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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「誠実でなかったサウル王」

     A.ヨナタンの手柄を横取りした

      イスラエルとペリシテの戦いが本格化していくなか、その前哨戦のような戦いにおいてヨナタ

ンが大活躍した。しかしその手柄をサウルは横取りしてしまう。当時王様が部下の手柄を自分

の手柄として誇ることは普通であったが、神に仕える身としてはふさわしい姿ではなかった。

B.小さなことに忠実に

      たった一つの失敗が後に取り返しのつかないことに発展することがある。小さな罪を見つめな

い人は、徐々に感覚がマヒしていき、気が付いたら罪の虜になってしまうこともある。サウル

は王となり徐々に謙虚さを失っていった。私たちも小さなことを大切にしていく者でありたい。

Ⅱ・「何を見るのか」

  A.ペリシテの反撃

   イスラエルは前哨戦に勝利したが、ペリシテは大軍を率いてイスラエルに反撃してきた。イス

ラエルは大軍を見てパニックに陥った。目に見える敵の大きさと自軍を比較して恐れた。しか

し彼らには全能なる主がついていた。問題や困難を前にして何を見るのかが問われる。

B.サウルの失敗

   この現実を前にサウル王も焦った。サムエルの言いつけを守れず、また神の最善を求めず、自

分で問題を打開していこうと己に頼った。形としては神を礼拝し、神の導きを求めていながら、

実際にはそのやり方も含めて、神優先ではなく、自分勝手な納得する形を選んでしまった。

Ⅲ・「失敗を認めない」

  A.言い訳をしたサウル

   サムエルから間違いの本質を指摘されたとき、サウル王は素直に自分の非を認めようとせず、

仕方なかった、特別な事情があったと言い訳をした。私たちも同じようなことをしてしまう。

しかしそれは神の前において不従順であるかもしれない。大切なことは素直に認めること。

B.弱さと向き合う

   サウルはいろいろな者の間に挟まれて辛かったかもしれない。しかし、そう言う時だからこそ

神に従うべきであった。サウルはすでに謙虚さを失い、神ではなく自分を頼りにしていた。少

しのほころびが破滅へ向かうきっかけとなる。自分の弱さを素直に認め取り扱っていただこう。

結論:私たちは誰もがサウルのような失敗をしてしまう。ここから教えられることは私たちはピンチに陥った時、焦らされる状況に追い込まれたとき、本心が浮き出てくる。しかし自分の中から沸き起こってくる感情に押し流されるのか、全能なる神様の助けに身をゆだねるのか、導きを求めて従うのかが問われてくる。目の前の状況がたとえどんなに困難で、今すぐ対応が必要だとしても、まず神様に助けを求める習慣を身につけたい。神様は弱い私たちを放置せず、見捨てもせず、必ず守ってくださり、助けてくださる。失敗を認めるなら、それを赦してくださり、その傷を癒してくださる。


by ontheway-chapel | 2019-06-24 17:18 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「王様を求めたイスラエル」

