を信頼し、ひたすらに祈ることを神は喜んでくださる。また、私たちが喜びをもって日々過ごせることを神は喜んでくださる。すべては主と共に歩むなかにあって、私たちは祈ることができ、そして大きな喜びに満たされた歩みをすることができるのだ。

結論:神の愛とキリストの忍耐。これがなければ私たちはいったいどうなっているのだろうか?と想像する

だけで恐ろしくなるばかりである。しかし、神は真実なるお方であるがゆえにその愛と忍耐を無限大に発揮してくださる。だから私たちはこの神の真実さを心から信頼して、日々平安に過ごすことができる。それは私たちの喜びとなり、また神の願う喜びでもある。


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by ontheway-chapel | 2017-11-30 14:13 | Comments(0)


本論:Ⅰ・「人々の関心」


  1. 落ち着きを失う情報

    テサロニケの教会に向けてパウロはすでに第一の手紙において終末について大胆にそして生き生きと語った。しかしパウロによってもたらされた情報が思わぬ誤解や、人々に誤った興味関心を抱かせてしまった。それによって人々は落ち着きを失い、心を騒がせてしまった。

  2. パウロの主張

    パウロの宣教において伝えたかったことは「やがての日は近い」「主は近い」というものであった。しかしそれは必ずしも我々のカレンダー、時間軸でとらえる必要はない。主の御手に従い、信頼して歩むこと、新しい日を待ち望みつつ、現代にあって生きることであった。



Ⅱ・「警戒すべきこと」


  1. 惑わすもの

    パウロは私たち信仰者を惑わし、だます要素として背教と不法の人を挙げている。しかしそういう人たちに本当の勝利は訪れない。また自らを高く上げ、自分こそ神と宣言する高慢さ。そういうものに私たちは惑わされやすい。地上の目に見える力、輝きに惑わされてしまう。

  2. より頼むべきもの

    そうした私たちを惑わし、混乱させる勢力に対してどのように警戒し、対応したらよいのか?地上の輝きではなく、神の栄光の輝きにこそ目を向けることが大切である。砂の上ではなく、決して崩れることのない土台に立って歩むことが道を外さない唯一の方法である。



Ⅲ・「恵みに生きる」


  1. 滅びる人

パウロは真理への愛を受け入れず、悪を喜んでいる人たちを神はさばくと述べた。神を中心とせず、自分を中心に置く。神の栄光を見ず
に、この地上の輝きを追い求める。多くの人たちがそういう歩みをしている。しかし神はそこに愛という救いの光を差し込んでくださ
る。

2.生きる人
つまり、滅びる人が受け入れる者と逆のものを受け入れていくことが大切。それは神の愛を受け入れること。悪を喜ばないこと。そうい
う人は、神の愛によって救い出され、恵みを存分に受けることができ、この地上においても素晴らしい祝福の内を歩むことができるの
だ。


結論:パウロがお願いしていることは、人々が、また私たちが惑わされ、心乱されやすい情報、輝きにだまされず、しっかりと正しい道を歩むようにというもの。しかし実際には私たちを惑わす力が強い。ちょっと気を許すとあっという間にその波にのまれてしまう。でも神様はその愛ゆえに私たちを守り、支え、神の恵みに生きることができるように導いてくださる。パウロのお願いは、私たちが地域の方々、救われていない方々へのお願いでもあるのではないだろうか。




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by ontheway-chapel | 2017-11-23 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「バビロン崩壊の預言」

  1. 希望の預言

    イスラエルの民がバビロンへ捕囚されたとき、人々には大きな失望があった。いつ解放されるかわからない恐怖があった。しかし神はイスラエルを決して見捨てないと約束された。バビロンが犯した罪ゆえに神が罰せられ、イスラエルの民はエルサレムに帰れるという。

  2. 成就する預言

    このエレミヤが語った預言は実際にはあと70年近く待たなければならない。すぐに結果を求めてしまいがちであるが、神の最善の時を待つ忍耐が求められる。それは神への信頼の深さによってなし得る。神の約束は必ず成就する。私たちの時ではなく神の時にである。

Ⅱ・「私たちのバビロン」

  1. 私たちの内にある罪

    バビロンは神によって滅ぼされた。私たちの内にもバビロンに象徴されるような弱さ、醜さ、残虐さなどの罪がある。それに屈するならば私たちはたちまち滅ぼされてしまう。そして自力で解決しようともがくほどに、罪の虜となり身動きできなくなってしまう。

