聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「神の芸術作品」

    A.この世のすべては神の芸術作品

      聖書は「初めに、神が天と地を創造した」とある。この世のすべては神が造った作品である。

そして聖書は「神である主は土地のちりで人を形造」ったと記している。人もまた神の造られ

た作品である。つまり、私たちも大切な神の作品であり「高価で尊い」存在であり、その作品

の構造をのすべてを知れば知るほどに素晴らしい、唯一無二の芸術的な存在である。

B.この作品を大切に

      神はご自身の造られた最高傑作である人間を大切にしている。作品が朽ちて、滅びてしまわな

いように、永遠にその輝きを保てるようにと、イエス・キリストをこの地上に送り、人類を救

おうとされた。神はご自身が造られた人間を愛しておられる。その御子の命と引き換えにして

もである。イエスは私たち人間が救われ、永遠の祝福の実を結ぶために必要なことを説いた。

   Ⅱ・「収穫の秋に」

    A.みことばの種を蒔く

      イエスは蒔かれた種が祝されるために、良い地にみことばの種を蒔く必要を語られた。イエス

4つの地を譬え、種を蒔くことの難しさ、タイミングの重要さ、そして実を結ぶに至ること

の難しさを説いた。それは私たちのかつての頑なな心、無関心の状態であったかもしれないし、

伝道した相手の心の状態かもしれない。

B.収穫は確実にある

      イエスがこの譬えを語った中で、はっきりと語っていることは、確かに蒔かれた種の一部は実

を結ばなかったという事実である。しかし、同時にすばらしい収穫があったという事実がある

ということでもある。私たちが伝道するとき、その多くは失望に終わってしまうかもしれない

が、神は必ず収穫の恵みを備えておられる。忍耐を持って種を蒔こう。収穫は神が成すから。

結論:私たちが伝道しようとしている人たち、まだ神の救いの恵みを知らない人たち、イエス・キリストを受け入れようとしていない人たちはたくさんいる。毎日顔を合わせている家族の中にもいるかもしれない。なかなか思うように伝道ができない。福音を伝えても何ら関心を示さない。それどころか拒絶されたり、変な顔をされたりするかもしれない。しかし、イエスはすべての蒔かれた種がそのような失望に終わらないことを約束している。その実りの収穫は30倍にも、60倍にも、100倍にもなるという。イエス・キリストは私たちに行動することを促している。みことばの種を蒔くことを願っておられる。神の芸術作品を滅ぼすことなく、収穫にむけてできることをしていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:49 | Comments(0)