     A.神ではなく身近な人に頼る

      神は目に見えない存在であるだけに私たちは時にその存在を遠くに感じたり、存在そのものを

疑ったりしてしまう。そして神の不在による孤独を感じる時、つい目に見えない神ではなく目

に見える存在を頼ろうとしてしまう。イスラエルは神よりも身近な王を立てることを選らんだ。

    B.周囲の成功に思いを寄せる

      当時イスラエルの周辺の国々は王制を敷いていた。そしてそれによって強力な軍をもち、戦い

に勝利していた。イスラエルはそれまで神に頼り、祈り、そして神に信頼して戦っていたが、

周りの成功に目を奪われ、自分たちも王制を敷けば強くなると期待してしまった。

Ⅱ・「立てられたサウル」

   A.聖霊が下ったサウル

   サウルに主の霊が下ったことが聖書に記されている。しかし、そのような者が後に悪事を働く

ことになる。大切なことはその聖霊の導きにしっかりと身をゆだね、従うことである。しかし

それをおろそかにし、退けるならば聖霊もまた去って行くということをサウルから学ぼう。

 B.謙虚だった?サウル

   最初にサウルはくじで王様に選ばれたとき、荷物の間に隠れていたことが記されている。様々

な人物像(謙虚、荷物番程度の人物、忠実に番をする)が挙げられていたが、謙遜な姿勢はと

もすると自分への疑い、自信のなさを現すこともある。後のサウルが垣間見えるかもしれない。

Ⅲ・「何を拠り所として生きるか」

   A.目に見える世界

   日々生活をしているとき、私たちは目に見える世界を中心に物事を考える。もちろんそれも大

切なことである。イスラエルは過去に働かれた神様のみわざを知っていながら、目に見える世

界を拠り所として生きることを選択した。現代の多くの人もまた同じ生き方を選択している。

 B.目に見えない世界

   現代の多くの人が目に見えない神を押しのけて、目に見えるものを手にすることに必死である。

そしてその目に見えるものこそに人生を託そうとしている。私たちはそのような生き方ではな

く、目に見えない神、聖霊の働きにこそ信頼し、人生の拠り所を見出して歩んでいきたい。

結論:
目に見える世界は華やかであり、魅力的である。でもそれだけがすべてであるならばそれらはいつか消えてなくなる。しかし、目に見えない神は永遠であり、決して朽ちない。裏切らない。目に見えないだけにその存在を疑い、見ようとしない、求めない。私たちはイスラエルの失敗から、サウルの失敗から、目に見えるものだけではなく、見えないものにこそ信頼して生きることの大切さを教えられるお互いでありたい。


by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:23 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「罪を犯した女」

     A.罪を指摘した人

      律法学者とパリサイ人たちは自分たちこそ正しいと自負していた。人の不正、欠点、罪を指摘

するとき、自分こそが正しいと思う傾向は誰にでもある。実際にはどうだろうか?私たちも他

人の欠点はよく目につきやすい。しかし意外と自分のことは見えないのではないだろうか。

    B.指摘した人たちの思惑

      女性を利用して実際にはイエスをさばこう、殺そうと考えていたのが律法学者やパリサイ人で

あった。誤った正義が救い主をも抹殺しようとしていた。恐ろしい勘違いである。この女性は

実際に罪を犯した。誰もが罪人であるならば誰もがこの女性のように扱われるかもしれない。

Ⅱ・「罪を赦したお方」

   A.罪の自覚

      イエスは「罪のない者から石を投げるように」と答えた。それを聞いた律法学者たちは年長者

からその場を離れて、誰も石を投げなかったという。彼らはここで初めて自らの罪と向き合う

ように導かれた。果たして誰も罪のない者がいなかった。誰も人をさばくことなどできない。

   B.イエスの赦し

      イエスはここで女性に「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた。イエスは罪を一切犯さ

なかった唯一の人である。にもかかわらず罪に定めない。あなたの罪を赦すことのできるお方

である。罪を自覚してイエスに出会うとき、私たちはその罪をイエスによって赦されるのだ。

結論:
私たちは他人の罪を見つけることは簡単だが、自分の罪を見つめることは難しい。気づいてもなかなかそれを認めたくない。しかし、自分の罪を正直に認めることができた時、その先、どうしたらこの罪が赦されるかを思うことができるようになる。その時、罪を赦してくださるお方と出会うことができる。これまでの人生を大きく変える出会いがそこにある。人の罪を気にして、人の欠点を見つけて、自分は正義であるかのように生きていた人生が、自分の欠点ばかり気にして、自分はダメな人間だと生きてきた人生が、このお方と出会うとき、すべて赦されそうした窮屈な人生から解き放たれる。なぜなら、イエスがあなたを罪に定めない、とおっしゃってくださるから。


by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:21 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「敗戦の原因を暴くサムエル」

