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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「悪霊に取りつかれた人」

   A.悪霊と病

       当時、精神的に錯乱したり、長い間病に伏せていたりしている人は悪霊に取りつかれている

と思われていた。そのため、周りの人は必死に悪魔祓いをしてその人から悪魔が去ることを

祈った。もちろん現代においてもそうした事実があるかもしれない。何を見るかが問われる。

B.会堂に現れた悪霊

       悪霊は会堂に来て、神の働きを攻撃することがある。教会に行けば必ず安心ではない。いつ

いかなるところにおいても、私たちは信仰の武具をまとい、油断せずに神様との関係を保つ

よう努めていきたい。主のおられる所に悪霊は長くいることができない。

Ⅱ・「悪霊を滅ぼしに来たイエス」

A.何をしようとしたのか

    悪霊はイエスが何をしようとしていたか知っていたという。私たちはイエスの目的に注目し

なければならない。目に見える結果だけで判断してはいけない。悪霊を追い出したイエス様

の権威。力強さ。悪霊に勝った負けたの事実だけではなくその背後にある真の姿を見たい。

B.悪霊をしかりつけたイエス

    イエスは悪霊をしかりつけた。イエスは人を癒す時、様々な方法を用いる。その手段にばか

り目が行きがちであるが、大切なことはイエス様のみこころである。だから結果だけにとら

われず、イエス様のみこころにこそ従う思いをもって様々な問題と向き合いたい。

Ⅲ・「イエスの権威」

A.悪霊だけが気付いたイエスの真の姿

    この場面で気づくことは悪霊のことばである。悪霊だけがイエスの目的、真の姿に気づいて

いた。私たちを滅ぼしに来た聖者であるという。多くの人は人々を悪(罪)から救い出す救

い主とは気づかず、この力を持ってローマからの救ってくれる存在として見た。

B.悪霊を退けたイエス

    イエスは悪霊を退けたが、その人は何の害も受けなかったという。これがイエス様の方法。

イエス様は私たちを守り、傷つけないで悪から救い出してくださる。信じるだけで私たちの

痛みをすべて負ってくださった。神のみことばを握っているならば、私たちは守られる。

結論:この世には悪が蔓延している。それは私たちを不安に押しやり、信仰を揺るがせ、神の愛から、イエスの十字架から私たちを引き離そうと仕向けてくる。しかし、恐れる必要はない。なぜならば、イエスの御力は悪魔よりもはるかに偉大である。その権威は絶対である。だから私たちは、このイエスの権威と御力を認め、そこにより頼むことが大切である。イエスは悪魔を含めて一切の悪霊に打ち勝つことができる。イエスと神のみことばをしっかりと握りしめて、悪魔に惑わされず、勝利の道を目指していこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-07-24 17:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「思いがけない誘惑」

   A.アダムとエバへの誘惑

      悪魔の誘惑は実に巧妙である。弱さに働くこともあれば、強さに働くこともある。アダムとエ

バは悪魔の誘惑に見事に引っかかり、罪を犯してしまった。私たちも誘惑に乗っかってしまう

ことがある。アダムは神から隠れてごまかそうとした。私たちはそのようであってはいけない。

罪を認めて悔い改める姿勢を忘れてはいけない。

B.イエスさまへの誘惑

      悪魔はイエスをも誘惑した。なぜイエスがこのような誘惑を受けなければならなかったのか。

誘惑はすべての人間が経験するものである。イエスが完全な人間として私たちの受ける誘惑を

理解するためである。また、この罪の誘惑に完全に勝利する必要があった。このイエスの勝利

によって私たちも罪の支配から解放された。

   Ⅱ・「誘惑に勝つために」

A.私たちは?

      私たちは誘惑に対して自分の努力や忍耐力で立ち向かおうとするとき、そこには限界がある。

アダムとエバが誘惑に負けたように、私たちも負けてしまうであろう。一方で誘惑を受けるこ

と自体が問題でないともいえる。試みられているのは誘惑に対する私たちの行動に対する動機

である。神様の御旨に従う動機なのか、自分の思いを満たすことが動機になっているのか?

B.イエス様は?

      イエスは悪魔の誘惑に対して、神のみことばをもって抵抗した。しかしサタンもまた神のみこ

とばを知っており、みことばを持って巧妙に誘惑してくるかもしれない。神のみことばをより

有効に用いるためには、神への絶対的な信頼が必要である。そのためにイエスは日々神に祈り、

すべての誘惑を退けた。イエスは最後まで神のご計画である十字架に向かって忠実であった。

結論:私たちは必ず誘惑を受ける。これは避けて通ることはできない。それだけに常に備えていなければならない。サタンに打ち勝つために、剣であるみことばを携えておく必要がある。サタンを攻撃できる唯一の武具である。イエス様はそれによってサタンを退けた。しかし、イエス様はサタンに勝利し退けたが、サタンが完全に滅んだわけではない。現代もなお私たちに迫って来る。イエス様を模範として、強くありたいと思う。そのために、神のみことばに信頼し、神だけを礼拝し、信頼して従っていこうではないか。サタンは実に巧妙に迫って来る。しかし、私たちにはイエス様がいつも共におられ、守ってくださる。己の弱さ、限界を認め、イエス様に助けを求め、共に歩む者とさせていただこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-07-20 19:33 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「すべてを支配される神」

