聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「聖霊を受けたペテロ」

     A.力を受けたペテロ

       かつてのペテロは敵を前にしてイエス様など知らないと言って逃げてしまうような弱い弟

子だった。しかしイエス様の赦しをいただき、聖霊を受けたペテロは説得力がある、活動的

な使徒へと変えた。ここでの堂々とした態度の背後には聖霊のもたらした賜物であった。

B.みんな同じ

       ペテロは特別に素晴らしい働き人であるように思える。私たちもペテロと同じ弱さを持ち、

しかしイエス様によって罪赦され、そして聖霊の時代に生きてその恵みを受けている。私た

ちもまたこの聖霊の導きに委ねていくとき、ペテロのような働きをすることができる。

Ⅱ・「美しの門での出会い」

A.当時の習慣

       ユダヤ人たちは1日3回神殿で祈りをささげる習慣があった。ペテロたちも午後3時にあわ

せて祈るために神殿へと向かっていた。そこに生まれながらに足の不自由な男がいた。人々

は律法によって彼らを支えることになっていたので、人が集まる場所で施しを求めていた。

B.ペテロたちとの出会い

    足の不自由な男とペテロたちが出会った。男は当然何かをもらえる期待をもってペテロたち

を見つめた。一方ペテロたちも別の思いを持って見つめた。かつてイエスに見つめられなが

ら裏切ったペテロは、イエスの慈愛に満ちた目と同じ目をもって男を見つめたことだろう。

Ⅲ・「視点がずらされた先に」

A.イエス・キリストの名によって

    聖霊を受けたペテロはここで大胆にそして威厳に満ちた態度をもってイエス様の名によっ

て命じた。かつてイエスを裏切った弱いペテロはいなかった。聖霊を受け満たされたとき、

人はここまで変えられる。自分ではなく聖霊の力によって私たちは強く生きることができる。

B.金銀から神を見る

    男は最初、生きるために金銀を求めていたが、ペテロを通して聖霊を通して、イエスと出会

い神を賛美する者へと変えられた。そして、神を礼拝するためにペテロたちと一緒に宮に入

った。この世の価値観を追い求めるところから本当に大切なものを求める者へと変えられた。

結論:聖霊を受けていることはなかなか実感できないかもしれない。しかし、その恵み測り知れない。そこに気が付き、その働くことを助長していく生き方をしていくとき、そこにはとんでもない力が与えられ、勇気が与えられ、神の働き人として、証し人として用いられていく。その恵みに与った者は、その人生が一変する。聖霊を受けた先に、私たちも想像できないような素晴らしい世界、喜びと感動に満ちた人生が待っている。この恵みをしっかりといただき、味わって行こうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-05-30 17:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「果たすべき責任」