主題:神の守りは私たちの想像をこえた力をもってなされる。神の主権は永遠であり、私達にも適用される。

本論:Ⅰ・「思いがけない攻撃」

     A.王の取り巻きによる陰謀

      ダリヨス王はダニエルを寵愛していた。それに嫉妬した周囲の者たちはダニエルを陥れるため

に策をめぐらした。何の欠点も見いだせないなか、彼らはダニエルの忠実かつ熱心な信仰を攻

撃することにした。王様以外にいかなる神をも礼拝してはならないというものであった。

B.攻撃に対するダニエル

      ダニエルはそのような禁令が出されたことを知りつつも、いつものように神の前に祈りをささ

げた。ダニエルは決して妥協しなかった。自分が罰せられることを知りつつも、王様よりも、

神様を第一とする生活を変えることはなかった。何があっても揺るがない信仰を身につけたい。

Ⅱ・「勢いを増す攻撃」

A.ダニエルを訴える

   ダニエルを訴えようとしている者たちは、自分たちの計画通り忠実な信仰を持ち続けたダニエ

ルを訴えることに成功した。ここだけみると忠実な者が悪に屈しているかのように思える。い

つの時代も忠実ゆえに周囲から受け入れられず困難をおぼえることがあるかもしれない。

B.王様の心の内

   王様はダニエルを信頼し、彼の信仰の素晴らしさを見てきた。王様の心はダニエルを救いたい

と思っていた。王様ではなく神を第一としていたダニエルであったが、信仰によって王様の心

が変えられつつあった。地の塩、世の光として生きる者への大きな希望、励ましとなる。

Ⅲ・「神による助け」

A.ダニエルを守られる神

   かつてダニエルの仲間3人が燃え盛る炎の中から無事に救い出された。そのことを王が知って

いたかわからないが、ダニエルの信じる神が彼を救ってくれるのではないかと期待した。ダニ

エルはいつもと変わらず王様に丁寧なあいさつをした。王はダニエルの無実を喜んで認めた。

B.私たちを守られる神

   ダニエルを訴えた者たちが逆に処刑された。一見勝利を手にしたかに見えたが、神は神を利用

して悪事を働く者ではなく、神に信頼し共に歩む者を救われた。いつの時代も変わらない事実。

神の主権は永遠に続く。私たちは恐れることなく、神に信頼し続ける信仰をもって歩みたい。

結論:幾多の攻撃、試練が私たちを襲ってくる。人間的に見たら逃げられない、あきらめてしまう、絶望してしまうように感じることもある。しかし、うろたえることなく、いつもと変わらず神を信頼し、神とともに歩むことを選択したい。周囲から見たら愚かで負け組のように見えるかもしれない。自分でもそう感じるかもしれない。しかし、最後には主の守りの中、永遠の主権の中で私たちは勝利へと導かれる。妥協して一時的な勝利ではなく、信仰を貫いて永遠の勝利を目指していこうではないか。その主権は永遠であり、私たちを救い出し、私たちを永遠の勝利へと誘う主に期待して歩ませていただこう。


# by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:47 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の憐みの中で」

     A.憐れみとは

      憐れみとはラテン語で「惨めさ、悲惨」と「心」という二つの言葉で構成されている。ヘブル

語では「内臓」を意味する。他人の苦しみや悲しみを、自分の心の中で深く感じること、母親

がお腹を痛め子どもに対する愛のようなものが憐れみであるという。神の憐みはそれ以上。

B.憐れみを信じる

      神の憐みはすべての人に向けられている。イエス様は苦しみ人や悲しむ人を見て、深く心を動

かされ、まさに内臓に至るほどの深いところで激しい痛みを感じられる。そして、深い憐れみ

をもって私たちに接してくださり、決して見捨てることなく守ってくださるのだ。

Ⅱ・「ダニエルたちを守られた神」

  A.とんでもない試練

   ダニエル達は燃えさかる炉に投げ込まれることになった。しかし、そこから神は必ず救い出し

てくださるとダニエル達は確信していた。どのような試練にあっても決して負けない。なぜな

ら主が共におられ、私たちを守ってくださるからだという信仰がダニエル達を支えた。

B.共におられる主

   ダニエル達は実際に火の中に投げ込まれた。しかし、王はそこに4人の存在を見た。そこには

主が共におられた。私たちの信仰は単なる迷信でも希望的観測でもない。真実である。私たち

は様々なことを心配するが、その先に主の守りがあることを決して忘れないようにしたい。

Ⅲ・「私たちを守り導かれる神」

A.教団を守られる神

   今年で65周年を迎える東京フリー・メソジスト教団の歩みも、決して順風満帆ではなかった。

様々な試練を通らされたと思われるが、主が共におられここまで守り導いてこられた。そこに

はたくさんの信仰の先輩方の祈りがあり、次世代による祈りがさらに積まれていく。

B.教会、個人を守られる神

   そしてこの神は川越教会にも、さらにはそこに連なる私たちにも共にいてくださり、守り導か

れる。だから私たちは決して恐れることはない。信頼して、安心して、主と共に歩み続けよう

ではないか。様々な試練が襲うかもしれないが、主の守りの中にいるならば決して負けない。

結論:主の守りの内に歩むことは、決して簡単ではない。それをはばもうとする様々な試練、誘惑が襲ってくる。時に負けそうになるかもしれない。でも、主に信頼し続けて歩むとき、主は私たちを憐れんでくださり、最後の最後まで守り導いて下さる。それはこれまでも、そして今も、さらにこれからも決して変わることはない。神の守りの中で勝利の歩みを、喜びと感謝の歩みをさせていただく者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-09-27 08:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ネブカデネザルの夢」

