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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「すべての人を照らす光」

     A.闇からの救いの光

      ヨハネはイエスのご降誕を前にすべての人を照らす光がもたらされる、と表現した。イエスの

誕生は誰か特定の人のためだけではなく、すべての人のためになされた出来事であった。しか

し多くの人は闇の中にいて、心を閉ざし、目を閉ざしていたため、この光を自分のための光と

して受け入れることができなかったが、神はすべての人のためにこの光を私たちに与えた。

B.神の栄光を見る

      ヨハネはこの方の栄光を見たと語っている。クリスマスの出来事を思い巡らす中で一つのキー

ワードがこの「見る」ということである。御使いは羊飼いに飼い葉おけにおられるみどりごを

見つけると語り、羊飼いたちはこの出来事を見て来ようと言った。シメオンは幼子を抱いてこ

の目で御救いを見たと喜んだ。私たちは今年のクリスマスに何を見ることができるだろうか。

Ⅱ・「恵みとまことをいただく」

A.恵みに次ぐ恵み

   ヨハネはキリストを受け入れたものの人生を「恵みの上にさらに恵みを受ける」と表現してい

る。しかしこれはこの世的な幸福を指してはいない。神がその時に最もふさわしい恵みを私た

ちに備えてくださることを指している。これ以上の幸いはない。律法は私たちの理想を示した

が、それだけでは幸せになれない本当の幸せを私たちにもたらしたのがイエスの誕生である。

B.イエスを知ることは神を見ること

   イエスがこの地上に来てくださったことによって、神ご自身を私たちに見せてくださった。イ

エスと出会い、イエスを信じ、イエスを受け入れることは神を見ることである。この肉眼で神

を直接見ることはできないが、イエス様を通して私たちは神の目撃者となることができる。そ

して、そこにあるすべての事に感動し、喜び、感謝に満ち溢れた歩みができるようになるのだ。

結論:クリスマス、イエス・キリストの誕生を祝うときに、私たちは何を祝うのか?何を喜ぶのか?答えは一つではないかもしれないが、私たちが神様を見ることができる者とされた。神の目撃者となることができた、ということも大きな喜びではないだろうか。神の栄光を見ることができたとき、私たちの人生は大きく変えられる。それまで見えていたもののすべてが、輝きを増し、味気ないと感じていた日々の何気ない時間が慈しみと恵みに満ち溢れていることに気づき、喜びに変えられていく。人生に不満を抱いていたり、先の見えない不安に恐れていたり、様々なしがらみ、関係に疲れていたところに、光が差し込み、勇気と希望を抱いて力強く前進することができる者と変えられていく。神の目撃者となった時、私たちの歩みは実に素晴らしいものとなる。この素晴らしい人生を送ることができるようになった、このクリスマスを共にお祝いしようではないか。


by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「しるしを求める」

     A.ピンチに対する神の姿勢

  イザヤ書全体を通して神は、民に向かって信じるということを通して危機を乗り越えること

を求めた。それも穏やかに、静かにしてより頼む信仰を求めた。私たちも様々な危機が訪れ

るが、そう言う時こそ心穏やかに静まって祈り主の導きを求めたいと思う。

B.神に期待する

  神は全能なるお方であり、不可能なことは何もない。だからこそ、私たちは期待して神のみ

わざを待ちたい。しかし、つい自分の力で進もうとしてしまったり、待ち切れずに先走って

行動を起こしてしまったりしがちである。信じるということは忍耐を伴うことでもある。

Ⅱ・「しるしを与える」

A.報酬を与える神

    インマヌエルの約束は、自ら行動してしるしを求めるのではなく、信じてその時を待つこと

であった。神はただやみくもに私たちに信じろとはいわない。恵みと祝福の約束をもってお

られ、その約束を成就するからあなたがたは信じて従いなさいと求めるお方である。

B.超自然的なしるし

    処女がみごもるということは自然の摂理をはるかに越えた出来事である。それは神でなけれ

ばなされないこと。超自然的なしるしである。イスラエルの歴史を見ても超自然的なことが

何度もあった。それは神が世を愛し、人を愛しているからこそ成されたみわざであった。

Ⅲ・「成就したしるし」

A.救いをもたらすしるし

    このインマヌエル預言はイエス・キリストの誕生を指している。インマヌエルは「神がひと

と共におられる」という意味であるが、文字通りだけの単純なことではない。真の神と真の

人がこれ以上一緒にいることができないという形でお出でくださったことを意味している。

B.本当の敵を退けるしるし

    イザヤの預言は直接的にはユダを目の前の敵から救う預言として見ることができる。しかし

イエス・キリストとして見るならば、私たちの本当の敵であるサタンを退けるために来られ

た救い主として見るべきである。可能とするのは真の神であり真の人であるイエスである。

結論:インマヌエルというと私たちは単純に「神様が私たちといつも一緒にいてくださるのだな」と単純に受け取ってしまう傾向があるように思える、もちろんそれは正しい視点であるが、今年のクリスマスはインマヌエルの事実としてもう少し正しく受け取りたいと思う。真の神と真の人がナザレのイエスにおいて全く一つとなった。そしてこの地上に共においでくださった。だからインマヌエル預言の成就はイエス・キリスト以外においてありえないのである。そしてこのお方を信じ受け入れることによって私たちもまた、神と一緒にいることができる恵みが実現したのである。このイエス様のご降誕を共に祝える喜びをもって今秋を過ごし、来週のクリスマス礼拝に備えていこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神のさばき」

