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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「ダビデとナタン」

     A.ナタンの忠告

      ナタンはダビデの犯した罪を直接語るのではなく、ある譬えをもって知らせた。そしてダビデ

自身がその罪に対して示した感情によって、自らの犯した罪を悟らせることをした。ナタンは

神に忠実に従いダビデに話をした。主にある友人の大切さを教えられるし、求めていきたい。

B.ダビデの反応

      ダビデは自らの犯した罪を悟った時「私は主に対して罪を犯した」と認めることができた。こ

れはとても勇気のいること。主に対して謙遜でなければできないこと。人の目はごまかせても

主の目はごまかせない。主の目をごまかせると思うような傲慢さが私たちにないだろうか?

   Ⅱ・「罪の結果」

A.神の愛による赦し

      ダビデの真実な悔い改めに対して神はその罪を赦された。ダビデは自分の罪を死刑だと言った

が、神はダビデを赦した。私たちも本来ならば永遠の滅びにまっしぐらな存在であったかもし

れない。しかし、神の大いなる愛、イエスの十字架の贖いによって罪赦された者とされた。

B.神の厳しいさばき

      神はダビデの罪を赦されたが、しかしバテ・シェバとの間に生まれた子が打たれた。自分の起

こした出来事が取り返しのつかない結果を招くことがあることを私たちはよくよく覚えてい

たい。ダビデは神の愛と厳しいさばきを体験した。ダビデはこの事実を喜んで受け入れた。

結論:神の愛の結果として、イエス・キリストが私たちの罪の一切を負ってくださり、十字架にかかってくださった。その御子の十字架とその血潮を信じ受け入れることができた時、私たちの罪は完全に赦される。しかし、だからと言って罪を平気で犯して後からごめんなさいをすればいいと安易に考えてはいけない。神は罪を決して放置はしない厳しいお方である。だからこそ、神はあらゆる方法をもって私たちが犯している罪について教えてくださる。それは友人かもしれない。真実を語ってくれる友人を求めたい。また、罪の指摘を受けた時、私たちはつい逃げたくなるかもしれない。ごまかしたいという誘惑にかられるかもしれない。人の目はごまかせても、神の目はごまかせない。だからこそ、神に対して真実の悔い改めが必要である。その時、神は大いなる愛をもって、私たちを赦してくださる。この恵みをダビデは詩篇で語り、喜んだ。罪を認めた先に、大いなる愛と祝福が待っている。勇気をもって一歩踏み出そう。その先に神の愛を再確認し、喜びの人生が広がっている。


by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:47 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「王としての葛藤」

     A.王としての対応

      この時代、王と敵対する子孫が王の座を危うくするためにあらゆる方法を用いて攻撃を仕掛け

てくることがあった。だから、王はそうした危険因子を取り除くため、敵の一族を抹殺するこ

とが多かった。ダビデは王として、国の安全、身の安全を求めたとしても不思議はなかった。

B.サウル一族に対する対応

      ダビデはサウルの孫であり、ヨナタンの息子であるメフィボシェテに厚意を示した。ダビデは

再びサウルの娘ミカルと婚姻関係をもつことで、イスラエル統一王国を築くための足掛かりと

したことがあったが、今回はどういう狙い、思いがダビデの中にあったのだろうか?

Ⅱ・「神に忠実であろうとしたダビデ」

A.神様を第一とした

   かつて多くの王が自分の保身、国を守ることのために敵の一族を抹殺した。しかしダビデは政

治的な思惑もあったかもしれないが、何よりも神が油注がれたサウルに対して、またその一族

に対して決して手荒な対応はしなかった。人間的な感情よりもダビデは何より神を第一とした

B.赦す勇気

   ダビデにとってサウル、その後の一族との関係は決して良いものではなかった。しかし、ダビ

デはサウルの孫であり、またヨナタンの息子であるメフィボシェテをもてなした。自分に悪事

を働いたものに対する愛は神の我々に対する愛に通じる。その寛容な心を私たちも持ちたい。

Ⅲ・「神の愛に生きる」

A恐れたメフィボシェテ

   ダビデからの厚意を提示されたメフィボシェテは、そのような厚意を受けることに恐れた。し

かし王子並みの待遇を受け入れることにした。メフィボシェテはダビデの計らいに感謝したこ

とだろう。と同時に、その背後にある神の大いなる愛と赦しを知ることができただろう。

B.神の愛の先にあるもの

   神の愛は一方的である。罪の赦しと永遠のいのちをも与えてくれる愛に私たちは戸惑うかもし

れない。或いは自分はその愛を受けるに相応しくないと感じるかもしれない。しかし、その愛

を受け取る時、私たちは大きな喜びと感謝をもって主の御名を褒めたたえ、存分に祝福される。

結論:メフィボシェテはダビデからの待遇を受けるにふさわしい行いをしたわけではない。しかし、その愛を受け入れた時、彼の生活は大いに満たされた。私たちも神からの一方的な愛によって、罪赦され、永遠のいのちまでいただくことができる者とされた。それは私たちがそのような恵みをいただくにふさわしい者であったわけではない。しかし、その神からのご厚意を拒否することなく受け入れるとき、メフィボシェテが

受けた以上の温かい歓迎がそこに用意されている。私たちは神からの愛を、また多くの恵みをただ感謝していただくだけでいい。神は惜しむことなく私たちにその愛を、また恵みを与えて下さる。この愛に感謝して、今週も喜びのうちを歩ませていただこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「トマスの疑い」

