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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「ダビデとナタン」

     A.ナタンの忠告

      ナタンはダビデの犯した罪を直接語るのではなく、ある譬えをもって知らせた。そしてダビデ

自身がその罪に対して示した感情によって、自らの犯した罪を悟らせることをした。ナタンは

神に忠実に従いダビデに話をした。主にある友人の大切さを教えられるし、求めていきたい。

B.ダビデの反応

      ダビデは自らの犯した罪を悟った時「私は主に対して罪を犯した」と認めることができた。こ

れはとても勇気のいること。主に対して謙遜でなければできないこと。人の目はごまかせても

主の目はごまかせない。主の目をごまかせると思うような傲慢さが私たちにないだろうか?

   Ⅱ・「罪の結果」

A.神の愛による赦し

      ダビデの真実な悔い改めに対して神はその罪を赦された。ダビデは自分の罪を死刑だと言った

が、神はダビデを赦した。私たちも本来ならば永遠の滅びにまっしぐらな存在であったかもし

れない。しかし、神の大いなる愛、イエスの十字架の贖いによって罪赦された者とされた。

B.神の厳しいさばき

      神はダビデの罪を赦されたが、しかしバテ・シェバとの間に生まれた子が打たれた。自分の起

こした出来事が取り返しのつかない結果を招くことがあることを私たちはよくよく覚えてい

たい。ダビデは神の愛と厳しいさばきを体験した。ダビデはこの事実を喜んで受け入れた。

結論:神の愛の結果として、イエス・キリストが私たちの罪の一切を負ってくださり、十字架にかかってくださった。その御子の十字架とその血潮を信じ受け入れることができた時、私たちの罪は完全に赦される。しかし、だからと言って罪を平気で犯して後からごめんなさいをすればいいと安易に考えてはいけない。神は罪を決して放置はしない厳しいお方である。だからこそ、神はあらゆる方法をもって私たちが犯している罪について教えてくださる。それは友人かもしれない。真実を語ってくれる友人を求めたい。また、罪の指摘を受けた時、私たちはつい逃げたくなるかもしれない。ごまかしたいという誘惑にかられるかもしれない。人の目はごまかせても、神の目はごまかせない。だからこそ、神に対して真実の悔い改めが必要である。その時、神は大いなる愛をもって、私たちを赦してくださる。この恵みをダビデは詩篇で語り、喜んだ。罪を認めた先に、大いなる愛と祝福が待っている。勇気をもって一歩踏み出そう。その先に神の愛を再確認し、喜びの人生が広がっている。


# by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:47 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「王としての葛藤」

     A.王としての対応

      この時代、王と敵対する子孫が王の座を危うくするためにあらゆる方法を用いて攻撃を仕掛け

てくることがあった。だから、王はそうした危険因子を取り除くため、敵の一族を抹殺するこ

とが多かった。ダビデは王として、国の安全、身の安全を求めたとしても不思議はなかった。

B.サウル一族に対する対応

      ダビデはサウルの孫であり、ヨナタンの息子であるメフィボシェテに厚意を示した。ダビデは

再びサウルの娘ミカルと婚姻関係をもつことで、イスラエル統一王国を築くための足掛かりと

したことがあったが、今回はどういう狙い、思いがダビデの中にあったのだろうか?

