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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「ダビデとサウル」

     A.良好な関係

サウル王はかつてアマレクとの戦いにおいて、聖絶せよと言われた約束を破り、その後サウ

ルはダビデと出会う。精神的に不安な時ダビデはサウルに寄り添い、竪琴を弾いて慰めた。

ダビデはペリシテとの戦いで大活躍をし、イスラエルに勝利をもたらした。良好な関係。

     B.残念な関係

しかし民がダビデを称賛した時サウル王は嫉妬し恐れた。主がダビデと共にいたから。やが

てサウルは明確な殺意をダビデに抱くようになり、執拗にダビデの命を狙った。幾度か和解

したように見えてしかし、実際には残念ながら本当の和解には至らなかった。残念な関係。

Ⅱ・「ダビデとヨナタン」

   A.心が結びつく関係

   ダビデがペリシテを打った後、王子ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。この関係は今

後も続き、サウル王に命を狙われた際にもダビデを守り、逃がす助けを行った。上辺だけの

関係ではなく心と心のつながり。私たちにもこのような素晴らしい恵みが備えられている。

    B.ヨナタンの誓い

   ダビデはヨナタンを通して王の本心を確認した。ヨナタンはそれを正直にダビデに伝え、ダ

ビデを王から守るために逃がした。これは王に対する反逆でもあるが、ヨナタンは王よりも

主に油注がれたダビデを愛し、そこに仕えることを選んだ。主が間に入る関係はすばらしい。

Ⅲ・「王位への道」

    A.ダビデの哀歌

   サウル王と王子であるヨナタンが死んだ。ダビデは大いに悲しみ、哀歌を作った。しかしこ

れにはいくつかの解釈がある。ダビデとサウルの関係、ダビデとヨナタンの関係において、

本当の哀歌と言えるのか。この悲報が結果的にダビデを王への道に推し進めることになった。

   B.神の摂理

   人間ダビデとしてこの哀歌を読んでいくならば、確かに様々な解釈が生まれてくる。しかし、

それは人間が目に見える事実を元に色々と想像しているに過ぎない。大切なことはこれらを

通し神がダビデを王としたこと、その家系から救い主がお生まれになったということである。

結論:哀歌の背後にあるエピソードを見ていくとき、ダビデの本心がどこにあったのかを想像するのはおもしろい。しかし、本当に大切なことは、目に見えてくる事実、私たちの想像の範囲で思わされる想定ではなく、神様が何をなさろうとしておられるのか、神様のご計画にこそ注目すべきであることをこの個所から教えられたい。ダビデは主に忠実であろうとしていた。その主はダビデを王として立て上げようとしていた。そしてその後約1000年後にダビデの家系から救い主がお生まれになる。これもすべて神様の遠大なるご計画であり、私たちは聖書を通してこの遠大なる神の視点を少しでも知って、さらに信頼を重ね確信をもって主に従って行きたい。


by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活を分かち合う」

     A.弟子たちに現れた

     弟子たちは最初墓からいなくなったイエスのことを聞き、驚き悲しんだ。また御使いが弟子た

ちの前に現れて本当によみがえられたことを語られた。彼らは最初なかなか復活の事実を受け

入れることができなかった。しかし、イエスは弟子たちの輪の中に入られ、御自身を見せた。

    B.エマオの途上の二人に現れた

     エマオに向かう二人の弟子たちにもイエスは現れた。二人とも最初はそれがイエスとは分から

なかった。最終的に彼らはそれが復活のイエスだと分かり喜びをもってエルサレムに引き返し、

そこでイエスの復活の事実を語り合い、分かち合った。復活の事実は分かち合うことができる。

Ⅱ・「エルサレムから世界へ」

    A.イエスの宣教はエルサレム中心

  イエスの3年にわたる宣教は主にエルサレムが中心であった。それは彼らにまず救い主が到来

したことを知らせるためであり、神の本当の御旨を知らせるためでもあった。しかし、彼らは

イエスを受け入れることができず十字架にかけてしまった。これもまた神のご計画である。

   B.これからの宣教は世界へ

   しかし、今や神の福音はエルサレムにとどまらず、いよいよ全世界へと向けられていくご計画

がはっきりと示された。そのためにも神の福音と救いのご計画、復活のイエスを宣べ伝える証

人が必要であった。それが弟子たちであった。そして現代においては私たちに託されている。

Ⅲ・「キリストの昇天と聖霊を降す神」

   A.弟子たちから離れて行かれたキリスト

  イエスは全世界に福音を告げ知らせる働きを弟子たちに託すと同時に、彼らを助ける働き、助

け手として聖霊を送ることを約束された。そしてイエスは弟子たちから離れて行き天に昇られ

た。10日後ペンテコステにおいて弟子たちには約束の聖霊が降り、世界宣教がスタートした。

  B.喜んだ弟子たち

  イエスが天に昇られたとき、弟子たちは喜んだ。それまでは不安におびえ、イエスが離れてい

くことを恐れていた弟子たちが喜び、神をほめたたえることができたのはなぜか?復活のイエ

スとの出会いが彼らを強くし、希望の光として彼らの心にいつまでも灯されたから。

結論:キリストの復活の事実は多くの人が受け入れ難いとして、否定しようとする。聖書は、弟子たちは、この事実をねつ造したとまでいう。しかし考えてみると、最もイエスの復活を期待もせずに否定し、受け入れられなかったのは弟子たちであった。その弟子たちが、またパウロたちがどうして世界宣教の働き人として幾多の困難、迫害をも乗り越えて、大胆に語り続けることができたのか。それは復活のキリストを体験したから。聖霊の働きによって、その事実を体験し、確信をもってキリストの復活の証人となることを誇りとして語ることに喜びを持つことができたから。私たちも、現代において聖霊の働きを通して、この復活のキリストを体験することができる。そして同じように喜びをもって証人として、福音を語る者として召されている。この使命に生き、喜びと感謝をもって主に仕えていこう。


by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:44 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊の働き」

