聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「伝道旅行へ」

     A.再びバルナバと共に

      2年前に行われたエルサレム会議の決定事項を伝えながらの第1回目の伝道旅行はパウロとバ

ルナバにとってもすばらしい旅であった。決して楽なものではなかったが、各地に新しい信徒、

教会を生み出すことができたという、大いなる祝福を見ることができた素晴らしい旅であった。

B.小さな教会を思いやる

      今回の旅の一つの目的は、先に主のことばを伝えたすべての町々を尋ねてどうしているかを確

認するものであった。それは埋まれたばかりの教会が、その後どのように成長しているか、間

違った方向に進んでいないか?小さな教会を思いやる気持ちから出たものであった。

Ⅱ・「マルコを思いやる」

A.パウロの主張

   共に伝道旅行へと話し合ったパウロとバルナバがマルコの存在をめぐって意見が対立した。第

1回伝道旅行の際に、マルコも同行したが途中で宣教の働きから離れて行った事に対して、不

信感を持ち、宣教の働きに足手まといとなるとマルコは連れていくべきではないと主張した。

B.バルナバの主張

   一方バルナバはマルコとはいとこの関係にもあり、マルコのことはパウロよりもよく知ってい

た。かつて敵であったパウロをも受け入れた寛容なバルナバから見たら、マルコの過去の失敗

は許されるものであった。切り捨てるよりもむしろ回復のチャンスを与えたいと願った。

Ⅲ・「相手を思いやる」

A.人間的視点で見る

   結果、パウロはシラスと、バルナバはマルコとそれぞれの伝道旅行へと旅立った。それぞれに

気ごころの合う仲間を選択し、気持ちよく旅に出たいと思うことはよくある。確かに関係のよ

くない仲間との旅をするよりも、結果も良好になっていくように思える。

B.神様の視点で見る

   しかし、この結果は人間的な視点ではなく神の視点で見ていくとき、人間の思いではなくそれ

ぞれにふさわしく働かれる聖霊に促されていくことが神の願い、ご計画であったという視点に

立ちたい。神は相手を思いやる人の思いをも用いられ、すべてを最善へと導きてくださる。

結論:人が人を思いやることはすばらしい。しかし人間のすることには限界がある。うまくいっていても、ほんのちょっとの視点の違いや、自分の精神状態などで相手を思いやることができないという時もある。大切なことは、自分の感情や価値観だけを判断材料とするのではなく、聖霊の導きにこそ、自分の判断材料を求めていくことではないだろうか。そうするとき、人知を超えた主の導きの中で、神の愛をもって、イエスの真心をもって相手を思いやることが可能となっていくのではないだろうか。


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by ontheway-chapel | 2018-07-24 08:33 | Comments(0)

7月15日「門を開く神」

本論:Ⅰ・「熱心に祈り続ける」

     A.捕らえられたペテロ

       キリスト教に対する迫害はヘロデ王という強大な国家権力からの厳しい弾圧という形で進

められていった。ヘロデ王はヤコブを剣で殺した際の住民の反応が良いことを見て、勢いづ

いて今度はペテロを捕らえ、過ぎ越しの祭りにおいてペテロを処刑しようとした。

B.勝利を呼ぶ祈り

       ペテロが捕らえられ、厳重な監視体制のもとに置かれた。普通に考えたらもうペテロの先は

見えていた。しかし、キリスト者たちはペテロのために熱心に祈った。たとえ絶望と思える

ような状況に置かれても、私たちは全能なる神に向かい希望をもって祈りことができるのだ。

Ⅱ・「祈りの結果」

  A.不可能が可能となる

    ヘロデ王による国家的軍事力対教会の祈りによる霊的武力。どう考えてもヘロデ王の勝利。

ペテロがここから勝利することは不可能に思えたが、教会はこの戦いに勝利した。なぜ勝利

することができたのだろうか?どうして不可能と思えたことが可能となったのだろうか?

