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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「必死の祈り」

     A.正直に祈る

      イエスはゲッセマネの園で祈った時、最初に自分の気持ちをアバ父よ(マルコ)と親しみを込

めて、全幅の信頼をもって正直に打ち明けた。十字架の苦悩、死と向き合うことは本当に辛く

できればそこから逃げたいと思うのは正直な気持ちでありイエスはそのまま神に打ち明けた。

B.しかし神第一

      イエスの願いは十字架から取り除かれることであった。しかしイエスの祈りはそこで終わらず、

神のみこころのままにしてほしいと続けた。自分の気持ちに正直でありつつも、しかし神の御

旨に従うというのはものすごい葛藤である。イエスも3度繰り返し祈る時が必要であった。

Ⅱ・「従いきることの大切さ」

A.寄り添うことの難しさ

   このイエスの必死の祈りを前に弟子たちはどうであったか?彼らは目をさましているように

と言われつつも、繰り返し寝てしまった。肉体の弱さ、限界を教えられる。どんなにイエスを

慕っていても、目の前でもだえ苦しみに共感できない、イエスに寄り添いきれない弱さがある。

B.自分中心の姿勢

   弟子たちの思いとイエスの思いにはずれがあった。イエスを裏切ったユダ。3度否定したペテ

ロ。いずれもイエスを信じ従っていながら、どこかで自分の思い通りに行かない現実を見た時、

彼らはイエスよりも自分を優先してしまった。従いきるということがどれほど難しいか。

Ⅲ・「決心へ」

A.後ろ向きから前向きへ

   イエスの必死の祈りにも心の揺れ、葛藤があった。十字架から逃れることはできないか、と後

ろ向きであったが最後には神の示す十字架へと前を向いた。その過程には徹底した試みとの戦

いがあった。祈りはその戦いに勝利し得る力があり、神には私たちを前進させる力がある。

B.さあ行こう

   神との交わりにおいて、決心した者の心とその歩みは強い。イエスは自分を捕らえに来た者た

ちに背を向けることなく、さあ行こうと前進した。神との徹底した交わりの先にはこの強さが

増し加わる。揺らぐことのない決心の先には、人知を超えた栄光の勝利が待っているのだ。

結論:目をさまし続けることは難しい。イエスに従い続けることも難しい。祈り続けることも難しい。何もかも難しいことだらけ。イエスも十字架を目の前にして苦しんだ。イエスでさえ苦しむことを私たちが悩み無しで進むことは難しい。でも、私たちにはアバ父と呼んで、本音で語り合い、ぶつかってもいいお方がいる。そのお方へ祈り続け、格闘した先には一つの道が開かれる。それは人から見たらいばらの道かもしれない。誰もが避けたがる道かもしれない。しかし、神との交わりで開かれた道の先には確かな勝利が待っている。そこに進む決心は自分の力ではできない。自分中心では無理。しかし、主が共におられる。主が誘ってくださる。だから私たちは決心し、前に進んでいくことができる者とされる。イエス自らがその道を進まれ、神の栄光を現した。私たちもイエスに続いていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-03-27 10:53 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「惜しまずにささげる」

     A.人の目にはもったいない

       一人の女性がイエスの頭に高価な香油を注いだ。この好意は周りにいた弟子たちにとっては

憤慨することであり、もったいないと感じることであった。人の目においては常識を逸脱し

ていると見えることであっても、主の目には正解であることがある。何を基準とするか?