  2. 罪から解放される神

    しかし、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちのように、私たちにも解放がある。私たちはユダヤ人の歴史をそのまま体現したような不信仰、不従順を繰り返してきた。しかし神は私たちを見捨てることなく、本来あるべき立ち位置へと、神様の元へと戻してくださる。

Ⅲ・「語らずにはいられない」

  1. 無関心であってはいけない

    かつて職場の上司に知識の反対は無関心であると言われた。聖書の知識だけに熱心になってしまうとき、時に神様が自身に成してくださったみわざにたいして無関心になってしまう。神のみわざに関心を向け、幼子のように、理屈抜きで感動し、全身で喜びを味わいたい。

  2. 恵みの結果

    神様の奇しいみわざを、素晴らしい恵み体験したとき、私たちは幼子のようにそれを誰かに伝えたい。黙っていられないという衝動に駆られ、それをそのまま証ししていきたい。恵みを受けた分、祝福をいただいた分、語らずにはいられなくなるような信仰者でありたい。

結論:エレミヤの預言は人々に希望を与えた。そしてそれは神の時にかなって成就する。私たちも神の福音を聞いてそこに希望を見出すことができた。それこそが本物であると確信し信じ受け入れた。神が私たちに成してくださった数々のみわざ、恵み、祝福に対して無関心でいるならば、気付くこともなければ感動もしない。しかし、そこに目が向けられ、心開いて受け取る時、私たちはいかに神に愛され、そのみわざによって祝福を受けているかを知り、大きな喜びと感動、感謝で満ち溢れる。黙っていられない。隠しきれない喜び、幸せ、平安があふれ出てくる。主のみわざを存分に語り合おうではないか。


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by ontheway-chapel | 2017-11-07 14:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「目は開かれているか」

  1. 見えないものを見る

    神がエレミヤに巻物を記すように命令した目的は、民が自らの歩みの間違いに気づき、神に立ち返るためであった。それによって神は民の罪を赦すことができる。そして書き記された巻物が民の前に朗読された。みことばを聞いた時、見えない神の存在を見ることができた。

  2. 神のみわざを見る

    みことばを聞き神がこれからなそうとするみわざをおぼえ、恐れおののいた。真実と認めて受け取ることができる者もいれば、みわざを見ず、あえて見ないふりをしようとする者もいる。私たちも自分の都合で見ようとしたり、見ないようにしてしまったりしてしまう。

Ⅱ・「聖書を切り裂く小刀」

  1. みことばを疑う

    ついに巻物はエホヤキム王の前で朗読されることとなった。しかし、それは王にとって受け入れがたい内容であった。自分を否定し、立場を危うくする内容。彼は巻物を小刀で切り裂いた。我々も自分に都合の悪い箇所を拒絶したくなる誘惑に襲われる時があるかもしれない。

  2. みことばを焼き捨てる

    王はみことばを切り裂き、火で焼き尽くした。それは無かったことにする行為。聖書を、神のみことばとの決別を意味する。しかしそれは、自らの人生を切り刻み、焼き尽くす滅びに向かう行為である。神のみことばの全てを受け入れるとき、その人生は豊かにされていく。

Ⅲ・「みことばは永遠なり」

  1. 切っても焼いても滅びない

    これまで多くの人が聖書を疑い、拒否し、焼き捨ててきた。しかし、神のみことばは決してすたれることも、消え失せることもない。そしてすべてが真実であり、必ず成就していく。同じようにみことばに生きる人のいのちも決して滅びることなく永遠に生きるのだ。

  2. 聖書のみ

    31日はルターの宗教改革記念日。今年で500周年になる。聖書のみ、信仰のみ、万民祭司という提言は今も色あせることなく受け継がれている。聖書のみことばを疑うことなく、選り好みすることなく、ただ純粋に信じ、その通りに生きていく人生を目指していこう。

結論:クリスチャンはそれぞれに好きなみことば、聖書箇所があるかと思う。自分の指針となるみことばを握っていることは何と幸いなことだろうか。同時に、受け入れがたい、あまり信じられない、生理的に、心情的に苦手と感じる個所もあるかもしれない。しかし聖書のみことばはすべて神の霊感によって書き記された真実であり、一点一画も付け加えることも削ることもできない。だから私たちは全てを受け入れたい。多くの人はただの物語で事実ではないと疑い、自分には必要ないと拒否する。それではみことばを託した神の目的である救いを受け取れない。永遠なるみことばこそが事実であり、私たちに最も必要なことであるからこそ、神のみことばを大切に、日々いただき、素晴らしい人生、人間本来約束されている最高の幸せを手にしていこうではないか。

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by ontheway-chapel | 2017-11-02 11:31 | Comments(0)