聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「果たすべき責任」

     A.肉に従うこと

       キリストの十字架によって救われ解放された私たちだからと言って、なんでも好き勝手にし

ていいわけではない。責任が与えられた。それは禁欲主義のように聞こえるかもしれないが、

私たちの内にある御霊を自由に働かせることであり、苦しみよりも喜びが勝るものである。

B.聖霊の火を通す

       責任を果たすために、私たちの内に働く聖霊が、外側化入ってくるあらゆる欲や情に対して

勝利してくださる。旧約の時代には神へのささげものは生ではなく、完全に火を通して昇っ

ていく煙だけが受け入れられた。私たちの生き方も、聖霊の火を通したものでありたい。

Ⅱ・「神の子の確認」

  A.御霊に導かれる

    神の子とされるという事実をあやふやに感じることがあるかもしれない。とても不安に感じ

る。そういう時、私たちは御霊に導かれる、という受け身、主導権をすべて主に預けるとい

うことが大切となってくる。神の御霊が私たちを神の子にしてくださるから。

B.アバと呼べる神

    神様とごく親しい関係になるためには、まず自分自身が神の前に砕かれ、主の愛によって罪

赦されるという関係に立ち返ることが必要。表面上ではない、魂の底からの関係がばれたと

き、御霊によって私たちは神を「アバ」と、日本的にはお父ちゃんと呼べる者とされる。

Ⅲ・「苦難の先にある恵み」

  A.神の子とされる前

    私たちが教会に行くきっかけ、神様を求めるきっかけは何だろうか?自分自身の問題、周り

の問題、世の中の問題と向き合う中で、様々な苦難を通り、悩み、うめいているところに、

点におられるお方がその声のところにまで降りてきて、恩寵によって救ってくださる。

B.神の子とされた後

    クリスチャンになっても不自由さをおぼえることがあるかもしれない。神の子とされ神の家

族とされたが、しかし肉的にはまだこの地上にいて、栄光までの中間地点にいる状態。しか

し、先にある希望を確かに握っている。苦難の先にある希望に期待して歩む者とされたい。

結論:聖霊という目に見えないものの働きは、私たちにとってなかなかつかみにくい、実感しにくいものかもしれない。しかし、私たちの内にあって働いてくださり、私たちがクリスチャンとしてこの地上に生きるとき、果たすべき責任を全うさせてくださる。この御霊を自由に存分に働かすことができた時、私たちは心から神の子とされた恵みを実感することができ、より深い神との関係に導かれ、天の神をお父ちゃんと呼ぶほどに親しく、そして全幅の信頼をもって身をゆだねていくことができる。一方でこの世の現実の世界に生きる私たちは、御霊の導きをいただきながらも様々な苦難に遭遇する。しかし、私たちにはその先にある希望がある。御霊によって私たちはこの先にある恩寵を知ることができ、確かなものであると確信することができる。この希望を握って歩んでいこう。


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# by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「主がただ中におられるから」

  1. 心の底から喜び勝ち誇る

    「喜び歌え」「喜び叫べ」「喜び勝ち誇れ」これは決して強制されて与えられる喜びではない。様々な困難が私たちを覆う現実があるが、私たちは無理をしなくとも、心の底から私たちは喜ぶことができ、勝利を誇ることができるようにされる。主が共におられるから。

  2. もう何も恐れなくていい

    「あなたはもうわざわいを恐れない」と主にあって私たちは宣告された。悩み、痛み、苦しみがあったとしても、もうそれらを恐れて下を向く必要はない。なぜならば、主ご自身が私たちを愛しておられ、私たちが喜びの人生を送ることができるように導いてくださる。その主が私たちのただなかにいてくださる。だから安心して、喜ぶことができ、恐れることなく心穏やかに、ほほ笑みを携えて私たち幸いな人生を送ることができる。

   Ⅱ・「主があなたを喜ばれるから」

  1. 主が敵を追い払う

    主は「救いの勇士」であられると記されている。私たちを取り巻く問題と対峙するとき、その大きさに圧倒され時に気力を奪われ、絶望してしまう。私たちの力には限界がある。しかし私たちのただなかにおられる全能なる主が、それらを追い払ってくださる。

