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聖書のメッセージ

onthewaychapel.exblog.jp

川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「頑なな心」

    A.サドカイ派の攻撃

      復活を信じないサドカイ派の人たちは7人の違う人と結婚した女性が、天国では誰がその女性

の夫となるのかと尋ねた。これは復活信仰がいかにむなしく、実体のないものであるかという

ことをはっきりさせたかった。この質問でイエスを困らせ自分たちの優位性を誇示したかった。

B.私たちにもある心

      聖書に書かれていることを信じることが、どれほど愚かなことであるか。或いは聖書に書かれ

ている通りに必ずなるとは限らないとか、様々な状況で私たちは神様の力を見くびり、自分を

中心に据えて生きようとしてしまう傾向がある。こうした頑なな心は誰にでも存在する。

Ⅱ・「相手に寄り添うイエス」

A.論じ合うイエス

   サドカイ派とはどこまで行っても論点がかみ合わない視点に立っていたラビたちは、彼らを正

面から向き合うことを避けていた。しかしイエス様は彼らの復活信仰を否定する、また彼らが

大切にするモーセ律法に証拠がないとする論点と正面から向き合うことをした。

B.相手の土俵で向き合うイエス

   イエスはこうしたサドカイ派に対して、あえてモーセのことばを持ちだして死人の復活につい

て論じていく。これは相手を説き伏せるというよりは、相手が理解できる仕方で話をしようと

する姿である。イエスは頑なな心を持つ人にも寄り添ってくださるお方である。

Ⅲ・「天における恵み」

A.復活の恵みと永遠のいのち

   この地上においては、罪ゆえにすべての人がいつか死を迎える。だから次世代に子孫を残して

いくことが大切となる。しかし復活の恵みによって天の御国において私たちは永遠のいのちを

いただく。そこには死はない。この世的な結婚とか次世代育成という視点は必要なくなる。

B.神に対して生きる

   モーセがアブラハム、イサク、ヤコブの神とこの地上において死んだ者の名をもって彼らの神

と言ったのか。今なお復活して彼らの神である事実がある。神は生きている者の神であるとい

うイエスの言葉には、神に対して生きるという私たちの本来あるべき生きる姿勢が見えてくる。

結論:私たちは今日も生かされている。生きている。私たち神に造られし者が生きているというのは、誰のために何のために生きていることなのか。神に対して、神に愛され、神を愛して生きることである。そう言う視点に立つと、現代において生きていながら、実に本来の生き方から外れてしまっている人がどれほど多いかということを思わされる。またクリスチャンである私たちも、この視点を見失いがちかもしれない。今朝、改めて生きる者の神であると言われたイエス様のみことばをしっかり味わう者とさせていただこう。


by ontheway-chapel | 2019-08-28 16:40 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ピンチをチャンスに」

     A.金持ちの管理人

      金持ちの家に奴隷として働いていた管理人は、あずかっているお金を浪費していることがばれ

てしまった。彼に残された道は、奴隷として主人から捨てられることであった。奴隷は何とか

して生きる道を探った。大ピンチの中でひらめいたことはチャンスにつながることだった。

B.金持ちの評価

      奴隷である管理人のピンチに対する対応力を見た主人はその抜け目なさに驚きほめた。普通に

考えたら決して褒められたことではない。しかし、イエスはこの譬えをもって何を私たちに、

弟子たちに言いたかったのだろうか?ルカの福音書でも難解な個所から何を学べるのか?

Ⅱ・「うまく立ち回る必死さ」

A.使えるものをすべて利用した

   奴隷は主人から解雇されてもいいように、あらゆる手段をもって自分の生きる道を探った。主

人にも仕えながら、しかしこの世的なお金や人間関係を最大限利用して自分の居場所を求めた。

抜け目なさ、ずる賢い生き方をすることをイエスは求めているのだろうか?

B.しもべから学ぶこと

   しもべは必死だった。人間追いつめられるととんでもない力を発揮することがある。現代に生

きる光の子であるクリスチャンにはこの必死さが足りないのかもしれない。世の人から学ぶこ

とが多くあるのかもしれない。この必死さが教会において発揮されたとき、大きな力となる?

Ⅲ・「これしかないという姿勢」

A.世の人たち

   現代に生きる人たちは、仕事をしつつも余暇をいかに充実して過ごすかも大切にしている。し

かししもべはひたすらに主人に仕えることが求められている。主人以外に自由な時間を、楽し

みを求めることが許されていなかった。二人の主人に仕えることができないということ。

B.光の子たち

   神のしもべである私たちはどのように神に仕えているだろうか?パートタイムだろうか?非

正規雇用だろうか?霊的にただひたすらに主に使える姿勢が求められている。時間と自分の力

のすべてを主におささげできるならば、どれほどの力が発揮されていくだろうか。

結論:イエス様はこの譬えを通して何を伝えたかったのか?私たちクリスチャンよりも、世ほど世の人たちの方が、ピンチをチャンスに変えるために必死である。生きるために必死である。その必死さを光の子たちがこの地上で発揮するとき、教会には大きな力が宿っていくのではないだろうか。この地上のものすべて神のものである。それを用いよう。ただしそこに仕えるためにではなく、自分を喜ばせるためではなく、ただ神にのみ仕え、神に喜んでいただけるように、主の栄光を現せるように、この身をささげよう。ただひたすらに主に仕えよう。私たちは主以外のものも同時に仕えることなどできない。これしかないという献身の思いをもって日々過ごしていこう。


by ontheway-chapel | 2019-08-23 09:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ローマのある百人隊長」