Ⅱ・「神に忠実であろうとしたダビデ」

A.神様を第一とした

   かつて多くの王が自分の保身、国を守ることのために敵の一族を抹殺した。しかしダビデは政

治的な思惑もあったかもしれないが、何よりも神が油注がれたサウルに対して、またその一族

に対して決して手荒な対応はしなかった。人間的な感情よりもダビデは何より神を第一とした

B.赦す勇気

   ダビデにとってサウル、その後の一族との関係は決して良いものではなかった。しかし、ダビ

デはサウルの孫であり、またヨナタンの息子であるメフィボシェテをもてなした。自分に悪事

を働いたものに対する愛は神の我々に対する愛に通じる。その寛容な心を私たちも持ちたい。

Ⅲ・「神の愛に生きる」

A恐れたメフィボシェテ

   ダビデからの厚意を提示されたメフィボシェテは、そのような厚意を受けることに恐れた。し

かし王子並みの待遇を受け入れることにした。メフィボシェテはダビデの計らいに感謝したこ

とだろう。と同時に、その背後にある神の大いなる愛と赦しを知ることができただろう。

B.神の愛の先にあるもの

   神の愛は一方的である。罪の赦しと永遠のいのちをも与えてくれる愛に私たちは戸惑うかもし

れない。或いは自分はその愛を受けるに相応しくないと感じるかもしれない。しかし、その愛

を受け取る時、私たちは大きな喜びと感謝をもって主の御名を褒めたたえ、存分に祝福される。

結論:メフィボシェテはダビデからの待遇を受けるにふさわしい行いをしたわけではない。しかし、その愛を受け入れた時、彼の生活は大いに満たされた。私たちも神からの一方的な愛によって、罪赦され、永遠のいのちまでいただくことができる者とされた。それは私たちがそのような恵みをいただくにふさわしい者であったわけではない。しかし、その神からのご厚意を拒否することなく受け入れるとき、メフィボシェテが

受けた以上の温かい歓迎がそこに用意されている。私たちは神からの愛を、また多くの恵みをただ感謝していただくだけでいい。神は惜しむことなく私たちにその愛を、また恵みを与えて下さる。この愛に感謝して、今週も喜びのうちを歩ませていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「トマスの疑い」

     A.疑う目的

      トマスは疑う人という印象が強いように思われる。実際に他の弟子たちが復活のイエス様を見

たと言っても、手に釘の跡を見て指をそこに入れ、刺された脇腹に手を入れないと信じないと

言った。同じように実際に見て体験しないと信じ受け入れられない、という人が多い。

B.疑いから信仰へ

      トマスは自分の疑いに対して頑なではなかった。疑問に対する答えが見つかった時、素直に喜

び信じた。疑いはその人の心を研ぎ澄ませる。疑問がその人に考える力を与え、答えを見出し、

決断へと誘う。大切なことは疑問に対して頑なにならず、真理の導きに対して素直に従おう。

Ⅱ・「イエス様の対応」

  A.トマスに寄り添うイエス

   トマスが抱いていた疑問をイエス様は知っていた。しかしそれをとがめるのではなく、彼の疑

問に寄り添った。イエス様は私たちの疑問に対して応えてくださるお方である。疑問を抱くこ

とを決して拒否しない。私たちもわかったような気になるよりは、真理をより深く求めよう。

B.解決してくださるイエス

   トマスの疑問に寄り添ってくださったイエス様は信じない者にならないで、信じる者になるよ

うにと声をかけた。私たちがイエスを本気で求めるならば、信じ受け入れることができるよう

に、疑問に対する解決の道を備えてくださる。トマスはイエスの復活を信じる者とされた。

Ⅲ・「天国への道」

  A.イエスの復活

   イエスはなぜわざわざ弟子たちの前に現れたのか?なぜ疑うトマスに寄り添ったのか?イエ

スの復活が真実であることをはっきりと示された。死人の復活は科学的でないと否定する人が

多い。しかし事実である。事実だからこそ、私たちもこの復活に希望を見出すことができる。

B.いざ天国へ

   イエスの十字架によって罪赦された私たちは、復活によって永遠のいのちの希望もいただいた。   

先に召された信仰の先達との別れは辛いが、やがて天国で再会できる喜びをもって送りだすこ

とができる。この地上がすべてではない。あくまで寄留地である。私たちの国籍は天にある!

