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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「誰を救うのか?」

     A.第一の言葉

      十字架上の第一のことばとされているのが「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしている

のか自分で分からないのです」というものであった。イエスは苦しく辛い十字架上で、真っ先

に罪人らの赦しを願った。彼らは何をしているのか分からない。まさに闇の中、迷い子である。

B.周囲の言葉

      彼らはイエスに「あれは他人を救った。自分を救ってみろ」と言った。彼らはイエスを目の前

にして、真理を語っていた。しかし、本当の意味でイエスと出会ってはいなかった。多くの人

がイエスのことを知っており、その素晴らしさを知ってはいるが、イエスと出会ってはいない。

   Ⅱ・「イエスとの出会い」

A.精一杯のお願い

      同じ時に十字架にかけられた二人の人がいた。そのうち、ひとりはイエスに悪口を言った。し

かしもう一人は自らの罪を認め、イエスと共にいることを願った。二人ともイエスと同じ状態

にありながら、一人は確かに罪を認め、イエスとの出会いを果たすことができた。

B.第二の言葉

      その時、イエスは「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という第二のこと

ばを発せられた。イエス様は罪を認め、イエスに救いを求めた者に対し、その瞬間からパラダ

イスの生活を始めさせてくださる。イエス様との出会いの時、私たちもパラダイスにいるのだ。

結論:人は何によって生きるのか?その人が何を体験し、何を自分のうちに迎えたかによる。ものすごく感銘を受けた人との出会い、反面教師となった人との出会い。様々な出会いが、今の自分を構築している。しかし、本当に必要な出会いを果たしていない人がたくさんいる。イエス・キリストとの出会いこそが、十字架の救いの経験が人生の土台となっているか否か、それが本当にその人の人生を大きく変え、そしてそれによって、本当に幸いで、平和で、喜びと感謝に包まれたものとなっていく。イエスが罪人を救われた。イエスが私を救われた。この事実をおぼえ、感謝しよう。


by ontheway-chapel | 2019-04-16 10:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「人の弱さ」

     A.ピラトにあった葛藤

      ピラトはイエスの無罪と十字架につけようとする群衆の想いを見抜いていた。しかし、その核

心を貫くことができなかった。この世のしがらみ、自分を守りたいという気持ち。同時に正義

を貫きたいと思う気持ち。様々な思いが交錯した中で責任を放棄し逃げてしまった。

B.私たちの中にある戦い

      この世においてもクリスチャンであることで様々な戦いの中に置かれることがある。聖書の教

えが足かせの様に感じて信仰生活が窮屈に感じることがある。この世的な生き方と信仰生活の

狭間で戦いが起こる。そして私たちもまたイエスを十字架につけるようなことをしてしまう。

   Ⅱ・「弱さを克服するために」

     A.弁明しないイエス

      イエスはピラトを前にして一切の弁明をしなかった。イエス自身には一切の罪がなかった。し

かし今や、イエスは全人類の罪を負う事を受け入れ、十字架に向かっていた。イエスの沈黙は

罪がいかに弁解の余地がないものであるかを教えられる。真の神の小羊であることを証明した。

B.神に見捨てられたイエス

      イエスの十字架上の言葉に「どうして私を見捨てるのか」とある。本来ならば、私たち罪人こ

そが神に見捨てられるべき存在であったはず。しかしイエスが私たちの罪の身代わりとなって

十字架にかかってくださった故に、イエスがその辛いところを通ってくださった。

結論:心の弱さはすべての人が持っている。その弱さとどう向き合うかが問われる。自分の力ではどうすることもできないと気付き、イエス様にすがり、神の助けを求めていくのか。みんな弱いのだ、と開き直って好きなように生きるのか。イエスは私たちのそうした弱さ、弱さゆえの葛藤、闘いを克服してくださるために十字架にかかって死んでくださった。私たちはこの事実をしっかりと受け止めたい。私たちが心の弱さを克服する方法はただ一つである。それはイエス・キリストの十字架の贖いを、私のためと認め、私の弱さも含めてすべてを受け入れて、なお赦してくださる恵みに生きることを決心することである。ペテロの、ピラトの犯した罪、弱さは決して他人事ではない。同じ立場になったら、平気で同じことをしてしまうのが私たちのうちにある弱さである。それを素直に認めてイエス様の元へ行こう。イエス様がそのすべてを赦し、なおかつ祝福してくださった、私たちを前に進ませてくださる。


by ontheway-chapel | 2019-04-13 14:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ペテロの勇気」

     A.ペテロが自ら語ったこと

      聖書は弟子の弱い姿を赤裸々に隠すことなく語っている。聖書は美化された物ではなく、私た

ちの人生に、日々の生活に実に密着したものである。マタイはマルコの資料をベースにしてい

るが、マルコはペテロの説教から記録している部分がある。つまりペテロの証しである。

B.ぎりぎりまでがんばった

      ペテロはイエスが捕らえられそうになった時、剣をもって戦おうとした。イエスが捕らえられ

た時、ひとり完全アウェーの中庭にまで追いかけた。逃げたいと思いつつ、しかしイエス様か

ら離れることをためらい、ぎりぎりのところで踏みとどまった。しかしまた見つかった。

Ⅱ・「心の葛藤」

A.イエスの弟子だとばれた

   ペテロがイエスを追いかけて大祭司の家まで行ったとき、中庭にいた女中に弟子ではないかと

ばれた。その場を去り入り口から様子を伺うも、そこでも身元がばれてしまった。さらにもう

一度イエスの弟子であるということがばれてしまった。結果3度もイエスを否定し呪った。

B.否定したくないけれども

   ほんのちょっと前まで、イエスの一番弟子は誰か?と弟子同士で言い争うほどであった。イエ

スと一緒にいることが誇りであった。ペテロは最初に逃げることもできたが、しかしそこにと

どまった。ペテロは否定したくはなかった。イエスが大好きだった。でも否定した。

Ⅲ・「ペテロを包む愛」

A.勇気と否定し、泣いたペテロ

   ここまでのペテロの行動を見るとき、決してペテロを非難することはできない。ペテロは本人

なりに必死であった。イエスを守ろうと戦い、必死に追いかけた。逃げ出すこともできたが、

結果3度も否定してしまった。ペテロはイエスが大好きであったがために試練にあった。

B.イエスへの愛、イエスの愛

   ペテロを支えたのはイエスへの愛。それと同時にイエスのペテロに対する愛もあった。愛ゆえ

にペテロは苦しんだ。泣いた。しかし、イエスの愛によってペテロの涙はぬぐわれる。イエス

の限りない愛がペテロを再び立ち上がらせる。弱さの先にイエスの深い愛を体験できる。

結論:ペテロのこの数時間は地獄のような苦しみ、試練であっただろう。イエスについて行かなければ体験しなくて済んだことである。しかし、この自らの弱さを体験し、それでもイエスを愛する思いとの葛藤の中を通して、ペテロはイエスの深い愛を誰よりも味わうことができた。私たちも思いがけない試練があるかもしれない。イエスについて行くことで通らなくてもよい道を通されることがあるかもしれない。その時私たちの心は揺れ動く。弱さを思い知らされる。しかしその先に、イエスの温かい眼差しがあり、偉大なる赦しがあり、何よりも深い愛を知って弱い者が強くされていくのである。


by ontheway-chapel | 2019-04-10 18:11 | Comments(0)