聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「すべて神のご計画通りに」

  1. くじを引いて分けた

    十字架刑に付き添ったローマの兵士は期せずして詩篇2218に記されている通り、イエスの着物を取り去りくじを引いて分けた。これはイエスの十字架が人々の思惑通りに行われているのではなく、神の遠大なるご計画の内に成されていることをはっきりと示している。

  2. あざけり罵られた

    イエスは道行く一般の人々、祭司長ら宗教指導者たち、そして囚人に罵られ、嘲りを受けた。これもまた詩篇2278に記されている通りであった。人々は自らの思い通りに事が進み、勝利を喜んだかもしれないが、本当の勝利は目の前で嘲られ、罵られたイエスのものだった。

     

Ⅱ・「神にのみ従ったキリスト」

  1. 十字架から降りなかった

    もしお前が神の子ならば、自分で自分を救ってみろ、十字架から降りてこいと人々はイエスに言った。イエスはそれをすることも可能であった。しかし、あえて簡単な道ではなく、苦しく辛い道を選択された。十字架から降りていたら私たちはイエスを信じられただろうか?

  2. 神に完全に見捨てられた

    神のご計画は、イエスを十字架から不思議な、偉大な力を持って降りることを人々に見せることによってその栄光を現そうとはしなかった。むしろ最後まで神のご計画通りに十字架にとどまり、完全に死ぬことが神のご計画であった。人々ではなく、神のご計画が優先される。

Ⅲ・「キリストの視点に生きる」

  1. サタンに打ち勝つ人生

    私たちは神はどうして御子を見捨てて、十字架上で死に渡されたのか?もっと別の方法で栄光を現すことはできなかったか?と思ってしまいがち。しかしそれはまさにあの荒野での誘惑そのものである。サタンは巧みに私たちを誘導する。それは勝利から遠ざける働きである。

  2. 人の力ではなく愛を見よう

    ユダヤ人たちが期待したことは、イエスが不思議な力を持って、また神の軍勢を用いて十字架から降りることであったかもしれない。人々はイエスの力を見ようとした。しかし、イエスは十字架上から人々に犠牲の愛を通して神の救いのご計画見せた。私たちは何を見るか?

結論:もし、イエス様が十字架から人々の求めるように降りることができたら、人々は果たして本当にイエスを救い主として信じるだろうか?少なくとも現代に生きる私たちは十字架から降りたキリストではなく、十字架にとどまったキリストを信じる。目先の勝利ではなく、永遠の勝利に生きたイエス様の歩みこそ、私たちは真実を見出すことができる。私たちにとっての十字架はイエスの力ではなく、無力さのように見える背後にあって、神の愛を示し、そのご計画に完全に従いきった真の勝利の象徴である。この朝、もう一度私たちの救いのために成就されたキリストの十字架を思い、感謝をもって応答していこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-03-29 11:02 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「静まりを求めたイエス様」

  1. パレスチナから出たイエス様

    ユダヤ人が住む地域ではどこに行ってもイエス様の後を追う人で混雑していた。そのため、静まるためにはパレスチナの地域外に行くしかなかった。ユダヤ人たちは異邦人と接することを嫌っていたので、さすがにそこまで追いかけるユダヤ人はいなかった。

  2. 心備えの時

    イエス様と弟子たちがそこまでして人々から離れようとしたのは、いよいよ十字架の時が近づいていたからであり、イエス様はそのために特に弟子たちのために静まり、心備えるための時を必要としていたためである。それは逃避ではなく心備えのための行動であった。

Ⅱ・「異邦人の女性とイエス様」

  1. カナン人の女

    しかしここでもイエス様のことを知って近づいてきた女性がいた。彼女には重病の娘がいた。そこで真剣に助けを求めた。イエスは最初女性と距離をとろうとした。しかし、弟子たちはあまりにしつこいために何とかしてほしいとイエスに頼み、この女性を追い返すよう願った。

  2. 犬と呼ばれた女

    当時、ユダヤ人たちは傲慢にも自分たち神に選ばれし民であるユダヤ人以外の異邦人を「犬」と呼んで侮辱した。犬とは野良犬で道に捨てたごみをあさる不潔な犬。しかしイエス様は小犬と呼んだ。そこにイエス様の愛を見ることができる。それは野良犬ではなく愛玩犬の意味。

Ⅲ・「立派な信仰の女性」

  1. 愛と信仰を持っていた

    この女性は娘のことを何とかしたい、助けたいという子どもの苦しみを自分のものとする愛を持っていた。また、イエス様を最初は人間として恩恵を求めて近づいた。しかし、イエスに触れた時、彼女の信仰はイエスを主と呼ぶ、生ける神に対する信仰へと変えられた。

  2. 礼拝した

    この女性は最初イエスの後を追いかけた。やがてひざまずいた。必死の願いが、祈りに変わっていった。イエスのもとに行き、主の栄光を賛美し、そこに最大限の信頼と忍耐が育まれていった。単なる期待から、唯一の希望としてイエスを礼拝した。これらが立派な信仰となる。

