聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「呪われたいちじくの木」

     A.解読が難しい

      この箇所は非常に難解であり、私たちの常識に照らし合わせて読むと、理解不能である。まず

イエス様が非常に怒りっぽいというか、自分の都合によってそのみわざをなしたことである。

どのような誘惑にあっても、十字架を前にしても自分の都合で奇蹟をなさらなかった。

B.時期的にも理解不能

 この時期は過ぎ越しの季節であり、季節としては4月中旬であっただろうと思われる。しかし

いちじくの木が実をつけるのは、5月後半から6月であると言われている。いちじくの実がな

らなくておかしくないのに、イエスはそれに対して怒り呪われたことになる。なぜ???

    

Ⅱ・「山をも動かす信仰」

A.弟子たちの反応

   弟子たちはイエスが呪われた木が枯れているのを見て驚いた。しかしイエスはそれに対して、

「神を信じなさい」と伝え、祈りの法則について教えられた。それは時代を超えて私たちに祈

りの素晴らしさを伝えてくれる。山をも動かすお方への信仰の祈りを実践していきたい。

B.主に期待する

   主に不可能な過去とは何一つない。しかし主の御心こそが第一であり、最善である。私たちの

祈りは期待に満ちたものであるかもしれないが、それは自分への期待ではなく、主の最善がな

されることへの期待を失わないように注意したい。主の最善こそが私たちの最善である。

Ⅲ・「イエスを受け入れなければ枯れてしまう」

A.イスラエルへの警告

   イエスが到来した時、救い主を待ち望んでいたはずの神に選ばれしイスラエルの民は、それを

受け入れることができなかった。いちじくの木はイエスがそこにやってきたとき、実を結ばな

かった。そして枯れてしまった。私たちもイエスを受け入れるチャンスを活かしたい。

B.実を結ぶ歩みへと

   いちじくの木は我々の常識に沿って、イエスの到来を前にしても実を結ぶことができなかった。

私たちはいつ、イエス様が到来してもよいように、いつも実を結ぶために備えている必要があ

る。自分の都合、常識ではなくイエス様に合わせた生き方こそが、実を結ぶ生き方となるのだ。

結論:私たちの生活はこの世を中心に回っているかもしれない。もちろん、この地上に生きている以上、それは当然のことである。しかし、私たちは時にこの世のすべての常識を覆してでも、世に逆らい、世を離れて、イエス様をお迎えし、実を結ぶ準備を怠ってはならない。そして、その時が来たとき、いつでも応答できるように備えていたい。イエス様はそのために必要なこととして神を信じなさい、と言われた。そして祈りの大切さを教えられた。日々の祈りを通して、主の最善こそが私の最善であると信じ、期待して祈り続ける歩みをして生きたい。そのような歩みをしているならば、私たちは決して枯れることがない。


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by ontheway-chapel | 2018-11-28 19:06 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ヘロデヤの問題」