  2. 主が回復してくださる

    実際にイスラエルは捕囚の民となる。しかし、主はその民を再び連れ戻して下さり、元通りに回復させてくださる。目の前が真っ暗に感じたとしても、どこにも希望を見出せないと思えても、主が私たちを愛しておられるがゆえに、私たちは回復の道へと誘われていく。主は私たちの存在を喜び、私たちもまたその喜びのみを握って生きることができる。この喜びは地上によってもたらされるものではなく、主によってもたらされるから、永遠に消えることのない本当の喜びである。

結論:この地上にもたくさんの喜びがある。しかし、それらはある日突然奪われてしまうかもしれない、不確かなものと言える。残念ながら多くの人はその喜びを必死に追いかけて生きる。だから時に喜びを失って絶望してしまう。しかし、主がただ中におられるという素晴らしい恵みを知っているならば、この主により頼んで、この主と共に生きることを決心したならば、私たちには本当の喜び、主がただ中におられるゆえに、主が私たちを喜ばれるゆえに、その生涯にわたって、決して消えることのない確かな喜びが私たちには与えられる。そしてこの喜びのみが私たちには最後まで与えられ続けるのだ。


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# by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エルサレムの堕落」

  1. ゼパニヤの時代

    ゼパニヤが活躍した時代はおそらくヨシヤ王の宗教改革の頃に活躍した預言者ではないかと言われている。(エレミヤと同時代?)ゼパニヤとは「主は隠された」という意味があることからも、表に出て預言したエレミヤに対し、ゼパニヤは神が隠された預言者となるか。

  2. 神から離れた民

    この時代、イスラエル(ユダ)では特に上流階級と言われた宗教指導者たちの堕落、腐敗が顕著であった。また異教の風習が国内に入り霊的姦淫、宗教的無関心が蔓延し、神から離れていく民が増えていった。そうしたなかでゼパニヤは民の滅亡を語り、悔い改めを迫った。

Ⅱ・「神のさばき」

  1. イスラエルへのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへの神のさばきが必ず訪れること、そしてその恐ろしさについて語っていく。悔い改めを迫る一方、その可能性については消極的であり、さばきの日が避け難いことを悟っていたかのようにイスラエルのさばきを警告していく。

  2. 周辺諸国へのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへのさばきと同時にペリシテ滅亡への預言を語っていく。しかし同時に回復の希望も語られている。イスラエルは周辺諸国を見て教訓を得ようとしなかった。私たちも聖書を通して神のさばきの厳しさを見ている。だからこそそこから教えられたい。

Ⅲ・「民を救われる神」

  1. 一つとなる

    堕落した国の中にあっても、それでもけなげに信仰を守り通そうと熱心に歩んだ者たち(残りの者)がいた。時代にあって、その風潮に流される方が簡単で楽しいかもしれない。しかしいつの時代も熱心に歩んだ者たちがいたからこそ、神の救いの恵みが明らかにされてきた。

  2. 神の救いに与る

    民の努力で救われるのではない。あくまで神の恩寵によることを忘れてはいけない。自分で自分をきよめることはできない。神が主権をもって救ってくださる。そしてそれはイエス・キリストの十字架によって成就された。それを信じられるよう聖霊を備えてくださった。

結論:いつの時代も神を恐れず、神に背を向けて自分の快楽、自分の信じる道を探求しようとする人がいる。その生き方の方が充実して自分らしいと感じるかもしれない。しかし、その先にはむなしさと滅びしかない。神は、そのような堕落したもの、罪に気付かないままに覚えていく人を何とかして救いたいと願っている。神がそのイニシアチブを握っている。神に主権がある。私たちは自分で自分を救うことはできない。罪を贖うことはできない。神はイエス・キリストをもって私たちに救いの道を示し、聖霊をもって私たちにこの事実を知らせ、信じることができるようにと促している。次週はペンテコステ。この聖霊の働きに思いを寄せる1週間とさせていただこう。


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# by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:45 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「先が見えない恐怖」

  1. 神からの約束

    神は堕落した南ユダ王国を滅ぼすと語られた。そして神のさばきの器としてカルデヤ人(バビロン)を用いることを約束された。また、その器であるバビロンも神の手によって滅ぼされるという。ハバククは最初は抗議したが、この神の約束を受け入れ、従うことにした。

  2. 目に見えない恐れ

    私たちは明日がどうなるかわからない。それだけに、不安になることもある。その恐れをどのように取り去るのか?ある人は虚勢を張り自力で突破しようとし、ある人は誰かに助けを求め、それが叶わないと諦める。先が見えないということは大きな恐れや不安を与える。