     A.神からのメッセージ

      ネブカデネザル王は夢を見た。その内容によって王は心騒ぎ眠れなくなったという。神様から

のメッセージは人の心に深く突き刺さる。しかしその内容を王は理解することができなかった。

多くの人が神からの語り掛けを受けているが、それをただしく受け取ることができずにいる。

B.神は隠される

      神様からのメッセージがもっとわかりやすく、単純であればいいと思う時がある。しかし神は

あえて隠されることがある。神の遠大なるご計画、偉大なるみわざを前に私たちはそのすべて

を理解することはできない。だからこそ、へりくだって神のメッセージを受け取る必要がある。

Ⅱ・「不安と恐れ」

A.真理を求める

   ネブカデネザル王は夢の解き明かしを求めた。神からの語り掛けの意味を知りたいと思う姿勢

はとても大切。自分でわかったようなつもりにならず、真剣に求め、素直に受け取ろうとする

姿勢が大切。神様は今日も私たちに何かを語りかけて下さっているから、しっかり求めよう。

B.真理のない不安

   王は夢の内容がわからず心騒がした。真理がわからない、真理を見出せないことは人を不安に

させる。現代ではその不安を様々なものに転換させてごまかそう、見なかったことにしようと

真理と向き合うことを避ける。そこには不安と恐れがずっとつきまとい平安のない日々がある。

Ⅲ・「ピンチを迎えた時に」

A.王の思わぬ命令

   誰も夢を解き明かすことができないことに王の怒りはバビロンにいる知者すべてを滅ぼすと

いう命令を下した。とんでもない命令が下され、それはダニエル達にも届けられた。思いがけ

ないピンチは誰にでもやってくる。その時、私たちはどう対処するだろうか?

B.ダニエル達はどうしたか?

   ダニエル達は知恵と思慮をもって応対したとある。ダニエルは仲間たちと共にこの危機に対し

て、まず祈りをささげた。自分たちの知恵に頼らず、神に助けを求めた。全知全能なるお方に

助けを求めることは実に理にかなっている。なぜならば神は絶対に間違いを犯さないから。

結論:人生の思いがけないピンチを前にして、多くの人はそのピンチに対してどういう意味があるのか?自分自身とピンチにしか目を向けようとしない。しかし、本当に知恵と思慮に満ちた人は、まず神に目を向ける。そして全能なる神に信頼し、そのお方が解決の方法を教えてくださり、道を示されることを確信して祈り求めたい。ダニエル達はそれを実践した。その時、神はダニエル達の祈りに応え、夢の解き明かしを示された。神に真理を求める時、神はそれを与えて下さる。ピンチの時、神を信頼し、神に目を向けてすべての解決を求めていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-09-20 11:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ザアカイに声をかけたイエス」

     A.仲間を裏切り搾取していたザアカイ

      ザアカイは取税人で。当時、ローマの支配下にあったイスラエルではローマに税金を支払わな

ければなりませんでした。それをザアカイがしていた。ローマの手下のようにユダヤ人からお

金を集め、時には多めの金額を徴収して自分の懐に入れていた。裏切り者として嫌われていた。

B.嫌われ者に目を留めるイエス

      そのようなザアカイを見て、イエスは直接名前を読んで声をかけてくれる。イエスは私たち一

人一人の名前をも知っていて、そのすべての良い点、悪い点を知ってなお声をかけてくださる。

たとえすべての人が嫌い、咲けられているようなどうしようもない存在であっても。

   Ⅱ・「救いがザアカイに来た」

A.搾取する者から与える者へ

      ザアカイはイエスとの触れ合いによって、これまで自分のしてきたことの非を認めることがで

き、それまで搾取する側にいたが、今度は余分に与える者へと変えられた。誰も失敗はある。

しかしイエスとの出会い、触れ合いによって非を認めて新しく変わることができる。

B.ありのままを受け入れるイエス

      イエスはザアカイのありのままを知っていて受け入れてくださった。真珠貝は異物を入れられ

ることによって涙し、素敵な真珠を造りだす。イエスを受け入れることは苦しみを伴い涙する

かもしれないが、思わぬ素敵な輝きを手にすることになる。喜んでイエスを迎えよう。

結論:今、素直になって自分の心に手を当ててみよう。自分自身に正直になって、自分を見つめてみよう。素晴らしいところもあれば、誰にも言えないような痛み、傷、苦しみ、消し去りたい過去、今抱えている罪。色々あると思う。イエスはそのすべてを知っておられる。そのうえで、私たち一人一人の名前を呼んで声をかけてくださる。そのイエスとの交わりに入るならば、私たちの人生は劇的に変化することができる。その過程では辛いこともあるだろう。イエスを異物と感じて吐き出そうとするかもしれない。しかし、イエスを受け入れるとき、私たちの涙とイエスの十字架の血潮とによって、私たちの中に光り輝く信仰の果実が生まれてくる。それは何物にも代えがたい美しいものである。