結論:トマスの疑いは私達誰もが抱くものかもしれない。私たちは弱いから見ないで信じるよりも見て信じることの方を求めてしまいがち。でも、神はそのような私たちに聖霊を送ってくださり、日々の歩みの中で神の臨在を感じさせ、信仰を与え、永遠の希望に生きる喜びをもたらせた。私たちは必ずこの御国に凱旋する。その日まで、与えられた命を大切に、この地上においても主と共に喜びをもって歩む者とさせていただこう。


# by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:44 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「03度目の油注ぎ

      最初ダビデに油を注いだのはサムエルであった。次にユダ族の王として油注がれ、イスラエル

の王として3度目の油注ぎを受けた。ここに神の約束はついに成就した。それまでのダビデの

歩みは王になるとは思えないほどに過酷を極めた。人間的に見たら諦めてもおかしくない。

B.忍耐強く待ち望む

      神の約束はすぐに成就することもあれば、ものすごく時間がかかるものもある。はっきりして

いることはその約束は必ず成就するということ。時に世代を超えて約束が成就することすらあ

る。大切なことはこの約束の成就を忍耐強く待ち望むということである。神への信頼が必要。

Ⅱ・「おごり高ぶる」

A.エブス人

   ベニヤミン族とユダ族の境界線上であるエルサレム周辺にはエブス人が陣取っていた。この地

域は地形的にも戦略的にも非常に優れた場所にあり、彼らはそれゆえにおごり高ぶっていた。

しかしダビデは思いがけない隙をついてエブス人を捕らえ勝利した。人間的視点の限界。

B.シオンの要害

   確かにエブス人のいた地域は非常に魅力的であった。それゆえに、ダビデもまたこの地を重要

視し、このエルサレムを首都としてダビデの町と呼んだ。人間的に不可能と思えることがたく

さんある。しかし主が共におられ、主がそこに働かれる時、不可能が可能とされる。

Ⅲ・「神だけが安全」

A.本当の安全はどこに

   エブス人は自分たちのいる場所は安全であると信じていた。しかし結果的にはそれは偽りの安

全であった。本当の安全は神にあってのみ与えられる。たとえどんなに強力な守りがあっても、

どんなに優れた文明の利器で守られていても、それらは一瞬で崩れ去ってしまうことがある。

B.明日は神のみ知る

   明日がどのような日か誰もわからない。何となく予想をつけることはできる。その通りになる

こともある。しかし、それらすべて神のゆるしのもとになされている。神の支配こそがすべて

であり、だからこそ神こそ真の安全を持っている。神と共にいることこそが唯一の安全である。

結論:私たちはつい目に見える世界だけを見て、あるいは自分の感覚だけを信じて、それを信頼し、そこに期待する。しかし、私たちが本当に信じ、信頼し、期待すべきは神のみわざである。実際に目に見える世界、耳に聞こえてくる情報だけがすべてではない。むしろ目に見えないことの方が多い。ダビデは神を信じ続け、その時が来ることに身をゆだねた。成就の時は神の時であり、私たちの理想とはかけ離れているかもしれない。しかし、それこそが最善であり、最高の時である。絶対なる神を信頼し、様々な誘惑に負けずに、信じて委ねていこう。


