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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「迫害からの脱却」

     A.教会を襲った迫害

      初代教会は困難の連続であった。人種差別の問題、大飢饉の問題を切り抜けてきた教会に、今

度はユダヤ教、国からの迫害が襲ってきた。いつの時代も様々な形で困難が襲ってくる。残念

ながらそれらから完全に抜け出すことはできない。では困難にどう立ち向かったらいいのか?

B.ヘロデ王からの迫害

      ヘロデ王は純粋なユダヤ人ではなかったが、国を支配するうえで急速に勢いをつけてきたキリ

スト教に対して、ユダヤ教徒を取り込むことで打開しようとした。12使徒を傷つけることが

ユダヤ人に気に入られると分かった時ペテロを捕らえた。キリスト教徒は何をしたか?

Ⅱ・「熱心に祈る」

  A.教会の祈り

   新しくできた生まれたばかりの教会にとって国家権力との戦いは、普通に考えたら圧倒的不利

な戦いである。それは強力な軍事力VS教会の霊の武具力の戦いである。しかし勝利したのは

教会であった。これ驚くべきことである。その勝利の秘訣は教会による熱心な祈りであった。

B.もっとも弱い者が強くなる

   跪き、両手を合わせ、こうべを垂れて祈る姿は、自分のできることはもう何もなく、ただ全能

なるお方の助けを求めるだけの弱い姿である。しかし、弱さを認め、全能なる神、復活のイエ

ス、真理の御霊にすべてをゆだねるとき、もっとも弱い人がもっとも強い者に変えられる。

Ⅲ・「祈りの結果」

  A.平安をもたらす祈り

   過ぎ越しの祭りにおいてペテロがいよいよ明日、引き渡されるという夜、ペテロは寝ていたと

いう。死を目前にしてぐっすり眠れるということは、なかなか信じがたいがペテロは眠ること

ができた。すべてを主にゆだねることができるならば、死をも乗り越える平安が与えられる。

   

B.不可能を可能にする祈り

   普通に考えたらヤコブに続きペテロも死から逃げることは不可能であった。しかし、教会の祈

りに応える神は御使いをもってペテロを救い出した。すべての災いは熱心な祈りによって神の

助けの中で脱却することができる。不可能を可能にする熱心な祈りを私たちも実践しよう。

結論:思いがけないピンチ、とんでもない試練は誰にもやってくる。そのとき慌てふためいてさらに試みだされていくのか、自分の力で何とかしようとして力尽きるのか。私たちはそうではなく、万軍の主に熱心に祈るという方法をもって解決の道を求めていきたいと思う。神様は教会の熱心な祈りを聞いてくださり、応えてくださるお方。どんなに不可能と思えることであっても、神様は可能にする力を持っておられる。私たちはこの祈りによって平安が与えられ、ただ安らぐだけではなく、そこからさらに前に進む力も与えられる。新しい年、熱心な祈りをもって前進するお互いとさせていただこうではないか。


by ontheway-chapel | 2020-01-09 18:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪を避けること」

     A.パウロの主張

      パウロはここでコリントの中にあった肉体は悪であり大切なのは魂、霊であるのだから、肉体

などどうでもいいという考えから派生する欲望に対しての崩壊的な発想に対して、警鐘を鳴ら

していることがこの個所における多きなポイントとなっている。本当に大切なのは何か?

B.人間的な弱さと向き合う

      ギリシヤ的な思想とパウロの教えを誤って捉えた新しい教えがコリント教会に広がる中で、パ

ウロは罪に対する私たちの姿勢を明らかにした。それは罪を避けることである。キリスト者は

自由であるが何をしてもいいという自由ではなく罪を犯さない自由が与えられ得ているのだ。

Ⅱ・「買い取られる必要があった」

A.からだに対する罪

   なぜ不品行を避ける必要があるのか?人はキリストと一体となるために創造された。聖書に性

交は二人を一つとするとある。(創世記2章)しかしそのように創造された私たちのからだが、

不品行を通してキリストではなく他の者と一体になるならば、それは避けるべきことである。

B.聖霊の宮として

   神の御霊が私たちのうちに住まわれるのだから、私たちのからだは聖霊の宮であるとパウロは

言う。ならば私たちのからだは聖なるものである。だから決して私たちの肉体は悪ではない。

と同時に、代価を払って買い取られたものなのだから、自分勝手に用いてはいけないのだ。

Ⅲ・「神の栄光を現すため」

A.自分の好きなように生きる

   「自分の人生、自分の体、どうしようが自分の勝手である」という人がいる。果たして本当だ

ろうか?それが真の生きる目的となり得るのだろうか?それは世的な習慣、己の欲望に屈服し

ているに過ぎない。欲望や世俗の奴隷になるために私たちの人生があるのではない。

B.生きる目的

   では、私たちの生きる目的はどこにあるのか?私たちがキリストによって代価を払って買い取

られた存在であるならば、私たちはキリストのものである。であるならばキリストが願う生き

方をすること、つまり神の栄光を現す生き方こそが、私たちに与えられた生きる目的である。

結論:生きる目的が神の栄光を現すためである。私たちはキリストに買いとられたのだから、キリストのものであるというと、そこに自由はないと反論が出てくるだろう。確かにこの世に目を向けているならば、そのように人生を惜しむかもしれない。しかし、それは実はこの世に縛られた生き方を求めているに過ぎない。そこに本当の自由はない。しかし、キリストにある生き方には自由がある。罪という束縛、この世という束縛から解放されている。一見不自由に見えるかもしれないが、実はキリスト者ほど自由人はいない。そこに正しく焦点を当てることができた時、私たちはそのような恵みを与えて下さった神の栄光を現す者として歩むことができるのではないだろうか。


by ontheway-chapel | 2020-01-09 18:20 | Comments(0)