結論:イエス様の元にやってくる人には、様々な動機があるだろう。実にこの世的な願い事を持ってくる人がいるかもしれない。本当に切なる願いをもってやってくるかもしれない。特に期待もなく、気が付いたらイエスの元にいたということもあるかもしれない。しかし、いずれもイエスと出会い、そこに本物を見出すことができた時、その人の心は大きく変えられる。イエスに期待し、唯一の希望を見出し、そこに生きる確信をいただく。だからこそ、その人の人生は愛と希望と喜びに満ち溢れた幸いなものとなっていく。


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by ontheway-chapel | 2018-03-22 17:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「誰もが持っている弱さ」

  1. 他人に厳しく自分に甘い

    イエスの元に来た律法学者とパリサイ人は一人の女性の罪を訴え出た。一見すると立派な正義感あふれる行動に思える。しかし、彼らの律法に対する熱心さは他人に対してのものであり、自分自身には向けられていなかった。人のことは見えるが自分の欠陥は見えにくいもの。

  2. イエスを試そうとした

    律法学者とパリサイ人が女性をイエスの元に連れてきた動機は、イエスを試そうとしたとあるように不純なものであった。それに対するイエスの答えは実にすばらしく、ぐうの音も出ないものであった。人の弱さ、策略をいとも簡単に解決するイエスのすばらしさをみる。

   Ⅱ・「解放されるイエス様」

  1. 女性を解放された

    姦淫の罪で連れてこられた女性は、イエス様とであったことで罪から解放された。人間同士が誰かをさばくことはできない。その権威をもっておられるのはイエス様だけ。そのイエス様が女性を解放された。イエス様の元に女性が行ったとき、この女性の罪は解放された。

  2. 私たちをも解放される

    私たちも同様に、イエス様の元に行くとき罪から解放される。それは罪だけではなく、すべてのしがらみからも解放される。ただ天を見上げ、喜びと感謝と平安に満ち溢れた日々を送ることができるようになる。イエス様の十字架の恵みによってそれが可能となる。

結論:多くの人は自分で必死にがんばって、努力して自分の弱さを克服しようとする。しかしそこには限界がある。人が他人の罪を裁けないのと同じように、自分の罪も裁けないから。様々な困難に対しても同様にである。すべての物事の解決をイエス様の元に持っていくとき、そこに真実の解決があり、私たちはそうした問題、困難から完全に解放される。イエス様だけが私たちの進むべき道を開いてくださるお方。このお方に信頼して歩んでいこう。その人生は最高に素晴らしいものとなる。
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by ontheway-chapel | 2018-03-12 15:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「新しい基準」

  1. モーセ律法の基準

    モーセの時代に与えられた十戒の中に「殺してはならない」とある。これは当然さばきの対象となることは誰もが理解できることである。なぜならば目に見える行為であるから。しかしこれは、人の目だけを意識したなかでそれがさばきの対象であるかという基準ともいえる。

  2. イエス様の言われた基準

    しかし、イエス様がもたらした新しい基準は腹を立てるという人間の内面にまでご存知である神様の視点、心の部分にまで及んでいる。律法は外に現れる罪のみではなく、神の前において心、態度、感情もその対象となっていくという全く新しい基準が示された。

Ⅱ・「人と人との和解」

  1. 知らぬ間の罪もある

    当時、ユダヤ人たちがささげもの一生懸命にささげた理由の一つに、自分の知らないところで犯してしまったかもしれない罪があるならば、このささげものを持って赦しをいただく、和解をいただくというものがあった。罪、神に対して、意識の高さがあるからこその行為。

  2. 思い出したが和解のチャンス

    イエス様はささげものをささげている最中にでも、誰かにしてしまった過ちを思い出したならば、和解を何よりも最優先にしなさいと教えた。神と人との和解の前に、まず張本人との和解を大切にすることが奨められている。私たちは和解すべき人がいるだろうか?

Ⅲ・「神と人との和解」

  1. 神は待っていてくださる

    神と人との和解について、神はいつでも私たちと和解したいと願っておられる。それも表面的な和解ではなく、真実の悔い改めを経ての和解である。たとえどのような罪を犯してしまったとしても真実に悔い改めるならば、神は和解してくださる。神だけがさばき主だから。

  2. 和解なしに希望はない

    神との和解がなされないならば、人は永遠に真実の希望や平安を得ることはできない。なぜならば、神との和解がなされない先には、究極のさばきがあるから。神はすべての人と和解をしたいと願っておられる。神に赦されたならば、これ以上の安心、喜びはない。

結論:イエス様は新しい基準を示すことを通して、真実の神との和解の必要性を教えてくださった。そして、そのために自らが十字架にかかって死んでくださった。この十字架を通らなければ、真実の和解は成立しない。イエス様の血潮によって、私たちは初めて神様と和解をすることができる。そしてその過程において、人は自らの弱さを認め、罪を認め、そして悔い改めてイエス様の十字架の前に立つ。そこで罪赦されたとき、私たちは神様との和解の場へと誘われる。そして本当の平安、喜びを感じて日々の生活を幸いを感じつつ、充実して送ることができる。神との和解をしっかりと果たそうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-03-07 13:39 | Comments(0)