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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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私は幼稚園の頃、親戚からこの子は秀才かもしれない、と言われていたそうです。
非常に知恵があり、賢いと言われていたようですが、残念ながら今ではその面影は見る形もありません…

私たちが普段使う「知恵」という言葉には頭がいいとか、賢いとか、そういうイメージがついて来ると思います。
しかし聖書が語る「知恵」は、私たちがイメージしているものとは違って使われることが多いようです。

それは「霊的な知恵」と言われるもので、私たちがこの世界で様々な経験や勉強をして積み上げていく知恵ではなく、神様由来の知恵とでもいいましょうか。
天から与えられる知恵をさしています。
それは、神を神として認める知恵であり、それは神の前に謙虚でへりくだった姿勢によって成長していく知恵といえるものです。
ですから、この世の中にもたくさんの知恵がある人たちがいますが、必ずしもそういう人たちが聖書の語ることを理解できるわけではありません。
しかし、霊的な知恵によって、私のような大した学歴の無いような者であっても、神様のことを知ることができるのです。

そしてこの霊的知恵によって人として本当に必要な知識(神を神として知る知識)が与えられた時、その人の人生にはどんな知恵にも勝る充実した生活、人生を送ることができるのだと聖書は約束しています。

霊的な知恵、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、この知恵は持っていて損はありません。
ぜひ、この霊的な知恵と言うものにも関心を抱いていただけたら幸いです。

# by ontheway-chapel | 2021-10-03 14:39 | Comments(0)
神は私たちを愛している。
これは聖書の中心的メッセージのひとつです。
そしてこの愛というのは、私たちの持つ愛とはかけ離れた何があっても赦そうとする愛です。

私たちは自分の敵となる存在、自分を攻撃してくる存在、自分や周りの人にひどいことをして来る存在を簡単に愛することはできない。
むしろ怒りの感情の方が先に立ってしまうことの方が多いのが素直な反応ではないでしょうか。

しかし神は「神などいない」「聖書の神など偽物だ」と言いながら、神には向かい、神を否定し、神を信じる者を迫害するような者をも愛される。
私たちでは到底愛することができないような、とんでもない犯罪者すらその愛で包まれる。
だから、神を信じる者はその愛によって完全にその罪は赦され、救われるのである。
そもそも私自身もかつては神などいない。むしろ神に敵対するような思想をもっていた一人であります。
しかしそのような私さえも見放すことなく、愛し続け、赦し、救ってくださった。
それも何か特別なことを慕わけでもなく、必死に神様に好かれるための努力をしたわけでもなく、大金を積んだわけでもなく、ただ信じるだけ救われたのです。

これが聖書のいう福音(良い知らせ)です。
この福音をぜひ、皆様にも知ってほしいと心から願っています。

# by ontheway-chapel | 2021-09-26 14:30 | Comments(0)
聖書を読んでいくと、イスラエルの民はどうしてあれほどに神様のすばらしい奇蹟を目の当たりにしていたにもかかわらず、すぐに神様から離れてしまうのだろうか、と思います。
現代においてなかなか教会に人が集まらない。
神様を信じる人が少ない現実を前に、つい「昔みたいに神様のとんでもない奇蹟が起こったらみんな信じてくれるのにな」と思うこともあります。
でも、聖書の歴史を見ていくとそう簡単なことではないと気付かされます。

神様はこの世を愛され、人々を愛しておられます。
これは変わることのない事実です。
その愛を受けた人たちは、その愛を実感することができた時(奇蹟を目の当たりにした時)には、神様を信じ、受け入れ、喜びました。
しかし、ほとぼりが冷めると人々はその愛を忘れ、自分の都合の良いことを求め、自分勝手に過ごしてしまうのです。
実は人類はこの繰り返しと行っても過言ではありません。

私たちは本当に弱い。
困った時には神頼みしますが、すぐに感謝を忘れ、神無き生活、自分中心の生活に戻ってしまいます。
もう何千年と続くこの生活にもかかわらず、神様は今もなお、私たちを愛しておられるのですね。
平気で裏切り、困った時だけ助けを求め近づき、感謝しますが、またすぐに離れていく。
そのようなもう見捨てられて当然のような私たちを、それでも神様は愛してくださるのですね。

