聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「パウロの証し」

     A.神の国について証しした

      私たちも証しをするが、それは自ら経験した神体験を確信をもって主観的に語ること。と同時

に、聖書で語られていることが成就したことを客観的な視点を交えて語る。これらが聖霊の働

きによって、私たちの内において一つとされた時、証しは喜びと感動に満ちたものとなる。

B.イエスについて証しした

      パウロには神の国、イエスについて証しするに十分な時間と環境が与えられた。これもまた神

の不思議な摂理のうちになされたみわざである。いつでも、神とイエスについて証しする機会

が備えられているから、いつでも語れる準備と聖霊に導かれた時を逃さないようにしたい。

Ⅱ・「聞き、見たにもかかわらず」

A.人間的な反応

   パウロの証しを受け入れた者もいれば、信じなかった者もいた。これは人間的な素直な反応で

ある。証しを聞いて感動することはあってもそれですぐに信仰へと導かれるケースは決して多

くはない。人間的な感覚だけに頼っているならば、それは当然の反応であるかもしれない。

B.聖霊による反応

   しかし、聖霊が働く時、私たちの常識、感覚、価値観が一気に崩される。心頑なな者の心は一

瞬で溶かされる。同じ花を見て、ただきれいだなと思うのは人間的な反応。そこに神の創造の

みわざを見て感動できるのは聖霊がそこに働いているから。この反応を大切にしたい。

Ⅲ・「神の救いの大転換」

A.ユダヤ人から異邦人へ

   ユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた民であると自負していた。だから異邦人を見下し、

排斥してきた。しかし、今や神の救いのご計画が異邦人に向けられたと宣言された。心頑なに

またおごり高ぶり、福音を受け入れないならば、神の救いはそこからこぼれてしまう。

B.そして私たちへ

   神の救いは全世界へと向けられた。その恩恵を私たちは今受けている。神の救いはごく限られ

た民族、特定の人にだけ向けられているのではない。かつて軽蔑されたような、人数に数えら

れなかったような人にも神の目は向けられていた。私たちにも確かに神の目は向けられている。

結論:かつてユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた誇り高い民族として、他者を見下していた。しかし、聖霊の導きを無視し、心頑なに神の救いを拒絶するならば、その恵みを受け取り損ねてしまう。同時に神の目はユダヤ人だけではなく、全世界に向けられていた。特定の優秀な人、選ばれた民族だけのものではない。全世界が神の救いの対象であり、その愛の目が注がれている。私たちが福音を見聞きしたとき、聖霊の働きにゆだね、自分の思いではなく、心開いて神を受け入れるとき、救いの大逆転が起こる。そのチャンスはすべての人に向けられている。ぜひとも、この恵みを獲得しようではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-08-30 10:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「憐れんでくださいと叫んだ10人」

     A.ツァラアトの苦しみ

      この時代、ツァラアトを患った人たちは祭司から癒されたと宣言されないと、普通の生活がで

きず、人目を避けて辛い生活を送らなければならなかった。いつの時代も、本当に苦しい、辛

いなかを通らされることがある。その中で必死にもがき助け、救いを求める。みんな必死。

B.叫びに応答するイエス様

      ツァラアトを患った人たちの叫びにイエス様は応答された。多くの人が彼らを避けるように生

きている中で、イエス様は目を留めて、彼らの声を聞き応答された。イエス様はどのような境

遇の人であっても、その叫びを聞き、苦しみに寄り添ってくださり、救いの道を示される。

   Ⅱ・「戻って来たひとり」

A.癒された10

      彼らはイエス様に言われたとおりに従った。癒されてもいない段階で祭司のところへ行くこと

はなかなかできない。必死にイエス様に従う時、普通ならば有り得ないことが起こる。常識を

超えたすばらしい出来事が私たちの前にも広がっている。10人のツァラアトは癒された。

B.ただ喜ぶだけか?感謝するか?

      癒された10人のうち、たった一人だけがイエス様のところに戻りひれ伏して感謝した。みん

な喜んだと思うが、イエス様に感謝したのはひとりだった。神のみわざを見てもすごいと感じ

てもその恵みに感謝する人は少ない。クリスチャンも恵みに慣れすぎると感謝を忘れてしまう。

結論:私たちも気をつけないと、戻ってこなかった9人の中に含まれる信仰生活を送ってしまう。ほんの小さなか事に感謝できる純粋な信仰を持っていたい。子どもは小さな出来事に目を輝かせて感動するが、大人はそんなこと知っているとわかったような態度をとる。いつの間にか知識が感動を消してしまう。経験が感謝を奪ってしまう。ほんの小さな喜び、恵みをしっかりと拾い上げる姿勢を忘れないようにしたい。そして、その恵みの源である主に感謝することを忘れないようにしたい。


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by ontheway-chapel | 2018-08-18 10:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「試練の連続」

