聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「苦しむ者の幸い」

  1. 厳しい現実

    私たちを取り囲む現実に目を向けるとき、当時の迫害と比べたら殉教とは違うが家族に、友人に信仰を告白し、救いへと導くことの難しさにおいては、かなり厳しい道を通らされる。時に家族を失い、友人を失うこともある。しかしそれは義への道であり、栄光への道である。

  2. 報いは大きい

    厳しい現実の中にあって、私たちには希望がある。迫害は嘆き、悲しみではなく、喜びへとつながっていく。なぜならばその先には栄光の義の冠が待っている。地上においては敗北者のように感じるかもしれないが、天における報いは大きく、そこにこそ本当の価値がある。

Ⅱ・「祝福に伴う責任」

  1. 地の塩である責任

    イエスの時代の人々にとって塩とは「純潔」を連想させるものであった。また、塩は「防腐剤」という役割もあった。そして最大の特質として「味を付ける」という特色があった。私たちは世の人たちに対してこのような存在として生きる責任が与えられている。

  2. 世の光である責任

    光としての役割には「人に見られる」というものがある。また「光は人を導く」役割がある。さらに「光は警告をする」私たちがこのような存在として世に輝く者であるようにという責任がイエス様から託されている。この世のいついかなる時も光を放つ存在でありたい。

Ⅲ・「父があがめられるように」

  1. 父と子の関係

    マタイの福音書の中で初めて神を父として表現しているのがこの箇所。父と子どもの関係は実に親密である。子どもは父親に全幅の信頼をもって接する。素直に感謝する。私たちと神様の関係もそうでありたい。自分の喜びを父が一緒に喜んでくれると信じる幼子でありたい。

  2. すべては父のために

    D.L.ムーディーはかつて徹夜祈祷会が終わった学生たちに「僕たちの顔輝いているでしょう」と言われたとき「モーセは自分の顔が輝いていることを知らなかった」と伝えた。私たちはつい自分を誇ってしまうが、すべて神がなしてくださったと確信して生きていきたい。

結論:私たちの全ての基準が神様に向けられるならば、イエス様をお手本としてイエス様のように生きようとするならば、この地上における様々な苦しみも、喜びへと変えられていく。そのように生きるとき、私たちへの報いは大きな祝福となる。そのためにも祝福に伴う責任を果たしていきたい。地の塩として世の光として生きるとき、私たちは託された責任を果たすことができる。そしてそれらすべては自分のためのように思えても神様のためであることを忘れないようにしたい。自分がほめられ認められるのではなく、父なる神が、イエス様があがめられるためにすべてのことを成していきたい。


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by ontheway-chapel | 2018-02-27 10:10 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「買い戻しの協議」

  1. 律法に基づく交渉

    ボアズは早速行動に出て行く。そしてその進め方は実に律法にかなった正しいものであった。

    買い戻しの筆頭権利を有する者と、町の長老を集めて正式にエリメレクの畑とルツを買い戻すことを協議していった。その結果、ボアズは畑とルツを買い戻すことが正式に決定した。

  2. 背後にあった神の采配

    私たちの視点で聖書を読むと、ルツ記の話はとてもすがすがしい結末によってすべてがうまくいって良かった、となる。しかし背後には神の遠大なる視点があったことを見落としてはいけない。すべてが主の采配のうちにあり、そこに従った信仰者の姿から教えられたい。

Ⅱ・「ルツへの報酬」

  1. モアブ人ルツ

    ルツはモアブ人であり、ナオミの息子と結婚したことによってその人生が大きく変換していく。申命記で「モアブ人は主の集会に加わってはならない」とあるようにイスラエルとの交わりから除外されるような存在であったが、神のご計画において大切な役割が与えられた。

  2. 買い戻されたルツ

    ルツはついにボアズとの結婚が正式に認められた。それはナオミの信じた神を自分の神と宣言するほどに、主と共に歩むことを願い、主に仕え、人に仕えた。思いがけない逆境をも用いて、人の思いを超えて豊かな報酬をもたらす神の姿をこのルツ記に見ることができる。

Ⅲ・「祝福の道を歩もう」

  1. キリストへと続く道

    ボアズとルツの間に生まれた子どもはやがてダビデへと続き、ついに救い主イエス・キリストにまでたどり着く。誰もが願う救い主の系図にモアブ人ルツの名が記されていく。目の前に見える祝福だけが喜びではない。祝福の喜びは神の遠大なる視点を喜ぶことでもある。