ここにはあまりに対照的な姿があります。

でもだからこそ、私たちには希望があるのではないでしょうか。
このような者でも愛してくださるお方がいる。
愛し、守ってくださり、助けてくださり、すばらしい祝福を惜しみなく注いでくださるお方がいる。

このお方こそ、私たちも愛し、信じ、従っていきたいと思います。


# by ontheway-chapel | 2021-09-12 10:57 | Comments(0)
再びホセアとゴメルのお話。
ホセアを裏切り、他の男のもとへと去って行ったゴメルを神は、「再び愛するように」と神はホセアに命じました。
ここでいう愛とは相手のすべてを受け入れ、赦し、仕えていくというものです。
つまり、この愛とは神が私たちに対して実践しておられる愛そのものです。

ホセアは神の命じられたとおりに、ホセアを迎えに行き、買い戻すのですね。
買い戻すということから、ゴメルは去って行った先で奴隷のような立場になっていたのだと言われています。
ホセアは自分を裏切り、去って行った者のために買い戻す(代価を支払って買い取る)ことをしたのです。

ホセアとゴメルの関係は神様と私たちとの関係に置き換えて見ることができると以前触れました。(ホセア書1章参照)
神様も私たちとの関係を再び取り戻すために、神様を裏切って去って行った私たちのために代価を支払って買い取ってくださったのです。
代価を支払うということはそこに犠牲を伴います。
神様は私たちとの関係を取り戻すために、どのような代価を、犠牲を支払われたのでしょうか?

それがイエス・キリストのいのちでした。
イエス・キリストは私たちが神様から離れ、自分勝手に好きに生きている私たちの罪を取り去るために、神様との関係を回復するために、自らのいのちをもって代価と払われたのです。
それがあの十字架であり、その十字架において本来ならば私たちが受けるべき罪の罰を負ってくださり、犠牲となられたのです。

神様はそこまでして、私たちとの関係の回復を願っておられます。
なぜならば、私たちに幸せになってほしいから。
本当の喜び、希望に満ち溢れた人生を送ってほしいから。
神様は私たちを罪の奴隷から買い戻して、正しい関係へと迎え入れて下さるのです。


# by ontheway-chapel | 2021-09-05 10:46 | Comments(0)
聖書では私たち人間は、本人が自覚している、指定内に関係なく、神の保護の中にあるといいます。
私たちはいついかなる時も神様に守られているのですね。
なぜならば、神様は私たちを愛しておられるから、というのが聖書の大前提です。

しかし、実際には私たちはこの神様の守り、保護されている状態から、自ら抜け出し、神様の許を去って行く人が多いのです。
親の保護が絶対に必要な赤ちゃん。
赤ちゃんは親が保護してくれると信頼して、何ら疑うことなく委ねてきっています。
赤ちゃんはお母さんに抱っこされている時、親がその手を離して下に落とされるなど思うことなく、安心しきって身をゆだねています。
お腹が空けばミルクが与えられ、おむつが汚れたら新しく交換してくれると信じています。
しかし、もし親の保護から離れてしまったら、赤ちゃんはあっという間に命の危険にさらされます。

私たちも神様かの保護から離れてしまうならば、それは即ちいのちの危険にさらされるというのです。
もちろん、実際にはこの地上において何不自由なく生きているように思えます。
しかし、神の守りのなかでこの地球があり、太陽があり、水があり、空気があることを私たちは忘れています。
また、当たり前のように感じているかもしれませんが、今日一日、危険にさらされることなく生き、食事を取ることができることも実は奇蹟なのです。
神の保護なしに人は生きられません。

神様はその愛を裏切って、去って行った人のために、今日もその愛を注ぎ続けてくださり、私たちの必要を満たし、守っていてくださっています。
しかし、最終的にはこの愛に従い、応答するならばその人は永遠のいのちが与えられ、この地上の人生を終えた後にも天国において永遠のいのちが与えられ、幸いな日々を過ごすことができます。
でも、離れたままならば、その人は天国に行くことができず、永遠の苦しみが待っているのです。

神様は私たちとの永遠のいのちの契約を結んでくださる用意ができています。
この契約を結び、幸いなる人生をすごしてみませんか。



# by ontheway-chapel | 2021-08-29 10:34 | Comments(0)

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