聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「神の憐みの中で」

     A.憐れみとは

      憐れみとはラテン語で「惨めさ、悲惨」と「心」という二つの言葉で構成されている。ヘブル

語では「内臓」を意味する。他人の苦しみや悲しみを、自分の心の中で深く感じること、母親

がお腹を痛め子どもに対する愛のようなものが憐れみであるという。神の憐みはそれ以上。

B.憐れみを信じる

      神の憐みはすべての人に向けられている。イエス様は苦しみ人や悲しむ人を見て、深く心を動

かされ、まさに内臓に至るほどの深いところで激しい痛みを感じられる。そして、深い憐れみ

をもって私たちに接してくださり、決して見捨てることなく守ってくださるのだ。

Ⅱ・「ダニエルたちを守られた神」

  A.とんでもない試練

   ダニエル達は燃えさかる炉に投げ込まれることになった。しかし、そこから神は必ず救い出し

てくださるとダニエル達は確信していた。どのような試練にあっても決して負けない。なぜな

ら主が共におられ、私たちを守ってくださるからだという信仰がダニエル達を支えた。

B.共におられる主

   ダニエル達は実際に火の中に投げ込まれた。しかし、王はそこに4人の存在を見た。そこには

主が共におられた。私たちの信仰は単なる迷信でも希望的観測でもない。真実である。私たち

は様々なことを心配するが、その先に主の守りがあることを決して忘れないようにしたい。

Ⅲ・「私たちを守り導かれる神」

A.教団を守られる神

   今年で65周年を迎える東京フリー・メソジスト教団の歩みも、決して順風満帆ではなかった。

様々な試練を通らされたと思われるが、主が共におられここまで守り導いてこられた。そこに

はたくさんの信仰の先輩方の祈りがあり、次世代による祈りがさらに積まれていく。

B.教会、個人を守られる神

   そしてこの神は川越教会にも、さらにはそこに連なる私たちにも共にいてくださり、守り導か

れる。だから私たちは決して恐れることはない。信頼して、安心して、主と共に歩み続けよう

ではないか。様々な試練が襲うかもしれないが、主の守りの中にいるならば決して負けない。

結論:主の守りの内に歩むことは、決して簡単ではない。それをはばもうとする様々な試練、誘惑が襲ってくる。時に負けそうになるかもしれない。でも、主に信頼し続けて歩むとき、主は私たちを憐れんでくださり、最後の最後まで守り導いて下さる。それはこれまでも、そして今も、さらにこれからも決して変わることはない。神の守りの中で勝利の歩みを、喜びと感謝の歩みをさせていただく者とさせていただこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-09-27 08:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ネブカデネザルの夢」

     A.神からのメッセージ

      ネブカデネザル王は夢を見た。その内容によって王は心騒ぎ眠れなくなったという。神様から

のメッセージは人の心に深く突き刺さる。しかしその内容を王は理解することができなかった。

多くの人が神からの語り掛けを受けているが、それをただしく受け取ることができずにいる。

B.神は隠される

      神様からのメッセージがもっとわかりやすく、単純であればいいと思う時がある。しかし神は

あえて隠されることがある。神の遠大なるご計画、偉大なるみわざを前に私たちはそのすべて

を理解することはできない。だからこそ、へりくだって神のメッセージを受け取る必要がある。

Ⅱ・「不安と恐れ」

A.真理を求める

   ネブカデネザル王は夢の解き明かしを求めた。神からの語り掛けの意味を知りたいと思う姿勢

はとても大切。自分でわかったようなつもりにならず、真剣に求め、素直に受け取ろうとする

姿勢が大切。神様は今日も私たちに何かを語りかけて下さっているから、しっかり求めよう。

B.真理のない不安

   王は夢の内容がわからず心騒がした。真理がわからない、真理を見出せないことは人を不安に

させる。現代ではその不安を様々なものに転換させてごまかそう、見なかったことにしようと

真理と向き合うことを避ける。そこには不安と恐れがずっとつきまとい平安のない日々がある。

Ⅲ・「ピンチを迎えた時に」

A.王の思わぬ命令

   誰も夢を解き明かすことができないことに王の怒りはバビロンにいる知者すべてを滅ぼすと

いう命令を下した。とんでもない命令が下され、それはダニエル達にも届けられた。思いがけ

ないピンチは誰にでもやってくる。その時、私たちはどう対処するだろうか?

B.ダニエル達はどうしたか?

   ダニエル達は知恵と思慮をもって応対したとある。ダニエルは仲間たちと共にこの危機に対し

て、まず祈りをささげた。自分たちの知恵に頼らず、神に助けを求めた。全知全能なるお方に

助けを求めることは実に理にかなっている。なぜならば神は絶対に間違いを犯さないから。

結論:人生の思いがけないピンチを前にして、多くの人はそのピンチに対してどういう意味があるのか?自分自身とピンチにしか目を向けようとしない。しかし、本当に知恵と思慮に満ちた人は、まず神に目を向ける。そして全能なる神に信頼し、そのお方が解決の方法を教えてくださり、道を示されることを確信して祈り求めたい。ダニエル達はそれを実践した。その時、神はダニエル達の祈りに応え、夢の解き明かしを示された。神に真理を求める時、神はそれを与えて下さる。ピンチの時、神を信頼し、神に目を向けてすべての解決を求めていこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-09-20 11:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ザアカイに声をかけたイエス」