     A.罪と向き合えない

      バプテスマのヨハネはヘロデ一家のねじ曲がった婚姻関係が間違っていることを指摘した。特

にヘロデと兄弟ピリポの妻であるヘロデヤとの関係を指摘していた。ヘロデはこのことでヨハ

ネを拘束していた。しかし、ヘロデヤは自らの問題と正しく向き合うことができなかった。

B.耳に痛いものを排除する

      自らの問題を指摘されたヘロデヤがしたことは、ヨハネを恨み、そのような耳に痛いことを語

る存在を消し去ることであった。私たちも褒めてもらうことは素直に受け入れても、間違いを

指摘されることはなかなか素直に聞き入れることは難しい。そうした声は聞き流そうとする。

Ⅱ・「個人的な感情に生きると」

A.ヘロデヤの要求

   ヘロデヤはヘロデの誕生日という機会を利用して、娘のサロメに祝宴の場で躍らせた。本来、

娼婦の仕事であるにもかかわらず、ヘロデのご機嫌を取るために策を設けた。そして見事に褒

美の約束をいただき、ヨハネの首を目の前に差し出すことを要求することに成功した。

B.ヘロデの弱さ

   ヘロデはヨハネを拘束しつつも、彼の誠実さを尊敬していた。ヨハネの鋭い指摘を恐れつつも、

彼の話を聞くことに喜びをもっていた。みんなの前で褒美の約束をしてしまったゆえに、サロ

メの要求に応えなければいけなくなった。自分の保身だけを顧みた浅はかな弱さがあった。

Ⅲ・「真理のために生きる」

A.偽りよりも真実を

   当時権力を握っていたヘロデ一家に対して避難を公然と語ることは、とても勇気のいることで

あり命がけでもあったが、ヨハネは悪事を見て見ぬふりをすることができなかった。それは個

人的な正義感ではなく、主の前に悪であるからであり、真実に生きることを選択した姿である。

B.神の目に正しい選択を

   様々な問題と向き合う。それは他人の問題もあるし、自分自身の問題でもある。人の問題は比

較的指摘しやすいが、自分の問題と向き合うことは難しい。また時に問題の指摘には勇気が必

要となる。どうしたら正しく生きることができるのか?ただ神を基準にして判断すること。

結論:自分の問題を指摘されたとき、素直に受け入れがたいかもしれない。相手を恨むかもしれない。しかし、黙して神と向き合う時、何が正しいのか、どうすべきかが見えてくる。個人的な感情だけに従うならば、その選択は大きく間違えることがある。しかし、真理のために、神の目に最善を求める時、私たちが本当にすべきこと、向き合うべきこと、生きるべき道が見えてくる。ヨハネは生涯をかけてそのような生き様を私たちに見せた。私たちもヨハネに倣って生きる道を目指していこうではないか。


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by ontheway-chapel | 2018-11-22 17:40 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「郷里から驚かれたイエス様」

     A.会堂で教えを聞いた

      イエス様は郷里に戻り、そこで安息日に会堂で教え始めた。イエス様の教えを聞いた人たちは

驚いたという。おそらくこれまでに聞いたことのないような、深い知識と洞察に満ちた教えを

語られたことだろう。人々はその教えを確かに聞き、驚いたが、それ以上ではなかった。

B.力あるわざを見た

      郷里の人たちは、イエス様がなさったみわざを直接見た。少数の病人を癒したと書かれている

が、何ひとつ力あるわざを行わなかったとも書かれている。みわざを見たり、教えを直接聞い

たりしても、人々の心は閉ざされたままであった。何が心を閉ざしていたのか?

     

Ⅱ・「郷里で尊敬されないイエス様」

A.大工ではないか

   人々の心を閉ざしていたのは、イエスは大工であるという視点であった。郷里の人たちにとっ

てイエスは独りの人であり、いち労働者でしかなかった。彼らの目は本当の意味で開かれては

いなかった。外見だけをみて、本質を見ることなしに物事を判断してしまわないようにしたい。

B.マリヤの子ではないか

   イエスは30歳になるまで郷里で生活をし、家族を支える働きをしていた。郷里の人たちにと

ってイエスはそれだけ身近な存在でもあり、それだけの存在であった。近すぎて、その素晴ら

しさを見つけることができなかった。家族伝道の難しさをここからも教えられる。

Ⅲ・「不信仰を打破する」

A.不信仰の現実

   イエスの家族はイエスが身近すぎて、先入観もあってイエス様の本当の姿を見ることができな

かった。目の前にイエス様がいても、そこで何を見聞きしても心が閉ざされていては信じ受け

入れることができない。癒しを拒む者に医者は何もできない。これが不信仰である。

B.使命に生きる

   決して諦める必要はない。イエスは郷里から離れて救われる魂を求めに出て行った。それは神

の使命に生きる姿である。私たちもその時できることに一生懸命でいたい。その先に神の時に

かなって美しい働きがある。諦めず、イエスの働きを助ける歩みをしていこうではないか。

結論:私たちはイエス・キリストの働きに参画し助けることができる一方で、その働きを拒否し妨げることもできるという、大きな責任を負っている。人々の心の扉を開き、不信仰を打破し、一人でも多くの人をイエス様の元へ届けたい。最も身近な家族は、それゆえに難しさをおぼえるかもしれない。イエス様でさえ苦労し、驚かれた。しかし、イエスの弟はやがて救われ素晴らしい働きをした。諦めず、神様から託された使命に生きるお互いでありたい。神は時にかなって、ふさわしい方法で私たちの祈りを聞かれ、家族を救いへと導いて下さることに期待していこう。


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by ontheway-chapel | 2018-11-14 16:29 | Comments(0)