聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「ハバククの疑問」

  1. ハバククという人物

    預言者ハバククという以外は詳細は記されていない。ハバククとは「からみつく」「抱きつく」と訳すこともできる。ハバククはユダの世界にはびこる悪とそれを見過ごす神に抗議し(からむ)とことん神と向き合い(抱きつく)、信仰をもって従って生きることを求めた。

  2. 悪が支配しているように見える世界

    実際にこの時代、南ユダ王国は神の律法を重んじる姿は薄れ、宗教的道徳は崩壊に向かって堕落していった。国内では対立による内紛、国外からは厳しい干渉を受け、神の民イスラエルの栄光はどこに行ったのかという有様。悪だけがのさばり、悪だけが繁栄している世界。

Ⅱ・「神の応答」

  1. カルデヤ人を用いられる神

    ハバククのどうしてこのような悪を神は見過ごしているのか?という問いに対して、神は、決してこの状況を見過ごすのではなくこの不義と王望に満ちたユダに対し、カルデヤ人を審判の器として用いて、バビロンによるユダへのさばきが行われていくことを明らかにされた。

  2. 神の応答に対するハバククの訴え

    この神の答えに対するハバククは、そのバビロンもまた不義な器ではないか、と抗議する。正しくない者が、同じく正しくない者の審判の器として用いられることは果たして正しいことなのかと訴える。どうして神はそのようなことを許されるのか。いつの時代にも同じ疑問が私たちを覆っているように思える。

Ⅲ・「信仰をもって従う」

  1. 義人は信仰によって生きる

    いつの時代においても、悪がのさばり正しく謙虚に生きる者が損をしているように見えることがある。そうした曲がった時代だからこそ、揺るがない信仰をもって生きることだけが、義人が生きうる唯一の道であると神は語る。信仰に生きることこそが私たちを守る手段。

  2. アーメン(その通り)と生きる

    ヘブル語で信仰とはアーメン(その通り)と同じ言葉として使われる。つまり、真実、誠実であることこそが、神の御前において正しいと認められる。神中心の信仰。人間の側に救いの根拠は見出せない。神中心に生きるとき、その人の人生は喜びと栄光と勝利を得る。

結論:ハバククの生きた時代も、現代も同じ問題が私たちを包み込む。なぜ神はこのような時代、腐敗した状態をお許しになっているのか?いつになったら彼らはさばかれるのか?むしろ彼らの方が栄えているように見える。確かにこの世に焦点を当てて、この世を基準に見たらそうした矛盾とぶつかる。しかし、神に焦点を当てて、神を基準に物事を見ていくとき、私たちの人生の本当の正解が見えてくる。何が本当の喜びか、何が本当の幸せか。信仰によって生きる者とされた時、その答えは自然と見えてくるのではないだろうか。


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by ontheway-chapel | 2018-04-17 09:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活のイエスと出会う」

  1. イエスとの再会

    弟子たちにとってイエスの死は大きなショックであり、絶望を示すものであった。また同時に自分たちの危機をもたらすものでもあった。そのような時にイエスの復活を聞き、指示された山へ向かいそこでイエスと再会した。復活のイエスとの再会が彼らには必要だった。

  2. 一切の権威がある

    復活のイエスは自らについて天においても地においても、一切の権威が与えられていると言われた。私たちが信じ、従うお方は天においても、地においても絶対の力を持っておられる。このお方が私たちに託した願いに私たちは耳を傾け、全力で従っていきたい。

   Ⅱ・「イエスの願い」

  1. 大宣教命令

    当初の宣教の場はイスラエルの境界内に限定されていた。救い主の十字架と復活が成就したいま、ついにその制約は完全に取り払われて、宣教の場は全世界へと広がった。これは、当初からのご計画の通りであり、聖書の各所にグローバルな宣教の視点をみることができる。ワールドビジョン、素敵な名前である。私たちも広い視野をもっていきたい。

  2. いつも共にいます

    弟子たちはイエスの大宣教命令を聞いてどう感じただろうか?途方に暮れたかもしれない。現代に生きる私たちにとっても、福音を語り一人の人を救いへと導くことはものすごく大変である。私たちでは力不足で不可能と思われても、主が共におられるから大丈夫なのだ。

   

結論;私たちに託された責任は、時に大きすぎて私たちには負担と思えることもある。無理と感じることもある。しかし、死をも克服されたお方と私たちが出会う時、私たちは絶望の淵から立ちあがり、前に進む力をいただくことができる。一切の権威を持つお方が私たちに託した責任に対して、私たちは全力で従っていきたい。神のご計画は最初から全人類の救いにあった。聖書は至る所で神のグローバルな視点をダイナミックに語っている。そしてその成就として私たちもいま、救いの恵みに与っている。しかし、私たちがゴールではない。私たちに託された責任を果たしたい。それにはあまりに障害が大き過ぎると感じるかもしれない。でも、私たちには復活の主がいつも共におられ、助けてくださる。必要な力を、助け人を、語る言葉を惜しげもなく与えて下さる。だから、感謝と喜び、そして自信をもって世に出て行こうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-04-12 17:56 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活に対する理解」

  1. 聖書に記されている事実

    マタイは週の初めの朝にこの復活の出来事が起こったと記している。大きな地震があり、御使いが現れた。墓に埋葬されているはずのイエスはよみがえられたので、そこにはもういなかった。その後マリヤ達は復活の主に出会った。彼女たちは喜んだが、疑った者たちもいた。

  2. 多くの人が抱いている疑問

    当時も、また現代においてもイエスの復活の出来事に対しては様々な疑問が語られている。死んだ者がよみがえるはずなどないとして、実は死んでいなかった節、聖書にもあるように遺体の強奪説なども語られる。いずれにしてもイエスの復活は我々の想像を絶する出来事。

Ⅱ・「イースターの捉え方」

  1. この世的視点

    イースターという言葉を最近よく聞くようになった。あちらこちらで便乗しているかのような宣伝を聞く。しかし多くの人はイースターの意味をなんとなくしか知らない。興味関心もない。自分にとって本当に大切な必要なものであると知らないから。楽しい行事のひとつ。

  2. クリスチャン的視点

    クリスチャンにとってキリストの復活は、信仰の土台でありすべてであると言っても過言ではないほどに大切。これが真実でなければ私たちの信仰はいとも簡単に崩れ落ちてしまう。釈迦尊の骨が全世界に祭られているという。キリストの骨はない。復活されたから。

Ⅲ・「復活の恵みを味わおう」

  1. 私たちの喜び

    死というものは人生の終わりを告げるもので、誰でも避けたく、怖いものである。しかしキリストはその死に打ち勝った。それゆえに、キリストを信じる者たちもまた、この復活の恵みに与り、永遠のいのちが与えられる。これに勝る希望、勝利はない。それをいただいた。

  2. 私たちの喜びをすべての人たちへ

    イースターを祝う行事が増えてきた。これはチャンスでもある。なぜイースターが全世界で祝われているのか?キリストの復活がすべての人の喜びとなるから。私たちだけがこの喜びを味わうのではなく、すべての人がこの素晴らしい喜びを味わい共に祝えるように願う。

結論:イースターの出来事、キリストの復活は多くの人にとって戸惑い、受け入れがたいものである。弟子たちでさえすぐには信じられなかった。復活の出来事は理解することではなく信じることで、この恵みを獲得することができる。この信仰は生きている。生きた信仰をもって、イースターを喜び祝いたい。そして、さらに多くの人たちと喜び祝えるように、宣教の使命を握って歩んでいこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-04-03 09:59 | Comments(0)