     A.肉に従うこと

       キリストの十字架によって救われ解放された私たちだからと言って、なんでも好き勝手にし

ていいわけではない。責任が与えられた。それは禁欲主義のように聞こえるかもしれないが、

私たちの内にある御霊を自由に働かせることであり、苦しみよりも喜びが勝るものである。

B.聖霊の火を通す

       責任を果たすために、私たちの内に働く聖霊が、外側化入ってくるあらゆる欲や情に対して

勝利してくださる。旧約の時代には神へのささげものは生ではなく、完全に火を通して昇っ

ていく煙だけが受け入れられた。私たちの生き方も、聖霊の火を通したものでありたい。

Ⅱ・「神の子の確認」

  A.御霊に導かれる

    神の子とされるという事実をあやふやに感じることがあるかもしれない。とても不安に感じ

る。そういう時、私たちは御霊に導かれる、という受け身、主導権をすべて主に預けるとい

うことが大切となってくる。神の御霊が私たちを神の子にしてくださるから。

B.アバと呼べる神

    神様とごく親しい関係になるためには、まず自分自身が神の前に砕かれ、主の愛によって罪

赦されるという関係に立ち返ることが必要。表面上ではない、魂の底からの関係がばれたと

き、御霊によって私たちは神を「アバ」と、日本的にはお父ちゃんと呼べる者とされる。

Ⅲ・「苦難の先にある恵み」

  A.神の子とされる前

    私たちが教会に行くきっかけ、神様を求めるきっかけは何だろうか?自分自身の問題、周り

の問題、世の中の問題と向き合う中で、様々な苦難を通り、悩み、うめいているところに、

点におられるお方がその声のところにまで降りてきて、恩寵によって救ってくださる。

B.神の子とされた後

    クリスチャンになっても不自由さをおぼえることがあるかもしれない。神の子とされ神の家

族とされたが、しかし肉的にはまだこの地上にいて、栄光までの中間地点にいる状態。しか

し、先にある希望を確かに握っている。苦難の先にある希望に期待して歩む者とされたい。

結論:聖霊という目に見えないものの働きは、私たちにとってなかなかつかみにくい、実感しにくいものかもしれない。しかし、私たちの内にあって働いてくださり、私たちがクリスチャンとしてこの地上に生きるとき、果たすべき責任を全うさせてくださる。この御霊を自由に存分に働かすことができた時、私たちは心から神の子とされた恵みを実感することができ、より深い神との関係に導かれ、天の神をお父ちゃんと呼ぶほどに親しく、そして全幅の信頼をもって身をゆだねていくことができる。一方でこの世の現実の世界に生きる私たちは、御霊の導きをいただきながらも様々な苦難に遭遇する。しかし、私たちにはその先にある希望がある。御霊によって私たちはこの先にある恩寵を知ることができ、確かなものであると確信することができる。この希望を握って歩んでいこう。


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by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「主がただ中におられるから」

  1. 心の底から喜び勝ち誇る

    「喜び歌え」「喜び叫べ」「喜び勝ち誇れ」これは決して強制されて与えられる喜びではない。様々な困難が私たちを覆う現実があるが、私たちは無理をしなくとも、心の底から私たちは喜ぶことができ、勝利を誇ることができるようにされる。主が共におられるから。

  2. もう何も恐れなくていい

    「あなたはもうわざわいを恐れない」と主にあって私たちは宣告された。悩み、痛み、苦しみがあったとしても、もうそれらを恐れて下を向く必要はない。なぜならば、主ご自身が私たちを愛しておられ、私たちが喜びの人生を送ることができるように導いてくださる。その主が私たちのただなかにいてくださる。だから安心して、喜ぶことができ、恐れることなく心穏やかに、ほほ笑みを携えて私たち幸いな人生を送ることができる。

   Ⅱ・「主があなたを喜ばれるから」

  1. 主が敵を追い払う

    主は「救いの勇士」であられると記されている。私たちを取り巻く問題と対峙するとき、その大きさに圧倒され時に気力を奪われ、絶望してしまう。私たちの力には限界がある。しかし私たちのただなかにおられる全能なる主が、それらを追い払ってくださる。

  2. 主が回復してくださる

    実際にイスラエルは捕囚の民となる。しかし、主はその民を再び連れ戻して下さり、元通りに回復させてくださる。目の前が真っ暗に感じたとしても、どこにも希望を見出せないと思えても、主が私たちを愛しておられるがゆえに、私たちは回復の道へと誘われていく。主は私たちの存在を喜び、私たちもまたその喜びのみを握って生きることができる。この喜びは地上によってもたらされるものではなく、主によってもたらされるから、永遠に消えることのない本当の喜びである。

結論:この地上にもたくさんの喜びがある。しかし、それらはある日突然奪われてしまうかもしれない、不確かなものと言える。残念ながら多くの人はその喜びを必死に追いかけて生きる。だから時に喜びを失って絶望してしまう。しかし、主がただ中におられるという素晴らしい恵みを知っているならば、この主により頼んで、この主と共に生きることを決心したならば、私たちには本当の喜び、主がただ中におられるゆえに、主が私たちを喜ばれるゆえに、その生涯にわたって、決して消えることのない確かな喜びが私たちには与えられる。そしてこの喜びのみが私たちには最後まで与えられ続けるのだ。


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by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エルサレムの堕落」

  1. ゼパニヤの時代

    ゼパニヤが活躍した時代はおそらくヨシヤ王の宗教改革の頃に活躍した預言者ではないかと言われている。(エレミヤと同時代?)ゼパニヤとは「主は隠された」という意味があることからも、表に出て預言したエレミヤに対し、ゼパニヤは神が隠された預言者となるか。

  2. 神から離れた民

    この時代、イスラエル(ユダ)では特に上流階級と言われた宗教指導者たちの堕落、腐敗が顕著であった。また異教の風習が国内に入り霊的姦淫、宗教的無関心が蔓延し、神から離れていく民が増えていった。そうしたなかでゼパニヤは民の滅亡を語り、悔い改めを迫った。

Ⅱ・「神のさばき」

  1. イスラエルへのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへの神のさばきが必ず訪れること、そしてその恐ろしさについて語っていく。悔い改めを迫る一方、その可能性については消極的であり、さばきの日が避け難いことを悟っていたかのようにイスラエルのさばきを警告していく。

