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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「ローマのある百人隊長」

     A.百人隊長の姿勢

      この百人隊長は自分のしもべに対して実に温かい心を持っていた。本来しもべは道具のように

扱われていた存在。一人が死んでもすぐに次のしもべを用意すれば済む話であった。にもかか

わらず、重病のしもべのためにできる精一杯のことをしようとした。

    B.百人隊長の信仰

      彼の信仰は実に驚くべきものであった。彼は自分自身の経験、置かれている状況を理解し、そ

れをもとにイエスと自分との関係を見ることができた。ただイエスのことばによる権威のみで

すべてのみわざが実行されることを知っていた。忠実な隊長でありしもべでもあった。

Ⅱ・「イエスの反応」

  A.寄り添うイエス

   イエスは百人隊長から遣わされた長老たちの熱心な話を聞いて、すぐに動かれた。イエスは私

たちの熱心な願いを聞いてくださり、弱さを覚えている人を見捨てることなく寄り添ってくだ

さるお方である。イエスはいつも私たちと共にいてくださり、すぐに動いてくださるお方。

  B.驚いたイエス

   イエスは百人隊長のことばを聞き驚いた。このような立派な信仰はイスラエルの中にも見たこ

とがないと。それほどイエスを驚かせた百人隊長の姿勢、信仰は、神の福音がユダヤ人にとど

まらず、イスラエルから全世界に出て行く無限の可能性を秘めていることを教えてくれる。

Ⅲ・「最高の権威の下で」

  A.世にある権威

   百人隊長もローマという権威の下にいた。そして自分自身にも権威が与えられ、兵隊やしもべ

たちを管理する側にあった。多くの人はこの世の権威の中で生きており、そのなかで必死に生

きている。しかしこの権威は時に揺らぎ、時にあっけなく崩れ、やがて消滅する。

  B.最高の権威

   百人隊長はこの世の権威にも目を留めつつ、しかし本当に権威ある者がどこにあるかを知って

いた。そしてそこに従うこと、信頼することを信仰をもって実践した。ピンチにおいて最高の

権威ある者に頼った。我々もこの世に生きているが、最高の権威ある方を見つめていたい。

結論:神の福音の力は特定の一部にだけ働くのではない。イエスの宣教はイスラエル、ユダヤ人に向けられていたが、ここで世界宣教の可能性、神の救いのご計画の広がりを確かに見ることができる。そしてそれは今日、私たち日本にも届けられている。福音は国家や民族、文化や宗教を超えて届けられる。なぜならば、最高の権威を持つお方による福音であり、この権威の前にすべてが支配されており、この権威によって世界中すべての人が救いの対象とされているからである。この素晴らしい恵み、福音を世に伝えていこう。


# by ontheway-chapel | 2019-08-15 16:01 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「病と罪」

    A.中風を患った人

      イエスの時代、ある人が病になったとき、それはその人が罪を犯したからと考えられていた。

であるから、罪が赦されたときその病も癒されると信じていた。罪を自分で解決することはで

きない。だからこそ、この人は絶望の淵に立たされていた。残されるはそのまま死ぬのみ。

B.彼を運んできた人

      この場面においてイエスは病の人を運んできた彼らの信仰を見て罪の赦しの宣言がなされた。

これは現代においても起こり得ることではないだろうか。本人がどう思っていようとも、周り

の人の熱心な祈りがその人に変化をもたらす。私たちはそこに希望をもって祈り続けたい。

Ⅱ・「罪の赦しを宣告したイエス」

  A.イエスの宣言

   イエスは友人らの信仰を見て「友よ、あなたの信仰は赦されました」と宣言した。その後「寝

床をたたんで家に帰りなさい」と命じた。患者にとって罪の赦しなしに病の癒しは考えられな

かった。この順番が大切。先に罪赦されたから病の癒しを信じて立ちあがることができた。

B.どちらが簡単か

   あなたの罪は赦されたと言うことは簡単であり、その患者を完全に癒すことは難しい。イエス

は実際に癒すことで罪を赦す権威をもっていることを示した。私たちの言葉も時に行動によっ

て示さないと偽善やむなしさだけが残ってしまう。愛を口にしても実行することは難しい。

Ⅲ・「律法学者たちの反応」

  A.彼らの根拠

   律法学者たちにとってイエスの言動は非常に不快なものとして響いた。彼らは罪を赦す権威が

神にあることを知っていた。しかしイエスが神の御子であることには気づけなかった。確かに

神を冒涜するならば、死刑に値する罪であったが、そこにしか目が向けられていなかった。

B.あと一歩

   律法学者たちは目の前でイエスの罪を赦す権威、病を癒す権威を直接見た。罪を赦すことがで

きるのは神のみであると知っていながら、イエスを神と結び付けることができなかった。日々

神の驚くべきみわざを見ていながら多くの人はそこに神を見ることができないのである。

結論:私たちの信仰は目に見えないお方を信じる者である。神の憐みと恵みによってしかなしえない。理屈ではない世界であるかもしれない。しかし、実際に目で見ていたとしてもそれを受け入れることができない現実もある。驚くべきことを見たという人であっても、本当に心砕いて、開いて、主を受け入れなければ、罪赦されて救われることはない。それは決して簡単なことではない。では私たちには何もできないのだろうか?この場面でイエスの許に病人を連れてきた人の信仰かイエスを喜ばせ、罪の赦し、病の癒しが宣言された。私たちも、イエスの許に友人を連れて行く。あるいはその人をおぼえて、イエスのみわざがなされるよう祈り続けることはできる。その先に驚くべきことを見ることができるのである。