  2. 祝福はすべての民に

    モアブ人ルツがキリストの系図に記されることはとんでもないことである。しかし、そこに神の本当の救いのご計画を見ることができる。世から排斥されたか見える存在にまで目を向けてくださり、惜しむことなく祝福を与えてくださる神。私たちも祝福を存分に味わおう。

結論:最初のルツは未亡人となり、異邦人としてイスラエルにやってきた。それは人生においてはどこに希望を見出していいかわからないほどに、辛く過酷な人生であった。にもかかわらず、あなたの神は私の神と主に信頼し、従って歩むことを決心したとき、その道は大きく開かれていった。神の目はすべての人に向けられている。救い主は誰か特定の人種、優れた民だけにものではなく、世から見捨てられ、排除されたと感じるような存在にまで恩寵の御手を差し伸べて下さっている。すべての人を抱き寄せ、愛してくださる神の姿をルツに見ることができる。神はすべての人に祝福を注ごうとしておられる。この祝福をしっかりと抱き寄せ、主と共に歩む者とさせていただこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-02-21 17:07 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「どん底からの希望」

  1. ナオミではなくマラ

    かつてナオミはイスラエルに戻った際(119~)ナオミ(快い)とは呼ばずにマラ(苦しみ)と呼ぶよう訴えた。確かにイスラエルを出てモアブの地において夫と2人の子どもに先立たれ、大きな苦しみを味わった。私たちもそのようなとき、神様を遠く感じるかもしれない。

  2. マラからナオミへ

    1章で苦しみ、卑しくされ、つらいめに会わせられたと感じたナオミ。しかしボアズとルツの出会いに神のしるしを見ることができた時、マラからナオミ(快い者)として扱われていることを再確認した。どん底と思えるところにも神の光は必ず届く。神の恵みを掴もう。

Ⅱ・「買い戻しの恵み」

  1. 買い戻しの権利

    当時の律法においてナオミは夫に先立たれたために、死んだ夫に最も近い親族がその家を買い戻し、未亡人と結婚することができたが、拒否することもできた。もし誰もその未亡人を助けようとしなかった時には、残りの人生を貧困の中で絶望と共に生きねばならなかった。

  2. ナオミを信じたルツ

    ナオミのルツへの申し出は、異邦人のルツには不思議に感じたかもしれない。しかしルツはナオミを信頼し、ナオミの言う通りに従った。ナオミの人柄にもよるが、その背後にある信仰、神の導きに従ったと見ることができる。納得しなくても従う信仰を求めてみよう。

Ⅲ・「買い戻された私たち」

  1. ボアズの誠実さ

    ボアズはルツに対して、とことん誠実であった。決して欲におぼれず律法に対しても忠実であった。そして愛と慰めに満ち溢れていた。私たちにとってのボアズは誰であろうか?一歩間違えばどん底に落とされる絶望から買い戻し愛と慰めと誠実に満ち溢れたお方がいる。

B.キリストによる買い戻し

ルツはボアズという存在と出会うことができた。私たちはキリストという存在と出会うことができ、十字架上の死によって罪による絶望から希望へ、苦しみから喜びへと贖い出し、私たちを買い取ってご自身のものとしてくださった。永遠に消されない財産が保証された。

結論:ナオミはルツの幸せを願った。そして、自らの苦しみの先にある希望を主の導きの中に見つけることができた。それはボアズであり、買い戻しの制度であった。ルツはその恵みの中で異邦人でありながら、この唯一まことの神の導き、神の律法に従い歩んだ。私たちも思いがけない苦難、痛みを覚えることがある。しかし、神は私たちを見捨てることなく、愛と慰めと誠実さをもって私たちを守り、救ってくださる。ルツにはボアズが与えられた。私たちにはキリストが与えられた。このキリストによって私たちは、絶望から希望へ、苦しみから喜びへとその方向を転換させることができ、栄光の勝利に向かう歩みへと誘われている。この恵みをしっかりといただき、存分に味わおうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:01 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「落ち穂拾いに行ったルツ」

  1. 律法に支えられたルツ

    当時イスラエルの律法においては貧しい立場に置かれている人(やもめや在留異国人など)に対して、施しを与えるよう奨められていた。神の目的はすべての人の幸せであり、神がすべての人を愛されたように、私たちにもすべての隣人を愛するよう願っておられる。