# by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信念が曲げられる試練」

     A.バビロンによる捕囚

       ダニエル達は、神のご計画のうちにあってバビロンに捕囚の民として連れて行かれることに

なった。それはユダヤ人たち、ダニエル達にとっては受け入れがたい屈辱であり、痛み、苦

しみの試練であったかもしれない。しかしこれは主が主権をもってなされたみわざであった。

B.与えられた場所でどう生きるのか

       渡辺和子さんは思いがけず36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に任命された。本

人にとって願っていたものではなく、若さゆえにおかれた境遇をなかなか受け入れることが

できず苦しんだ。しかしある宣教師のことばで変えられた。置かれた場所で咲きなさい、と。

Ⅱ・「ダニエル達の信仰」

A.何を第一とするのか

    ダニエル達は英才教育を受けるため、優遇され王様の食べるような食事が与えられた。しか

し、それらは異教の神にささげられて汚れたものであった。これらを食することは異教の神

を礼拝すること、偶像礼拝に加担することを意味していた。ダニエル達はこれらを拒んだ。

B.この世的な感覚との戦い

    宦官の長は王様から直々にダニエル達の世話役が与えられていた。ダニエル達の言い分を聞

きつつも、王様からの叱責を恐れためらい戸惑っていた。しかし、ダニエルたちの誠実な願

いを、必死の信仰をみて試すことにした。私たちの必死の信仰の姿勢は人の心に必ず届く。

Ⅲ・「仕える者に応える神」

A.人ではなく神に仕える

    ダニエル達は王様から英才教育を受けるが、宦官長のように王様を恐れるのではなく、神を

第一として神を恐れた。ダニエル達は宦官長の立場を理解しつつ、神に仕えぬくことを選択

した。ダニエル達の信仰は主に仕えるだけではなく、人への配慮ももっていた。

B.神の応答

    結果、ダニエル達は野菜と水だけであったが、他の誰よりも健康に満たされ、誰よりも優秀

な者とされた。神に仕える者は、この世的には貧しい状況に置かれているように思えても、

誰よりも主にあって祝福に満たされる。神に仕える者は神によって用いられていくのだ。

結論:この世の多くの人は、目に見えない神よりも、目に見える人(物や価値)を恐れてしまう。しかし、それでは人からは評価されても、本当の祝福をいただくことはできない。人の評価は移ろいやすく、人の価値観によって左右されてしまう。しかし、神の評価は決して移ろうことなく、この世の価値観によって左右されることなく不変である。ダニエル達は信念をもって神に仕え続けた。そして神はそのような民を決して見捨てることなく、祝福し用いてくださる。私たちもおかれた環境は様々で不平不満を抱くことがあるかもしれないが、それでもなお、神を見上げ、神に仕えることを選択するとき、神はいかなる場所にあっても、決して見捨てることなく、祝福で満たしてくださる。