Ⅱ・「静かに待つ」

  1. ハバククの場合

    ハバククは先が見えない恐れに対して、どのように向き合い解決しようとしたか?それは祈りであった。ただ静かに、神に信頼してひたすらに祈った。目に見える現実、目に見えない恐れ、あらゆるものではなく、ただひたすらに神だけに目を注いで祈ることに専念した。

  2. 私たちの場合

    私たちも神に信頼して祈る。信じて待つが時にその結果を見たくて、つい神から目を話して現実(祈りの結果)を見ようとする。そして一喜一憂してしまう。それは神の約束に対して、完全に従いきれていない状態といえるかもしれない。神の約束・保証を喜ぶ信仰を持ちたい。

Ⅲ・「神にあって喜ぼう」

  1. 神の恵みを喜ぶ

    ハバククは神が約束したさばきに対して、恐れを抱き震えつつも、神の約束(バビロンもまた滅ぼす)という絶対的な神の正義に思いを寄せて喜びを抱く。目の前が真っ暗で、どこに神の解決が、救いがあるかわからないとしても、神の保証を信じ、必ず成就すると信じたい。

  2. すべての喜びの源

    すべての権威をもっておられる神様は、私たちをいかようにもすることができるが、信じ従うならば、決して見捨てず、滅ぼさず、救いへと誘われる。神は私たちの全てである。すべての喜びが神から溢れ出てくる。私たちはこの喜びを満喫できる恵みをいただいている。

結論:祈っても、祈っても、何の答えも与えられない。自分の思い願う良い結果が得られない。神様を信じているけれども、現実は私が破滅へと導かれているかのように感じる。そのような辛い時がある。先が見えない、目に見える結果が出ないとき、不安は恐れが私たちを覆うことがある。しかし、そのような時、自力で頑張るのではなく、また諦めてしまうのでもなく、ハバククのように神を信じ、静かに祈り、待つ姿勢を大切にしたい。神は、私たちと共におられ、最善のみわざをもって私たちを愛し、守り、導いてくださる。神の約束、保証、恵みを信じひたすらに従う道を進もうではないか。すべてを主に明け渡した時、私たちの喜びの源が、私たちの全てが神から溢れ出ていることを知り、真の喜び、感謝を味わうことができる。


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# by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:43 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ハバククの疑問」

  1. ハバククという人物

    預言者ハバククという以外は詳細は記されていない。ハバククとは「からみつく」「抱きつく」と訳すこともできる。ハバククはユダの世界にはびこる悪とそれを見過ごす神に抗議し(からむ)とことん神と向き合い(抱きつく)、信仰をもって従って生きることを求めた。

  2. 悪が支配しているように見える世界

    実際にこの時代、南ユダ王国は神の律法を重んじる姿は薄れ、宗教的道徳は崩壊に向かって堕落していった。国内では対立による内紛、国外からは厳しい干渉を受け、神の民イスラエルの栄光はどこに行ったのかという有様。悪だけがのさばり、悪だけが繁栄している世界。

Ⅱ・「神の応答」

  1. カルデヤ人を用いられる神

    ハバククのどうしてこのような悪を神は見過ごしているのか?という問いに対して、神は、決してこの状況を見過ごすのではなくこの不義と王望に満ちたユダに対し、カルデヤ人を審判の器として用いて、バビロンによるユダへのさばきが行われていくことを明らかにされた。

  2. 神の応答に対するハバククの訴え

    この神の答えに対するハバククは、そのバビロンもまた不義な器ではないか、と抗議する。正しくない者が、同じく正しくない者の審判の器として用いられることは果たして正しいことなのかと訴える。どうして神はそのようなことを許されるのか。いつの時代にも同じ疑問が私たちを覆っているように思える。

Ⅲ・「信仰をもって従う」

  1. 義人は信仰によって生きる

    いつの時代においても、悪がのさばり正しく謙虚に生きる者が損をしているように見えることがある。そうした曲がった時代だからこそ、揺るがない信仰をもって生きることだけが、義人が生きうる唯一の道であると神は語る。信仰に生きることこそが私たちを守る手段。

  2. アーメン(その通り)と生きる

    ヘブル語で信仰とはアーメン(その通り)と同じ言葉として使われる。つまり、真実、誠実であることこそが、神の御前において正しいと認められる。神中心の信仰。人間の側に救いの根拠は見出せない。神中心に生きるとき、その人の人生は喜びと栄光と勝利を得る。