  2. 周辺諸国へのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへのさばきと同時にペリシテ滅亡への預言を語っていく。しかし同時に回復の希望も語られている。イスラエルは周辺諸国を見て教訓を得ようとしなかった。私たちも聖書を通して神のさばきの厳しさを見ている。だからこそそこから教えられたい。

Ⅲ・「民を救われる神」

  1. 一つとなる

    堕落した国の中にあっても、それでもけなげに信仰を守り通そうと熱心に歩んだ者たち(残りの者)がいた。時代にあって、その風潮に流される方が簡単で楽しいかもしれない。しかしいつの時代も熱心に歩んだ者たちがいたからこそ、神の救いの恵みが明らかにされてきた。

  2. 神の救いに与る

    民の努力で救われるのではない。あくまで神の恩寵によることを忘れてはいけない。自分で自分をきよめることはできない。神が主権をもって救ってくださる。そしてそれはイエス・キリストの十字架によって成就された。それを信じられるよう聖霊を備えてくださった。

結論:いつの時代も神を恐れず、神に背を向けて自分の快楽、自分の信じる道を探求しようとする人がいる。その生き方の方が充実して自分らしいと感じるかもしれない。しかし、その先にはむなしさと滅びしかない。神は、そのような堕落したもの、罪に気付かないままに覚えていく人を何とかして救いたいと願っている。神がそのイニシアチブを握っている。神に主権がある。私たちは自分で自分を救うことはできない。罪を贖うことはできない。神はイエス・キリストをもって私たちに救いの道を示し、聖霊をもって私たちにこの事実を知らせ、信じることができるようにと促している。次週はペンテコステ。この聖霊の働きに思いを寄せる1週間とさせていただこう。


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by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:45 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「先が見えない恐怖」

  1. 神からの約束

    神は堕落した南ユダ王国を滅ぼすと語られた。そして神のさばきの器としてカルデヤ人(バビロン)を用いることを約束された。また、その器であるバビロンも神の手によって滅ぼされるという。ハバククは最初は抗議したが、この神の約束を受け入れ、従うことにした。

  2. 目に見えない恐れ

    私たちは明日がどうなるかわからない。それだけに、不安になることもある。その恐れをどのように取り去るのか?ある人は虚勢を張り自力で突破しようとし、ある人は誰かに助けを求め、それが叶わないと諦める。先が見えないということは大きな恐れや不安を与える。

Ⅱ・「静かに待つ」

  1. ハバククの場合

    ハバククは先が見えない恐れに対して、どのように向き合い解決しようとしたか?それは祈りであった。ただ静かに、神に信頼してひたすらに祈った。目に見える現実、目に見えない恐れ、あらゆるものではなく、ただひたすらに神だけに目を注いで祈ることに専念した。

  2. 私たちの場合

    私たちも神に信頼して祈る。信じて待つが時にその結果を見たくて、つい神から目を話して現実(祈りの結果)を見ようとする。そして一喜一憂してしまう。それは神の約束に対して、完全に従いきれていない状態といえるかもしれない。神の約束・保証を喜ぶ信仰を持ちたい。

Ⅲ・「神にあって喜ぼう」

  1. 神の恵みを喜ぶ

    ハバククは神が約束したさばきに対して、恐れを抱き震えつつも、神の約束(バビロンもまた滅ぼす)という絶対的な神の正義に思いを寄せて喜びを抱く。目の前が真っ暗で、どこに神の解決が、救いがあるかわからないとしても、神の保証を信じ、必ず成就すると信じたい。

  2. すべての喜びの源

    すべての権威をもっておられる神様は、私たちをいかようにもすることができるが、信じ従うならば、決して見捨てず、滅ぼさず、救いへと誘われる。神は私たちの全てである。すべての喜びが神から溢れ出てくる。私たちはこの喜びを満喫できる恵みをいただいている。

結論:祈っても、祈っても、何の答えも与えられない。自分の思い願う良い結果が得られない。神様を信じているけれども、現実は私が破滅へと導かれているかのように感じる。そのような辛い時がある。先が見えない、目に見える結果が出ないとき、不安は恐れが私たちを覆うことがある。しかし、そのような時、自力で頑張るのではなく、また諦めてしまうのでもなく、ハバククのように神を信じ、静かに祈り、待つ姿勢を大切にしたい。神は、私たちと共におられ、最善のみわざをもって私たちを愛し、守り、導いてくださる。神の約束、保証、恵みを信じひたすらに従う道を進もうではないか。すべてを主に明け渡した時、私たちの喜びの源が、私たちの全てが神から溢れ出ていることを知り、真の喜び、感謝を味わうことができる。


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by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:43 | Comments(0)