     A.百人隊長の姿勢

      この百人隊長は自分のしもべに対して実に温かい心を持っていた。本来しもべは道具のように

扱われていた存在。一人が死んでもすぐに次のしもべを用意すれば済む話であった。にもかか

わらず、重病のしもべのためにできる精一杯のことをしようとした。

    B.百人隊長の信仰

      彼の信仰は実に驚くべきものであった。彼は自分自身の経験、置かれている状況を理解し、そ

れをもとにイエスと自分との関係を見ることができた。ただイエスのことばによる権威のみで

すべてのみわざが実行されることを知っていた。忠実な隊長でありしもべでもあった。

Ⅱ・「イエスの反応」

  A.寄り添うイエス

   イエスは百人隊長から遣わされた長老たちの熱心な話を聞いて、すぐに動かれた。イエスは私

たちの熱心な願いを聞いてくださり、弱さを覚えている人を見捨てることなく寄り添ってくだ

さるお方である。イエスはいつも私たちと共にいてくださり、すぐに動いてくださるお方。

  B.驚いたイエス

   イエスは百人隊長のことばを聞き驚いた。このような立派な信仰はイスラエルの中にも見たこ

とがないと。それほどイエスを驚かせた百人隊長の姿勢、信仰は、神の福音がユダヤ人にとど

まらず、イスラエルから全世界に出て行く無限の可能性を秘めていることを教えてくれる。

Ⅲ・「最高の権威の下で」

  A.世にある権威

   百人隊長もローマという権威の下にいた。そして自分自身にも権威が与えられ、兵隊やしもべ

たちを管理する側にあった。多くの人はこの世の権威の中で生きており、そのなかで必死に生

きている。しかしこの権威は時に揺らぎ、時にあっけなく崩れ、やがて消滅する。

  B.最高の権威

   百人隊長はこの世の権威にも目を留めつつ、しかし本当に権威ある者がどこにあるかを知って

いた。そしてそこに従うこと、信頼することを信仰をもって実践した。ピンチにおいて最高の

権威ある者に頼った。我々もこの世に生きているが、最高の権威ある方を見つめていたい。

結論:神の福音の力は特定の一部にだけ働くのではない。イエスの宣教はイスラエル、ユダヤ人に向けられていたが、ここで世界宣教の可能性、神の救いのご計画の広がりを確かに見ることができる。そしてそれは今日、私たち日本にも届けられている。福音は国家や民族、文化や宗教を超えて届けられる。なぜならば、最高の権威を持つお方による福音であり、この権威の前にすべてが支配されており、この権威によって世界中すべての人が救いの対象とされているからである。この素晴らしい恵み、福音を世に伝えていこう。


by ontheway-chapel | 2019-08-15 16:01 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「病と罪」

    A.中風を患った人

      イエスの時代、ある人が病になったとき、それはその人が罪を犯したからと考えられていた。

であるから、罪が赦されたときその病も癒されると信じていた。罪を自分で解決することはで

きない。だからこそ、この人は絶望の淵に立たされていた。残されるはそのまま死ぬのみ。

B.彼を運んできた人

      この場面においてイエスは病の人を運んできた彼らの信仰を見て罪の赦しの宣言がなされた。

これは現代においても起こり得ることではないだろうか。本人がどう思っていようとも、周り

の人の熱心な祈りがその人に変化をもたらす。私たちはそこに希望をもって祈り続けたい。

Ⅱ・「罪の赦しを宣告したイエス」

  A.イエスの宣言

   イエスは友人らの信仰を見て「友よ、あなたの信仰は赦されました」と宣言した。その後「寝

床をたたんで家に帰りなさい」と命じた。患者にとって罪の赦しなしに病の癒しは考えられな

かった。この順番が大切。先に罪赦されたから病の癒しを信じて立ちあがることができた。

B.どちらが簡単か

   あなたの罪は赦されたと言うことは簡単であり、その患者を完全に癒すことは難しい。イエス

は実際に癒すことで罪を赦す権威をもっていることを示した。私たちの言葉も時に行動によっ

て示さないと偽善やむなしさだけが残ってしまう。愛を口にしても実行することは難しい。

Ⅲ・「律法学者たちの反応」

  A.彼らの根拠

   律法学者たちにとってイエスの言動は非常に不快なものとして響いた。彼らは罪を赦す権威が

神にあることを知っていた。しかしイエスが神の御子であることには気づけなかった。確かに

神を冒涜するならば、死刑に値する罪であったが、そこにしか目が向けられていなかった。

B.あと一歩

   律法学者たちは目の前でイエスの罪を赦す権威、病を癒す権威を直接見た。罪を赦すことがで

きるのは神のみであると知っていながら、イエスを神と結び付けることができなかった。日々

神の驚くべきみわざを見ていながら多くの人はそこに神を見ることができないのである。

結論:私たちの信仰は目に見えないお方を信じる者である。神の憐みと恵みによってしかなしえない。理屈ではない世界であるかもしれない。しかし、実際に目で見ていたとしてもそれを受け入れることができない現実もある。驚くべきことを見たという人であっても、本当に心砕いて、開いて、主を受け入れなければ、罪赦されて救われることはない。それは決して簡単なことではない。では私たちには何もできないのだろうか?この場面でイエスの許に病人を連れてきた人の信仰かイエスを喜ばせ、罪の赦し、病の癒しが宣言された。私たちも、イエスの許に友人を連れて行く。あるいはその人をおぼえて、イエスのみわざがなされるよう祈り続けることはできる。その先に驚くべきことを見ることができるのである。


by ontheway-chapel | 2019-08-15 16:00 | Comments(0)