結論:ハバククの生きた時代も、現代も同じ問題が私たちを包み込む。なぜ神はこのような時代、腐敗した状態をお許しになっているのか?いつになったら彼らはさばかれるのか?むしろ彼らの方が栄えているように見える。確かにこの世に焦点を当てて、この世を基準に見たらそうした矛盾とぶつかる。しかし、神に焦点を当てて、神を基準に物事を見ていくとき、私たちの人生の本当の正解が見えてくる。何が本当の喜びか、何が本当の幸せか。信仰によって生きる者とされた時、その答えは自然と見えてくるのではないだろうか。


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# by ontheway-chapel | 2018-04-17 09:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活のイエスと出会う」

  1. イエスとの再会

    弟子たちにとってイエスの死は大きなショックであり、絶望を示すものであった。また同時に自分たちの危機をもたらすものでもあった。そのような時にイエスの復活を聞き、指示された山へ向かいそこでイエスと再会した。復活のイエスとの再会が彼らには必要だった。

  2. 一切の権威がある

    復活のイエスは自らについて天においても地においても、一切の権威が与えられていると言われた。私たちが信じ、従うお方は天においても、地においても絶対の力を持っておられる。このお方が私たちに託した願いに私たちは耳を傾け、全力で従っていきたい。

   Ⅱ・「イエスの願い」

  1. 大宣教命令

    当初の宣教の場はイスラエルの境界内に限定されていた。救い主の十字架と復活が成就したいま、ついにその制約は完全に取り払われて、宣教の場は全世界へと広がった。これは、当初からのご計画の通りであり、聖書の各所にグローバルな宣教の視点をみることができる。ワールドビジョン、素敵な名前である。私たちも広い視野をもっていきたい。

  2. いつも共にいます

    弟子たちはイエスの大宣教命令を聞いてどう感じただろうか?途方に暮れたかもしれない。現代に生きる私たちにとっても、福音を語り一人の人を救いへと導くことはものすごく大変である。私たちでは力不足で不可能と思われても、主が共におられるから大丈夫なのだ。

   

結論;私たちに託された責任は、時に大きすぎて私たちには負担と思えることもある。無理と感じることもある。しかし、死をも克服されたお方と私たちが出会う時、私たちは絶望の淵から立ちあがり、前に進む力をいただくことができる。一切の権威を持つお方が私たちに託した責任に対して、私たちは全力で従っていきたい。神のご計画は最初から全人類の救いにあった。聖書は至る所で神のグローバルな視点をダイナミックに語っている。そしてその成就として私たちもいま、救いの恵みに与っている。しかし、私たちがゴールではない。私たちに託された責任を果たしたい。それにはあまりに障害が大き過ぎると感じるかもしれない。でも、私たちには復活の主がいつも共におられ、助けてくださる。必要な力を、助け人を、語る言葉を惜しげもなく与えて下さる。だから、感謝と喜び、そして自信をもって世に出て行こうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2018-04-12 17:56 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活に対する理解」

  1. 聖書に記されている事実

    マタイは週の初めの朝にこの復活の出来事が起こったと記している。大きな地震があり、御使いが現れた。墓に埋葬されているはずのイエスはよみがえられたので、そこにはもういなかった。その後マリヤ達は復活の主に出会った。彼女たちは喜んだが、疑った者たちもいた。

  2. 多くの人が抱いている疑問

    当時も、また現代においてもイエスの復活の出来事に対しては様々な疑問が語られている。死んだ者がよみがえるはずなどないとして、実は死んでいなかった節、聖書にもあるように遺体の強奪説なども語られる。いずれにしてもイエスの復活は我々の想像を絶する出来事。

Ⅱ・「イースターの捉え方」

  1. この世的視点

    イースターという言葉を最近よく聞くようになった。あちらこちらで便乗しているかのような宣伝を聞く。しかし多くの人はイースターの意味をなんとなくしか知らない。興味関心もない。自分にとって本当に大切な必要なものであると知らないから。楽しい行事のひとつ。

  2. クリスチャン的視点

    クリスチャンにとってキリストの復活は、信仰の土台でありすべてであると言っても過言ではないほどに大切。これが真実でなければ私たちの信仰はいとも簡単に崩れ落ちてしまう。釈迦尊の骨が全世界に祭られているという。キリストの骨はない。復活されたから。