     A.自らの罪を認める

       先の戦いにおいて、イスラエルはペリシテに敗戦した。エリの二人の息子は戦死し、エリも

また死んでしまった。さらに契約の箱まで奪われてしまった。結果取り戻すことはできたが、

それは神の一方的なみわざによるものであり、イスラエルはまだ罪と向き合っていなかった。

    B.偶像を取り除く

       サムエルはイスラエルに向けて、心を尽くして主に帰り、偶像を取り除き心を主に向け、主

にのみ仕えるならば、主ご自身がイスラエルをペリシテから救い出される、と言った。ここ

で初めて、彼らは先の敗戦が偶像を見上げ、主により頼まなかったことを示された。

Ⅱ・「祈りをささげるサムエル」

   A.悔い改めの祈り

    サムエルは士師であり祭司でもあった。彼はイスラエルの罪を民に知らせ、主に悔い改めの

祈りをささげた。これこそが、イスラエルに最も必要とされていたことであった。大切なこ

とは今何が必要であるかを主から聞き、それを素直に受け入れ速やかに実行することである。

  B.祈りをやめない

    ペリシテ軍が再び攻めてきた。イスラエルはそれを知って恐れた。前回は敵を前にして契約

の箱のゆえに彼らは強気になれたが、己の罪を知っていただけに、イスラエルは恐れをおぼ

えた。彼らはサムエルに祈りをやめないでくれと頼んだ。主に頼るように変えられていた。

Ⅲ・「祈りに応える神」

   A.叫びを聞かれる神

    サムエルは叫びをやめなかった。そして全焼のいけにえをささげた。主はその叫びを聞かれ、

敵を蹴散らした。主は私たちの必死の祈りを聞いてくださる。大切なことは私たちが祈りを

やめない、叫びをやめないことである。最後まで主に信頼し、期待を持って祈り続けよう。

  B.神をほめたたえる

    イスラエルの民は神の偉大なるみわざを体験した。神の守り、神の強さ、真実な祈りに応え

てくださる神を知った。彼らは主の良くしてくださった事を忘れないようにした。この姿勢

が大切。主は日々私たちに奇しいみわざをなして導いておられる。毎日が記念日である。

結論:
ただやみくもに叫ぶだけではなく、明確な意思をもって主に祈りたい。真実な神様に向かって、こちらもまた真実な姿をもって祈りたい。神はその私たちの祈りを聞いておられる。そして時にかなって応答してくださる。それは私たちにとって都合がいいか悪いかではなく、主の最善がなされる形での応答である。私たちはそれこそが主のみわざと信じ、そこに従って歩みたい。そしてその主の良くしてくださった数々のみわざを決して忘れないようにしたい。その感謝の積み重ねが、私たちをさらに主に近づけ、主に喜ばれる歩みへとつながっていくのである。それこそが、私たちの人生を豊かにする最大の秘訣である。


by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:19 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「勝利への勘違い」