# by ontheway-chapel | 2019-11-14 17:43 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ダビデとサウル」

     A.良好な関係

サウル王はかつてアマレクとの戦いにおいて、聖絶せよと言われた約束を破り、その後サウ

ルはダビデと出会う。精神的に不安な時ダビデはサウルに寄り添い、竪琴を弾いて慰めた。

ダビデはペリシテとの戦いで大活躍をし、イスラエルに勝利をもたらした。良好な関係。

     B.残念な関係

しかし民がダビデを称賛した時サウル王は嫉妬し恐れた。主がダビデと共にいたから。やが

てサウルは明確な殺意をダビデに抱くようになり、執拗にダビデの命を狙った。幾度か和解

したように見えてしかし、実際には残念ながら本当の和解には至らなかった。残念な関係。

Ⅱ・「ダビデとヨナタン」

   A.心が結びつく関係

   ダビデがペリシテを打った後、王子ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。この関係は今

後も続き、サウル王に命を狙われた際にもダビデを守り、逃がす助けを行った。上辺だけの

関係ではなく心と心のつながり。私たちにもこのような素晴らしい恵みが備えられている。

    B.ヨナタンの誓い

   ダビデはヨナタンを通して王の本心を確認した。ヨナタンはそれを正直にダビデに伝え、ダ

ビデを王から守るために逃がした。これは王に対する反逆でもあるが、ヨナタンは王よりも

主に油注がれたダビデを愛し、そこに仕えることを選んだ。主が間に入る関係はすばらしい。

Ⅲ・「王位への道」

    A.ダビデの哀歌

   サウル王と王子であるヨナタンが死んだ。ダビデは大いに悲しみ、哀歌を作った。しかしこ

れにはいくつかの解釈がある。ダビデとサウルの関係、ダビデとヨナタンの関係において、

本当の哀歌と言えるのか。この悲報が結果的にダビデを王への道に推し進めることになった。

   B.神の摂理

   人間ダビデとしてこの哀歌を読んでいくならば、確かに様々な解釈が生まれてくる。しかし、

それは人間が目に見える事実を元に色々と想像しているに過ぎない。大切なことはこれらを

通し神がダビデを王としたこと、その家系から救い主がお生まれになったということである。

結論:哀歌の背後にあるエピソードを見ていくとき、ダビデの本心がどこにあったのかを想像するのはおもしろい。しかし、本当に大切なことは、目に見えてくる事実、私たちの想像の範囲で思わされる想定ではなく、神様が何をなさろうとしておられるのか、神様のご計画にこそ注目すべきであることをこの個所から教えられたい。ダビデは主に忠実であろうとしていた。その主はダビデを王として立て上げようとしていた。そしてその後約1000年後にダビデの家系から救い主がお生まれになる。これもすべて神様の遠大なるご計画であり、私たちは聖書を通してこの遠大なる神の視点を少しでも知って、さらに信頼を重ね確信をもって主に従って行きたい。


# by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:46 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活を分かち合う」