     A.民の罪

      神は様々な要因をもってここでイスラエルにさばきをもたらそうとした。その背後にはイスラ

エルの民が求めた王制の限界があった。また、ダビデ自身も悪魔の誘惑、誘導によって神の命

令ではなく自身の意思によって本来あるべきではない形の人口調査をしてしまった。

     B.神のご計画

      このことを通して神は何をなさろうとされていたのか?罪に対するさばきにおいて、その責任

を一身に受けようとしたダビデの罪告白。あらゆる問題に対する最後の砦、唯一の希望が神以

外にないということを実体験すること、神の御名だけがほめたたえられるべきであること。

Ⅱ・「ダビデの姿勢」

  A.神の御手にゆだねる

   ダビデは神から与えられた3つの選択において、主の手に陥ること、主の憐みにすべてを委ね

ることを選択した。その結果、経済的格差も通じない、不公平のない一方的な神の御手が民に

下されることになった。ダビデはただ神の御手にゆだねる、そこにだけ最善があると選択した。

  B.王として

   ダビデは王として、自分の国の民を羊の群れと表現し、羊を守り自分に害が及ぶように願った。

ダビデは応答しての自覚、民を導くリーダーとしての自覚があった。大切な羊の群れを養うた

めには、自分の身を惜しみなくささげることのできるリーダーが必要。私たちのリーダーは?

Ⅲ・「イエス様の姿勢」

  A.神の御手にゆだねる

   私たちにとってのリーダー、私たちが羊であるならば牧者はイエス様である。そのイエス様は

私たちの罪とそれに対するさばきのために何をされたか?一切を神の御手にゆだね、ご自身を、

自らのいのちを神にささげた。ダビデはそれが許されず、イエス様だけがそれを果たした。

  B.救い主として

   このイエス様の姿勢によって私たちは罪赦され、永遠のいのちまでいただくことができた。私

たちはこの救い主に対して何ができるのか。それはダビデの生涯から教えられる。ダビデも弱

く罪を犯し、また数々の試練にあったが神にゆだね、信頼し礼拝した。これが成功の秘訣。

結論:ここまでダビデの生涯を見てきたが、確かに素晴らしい王として用いられた人物である。しかし、いつ神に見捨てられてもおかしくないような失敗もした。それでもダビデは真実の悔い改めをし、一切を神の御手にゆだねるという姿勢を貫くことができた。私たちもこのダビデにならって信仰生活を送りたい。その道を貫こうとするとき、私たちもまた大いなる祝福をいただくことができ、喜びの賛美を声高らかにささげることのできる者とされる。私たちも羊の群れであるが、しっかりと牧者であるイエス様から目を離さずに、これからも歩んでいこうではないか。


by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:24 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「守る神」

     A.ダビデを守る神

      ダビデはサウルからの執拗な攻撃に絶え抜いた。その日々は想像を絶する苦労と痛みがあった。

しかし、ダビデは倒れず、屈することなく逃れ続けることができた。それはダビデが優秀であ

ったとか、周囲の者が強かったからだけではなく、何よりも神の守りがあったからである。

B.私たちを守る神

      ダビデが普通ならば耐え難い試練を乗り越えることができた背後に神の守りがあったのと同

じように、神は今も生きておられ、私たち信仰者にも耐えがたい試練があった時、共にいてく

ださり私たちを守ってくださり、私たちが倒れることなく屈することなく歩めるようにされる。

Ⅱ・「成長させる神」

  A.神によって強くある民

   多くの人は神への信仰は自分で困難をクリアできないような弱い人が支えとして求めるもの

であると考えるかもしれない。しかし神は私たちがいつまでも弱い者であることは望んでいな

い。神は私たちが成長していくこと、主にあって強められていくことを願っておられる。

B.力を与える神

   神は私たちから試練を完全に無くすとは約束されていない。しかし、私たちが試練に立ち向か

うために必要な知恵と力を与えて下さると約束してくださっている。だからこそいつも共にい

てくださり、私たちを教え、訓練し、試練に打ち勝てるよう力を与えて下さるのである。

Ⅲ・「ほめたたえられる神」

A.ダビデの賛歌

    ダビデはこの神の守り、成長させてくださることによって力強く歩める者とさせてくださっ

たことをおぼえ、主の御名をほめたたえる歌を歌った。これは誰かに頼まれてしたのでもな

ければ、自分の名声のためでもない。ただ心から賛美せずにはいられなかったのである。

B.私たちの賛美

    私たちの日々を振り返ってみよう。どれほどの神様からの恵みをいただいているだろうか。

試練もあるが、しかしそこにある神の守り、力、恵みは計り知れない。それによって私たち

もまたキリスト者として成長させていただいている。心から感謝、賛美をささげよう!

結論:ダビデがこの歌を賛美した時、それはサウルの手から救われた時であり、ダビデが生涯を振り返りながら平安の内に神様の恵みを改めて覚えたときであった。私たちも日々の喧騒に追われていたら、なかなか神様への感謝、賛美をささげようと思えないかもしれない。しかし、静まって、改めて神様に思いを向けてみよう。数え切れない恵み、恩寵を思うとき、私たちは心から喜び、感謝の賛美をささげることができる。神様は私たちを守ってくださる方であり、ただ守るだけではなく、そうした中で成長させてくださるお方である。だから私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日、神様への感謝が増してくる。喜びが増す。人生における幸いを実感できる。その思いが、自然と私たちを喜びと感謝の賛美へと掻き立てていくのではないだろうか。


by ontheway-chapel | 2019-12-25 17:22 | Comments(0)