    B.イエスを思う気持ちは無限

      周りから見たらもったいないと思うことであっとしても、女性にとっては全くもって惜しく

      なかった。むしろ喜んで行っているように見える。それはイエスのためになら何でもできる、

何でもしたいという思いから出た行為。イエスを思う気持ちは無限大に広がっている。

Ⅱ・「機会を逃さずに注ぐ」

A.いつでもできること

    弟子たちがもったいない、と言ったのはそれだけの香油があればたくさんの人を施すことが

できるというものであった。確かにその考えもわかる。でも世のすべてのことには神の時が

ある。弟子たちはこの時を見極めることができなかった。いつでもできることに固執した。

B.今しかできないこと

    一方でこの女性はもう数日後には十字架にかかってしまうイエス様に今できること、今しか

できないことを行うことができた。神の時に逆らい、後でやろうとして手遅れになることが

ある。神の時を、神の機会を逃さないように、私たちはいつも主を見上げ敏感でありたい。

Ⅲ・「イエスの望む事を行う」

A.埋葬の用意をした

    この女性はイエス様が一番望んでいたことを行うことができた。イエス様にとって目の前の

十字架が最大の関心事であった。女性はそのイエス様のみこころにかなう働きをすることが

できた。実際に死後、香油を塗りに行ったときイエスはもう墓にはいなかった。

B.美しい香りは永遠に

    イエスのこの地上での生涯において、特に最後は激しい憎悪、裏切り、政治的な陰謀に振り

回されたものであった。それだけに、この女性の行いは暗闇に光る憩いのひと時となった。

そしてイエスの言われた通り、この美しい行為は今日も教会で語られている。

結論:私たちの常識は、確かに正論であると感じるかもしれない。間違っていないこともある。しかし、その基準がこの地上における評価でしかないならば、本当の正解とはならない。大切なことは主の目にかなうかどうかである。この世的に人の目からは愚かであっても、私たちは主のために惜しむことなくできることを実践し続けていきたい。そしてその時を逃すことなく、しっかりといつも目をさましていたい。弟子たちはイエスの側にい続けていながら、この女性のような行動ができなかった。私たちも聖書を読むだけ、祈るだけでは十分ではないかもしれない。いつも聖霊により頼み、その時を逃さないように、イエス様の望まれることを望むタイミングでふさわしく行えるよう、いつも身構えていく必要があるのかもしれない。意識を少し変えて、目線を少し変えて、主の御旨を求め続けていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-03-21 11:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「沖に出る」

     A.自分のやり方で

      人生、うまくいくときもあればうまくいかないときもある。多くの人が体験していることかもしれない。果たして本当にそうだろうか?自分のやり方においてはうまくいかないことでも、自分の方が正しいと思っていることでも、実は少し角度を変えてみると全く違った結果になる。

B.イエスの方法で

      ペテロは自分の方法で、それも自分の方がその道に優れていると思っている方法でうまくいかなかった。それを素人と思えたイエス様の言う通りに従ってみた時、思いがけない結果が生まれた。今の自分から一歩前に踏み出そうとするとき、導き手によって大きく人生も変わる。

   Ⅱ・「何もかも捨てる」

    A.自分の非を認めた

      ペテロは自分の愚かさ、弱さ、間違いに気づいたとき、イエスを遠ざけようとした。その瞬間イエスは今まで以上に身近な存在となり、これからの人生の旅路においてずっと一緒にいてくれることになった。自分を中心に据える生き方から、イエスと共に歩む生き方への転換。

    B.何もかも捨てて従った

      イエスと共に歩む人生は本当に幸いである。しかし、それを妨げるものがたくさんある。私たちはイエスに従うと言いながら、この世のたくさんのものを握りしめたままである。イエスの弟子になる時ペテロは何もかも捨てたという。この決断が実は旅立ちに一番必要なことである。

結論:私たちの人生という旅路において、備えあれば患いなしというように、より多くのものをもっていた方が安心と感じる。何かの時にこれが役に立つかも、あれが必要となるかも、と必要以上のものを求め、握りしめていく。しかし、そうしたものではどうしようもない、全く太刀打ちできない限界がある。どれだけお金を持っていても、どれだけ力を持っていても、どれだけ豊富な経験を持っていても、クリアできないことがある。しかし、イエスの方法に倣っていくならば、そこには限界がないので、すべてが満たされ、すべてが最善に導かれる。大切なことはより多くのものを握りしめることではない。むしろそれらを捨ててイエスに従うという決断をすることではないだろうか。


by ontheway-chapel | 2019-03-15 09:57 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と真剣に向き合う」

     A.不安からの罪

       イスラエルの民はモーセが山から戻ってこないことに不安を感じた。指導者を失った民は

各々に自分の良いと思うことを勝手にする。神という指針を見失う時、私たちも自分が前に

出てきて罪を犯してしまう傾向がある。しっかりと神を見失うことなく歩みたい。

    B.モーセのとりなし

       神と民との契約は民の罪によって一瞬にして破棄されてもおかしくなかった。しかしモーセ

は自身の民を守るため、神との関係こそが大切であることを必死に訴えた。自分の様々な問

題については本気で祈れるが、誰かのために命を懸けるほどの祈りを私たちもしたい。

   Ⅱ・「応答される神」

    A.とりなしに応答される神

       神様はモーセの必死の祈りを聞かれた。私たちの神は必死の祈りを無視されない。むしろ心

開いて顔と顔を突き合わせて応答してくださる。憐れみ深く情け深い神の愛を私たちはしっ

かりと握りしめ、安心して必死の祈りに応答される神と交わりをもって行きたいと願う。

    B.咎と罪を赦す神

       神の恵みは千代にも保たれる。とこしえの恵みに満たされている。そして、私たちが必死に

自らの罪に対して、向き合い、とりなすとき、主はそれを取り除き赦してくださる。それは

イエス・キリストによって完全に成就された。この恵みに私たちも応答していきたい。

結論:神の愛の深さ、大きさは私たちの物差しでは決して測ることができない。このような大きな愛に私たちは包まれている。しかしそこには契約がある。この契約を破棄することなしに、私たちは神の愛に応答して恵みのうちを歩んでいきたい。私たちは罪を犯し、神を悲しませてしまう。しかし、それを素直に認め、とりなしの祈りをするとき、神はその祈りに応答してくださり、私たちを恵みの契約に立ち返らせてくださる。だから私たちは心から平安をもって、信頼をして神とともに歩んでいきたい。イエス様の契約を思い起こし、これからの聖餐の恵みに与ろう。


by ontheway-chapel | 2019-03-05 10:51 | Comments(0)