     A.弟子たちに現れた

     弟子たちは最初墓からいなくなったイエスのことを聞き、驚き悲しんだ。また御使いが弟子た

ちの前に現れて本当によみがえられたことを語られた。彼らは最初なかなか復活の事実を受け

入れることができなかった。しかし、イエスは弟子たちの輪の中に入られ、御自身を見せた。

    B.エマオの途上の二人に現れた

     エマオに向かう二人の弟子たちにもイエスは現れた。二人とも最初はそれがイエスとは分から

なかった。最終的に彼らはそれが復活のイエスだと分かり喜びをもってエルサレムに引き返し、

そこでイエスの復活の事実を語り合い、分かち合った。復活の事実は分かち合うことができる。

Ⅱ・「エルサレムから世界へ」

    A.イエスの宣教はエルサレム中心

  イエスの3年にわたる宣教は主にエルサレムが中心であった。それは彼らにまず救い主が到来

したことを知らせるためであり、神の本当の御旨を知らせるためでもあった。しかし、彼らは

イエスを受け入れることができず十字架にかけてしまった。これもまた神のご計画である。

   B.これからの宣教は世界へ

   しかし、今や神の福音はエルサレムにとどまらず、いよいよ全世界へと向けられていくご計画

がはっきりと示された。そのためにも神の福音と救いのご計画、復活のイエスを宣べ伝える証

人が必要であった。それが弟子たちであった。そして現代においては私たちに託されている。

Ⅲ・「キリストの昇天と聖霊を降す神」

   A.弟子たちから離れて行かれたキリスト

  イエスは全世界に福音を告げ知らせる働きを弟子たちに託すと同時に、彼らを助ける働き、助

け手として聖霊を送ることを約束された。そしてイエスは弟子たちから離れて行き天に昇られ

た。10日後ペンテコステにおいて弟子たちには約束の聖霊が降り、世界宣教がスタートした。

  B.喜んだ弟子たち

  イエスが天に昇られたとき、弟子たちは喜んだ。それまでは不安におびえ、イエスが離れてい

くことを恐れていた弟子たちが喜び、神をほめたたえることができたのはなぜか?復活のイエ

スとの出会いが彼らを強くし、希望の光として彼らの心にいつまでも灯されたから。

結論:キリストの復活の事実は多くの人が受け入れ難いとして、否定しようとする。聖書は、弟子たちは、この事実をねつ造したとまでいう。しかし考えてみると、最もイエスの復活を期待もせずに否定し、受け入れられなかったのは弟子たちであった。その弟子たちが、またパウロたちがどうして世界宣教の働き人として幾多の困難、迫害をも乗り越えて、大胆に語り続けることができたのか。それは復活のキリストを体験したから。聖霊の働きによって、その事実を体験し、確信をもってキリストの復活の証人となることを誇りとして語ることに喜びを持つことができたから。私たちも、現代において聖霊の働きを通して、この復活のキリストを体験することができる。そして同じように喜びをもって証人として、福音を語る者として召されている。この使命に生き、喜びと感謝をもって主に仕えていこう。


# by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:44 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊の働き」

     A.すべてを教えてくれる

     クリスチャンはその生涯をかけて学ぶことが求められている。なぜならば、聖霊は私たちが生

きている限り、私たちをより深く、より高みに向かって真理へと導いてくれるからである。そ

して私たちの信仰の歩みにはゴールがない。常に聖霊の働きかけに耳を傾けて導きを求めよう。

    B.思い起こさせてくれる

     聖霊の声に耳を傾けるとき、私たちはいつもイエス様の教えを思い起こすことができる。そし

てその声こそが大切である。しかし実際にはこの世の声、自分の声に耳を傾けてしまいがちで

ある。でもそこに本当の真理はない。喜びも平安もない。本当の喜び平安を求めていこう。

   Ⅱ・「わたしの平安とは」

    A.この世の与える平安との対比

     日々の歩みの中でホッとできる場所、存在を求める。それは永遠ではない。いつか壊され、無

くなる。しかし、聖霊が私たちが生きている限り働いてくれるという永遠を約束してくれてい

る。そこに大きな違いがある。本当の平安に身を置くことができたら、どれほど幸せだろうか。

    B.この平安を獲得するために

     イエスはこの後、十字架へと向かった。それは私たちの罪を赦し、罪の支配から解放してくだ

さるため。つまり罪があっては本当の平安を獲得することはできない。しかし罪が完全に赦さ

れたとき、これからの人生、さらにその先までも平安をもって日々を過ごすことができるのだ。

結論:イエス様の与えて下さる平安は口先だけの約束ではなく、この後、実際にご自身のいのちをもって実行し、約束を確かなものとしてくださった。そしてこの約束を信じ受け入れた時、私たちは本当の平安をいただくことができる。そしてそれはいついかなる時も私たちを支配してくれる。なぜならば聖霊がいつも私たちにイエス様を思い起こさせ、より深くイエス様の教え、想いを理解できるようにと導いてくれるから。この世にも私たちの心を落ち着かせて、安心させる言葉や場所があるかもしれない。しかしそれは一時的なものであり、いつか消えてなくなる。掴んだと思ってもまたすぐに別の何かを追い求めていく。それは本当の平安ではない。しかし聖書の教える平安は一度掴んだら、もう大丈夫。永遠の約束だから。イエス様の与える平安をしっかりといただこう。


# by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:42 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「この世の基準」