     A.すべてを教えてくれる

     クリスチャンはその生涯をかけて学ぶことが求められている。なぜならば、聖霊は私たちが生

きている限り、私たちをより深く、より高みに向かって真理へと導いてくれるからである。そ

して私たちの信仰の歩みにはゴールがない。常に聖霊の働きかけに耳を傾けて導きを求めよう。

    B.思い起こさせてくれる

     聖霊の声に耳を傾けるとき、私たちはいつもイエス様の教えを思い起こすことができる。そし

てその声こそが大切である。しかし実際にはこの世の声、自分の声に耳を傾けてしまいがちで

ある。でもそこに本当の真理はない。喜びも平安もない。本当の喜び平安を求めていこう。

   Ⅱ・「わたしの平安とは」

    A.この世の与える平安との対比

     日々の歩みの中でホッとできる場所、存在を求める。それは永遠ではない。いつか壊され、無

くなる。しかし、聖霊が私たちが生きている限り働いてくれるという永遠を約束してくれてい

る。そこに大きな違いがある。本当の平安に身を置くことができたら、どれほど幸せだろうか。

    B.この平安を獲得するために

     イエスはこの後、十字架へと向かった。それは私たちの罪を赦し、罪の支配から解放してくだ

さるため。つまり罪があっては本当の平安を獲得することはできない。しかし罪が完全に赦さ

れたとき、これからの人生、さらにその先までも平安をもって日々を過ごすことができるのだ。

結論:イエス様の与えて下さる平安は口先だけの約束ではなく、この後、実際にご自身のいのちをもって実行し、約束を確かなものとしてくださった。そしてこの約束を信じ受け入れた時、私たちは本当の平安をいただくことができる。そしてそれはいついかなる時も私たちを支配してくれる。なぜならば聖霊がいつも私たちにイエス様を思い起こさせ、より深くイエス様の教え、想いを理解できるようにと導いてくれるから。この世にも私たちの心を落ち着かせて、安心させる言葉や場所があるかもしれない。しかしそれは一時的なものであり、いつか消えてなくなる。掴んだと思ってもまたすぐに別の何かを追い求めていく。それは本当の平安ではない。しかし聖書の教える平安は一度掴んだら、もう大丈夫。永遠の約束だから。イエス様の与える平安をしっかりといただこう。


by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:42 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「この世の基準」

     A.誰が一番偉いか

     弟子たちは最後の晩餐において、その座る席から誰が一番偉いのかという議論を始めた。この

世においては、人より偉い立場にあることがその人の評価となる。多くの人は必死に良い成績、

良い地位を求めていく。必ずしも悪いことではないが、別の基準があることを聖書は語る。

B.人間の持つ弱さ

     弟子たちは十字架を目前にしてもなお、この世の基準で物事を見ていた。しかしそれが人間の

持つ弱さであり、これは誰もが持っている弱さである。誰が偉いかだけではなく、様々なこと

でこの世の基準こそがすべてであるかのように生きてしまう。そこに本当の救いはない

   Ⅱ・「天の御国の基準」

A.若い者、仕える者に

     イエスは弟子たちにこの世の基準とは違う、天の御国における基準を示した。これまでも弟子

たちは神の基準とこの世の基準について教えてきた。ここでは人よりも偉くなるよりも仕える

人になるようにと教えた。この姿勢は十字架の前にへりくだる謙遜さがないとできない。

B.聖餐式の必要性

     イエスはこの教えを最後の晩餐において教えた。かつて過ぎ越しの祭りにおいて小羊の血が流

され、イスラエルを救い出した。今やイエスの十字架の血において人類が救い出される。過ぎ

越しが十字架を示したように、十字架の死を祈念する聖餐式は天の御国を指し示している。

結論:今日は聖餐式である。私たちはこの世に生きている限り、どうしてもこの世の基準で物事を判断したり、この世の基準で自分の立ち位置や評価を求めてしまったりする。それが個人を成長させることもあるので必ずしも悪いことではないが、しかし、この世の基準とは違う天の御国の基準があることを知らばければならない。そのために自分の持つ弱さを知り、へりくだって罪を認め、悔い改めて十字架の血潮によって救いにあずかることが必要である。かつては過ぎ越しにおける出エジプトの出来事が民を救い、それがやがて来るイエス・キリストの十字架の血潮による救いを指示していたように、この十字架の死を祈念する聖餐式を通して現代の私たちは永遠のいのち、天の御国における栄光の勝利の食卓にあずかる者とさせられた。この地上において、すでに天の御国を先取りしている私たちは、やはり地上の基準ではなく、天の御国の基準を見据え、イエスの教えのように仕える者として歩んでいきたいと願う。


by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:39 | Comments(0)