   A.サウルへのお取扱い

      サウルは謙虚さを失い、神ではなく自分を中心に据えて王として振る舞った。それは傲慢であ

り、神を退ける行為であった。そのサウルに対して神は主の霊を離れさせた。神様がサウルを

王として選ばれたが、神様はイスラエル最初の王をこのように取り扱った。私たちもまた、神

様と共に歩んでいながら、神様を退けてしまうならば、同じように取り扱われるかもしれない。

B.災いの霊を用いる神

      主の霊が離れ、サウルに主からの災いの霊がもたらされた。サウルはこれによりおそらく精神

的な病を負わされたか、悪霊により苦痛が与えられ、心身ともに非常に不安定な状態に苦しん

だ。神は全能なるお方でありすべてを支配されている。悪霊をも用いて民をさばかれることが

ある。この神を退けることがどれほどのあやまちであるかをここからも教えられる。

   Ⅱ・「主のご計画」

A.ダビデを王とする

      サウルがイスラエルの王として堕落していったとき、神は新しい王をサムエルに示し、ダビデ

に油注ぎを命じた。最初からダビデではなく、サウルが最初に立てられたことにも意味がある。

主のご計画は実にユニークであり、想像に富んでいる。その一面しか見ないならば、到底理解

することができない。だからこそ日々主との交わりを大切にし、主のご計画に敏感でありたい。

B.ダビデをサウルのもとへ送る

      次の王となるダビデはサウルのもとへと送られた。サウルの癒しのためにダビデと竪琴を主は

用いた。サウルはダビデに感謝し信頼したが、後に嫉妬にかられダビデを殺そうとする。ダビ

デは王となるまでに多くの試練を通された。これも主のご計画にある。思いがけない不当な扱

いを受けることがあるが、主のご計画のうちにある時そこに平安と希望を見出すことができる。

結論:主のご計画のすべてを私たちは知ることができない。だからこそ、時にそのご計画のうちにあることで翻弄され、苦しみを感じ、神を見失ったり、疑ったりしてしまう。しかし、主のご計画のうちに従って歩むならば、私たちの人生は主の最善によって守られ、必ずその恵みに満たされて幸いにして最高の生涯を送ることができる。大切なことは主のご計画をしっかりと受け止め、すべてを理解できないが、信頼して従っていくことである。サウルはそれを退けた。私たちは退けることなく、主と共に歩み続けていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-07-09 15:11 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「使命を授ける主」

    A.神様のご計画に従う

      神様は私たちにビジョンを与えるお方。それは人それぞれ違う。だから比べる必要もない。他

人の目を気にする必要もない。ただ粛々とそのご計画に従う。そのためのルーティンを見つけ

よう。神様のご計画に従うことが習慣になった時その人の人生は間違いなく幸いなものとなる。

 B.すべて最善であることを知ろう

      神様から与えられるご計画は、時に私たちにとって喜ばしくない、受け入れがたいものである

可能性もある。しかしそこに従うとき、その先には主の最善による祝福が待っている。神様と

の関係において間違いはないし裏切りも失望もない。自分が先立つとそれらが揺らいでしまう。

Ⅱ・「主のことばを退けた」

A.主があなたを退けた

   サウルはアマレクとの戦いのなかで主から語られた聖絶せよ、とのことばを守らなかった。そ

れは主の最善よりも自分たちの最善を選んだから。しかも神を欺きサムエルを持欺いた。これ

は神や神に仕える人を退ける行為であり、完全に自分が中心に立ったことを証明した。

B.退けなかったら

   サウルが神を退けたから主もサウルを退けた。言い換えると、私たちが神を退けなければ、主

はずっと私たちと共にい続けてくださる。サウルは様々な言い訳をしながら、自己保身をし続

けた。罪を犯したと言いながら真実の悔い改めをしなかった。その逆を生きる者でありたい。

Ⅲ・「神を利用する」

A.主と共に歩む

   サウルは神様を利用して自分の私腹を肥やしやりたいようにした。それは神を利用する非常に

危険極まりない行為。自己実現のために神に祈ることもあるかもしれないが、大切なことはそ

こに神の栄光が現され御名がほめたたえられること。自分の栄誉のためではない。

B.人を利用する

   サウルはサムエルをも利用し、さらにイスラエルの民からの面目も保とうとした。神と人を利

用して自己満足だけを求めた。そういう生き方ではない、神と共に歩む、神をほめたたえ、主

の喜ばれる歩みをするならば、神は私たちを大胆に用いてくださり主の栄光が現されていく。

結論:サウルを反面教師として私たちが主と共に歩み続けるために何が必要なのかを教えられたい。サウルは主のことばを退けた。私たちが主のみことばを、主からのビジョンを退けることなく、従い続けるならば、主は必ず私たちを見捨てることなく守り祝し続けてくださる。また神を利用し、人を利用して己の栄光を誉れを求めることなく、己をもって主の御名があがめられ、その栄光が現されることに人生の目的を置くならば、主はその方を大いに用いてくださる。そしてそのような歩みができる喜びに私たちは包まれ、さらに楽しい、幸いな人生を送ることができる。


by ontheway-chapel | 2019-07-02 08:21 | Comments(0)