# by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「パウロの証し」

     A.神の国について証しした

      私たちも証しをするが、それは自ら経験した神体験を確信をもって主観的に語ること。と同時

に、聖書で語られていることが成就したことを客観的な視点を交えて語る。これらが聖霊の働

きによって、私たちの内において一つとされた時、証しは喜びと感動に満ちたものとなる。

B.イエスについて証しした

      パウロには神の国、イエスについて証しするに十分な時間と環境が与えられた。これもまた神

の不思議な摂理のうちになされたみわざである。いつでも、神とイエスについて証しする機会

が備えられているから、いつでも語れる準備と聖霊に導かれた時を逃さないようにしたい。

Ⅱ・「聞き、見たにもかかわらず」

A.人間的な反応

   パウロの証しを受け入れた者もいれば、信じなかった者もいた。これは人間的な素直な反応で

ある。証しを聞いて感動することはあってもそれですぐに信仰へと導かれるケースは決して多

くはない。人間的な感覚だけに頼っているならば、それは当然の反応であるかもしれない。

B.聖霊による反応

   しかし、聖霊が働く時、私たちの常識、感覚、価値観が一気に崩される。心頑なな者の心は一

瞬で溶かされる。同じ花を見て、ただきれいだなと思うのは人間的な反応。そこに神の創造の

みわざを見て感動できるのは聖霊がそこに働いているから。この反応を大切にしたい。

Ⅲ・「神の救いの大転換」

A.ユダヤ人から異邦人へ

   ユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた民であると自負していた。だから異邦人を見下し、

排斥してきた。しかし、今や神の救いのご計画が異邦人に向けられたと宣言された。心頑なに

またおごり高ぶり、福音を受け入れないならば、神の救いはそこからこぼれてしまう。

B.そして私たちへ

   神の救いは全世界へと向けられた。その恩恵を私たちは今受けている。神の救いはごく限られ

た民族、特定の人にだけ向けられているのではない。かつて軽蔑されたような、人数に数えら

れなかったような人にも神の目は向けられていた。私たちにも確かに神の目は向けられている。

結論:かつてユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた誇り高い民族として、他者を見下していた。しかし、聖霊の導きを無視し、心頑なに神の救いを拒絶するならば、その恵みを受け取り損ねてしまう。同時に神の目はユダヤ人だけではなく、全世界に向けられていた。特定の優秀な人、選ばれた民族だけのものではない。全世界が神の救いの対象であり、その愛の目が注がれている。私たちが福音を見聞きしたとき、聖霊の働きにゆだね、自分の思いではなく、心開いて神を受け入れるとき、救いの大逆転が起こる。そのチャンスはすべての人に向けられている。ぜひとも、この恵みを獲得しようではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-08-30 10:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「憐れんでくださいと叫んだ10人」

     A.ツァラアトの苦しみ

      この時代、ツァラアトを患った人たちは祭司から癒されたと宣言されないと、普通の生活がで

きず、人目を避けて辛い生活を送らなければならなかった。いつの時代も、本当に苦しい、辛

いなかを通らされることがある。その中で必死にもがき助け、救いを求める。みんな必死。

B.叫びに応答するイエス様

      ツァラアトを患った人たちの叫びにイエス様は応答された。多くの人が彼らを避けるように生

きている中で、イエス様は目を留めて、彼らの声を聞き応答された。イエス様はどのような境

遇の人であっても、その叫びを聞き、苦しみに寄り添ってくださり、救いの道を示される。

   Ⅱ・「戻って来たひとり」

A.癒された10

      彼らはイエス様に言われたとおりに従った。癒されてもいない段階で祭司のところへ行くこと

はなかなかできない。必死にイエス様に従う時、普通ならば有り得ないことが起こる。常識を

超えたすばらしい出来事が私たちの前にも広がっている。10人のツァラアトは癒された。

B.ただ喜ぶだけか?感謝するか?

      癒された10人のうち、たった一人だけがイエス様のところに戻りひれ伏して感謝した。みん

な喜んだと思うが、イエス様に感謝したのはひとりだった。神のみわざを見てもすごいと感じ

てもその恵みに感謝する人は少ない。クリスチャンも恵みに慣れすぎると感謝を忘れてしまう。

結論:私たちも気をつけないと、戻ってこなかった9人の中に含まれる信仰生活を送ってしまう。ほんの小さなか事に感謝できる純粋な信仰を持っていたい。子どもは小さな出来事に目を輝かせて感動するが、大人はそんなこと知っているとわかったような態度をとる。いつの間にか知識が感動を消してしまう。経験が感謝を奪ってしまう。ほんの小さな喜び、恵みをしっかりと拾い上げる姿勢を忘れないようにしたい。そして、その恵みの源である主に感謝することを忘れないようにしたい。