     A.誰が一番偉いか

     弟子たちは最後の晩餐において、その座る席から誰が一番偉いのかという議論を始めた。この

世においては、人より偉い立場にあることがその人の評価となる。多くの人は必死に良い成績、

良い地位を求めていく。必ずしも悪いことではないが、別の基準があることを聖書は語る。

B.人間の持つ弱さ

     弟子たちは十字架を目前にしてもなお、この世の基準で物事を見ていた。しかしそれが人間の

持つ弱さであり、これは誰もが持っている弱さである。誰が偉いかだけではなく、様々なこと

でこの世の基準こそがすべてであるかのように生きてしまう。そこに本当の救いはない

   Ⅱ・「天の御国の基準」

A.若い者、仕える者に

     イエスは弟子たちにこの世の基準とは違う、天の御国における基準を示した。これまでも弟子

たちは神の基準とこの世の基準について教えてきた。ここでは人よりも偉くなるよりも仕える

人になるようにと教えた。この姿勢は十字架の前にへりくだる謙遜さがないとできない。

B.聖餐式の必要性

     イエスはこの教えを最後の晩餐において教えた。かつて過ぎ越しの祭りにおいて小羊の血が流

され、イスラエルを救い出した。今やイエスの十字架の血において人類が救い出される。過ぎ

越しが十字架を示したように、十字架の死を祈念する聖餐式は天の御国を指し示している。

結論:今日は聖餐式である。私たちはこの世に生きている限り、どうしてもこの世の基準で物事を判断したり、この世の基準で自分の立ち位置や評価を求めてしまったりする。それが個人を成長させることもあるので必ずしも悪いことではないが、しかし、この世の基準とは違う天の御国の基準があることを知らばければならない。そのために自分の持つ弱さを知り、へりくだって罪を認め、悔い改めて十字架の血潮によって救いにあずかることが必要である。かつては過ぎ越しにおける出エジプトの出来事が民を救い、それがやがて来るイエス・キリストの十字架の血潮による救いを指示していたように、この十字架の死を祈念する聖餐式を通して現代の私たちは永遠のいのち、天の御国における栄光の勝利の食卓にあずかる者とさせられた。この地上において、すでに天の御国を先取りしている私たちは、やはり地上の基準ではなく、天の御国の基準を見据え、イエスの教えのように仕える者として歩んでいきたいと願う。