Ⅲ・「復活の恵みを味わおう」

  1. 私たちの喜び

    死というものは人生の終わりを告げるもので、誰でも避けたく、怖いものである。しかしキリストはその死に打ち勝った。それゆえに、キリストを信じる者たちもまた、この復活の恵みに与り、永遠のいのちが与えられる。これに勝る希望、勝利はない。それをいただいた。

  2. 私たちの喜びをすべての人たちへ

    イースターを祝う行事が増えてきた。これはチャンスでもある。なぜイースターが全世界で祝われているのか?キリストの復活がすべての人の喜びとなるから。私たちだけがこの喜びを味わうのではなく、すべての人がこの素晴らしい喜びを味わい共に祝えるように願う。

結論:イースターの出来事、キリストの復活は多くの人にとって戸惑い、受け入れがたいものである。弟子たちでさえすぐには信じられなかった。復活の出来事は理解することではなく信じることで、この恵みを獲得することができる。この信仰は生きている。生きた信仰をもって、イースターを喜び祝いたい。そして、さらに多くの人たちと喜び祝えるように、宣教の使命を握って歩んでいこうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2018-04-03 09:59 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「すべて神のご計画通りに」

  1. くじを引いて分けた

    十字架刑に付き添ったローマの兵士は期せずして詩篇2218に記されている通り、イエスの着物を取り去りくじを引いて分けた。これはイエスの十字架が人々の思惑通りに行われているのではなく、神の遠大なるご計画の内に成されていることをはっきりと示している。

  2. あざけり罵られた

    イエスは道行く一般の人々、祭司長ら宗教指導者たち、そして囚人に罵られ、嘲りを受けた。これもまた詩篇2278に記されている通りであった。人々は自らの思い通りに事が進み、勝利を喜んだかもしれないが、本当の勝利は目の前で嘲られ、罵られたイエスのものだった。

     

Ⅱ・「神にのみ従ったキリスト」

  1. 十字架から降りなかった

    もしお前が神の子ならば、自分で自分を救ってみろ、十字架から降りてこいと人々はイエスに言った。イエスはそれをすることも可能であった。しかし、あえて簡単な道ではなく、苦しく辛い道を選択された。十字架から降りていたら私たちはイエスを信じられただろうか?

  2. 神に完全に見捨てられた

    神のご計画は、イエスを十字架から不思議な、偉大な力を持って降りることを人々に見せることによってその栄光を現そうとはしなかった。むしろ最後まで神のご計画通りに十字架にとどまり、完全に死ぬことが神のご計画であった。人々ではなく、神のご計画が優先される。

Ⅲ・「キリストの視点に生きる」

  1. サタンに打ち勝つ人生

    私たちは神はどうして御子を見捨てて、十字架上で死に渡されたのか?もっと別の方法で栄光を現すことはできなかったか?と思ってしまいがち。しかしそれはまさにあの荒野での誘惑そのものである。サタンは巧みに私たちを誘導する。それは勝利から遠ざける働きである。

  2. 人の力ではなく愛を見よう

    ユダヤ人たちが期待したことは、イエスが不思議な力を持って、また神の軍勢を用いて十字架から降りることであったかもしれない。人々はイエスの力を見ようとした。しかし、イエスは十字架上から人々に犠牲の愛を通して神の救いのご計画見せた。私たちは何を見るか?

結論:もし、イエス様が十字架から人々の求めるように降りることができたら、人々は果たして本当にイエスを救い主として信じるだろうか?少なくとも現代に生きる私たちは十字架から降りたキリストではなく、十字架にとどまったキリストを信じる。目先の勝利ではなく、永遠の勝利に生きたイエス様の歩みこそ、私たちは真実を見出すことができる。私たちにとっての十字架はイエスの力ではなく、無力さのように見える背後にあって、神の愛を示し、そのご計画に完全に従いきった真の勝利の象徴である。この朝、もう一度私たちの救いのために成就されたキリストの十字架を思い、感謝をもって応答していこうではないか。


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# by ontheway-chapel | 2018-03-29 11:02 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「静まりを求めたイエス様」

  1. パレスチナから出たイエス様

    ユダヤ人が住む地域ではどこに行ってもイエス様の後を追う人で混雑していた。そのため、静まるためにはパレスチナの地域外に行くしかなかった。ユダヤ人たちは異邦人と接することを嫌っていたので、さすがにそこまで追いかけるユダヤ人はいなかった。