# by ontheway-chapel | 2018-08-18 10:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「試練の連続」

     A.パウロたちを襲った試練

      パウロは長年願っていた、また主によって約束されていたローマ行きが思わぬ形(囚人)とし

て実現することになった。しかし、船は向かい風で思うように進まず、また季節的にも航行に

危険な状態となっていた。主の道が開かれたと思っても必ずしもスムーズに進むとは限らない。

B.私たちの日常における試練

      私たちの人生も海のように例えられる。向かい風、霧が立ち込め前が見えなくなることもある。

大きな波に自由を奪われ翻弄することもある。時には強い太陽も敵となる。次から次へと試練

が襲ってくる。船は羅針盤や目印となるものを見て進むが、私たちも目印がないと遭難する。

Ⅱ・「試練との向き合い方」

A.謙虚になる

   パウロはこれまでに何度も旅をしてきた。また、徹底して自分ではなく聖霊に導かれる道を選

んだ。その経験をもって航行についてアドバイスをしたが、囚人と言う立場もあって誰も聞く

耳を持たなかった。航海士や百人隊長は様々なプライドが邪魔をして謙虚になれなかった。

B.神により頼む

   結果として、船は大きな痛みを負った。パウロは自分の言うことを聞かなかったことを責める

のではなく、他の人々を励ました。その根拠は神様から託されたみことばであった。パウロは

自分ではなく、神のことばをただ信じ、それを根拠に試練と向き合い、人々を励ました。

Ⅲ・「元気を出そう」

A.神様が守ってくださる

   パウロは神様が必ず守ってくださると約束されたその言葉を信じ、それが成就することを確信

していた。目の前の状況が最悪と思えたとしても、必ずそこから救い出す道を神は用意してい

る。様々な波風、妨害するものが襲ってきても、神が共におられるから私たちは前を向ける。

B.元気の源

   私たちの元気は空元気ではなく、根拠がある。試練を前に絶望している人たちに本物の元気を

与えることができるのが神を信じるクリスチャンのすばらしさ。まず神から元気をいただき、

必要な人に元気を与えることができる。なぜならば、元気の源が全知全能なる神様だから。

結論:試練は誰にも降りかかる。必死にもがいて、がんばって乗り越えていこうとする。しかし、試練は一度きりではなく何度も襲ってくる。自分でがんばろうとするとそのうち人は疲れてしまう。元気の源が自分だと限界があるが、元気の源を神様におく時、そこに信頼し、委ねていくとき、私たちはいつでも主からの元気をいただき、励ましをいただき、みことばをいただき、前を向いてまた一歩踏み出すことができる。そして、自分のことで精一杯になることなく、人を元気にすることもできるようにされていく。「元気を出しなさい。わたしが共にいるから」と主は言われるから、安心して前を向いて歩もう。


# by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:52 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ゆだねる」

     A.パウロの惜別のことば

      パウロはいよいよエペソの教会での働きを終えて導かれる次なる地へ進もうとしていた。おそ

らく二度とエペソに戻ることはないという覚悟が語られた。パウロが伝えたことは伝道につい

て、教会について、そして聖書についてであった。パウロはこの聖書のみことばにゆだねた。

B.何にゆだねるのか?

      エペソの人たちにとって約3年も一緒にいたパウロと会えないのは大きな痛み、損失に思え

た。拠り所を失ってしまうように思えたが、パウロは人ではなく聖書のみことばにすべてをゆ

だねた。人はいつかいなくなるが聖書のみことばは不変であり永遠に失われることが無いから。

Ⅱ・「イエスの教えに生きる」

A.教会を支えたパウロ

   パウロは教会に仕えていたから受けるべき謝礼をもらってもよかった。しかし、まだできたば

かりの経済的にも乏しい教会から受けるのではなく、教会の働いをしながら、同時に自分で働

いて天幕造りをして生計を立てようとしていた。受けるより与える幸いを実践した。

B.みことばに忠実に生きる

   パウロがそのように働いた根拠はどこにあるのか?一部の人たちからパウロがみんなの献金

やささげられた衣服を自分のために使っているという批判があった。しかしそうした批判をか

わすためではなく、イエス様の教えを実践していたに過ぎなかった。みことば中心の生活。

Ⅲ・「教会を建て上げる」

A.祈りによって

   パウロの惜別のことばを聞いたエペソの人たちは、その後パウロと一緒になって祈った。それ

は別れを惜しむ祈りであり、パウロの安全を祈るものでもあった。祈りを聞かれる主はなお、

エペソの教会を愛し、その恵みとみことばと、祈りによって教会をさらに成長させてくださる。

B.キリストの愛によって

   パウロがその生活の中心に据えていたキリストは、パウロと共にエペソを去るわけではない。

エペソ教会の長老たちやその信徒たちと共におられ、彼らを守り、養い、教会の建て上げのた

めに、労してくださる。私たちもパウロのような歩みをしていくとき、教会は成長していく。

結論:パウロは多くのものエペソの人たちに与えた。その生き様を通して、エペソの人たちはキリストに委ねること、キリストの教えに生きること、祈りをもって教会を成長させていくこと。パウロは自ら受けるよりも与える方が幸いであることを実践して見せた。これは世の価値観とは逆のようにも見える。しかし、神の祝福は十分すぎるほどにパウロに注がれた。これこそが、キリスト者が目指す神に喜ばれる生き方であり、それは私たちにとっても喜びに満ち溢れた、最高の人生、幸いなる生き方となっていく。


# by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:50 | Comments(0)