     A.仲間を裏切り搾取していたザアカイ

      ザアカイは取税人で。当時、ローマの支配下にあったイスラエルではローマに税金を支払わな

ければなりませんでした。それをザアカイがしていた。ローマの手下のようにユダヤ人からお

金を集め、時には多めの金額を徴収して自分の懐に入れていた。裏切り者として嫌われていた。

B.嫌われ者に目を留めるイエス

      そのようなザアカイを見て、イエスは直接名前を読んで声をかけてくれる。イエスは私たち一

人一人の名前をも知っていて、そのすべての良い点、悪い点を知ってなお声をかけてくださる。

たとえすべての人が嫌い、咲けられているようなどうしようもない存在であっても。

   Ⅱ・「救いがザアカイに来た」

A.搾取する者から与える者へ

      ザアカイはイエスとの触れ合いによって、これまで自分のしてきたことの非を認めることがで

き、それまで搾取する側にいたが、今度は余分に与える者へと変えられた。誰も失敗はある。

しかしイエスとの出会い、触れ合いによって非を認めて新しく変わることができる。

B.ありのままを受け入れるイエス

      イエスはザアカイのありのままを知っていて受け入れてくださった。真珠貝は異物を入れられ

ることによって涙し、素敵な真珠を造りだす。イエスを受け入れることは苦しみを伴い涙する

かもしれないが、思わぬ素敵な輝きを手にすることになる。喜んでイエスを迎えよう。

結論:今、素直になって自分の心に手を当ててみよう。自分自身に正直になって、自分を見つめてみよう。素晴らしいところもあれば、誰にも言えないような痛み、傷、苦しみ、消し去りたい過去、今抱えている罪。色々あると思う。イエスはそのすべてを知っておられる。そのうえで、私たち一人一人の名前を呼んで声をかけてくださる。そのイエスとの交わりに入るならば、私たちの人生は劇的に変化することができる。その過程では辛いこともあるだろう。イエスを異物と感じて吐き出そうとするかもしれない。しかし、イエスを受け入れるとき、私たちの涙とイエスの十字架の血潮とによって、私たちの中に光り輝く信仰の果実が生まれてくる。それは何物にも代えがたい美しいものである。


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by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信念が曲げられる試練」

     A.バビロンによる捕囚

       ダニエル達は、神のご計画のうちにあってバビロンに捕囚の民として連れて行かれることに

なった。それはユダヤ人たち、ダニエル達にとっては受け入れがたい屈辱であり、痛み、苦

しみの試練であったかもしれない。しかしこれは主が主権をもってなされたみわざであった。

B.与えられた場所でどう生きるのか

       渡辺和子さんは思いがけず36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に任命された。本

人にとって願っていたものではなく、若さゆえにおかれた境遇をなかなか受け入れることが

できず苦しんだ。しかしある宣教師のことばで変えられた。置かれた場所で咲きなさい、と。

Ⅱ・「ダニエル達の信仰」

A.何を第一とするのか

    ダニエル達は英才教育を受けるため、優遇され王様の食べるような食事が与えられた。しか

し、それらは異教の神にささげられて汚れたものであった。これらを食することは異教の神

を礼拝すること、偶像礼拝に加担することを意味していた。ダニエル達はこれらを拒んだ。

B.この世的な感覚との戦い

    宦官の長は王様から直々にダニエル達の世話役が与えられていた。ダニエル達の言い分を聞

きつつも、王様からの叱責を恐れためらい戸惑っていた。しかし、ダニエルたちの誠実な願

いを、必死の信仰をみて試すことにした。私たちの必死の信仰の姿勢は人の心に必ず届く。

Ⅲ・「仕える者に応える神」

A.人ではなく神に仕える

    ダニエル達は王様から英才教育を受けるが、宦官長のように王様を恐れるのではなく、神を

第一として神を恐れた。ダニエル達は宦官長の立場を理解しつつ、神に仕えぬくことを選択

した。ダニエル達の信仰は主に仕えるだけではなく、人への配慮ももっていた。

B.神の応答

    結果、ダニエル達は野菜と水だけであったが、他の誰よりも健康に満たされ、誰よりも優秀

な者とされた。神に仕える者は、この世的には貧しい状況に置かれているように思えても、

誰よりも主にあって祝福に満たされる。神に仕える者は神によって用いられていくのだ。

結論:この世の多くの人は、目に見えない神よりも、目に見える人(物や価値)を恐れてしまう。しかし、それでは人からは評価されても、本当の祝福をいただくことはできない。人の評価は移ろいやすく、人の価値観によって左右されてしまう。しかし、神の評価は決して移ろうことなく、この世の価値観によって左右されることなく不変である。ダニエル達は信念をもって神に仕え続けた。そして神はそのような民を決して見捨てることなく、祝福し用いてくださる。私たちもおかれた環境は様々で不平不満を抱くことがあるかもしれないが、それでもなお、神を見上げ、神に仕えることを選択するとき、神はいかなる場所にあっても、決して見捨てることなく、祝福で満たしてくださる。


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by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:25 | Comments(0)