     A.契約の箱

      イスラエルの民には神がモーセに与えられた十戒が納められていた。そしてこの箱が聖なるも

のであるには違いないが、箱そのものに力の源があると理解してしまった。それで契約の箱を

幸運のお守りのように捉えてしまうようになり、神ご自身を見失ってしまった。

    B.霊的勝利に必要なもの

      私たちも過去の祝福や偉大なるみわざにだけ思いを寄せて、そこにすがって生きようとしてし

まうことがある。イスラエルの民はかつての出エジプトの勝利にすがり、神は守ってくださる

という盲目的信仰に生き、今の自分の姿勢を問わなかった。日々新たな関係を大切にしたい。

Ⅱ・「預言の成就」

   A.エリの息子たち

   エリの息子たちは神の律法に背いて、至聖所に入って契約の箱を取り出してしまった。エリの

息子たちには相変わらず、神への恐れがなく、神の前に謙虚ではなく、また忠実ではなかった。

エリから神を侮る姿勢を語られても罪を認めることをせず、生き方を正そうとしなかった。

   B.息子たちの死

   エリの二人の息子たちはペリシテとの戦いの中で戦死してしまった。しかしこれは、すでに神

が約束されていたことであった。神を侮る者の最後の姿から教えられることがある。神は必ず

約束を実行されるお方である。それは祝福の約束であり、さばきの約束でもある。

Ⅲ・「失敗から教えられること」

   A.偶像礼拝

   契約の箱は民にとって勝利の象徴であり神の象徴であった。しかしそれ自体は神のご臨在と御

力を保証するものではない。しかし彼らは箱そのものを信頼しすがった。それは一種偶像礼拝

のようなものであった。エリはこのことを告げられて同じ反応をして死んでしまった。

  B.見捨てない神

   神は確かに約束を成就するお方であり、厳しくさばかれるお方であるが、同時に愛する民を決

して見捨てないお方でもある。神はこのあと、サムエルを用いて堕落したイスラエルの民を再

建していく。私たちも神との関係を正しくもちながら、祝福の道を歩もうではないか。

結論:
イスラエルの敗北は祭司の堕落、そして民の神への姿勢が問われている。そこから何が教えられるか。神は最初に警告を与えて下さった。神は私たちに立ち返るチャンスを与えて下さる。しかし、そこを無視するとき、神はその警告を実行される。しかし、神に立ち返るならば、神と共に歩もうと願い、歩むならば、神はその民を祝福してくださる。神は決してそのような民を見捨てることはなさらない。問われているのは私たちの姿勢である。もう一度、神様との関係を見つめなおし、正しく歩む者とさせていただこう。


by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:18 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「エリの息子たち」

     A.神を知らない罪

      エリの息子たちは主を知らなかった、とある。彼らは祭司であったから主を知らないはずはな

い。しかし、本当の意味において、彼らは主を見ず、主に従わず、主の御心にかなわない歩み

をしていた。神を知っていても知らないかのように振る舞うことは大きな罪である。

        B.神よりも自分を

      エリの息子たちは神へのいけにえを分捕った。神にささげられるべき者をその前に自分たちの

欲を満たすために食した。神よりも自分のことを優先する行為は決して許されない。しかし、

形は違えども、私たちもまたこうした神よりも自分の思いが先行することがあるかもしれない。

Ⅱ・「エリへの忠告」

   A.神を軽くあしらう

   エリは神から息子たちに関する忠告を受けていた。神からの忠告に対するエリの反応は父親と

しての葛藤もあったであろう。しかし祭司としてエリがなすべきことは、息子たちの罪を厳し

く指摘し、神の前に悔い改めて正していくことであった。神よりも息子を大切にした?

  B.息子たちを放置した罪

   結果として、エリは息子たちの数々の悪口を知りながら、また神から忠告をいただきながら、

事態を回復することができなかった。非常に優れた祭司であったが、同時に弱さも抱えていた。

誰にも弱さがある。簡単に弱さに打ち勝てない。どこかで決断し実行することが求められる。

Ⅲ・「忠実な者を求める神」

   A.私たちの弱さ

      エリの葛藤は私たちにも起こり得る。しかしそう簡単に決断し、実行することは難しい。だか

らこそ、私たちは主に祈り、主の助け、導きを求めたい。私たちは弱い。それを自覚するとき、

一切を主にゆだねることができる。そして主はその私たちに必ず応えてくださる。

  B.忠実であるために

   ではどうしたら私たちは主に忠実でい続けることができるのだろうか。聖書に登場する多くの

人たちは、そこに苦しみ戦い、私たちに一つの答えを示しているように思う。主にすがり、聖

霊の働きを求め、みことばによって確信をいただくことである。これは私たちにできること。

結論:
エリは結果として神の忠告に対して、しかるべき対応ができなかった。息子たちも最後まで神を侮辱し続けた。行けないとわかっていても、繰り返してしまう弱さが私たちにはある。自分を見ても、本当に石が弱い、情けないと思うことがある。あまりに情けなくて、悔しく涙することもある。しかし、自分の意思、努力だけでは、なかなか変えることができない。だからこそ、私たちは主に助けを求めたい。好きで神を侮っているわけではなくても、結果として侮ってしまっているならば、神は然るべき道を示される。そしてそれを実行される。私たちもエリの息子たちやエリのようにならないために、一歩ずつ、主に向かって祈り、助けを求めていこうではないか。主はその姿勢をご覧になって、私たちを必ず救ってくださる。


by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:16 | Comments(0)