  2. 心備えの時

    イエス様と弟子たちがそこまでして人々から離れようとしたのは、いよいよ十字架の時が近づいていたからであり、イエス様はそのために特に弟子たちのために静まり、心備えるための時を必要としていたためである。それは逃避ではなく心備えのための行動であった。

Ⅱ・「異邦人の女性とイエス様」

  1. カナン人の女

    しかしここでもイエス様のことを知って近づいてきた女性がいた。彼女には重病の娘がいた。そこで真剣に助けを求めた。イエスは最初女性と距離をとろうとした。しかし、弟子たちはあまりにしつこいために何とかしてほしいとイエスに頼み、この女性を追い返すよう願った。

  2. 犬と呼ばれた女

    当時、ユダヤ人たちは傲慢にも自分たち神に選ばれし民であるユダヤ人以外の異邦人を「犬」と呼んで侮辱した。犬とは野良犬で道に捨てたごみをあさる不潔な犬。しかしイエス様は小犬と呼んだ。そこにイエス様の愛を見ることができる。それは野良犬ではなく愛玩犬の意味。

Ⅲ・「立派な信仰の女性」

  1. 愛と信仰を持っていた

    この女性は娘のことを何とかしたい、助けたいという子どもの苦しみを自分のものとする愛を持っていた。また、イエス様を最初は人間として恩恵を求めて近づいた。しかし、イエスに触れた時、彼女の信仰はイエスを主と呼ぶ、生ける神に対する信仰へと変えられた。

  2. 礼拝した

    この女性は最初イエスの後を追いかけた。やがてひざまずいた。必死の願いが、祈りに変わっていった。イエスのもとに行き、主の栄光を賛美し、そこに最大限の信頼と忍耐が育まれていった。単なる期待から、唯一の希望としてイエスを礼拝した。これらが立派な信仰となる。

結論:イエス様の元にやってくる人には、様々な動機があるだろう。実にこの世的な願い事を持ってくる人がいるかもしれない。本当に切なる願いをもってやってくるかもしれない。特に期待もなく、気が付いたらイエスの元にいたということもあるかもしれない。しかし、いずれもイエスと出会い、そこに本物を見出すことができた時、その人の心は大きく変えられる。イエスに期待し、唯一の希望を見出し、そこに生きる確信をいただく。だからこそ、その人の人生は愛と希望と喜びに満ち溢れた幸いなものとなっていく。


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# by ontheway-chapel | 2018-03-22 17:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「誰もが持っている弱さ」

  1. 他人に厳しく自分に甘い

    イエスの元に来た律法学者とパリサイ人は一人の女性の罪を訴え出た。一見すると立派な正義感あふれる行動に思える。しかし、彼らの律法に対する熱心さは他人に対してのものであり、自分自身には向けられていなかった。人のことは見えるが自分の欠陥は見えにくいもの。

  2. イエスを試そうとした

    律法学者とパリサイ人が女性をイエスの元に連れてきた動機は、イエスを試そうとしたとあるように不純なものであった。それに対するイエスの答えは実にすばらしく、ぐうの音も出ないものであった。人の弱さ、策略をいとも簡単に解決するイエスのすばらしさをみる。

   Ⅱ・「解放されるイエス様」

  1. 女性を解放された

    姦淫の罪で連れてこられた女性は、イエス様とであったことで罪から解放された。人間同士が誰かをさばくことはできない。その権威をもっておられるのはイエス様だけ。そのイエス様が女性を解放された。イエス様の元に女性が行ったとき、この女性の罪は解放された。

  2. 私たちをも解放される

    私たちも同様に、イエス様の元に行くとき罪から解放される。それは罪だけではなく、すべてのしがらみからも解放される。ただ天を見上げ、喜びと感謝と平安に満ち溢れた日々を送ることができるようになる。イエス様の十字架の恵みによってそれが可能となる。

結論:多くの人は自分で必死にがんばって、努力して自分の弱さを克服しようとする。しかしそこには限界がある。人が他人の罪を裁けないのと同じように、自分の罪も裁けないから。様々な困難に対しても同様にである。すべての物事の解決をイエス様の元に持っていくとき、そこに真実の解決があり、私たちはそうした問題、困難から完全に解放される。イエス様だけが私たちの進むべき道を開いてくださるお方。このお方に信頼して歩んでいこう。その人生は最高に素晴らしいものとなる。
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# by ontheway-chapel | 2018-03-12 15:27 | Comments(0)