# by ontheway-chapel | 2019-10-02 16:39 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「頑なな心」

    A.サドカイ派の攻撃

      復活を信じないサドカイ派の人たちは7人の違う人と結婚した女性が、天国では誰がその女性

の夫となるのかと尋ねた。これは復活信仰がいかにむなしく、実体のないものであるかという

ことをはっきりさせたかった。この質問でイエスを困らせ自分たちの優位性を誇示したかった。

B.私たちにもある心

      聖書に書かれていることを信じることが、どれほど愚かなことであるか。或いは聖書に書かれ

ている通りに必ずなるとは限らないとか、様々な状況で私たちは神様の力を見くびり、自分を

中心に据えて生きようとしてしまう傾向がある。こうした頑なな心は誰にでも存在する。

Ⅱ・「相手に寄り添うイエス」

A.論じ合うイエス

   サドカイ派とはどこまで行っても論点がかみ合わない視点に立っていたラビたちは、彼らを正

面から向き合うことを避けていた。しかしイエス様は彼らの復活信仰を否定する、また彼らが

大切にするモーセ律法に証拠がないとする論点と正面から向き合うことをした。

B.相手の土俵で向き合うイエス

   イエスはこうしたサドカイ派に対して、あえてモーセのことばを持ちだして死人の復活につい

て論じていく。これは相手を説き伏せるというよりは、相手が理解できる仕方で話をしようと

する姿である。イエスは頑なな心を持つ人にも寄り添ってくださるお方である。

Ⅲ・「天における恵み」

A.復活の恵みと永遠のいのち

   この地上においては、罪ゆえにすべての人がいつか死を迎える。だから次世代に子孫を残して

いくことが大切となる。しかし復活の恵みによって天の御国において私たちは永遠のいのちを

いただく。そこには死はない。この世的な結婚とか次世代育成という視点は必要なくなる。

B.神に対して生きる

   モーセがアブラハム、イサク、ヤコブの神とこの地上において死んだ者の名をもって彼らの神

と言ったのか。今なお復活して彼らの神である事実がある。神は生きている者の神であるとい

うイエスの言葉には、神に対して生きるという私たちの本来あるべき生きる姿勢が見えてくる。

結論:私たちは今日も生かされている。生きている。私たち神に造られし者が生きているというのは、誰のために何のために生きていることなのか。神に対して、神に愛され、神を愛して生きることである。そう言う視点に立つと、現代において生きていながら、実に本来の生き方から外れてしまっている人がどれほど多いかということを思わされる。またクリスチャンである私たちも、この視点を見失いがちかもしれない。今朝、改めて生きる者の神であると言われたイエス様のみことばをしっかり味わう者とさせていただこう。


# by ontheway-chapel | 2019-08-28 16:40 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ピンチをチャンスに」

     A.金持ちの管理人

      金持ちの家に奴隷として働いていた管理人は、あずかっているお金を浪費していることがばれ

てしまった。彼に残された道は、奴隷として主人から捨てられることであった。奴隷は何とか

して生きる道を探った。大ピンチの中でひらめいたことはチャンスにつながることだった。

B.金持ちの評価

      奴隷である管理人のピンチに対する対応力を見た主人はその抜け目なさに驚きほめた。普通に

考えたら決して褒められたことではない。しかし、イエスはこの譬えをもって何を私たちに、

弟子たちに言いたかったのだろうか?ルカの福音書でも難解な個所から何を学べるのか?

Ⅱ・「うまく立ち回る必死さ」

A.使えるものをすべて利用した

   奴隷は主人から解雇されてもいいように、あらゆる手段をもって自分の生きる道を探った。主

人にも仕えながら、しかしこの世的なお金や人間関係を最大限利用して自分の居場所を求めた。

抜け目なさ、ずる賢い生き方をすることをイエスは求めているのだろうか?

B.しもべから学ぶこと

   しもべは必死だった。人間追いつめられるととんでもない力を発揮することがある。現代に生

きる光の子であるクリスチャンにはこの必死さが足りないのかもしれない。世の人から学ぶこ

とが多くあるのかもしれない。この必死さが教会において発揮されたとき、大きな力となる?

Ⅲ・「これしかないという姿勢」

A.世の人たち

   現代に生きる人たちは、仕事をしつつも余暇をいかに充実して過ごすかも大切にしている。し

かししもべはひたすらに主人に仕えることが求められている。主人以外に自由な時間を、楽し

みを求めることが許されていなかった。二人の主人に仕えることができないということ。

B.光の子たち

   神のしもべである私たちはどのように神に仕えているだろうか?パートタイムだろうか?非

正規雇用だろうか?霊的にただひたすらに主に使える姿勢が求められている。時間と自分の力

のすべてを主におささげできるならば、どれほどの力が発揮されていくだろうか。

結論:イエス様はこの譬えを通して何を伝えたかったのか?私たちクリスチャンよりも、世ほど世の人たちの方が、ピンチをチャンスに変えるために必死である。生きるために必死である。その必死さを光の子たちがこの地上で発揮するとき、教会には大きな力が宿っていくのではないだろうか。この地上のものすべて神のものである。それを用いよう。ただしそこに仕えるためにではなく、自分を喜ばせるためではなく、ただ神にのみ仕え、神に喜んでいただけるように、主の栄光を現せるように、この身をささげよう。ただひたすらに主に仕えよう。私たちは主以外のものも同時に仕えることなどできない。これしかないという献身の思いをもって日々過ごしていこう。


# by ontheway-chapel | 2019-08-23 09:16 | Comments(0)