  2. ナオミに仕えたルツ

    ルツが働いた動機の一つには、自分の生活を守ることと同時にナオミの生活を守るためでもあった。ルツはあなたの神は私の神というほどに主を真摯に愛し、同時に自分の隣人であるナオミをも真摯に愛した。ルツの生き方は神(縦)と人(横)の関係においてお手本となる。

Ⅱ・「一生懸命働いたルツ」

  1. 重労働に励んだルツ

    落ち穂拾いの働きは、身分の低い人たちがする仕事であり、大変な重労働であった。身も心もくじけてしまいそうな働き。しかし、ルツは自ら出て行き、休みもせずに一生懸命働いた。私たちも本意ではない働きに召された時、このルツのような姿勢が求められていく。

  2. ひたすらに生きる

    私たちに与えられている働きは何だろうか?その動機は自分がしたいことなのか、神様から与えられているものなのか確認したい。いやだと思う働きでも、それが主から与えられているものであるならばそこに従いたい。その先には思いがけないチャンスが広がっている。

Ⅲ・「主の恵みをいただいたルツ」

  1. ボアズとの出会い

    ルツとボアズとの出会いは、偶然行った先の畑の持ち主という関係ではなかった。主が与えてくださった祝福であった。ボアズは律法に定められている以上の行為をもってルツをもてなした。ルツが神様と共にいることを願ったとき、神様は喜びをもってルツを祝福した。

  2. どうしてこんなに親切に

    ルツはボアズにこのような自分に対する過剰なほどの施しに対して戸惑いと感謝の意を示した。神様は求める者には惜しむことのない恵みを与えて下さる。真摯に人に尽くし、真摯に働き、真摯に主を求めたルツに神は最高の(後のイエスにまでつながる)恵みを与えた。

結論:ルツの落ち穂拾いの話は絵画などでも有名である。しかし、その背後にある素晴らしい神様の恵みについては、見落とされてしまいがちである。落ち穂拾いができる環境を与えたのも主ご自身であり、ボアズとの出会いを演出されたのも主ご自身である。そして惜しみない恵みを注がれたのも主ご自身である。そこにルツの真摯な姿勢が加わる時、あまりにも美しい世界が広がっていく。私たちにも同じチャンス、恵みが備えられている。真摯に主を待ち望む者とさせていただこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「キリスト不在の希望」

  1. 希望とは

    多くの人が希望とは何か?と問われたら「将来的に何か良いことが起こるのではないかという期待」というものを漠然と思い描くだろう。そしてすべての人がこうした希望を胸に抱く。しかし聖書に記されている希望とは、神を信じて救われた者に与えられる賜物である。

  2. 漠然とした希望

    こうした希望を抱く中で、その希望の根拠はどこにあるかと問う時、大きく二つに分かれる。それはキリストがそこにあるかないかである。キリスト不在の希望は無知であり、欲に満ちたもの(14節)であり、自分中心の虚しい、先のないものとなってしまう。

   Ⅱ・「キリストに満ちた希望」

  1. 聖なるお方から与えられた

    ペテロは私たちの信仰と希望は神にかかっている(21節)という。つまり、その根拠は神にあるとしている。神は聖なるお方であり、その神がなしたキリストの復活によって生ける望みが与えられた(3節)とあるように、地上のみならず永遠に約束された希望を握っている。

  2. キリストを信じる

    イエス・キリストを信じるという信仰、神に対する畏敬を希望の源とするとき、その人の人生は希望に満ち溢れたものとなり、喜びと感謝が心に迫って来る。神はすべての人に希望を求める思いを与えている。その根拠をどこに置くかが問われている。本物の希望を求めよう。

結論:目の前の小さな希望、遥か彼方にある大きな希望。誰もが抱く希望の根拠をどこに置くかによって、その希望の先にある大きな喜び、感謝にたどり着くか否かに分かれる。キリストによる希望は最終的には終末的な希望とつながっていくが、将来的なことに限らず、この地上においてもすでにこの希望によって私たちの日々の生活、人生がより豊かにされ、確かな根拠をもって希望を見据えて喜び、感謝して生きることができるようにされている。将来の希望が見出せない時代にあって、私たちは本当の希望をいただいている。確かな根拠をもって希望をはっきりと見出すことができている。この希望の光は、決して消えることなく、失われることがない。それが聖書の教えであり、神を源とした希望の確かさである。


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by ontheway-chapel | 2018-02-06 16:59 | Comments(0)