     A.疑う目的

      トマスは疑う人という印象が強いように思われる。実際に他の弟子たちが復活のイエス様を見

たと言っても、手に釘の跡を見て指をそこに入れ、刺された脇腹に手を入れないと信じないと

言った。同じように実際に見て体験しないと信じ受け入れられない、という人が多い。

B.疑いから信仰へ

      トマスは自分の疑いに対して頑なではなかった。疑問に対する答えが見つかった時、素直に喜

び信じた。疑いはその人の心を研ぎ澄ませる。疑問がその人に考える力を与え、答えを見出し、

決断へと誘う。大切なことは疑問に対して頑なにならず、真理の導きに対して素直に従おう。

Ⅱ・「イエス様の対応」

  A.トマスに寄り添うイエス

   トマスが抱いていた疑問をイエス様は知っていた。しかしそれをとがめるのではなく、彼の疑

問に寄り添った。イエス様は私たちの疑問に対して応えてくださるお方である。疑問を抱くこ

とを決して拒否しない。私たちもわかったような気になるよりは、真理をより深く求めよう。

B.解決してくださるイエス

   トマスの疑問に寄り添ってくださったイエス様は信じない者にならないで、信じる者になるよ

うにと声をかけた。私たちがイエスを本気で求めるならば、信じ受け入れることができるよう

に、疑問に対する解決の道を備えてくださる。トマスはイエスの復活を信じる者とされた。

Ⅲ・「天国への道」

  A.イエスの復活

   イエスはなぜわざわざ弟子たちの前に現れたのか?なぜ疑うトマスに寄り添ったのか?イエ

スの復活が真実であることをはっきりと示された。死人の復活は科学的でないと否定する人が

多い。しかし事実である。事実だからこそ、私たちもこの復活に希望を見出すことができる。

B.いざ天国へ

   イエスの十字架によって罪赦された私たちは、復活によって永遠のいのちの希望もいただいた。   

先に召された信仰の先達との別れは辛いが、やがて天国で再会できる喜びをもって送りだすこ

とができる。この地上がすべてではない。あくまで寄留地である。私たちの国籍は天にある!

結論:トマスの疑いは私達誰もが抱くものかもしれない。私たちは弱いから見ないで信じるよりも見て信じることの方を求めてしまいがち。でも、神はそのような私たちに聖霊を送ってくださり、日々の歩みの中で神の臨在を感じさせ、信仰を与え、永遠の希望に生きる喜びをもたらせた。私たちは必ずこの御国に凱旋する。その日まで、与えられた命を大切に、この地上においても主と共に喜びをもって歩む者とさせていただこう。


by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:44 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「03度目の油注ぎ

      最初ダビデに油を注いだのはサムエルであった。次にユダ族の王として油注がれ、イスラエル

の王として3度目の油注ぎを受けた。ここに神の約束はついに成就した。それまでのダビデの

歩みは王になるとは思えないほどに過酷を極めた。人間的に見たら諦めてもおかしくない。

B.忍耐強く待ち望む

      神の約束はすぐに成就することもあれば、ものすごく時間がかかるものもある。はっきりして

いることはその約束は必ず成就するということ。時に世代を超えて約束が成就することすらあ

る。大切なことはこの約束の成就を忍耐強く待ち望むということである。神への信頼が必要。

Ⅱ・「おごり高ぶる」

A.エブス人

   ベニヤミン族とユダ族の境界線上であるエルサレム周辺にはエブス人が陣取っていた。この地

域は地形的にも戦略的にも非常に優れた場所にあり、彼らはそれゆえにおごり高ぶっていた。

しかしダビデは思いがけない隙をついてエブス人を捕らえ勝利した。人間的視点の限界。

B.シオンの要害

   確かにエブス人のいた地域は非常に魅力的であった。それゆえに、ダビデもまたこの地を重要

視し、このエルサレムを首都としてダビデの町と呼んだ。人間的に不可能と思えることがたく

さんある。しかし主が共におられ、主がそこに働かれる時、不可能が可能とされる。

Ⅲ・「神だけが安全」

A.本当の安全はどこに

   エブス人は自分たちのいる場所は安全であると信じていた。しかし結果的にはそれは偽りの安

全であった。本当の安全は神にあってのみ与えられる。たとえどんなに強力な守りがあっても、

どんなに優れた文明の利器で守られていても、それらは一瞬で崩れ去ってしまうことがある。

B.明日は神のみ知る

   明日がどのような日か誰もわからない。何となく予想をつけることはできる。その通りになる

こともある。しかし、それらすべて神のゆるしのもとになされている。神の支配こそがすべて

であり、だからこそ神こそ真の安全を持っている。神と共にいることこそが唯一の安全である。

結論:私たちはつい目に見える世界だけを見て、あるいは自分の感覚だけを信じて、それを信頼し、そこに期待する。しかし、私たちが本当に信じ、信頼し、期待すべきは神のみわざである。実際に目に見える世界、耳に聞こえてくる情報だけがすべてではない。むしろ目に見えないことの方が多い。ダビデは神を信じ続け、その時が来ることに身をゆだねた。成就の時は神の時であり、私たちの理想とはかけ離れているかもしれない。しかし、それこそが最善であり、最高の時である。絶対なる神を信頼し、様々な誘惑に負けずに、信じて委ねていこう。


by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:43 | Comments(0)