B.祈りのパワー

    勝利の秘訣は「彼のために熱心に祈り続けた」ということにあった。祈るということは自分

の弱さを認め、さらけ出すことでもある。自分の手に負えない、あとは祈るのみ。しかし、

もっとも弱そうな者が熱心に祈る時、もっとも強い者へと変えられていくのだ。

Ⅲ・「祈りの応える主」

本論:Ⅰ・「熱心に祈り続ける」

     A.捕らえられたペテロ

       キリスト教に対する迫害はヘロデ王という強大な国家権力からの厳しい弾圧という形で進

められていった。ヘロデ王はヤコブを剣で殺した際の住民の反応が良いことを見て、勢いづ

いて今度はペテロを捕らえ、過ぎ越しの祭りにおいてペテロを処刑しようとした。

B.勝利を呼ぶ祈り

       ペテロが捕らえられ、厳重な監視体制のもとに置かれた。普通に考えたらもうペテロの先は

見えていた。しかし、キリスト者たちはペテロのために熱心に祈った。たとえ絶望と思える

ような状況に置かれても、私たちは全能なる神に向かい希望をもって祈りことができるのだ。

Ⅱ・「祈りの結果」

  A.不可能が可能となる

    ヘロデ王による国家的軍事力対教会の祈りによる霊的武力。どう考えてもヘロデ王の勝利。

ペテロがここから勝利することは不可能に思えたが、教会はこの戦いに勝利した。なぜ勝利

することができたのだろうか?どうして不可能と思えたことが可能となったのだろうか?

B.祈りのパワー

    勝利の秘訣は「彼のために熱心に祈り続けた」ということにあった。祈るということは自分

の弱さを認め、さらけ出すことでもある。自分の手に負えない、あとは祈るのみ。しかし、

もっとも弱そうな者が熱心に祈る時、もっとも強い者へと変えられていくのだ。

Ⅲ・「祈りの応える主」

  A.幻に従う

    ペテロは御使いの導きに対して、現実のことと思えずに幻を見ているようであったという。

人間的な理解力をはるかに超えた神の導きを前に、私たちも同じような思いになるかもしれ

ない。しかし、良くはわからないけど、従うという姿勢が求められているのかもしれない。

B.気付きが与えられた

    ペテロは主の御手によって、門が開かれたその道を進んだ。到底不可能と思われた門を主が

開かれる。そこに従う時、自分ではなく、主ご自身が私たちの人生を最善へと導き、すべて

の災いから私たちを救い出してくださる、ということに気付き、心の目が開かれていく。

結論:自分の力でどうにかなると思えることがたくさんある。実際に何とかなったと思えた時には、神の助けを必要としないで平気だと思っている。だから、実はそこにある神の助けに目が向けられない。しかし、絶体絶命、もうどう考えても不可能と思えることが目の前に広がった時、自分の手に負えない何かが目の前に迫った時、人は自分の無力さを思い知り、ようやく自分以外の偉大なる存在をおぼえて祈る。神の前にひれ伏し祈る時、不可能が可能となる。神に逆らう勢力は敗れ去る。神は私たちの祈りに応えてくださる。その導きに素直に従う時、私たちは栄光の勝利を手にすることができる。  

A.幻に従う

    ペテロは御使いの導きに対して、現実のことと思えずに幻を見ているようであったという。

人間的な理解力をはるかに超えた神の導きを前に、私たちも同じような思いになるかもしれ

ない。しかし、良くはわからないけど、従うという姿勢が求められているのかもしれない。

B.気付きが与えられた

    ペテロは主の御手によって、門が開かれたその道を進んだ。到底不可能と思われた門を主が

開かれる。そこに従う時、自分ではなく、主ご自身が私たちの人生を最善へと導き、すべて

の災いから私たちを救い出してくださる、ということに気付き、心の目が開かれていく。

結論:自分の力でどうにかなると思えることがたくさんある。実際に何とかなったと思えた時には、神の助けを必要としないで平気だと思っている。だから、実はそこにある神の助けに目が向けられない。しかし、絶体絶命、もうどう考えても不可能と思えることが目の前に広がった時、自分の手に負えない何かが目の前に迫った時、人は自分の無力さを思い知り、ようやく自分以外の偉大なる存在をおぼえて祈る。神の前にひれ伏し祈る時、不可能が可能となる。神に逆らう勢力は敗れ去る。神は私たちの祈りに応えてくださる。その導きに素直に従う時、私たちは栄光の勝利を手にすることができる。
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by ontheway-chapel | 2018-07-16 09:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「語りかける神」

     A.わたしが示す地へ行きなさい

      神は突然、アブラハムにとんでもない要求をされた。そこに従うならば祝福されるという。神

のご計画は常に最善である。時に私たちの思い願うこととタイミングとかけ離れていることが

ある。この神から命令、語り掛けに従うのか、それとも拒否するのか。人生の分岐点となる。

    B.地上のすべての民族が祝福される

      神はアブラハムを祝福すると同時に、地上のすべての民族がアブラハムの信仰によって祝福さ

れるという。神はイスラエル民族だけを祝福されるのではなく、アブラハムの子孫を通して地

上の他の国民をも祝福されると約束され、現在私たちはその恵みに与っている。感謝!