     A.パウロたちを襲った試練

      パウロは長年願っていた、また主によって約束されていたローマ行きが思わぬ形(囚人)とし

て実現することになった。しかし、船は向かい風で思うように進まず、また季節的にも航行に

危険な状態となっていた。主の道が開かれたと思っても必ずしもスムーズに進むとは限らない。

B.私たちの日常における試練

      私たちの人生も海のように例えられる。向かい風、霧が立ち込め前が見えなくなることもある。

大きな波に自由を奪われ翻弄することもある。時には強い太陽も敵となる。次から次へと試練

が襲ってくる。船は羅針盤や目印となるものを見て進むが、私たちも目印がないと遭難する。

Ⅱ・「試練との向き合い方」

A.謙虚になる

   パウロはこれまでに何度も旅をしてきた。また、徹底して自分ではなく聖霊に導かれる道を選

んだ。その経験をもって航行についてアドバイスをしたが、囚人と言う立場もあって誰も聞く

耳を持たなかった。航海士や百人隊長は様々なプライドが邪魔をして謙虚になれなかった。

B.神により頼む

   結果として、船は大きな痛みを負った。パウロは自分の言うことを聞かなかったことを責める

のではなく、他の人々を励ました。その根拠は神様から託されたみことばであった。パウロは

自分ではなく、神のことばをただ信じ、それを根拠に試練と向き合い、人々を励ました。

Ⅲ・「元気を出そう」

A.神様が守ってくださる

   パウロは神様が必ず守ってくださると約束されたその言葉を信じ、それが成就することを確信

していた。目の前の状況が最悪と思えたとしても、必ずそこから救い出す道を神は用意してい

る。様々な波風、妨害するものが襲ってきても、神が共におられるから私たちは前を向ける。

B.元気の源

   私たちの元気は空元気ではなく、根拠がある。試練を前に絶望している人たちに本物の元気を

与えることができるのが神を信じるクリスチャンのすばらしさ。まず神から元気をいただき、

必要な人に元気を与えることができる。なぜならば、元気の源が全知全能なる神様だから。

結論:試練は誰にも降りかかる。必死にもがいて、がんばって乗り越えていこうとする。しかし、試練は一度きりではなく何度も襲ってくる。自分でがんばろうとするとそのうち人は疲れてしまう。元気の源が自分だと限界があるが、元気の源を神様におく時、そこに信頼し、委ねていくとき、私たちはいつでも主からの元気をいただき、励ましをいただき、みことばをいただき、前を向いてまた一歩踏み出すことができる。そして、自分のことで精一杯になることなく、人を元気にすることもできるようにされていく。「元気を出しなさい。わたしが共にいるから」と主は言われるから、安心して前を向いて歩もう。


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by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:52 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ゆだねる」

     A.パウロの惜別のことば

      パウロはいよいよエペソの教会での働きを終えて導かれる次なる地へ進もうとしていた。おそ

らく二度とエペソに戻ることはないという覚悟が語られた。パウロが伝えたことは伝道につい

て、教会について、そして聖書についてであった。パウロはこの聖書のみことばにゆだねた。

B.何にゆだねるのか?

      エペソの人たちにとって約3年も一緒にいたパウロと会えないのは大きな痛み、損失に思え

た。拠り所を失ってしまうように思えたが、パウロは人ではなく聖書のみことばにすべてをゆ

だねた。人はいつかいなくなるが聖書のみことばは不変であり永遠に失われることが無いから。

Ⅱ・「イエスの教えに生きる」

A.教会を支えたパウロ

   パウロは教会に仕えていたから受けるべき謝礼をもらってもよかった。しかし、まだできたば

かりの経済的にも乏しい教会から受けるのではなく、教会の働いをしながら、同時に自分で働

いて天幕造りをして生計を立てようとしていた。受けるより与える幸いを実践した。

B.みことばに忠実に生きる

   パウロがそのように働いた根拠はどこにあるのか?一部の人たちからパウロがみんなの献金

やささげられた衣服を自分のために使っているという批判があった。しかしそうした批判をか

わすためではなく、イエス様の教えを実践していたに過ぎなかった。みことば中心の生活。

Ⅲ・「教会を建て上げる」

A.祈りによって

   パウロの惜別のことばを聞いたエペソの人たちは、その後パウロと一緒になって祈った。それ

は別れを惜しむ祈りであり、パウロの安全を祈るものでもあった。祈りを聞かれる主はなお、

エペソの教会を愛し、その恵みとみことばと、祈りによって教会をさらに成長させてくださる。

B.キリストの愛によって

   パウロがその生活の中心に据えていたキリストは、パウロと共にエペソを去るわけではない。

エペソ教会の長老たちやその信徒たちと共におられ、彼らを守り、養い、教会の建て上げのた

めに、労してくださる。私たちもパウロのような歩みをしていくとき、教会は成長していく。

結論:パウロは多くのものエペソの人たちに与えた。その生き様を通して、エペソの人たちはキリストに委ねること、キリストの教えに生きること、祈りをもって教会を成長させていくこと。パウロは自ら受けるよりも与える方が幸いであることを実践して見せた。これは世の価値観とは逆のようにも見える。しかし、神の祝福は十分すぎるほどにパウロに注がれた。これこそが、キリスト者が目指す神に喜ばれる生き方であり、それは私たちにとっても喜びに満ち溢れた、最高の人生、幸いなる生き方となっていく。


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by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:50 | Comments(0)