   Ⅱ・「応答するアブラハム」

     A.お告げになった通りに

      神の突然の語りかけに対して、アブラハムはその通りに従った。人間的に思うならば、75歳と

いう年齢、どこに行けと具体的に言われたわけでもなく、その先に何があるのか何の保証もな

いなかで第一歩を踏み出すことはとんでもないこと。アブラハムはその保証を神自身に見た。

    B.祭壇を築いたアブラハム

      アブラハムはカナンの地に入ったとき、祭壇を築いた。それは祈りと崇拝のためであり、神の

祝福の約束を思い起こすためであった。アブラハムはこの祭壇を通して常に神に対する愛と献

身を新たにしていた。霊的いのちを保つためにとても大切なこと。私たちの礼拝も同様である。

結論:アブラハムは自分自身の思う人生の旅路を歩むのではなく、神を中心とした、神の示す地に向かって、人生の旅路を歩んだ。それは、神の目に良しとされることであり、大いに祝福されることであった。私たちは自分の目に美しい道を選んでしまいがち。しかしそこには一時的な喜びはあっても、永遠の祝福はない。アブラハムのような人生の旅路を選ぶとき、神は必ず祝福されると約束されたことを成就される。その旅路こそが、その人に本当の幸せ、本当の喜びを与え、何よりも最高の生涯を送ることができるだけではなく、その先の永遠のいのちまでも保証されているのである。


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by ontheway-chapel | 2018-07-11 16:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「サウロによる迫害」

   A.キリスト教最大の迫害者

       サウロはステパノの殉教についても積極的であり、これを機に一気にキリスト教に対する激

しい迫害が起こった。その中心的存在がサウロであり、サウロは信念をもって自分のしてい

ることが正しいと信じていた。すべてに一生懸命であったサウロの迫害は徹底していた。

B.神様のなさる不思議

       神様のご計画はこの最大の敵である迫害者サウロを用いることであった。後のパウロとなる

サウロは信じた道に対して一心不乱に前進し実行する力があった。それが迫害という形でだ

された時には脅威であったが、キリスト者となった瞬間、最大の協力者となった。

Ⅱ・「開いていても何も見えない」

A.天からの光

    サウロがなおも迫害の思いに燃えて、次なるキリスト者を捕らえに意気揚々と旅していると

き、天からの光がサウロを照らした。この光は目を開いていても見えなくする光であった。

目が見えていても何も本質が見えていない時があるが、この光はサウロの心にも刺さった。

B.語られた声

    サウロは続けて「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と復活のイエスに語り掛け

られた。これは心に刺さった光と共に、サウロの心の奥深くに響く声であった。そしてその

声に従って立ち上がった。その時のサウロは出発前の自信に満ち溢れた姿ではなかった。

Ⅲ・「霊の目が開かれた」

A.アナニアとの出会い

    アナニアにとってもサウロは憎き存在であり、脅威の存在であった。できれば顔を合わせた

くないような存在。しかしアナニアは主の言葉に従った。人知を超えた主のご計画が示され

ることがある。その時自分の意思を貫くのか、それとも主に従って行動するのかが問われる。

B.目が見えるようになった

    サウロはアナニアの目が見えるようになり聖霊に満たされるようにと言う祈り。これによっ

てサウロは目が開かれただけではなく、心の目も開かれた。彼が確信をもってしてきたこと

が間違いであったことに気が付いた。霊の目が開かれたときサウロは新しく生まれ変わった。

結論:ここには様々な人間模様が描かれている。私たちも実際の日々の生活で様々な人間模様のただなかに置かれる。それは時に煩わしい関係かもしれない。会いたくないような関係。敵対する関係もある。しかし、その時私たちが自分の考え、自分の思いこそが絶対であるとして、かたくなになるのか。それとも神がそこに働かれていることを感じ取り、その神の導きに従おうとするのか。そこに身をゆだねた時、私たちもまた目から鱗が落ちるかの様に、今まで見えていたようで、見えていなかった世界が広がっていく。そして新しく見えた世界は何と素晴らしく美しいことだろうか。霊の目が開かれたとき、私たちはまた一歩主に近づくことができるようになる。


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by ontheway-chapel | 2018-07-03 10:16 | Comments(0)