# by ontheway-chapel | 2019-08-15 16:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「悪霊に取りつかれた人」

   A.悪霊と病

       当時、精神的に錯乱したり、長い間病に伏せていたりしている人は悪霊に取りつかれている

と思われていた。そのため、周りの人は必死に悪魔祓いをしてその人から悪魔が去ることを

祈った。もちろん現代においてもそうした事実があるかもしれない。何を見るかが問われる。

B.会堂に現れた悪霊

       悪霊は会堂に来て、神の働きを攻撃することがある。教会に行けば必ず安心ではない。いつ

いかなるところにおいても、私たちは信仰の武具をまとい、油断せずに神様との関係を保つ

よう努めていきたい。主のおられる所に悪霊は長くいることができない。

Ⅱ・「悪霊を滅ぼしに来たイエス」

A.何をしようとしたのか

    悪霊はイエスが何をしようとしていたか知っていたという。私たちはイエスの目的に注目し

なければならない。目に見える結果だけで判断してはいけない。悪霊を追い出したイエス様

の権威。力強さ。悪霊に勝った負けたの事実だけではなくその背後にある真の姿を見たい。

B.悪霊をしかりつけたイエス

    イエスは悪霊をしかりつけた。イエスは人を癒す時、様々な方法を用いる。その手段にばか

り目が行きがちであるが、大切なことはイエス様のみこころである。だから結果だけにとら

われず、イエス様のみこころにこそ従う思いをもって様々な問題と向き合いたい。

Ⅲ・「イエスの権威」

A.悪霊だけが気付いたイエスの真の姿

    この場面で気づくことは悪霊のことばである。悪霊だけがイエスの目的、真の姿に気づいて

いた。私たちを滅ぼしに来た聖者であるという。多くの人は人々を悪(罪)から救い出す救

い主とは気づかず、この力を持ってローマからの救ってくれる存在として見た。

B.悪霊を退けたイエス

    イエスは悪霊を退けたが、その人は何の害も受けなかったという。これがイエス様の方法。

イエス様は私たちを守り、傷つけないで悪から救い出してくださる。信じるだけで私たちの

痛みをすべて負ってくださった。神のみことばを握っているならば、私たちは守られる。

結論:この世には悪が蔓延している。それは私たちを不安に押しやり、信仰を揺るがせ、神の愛から、イエスの十字架から私たちを引き離そうと仕向けてくる。しかし、恐れる必要はない。なぜならば、イエスの御力は悪魔よりもはるかに偉大である。その権威は絶対である。だから私たちは、このイエスの権威と御力を認め、そこにより頼むことが大切である。イエスは悪魔を含めて一切の悪霊に打ち勝つことができる。イエスと神のみことばをしっかりと握りしめて、悪魔に惑わされず、勝利の道を目指していこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-07-24 17:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「思いがけない誘惑」

   A.アダムとエバへの誘惑

      悪魔の誘惑は実に巧妙である。弱さに働くこともあれば、強さに働くこともある。アダムとエ

バは悪魔の誘惑に見事に引っかかり、罪を犯してしまった。私たちも誘惑に乗っかってしまう

ことがある。アダムは神から隠れてごまかそうとした。私たちはそのようであってはいけない。

罪を認めて悔い改める姿勢を忘れてはいけない。

B.イエスさまへの誘惑

      悪魔はイエスをも誘惑した。なぜイエスがこのような誘惑を受けなければならなかったのか。

誘惑はすべての人間が経験するものである。イエスが完全な人間として私たちの受ける誘惑を

理解するためである。また、この罪の誘惑に完全に勝利する必要があった。このイエスの勝利

によって私たちも罪の支配から解放された。

   Ⅱ・「誘惑に勝つために」

A.私たちは?

      私たちは誘惑に対して自分の努力や忍耐力で立ち向かおうとするとき、そこには限界がある。

アダムとエバが誘惑に負けたように、私たちも負けてしまうであろう。一方で誘惑を受けるこ

と自体が問題でないともいえる。試みられているのは誘惑に対する私たちの行動に対する動機

である。神様の御旨に従う動機なのか、自分の思いを満たすことが動機になっているのか?

B.イエス様は?

      イエスは悪魔の誘惑に対して、神のみことばをもって抵抗した。しかしサタンもまた神のみこ

とばを知っており、みことばを持って巧妙に誘惑してくるかもしれない。神のみことばをより

有効に用いるためには、神への絶対的な信頼が必要である。そのためにイエスは日々神に祈り、

すべての誘惑を退けた。イエスは最後まで神のご計画である十字架に向かって忠実であった。

結論:私たちは必ず誘惑を受ける。これは避けて通ることはできない。それだけに常に備えていなければならない。サタンに打ち勝つために、剣であるみことばを携えておく必要がある。サタンを攻撃できる唯一の武具である。イエス様はそれによってサタンを退けた。しかし、イエス様はサタンに勝利し退けたが、サタンが完全に滅んだわけではない。現代もなお私たちに迫って来る。イエス様を模範として、強くありたいと思う。そのために、神のみことばに信頼し、神だけを礼拝し、信頼して従っていこうではないか。サタンは実に巧妙に迫って来る。しかし、私たちにはイエス様がいつも共におられ、守ってくださる。己の弱さ、限界を認め、イエス様に助けを求め、共に歩む者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-07-20 19:33 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「すべてを支配される神」

   A.サウルへのお取扱い

      サウルは謙虚さを失い、神ではなく自分を中心に据えて王として振る舞った。それは傲慢であ

り、神を退ける行為であった。そのサウルに対して神は主の霊を離れさせた。神様がサウルを

王として選ばれたが、神様はイスラエル最初の王をこのように取り扱った。私たちもまた、神

様と共に歩んでいながら、神様を退けてしまうならば、同じように取り扱われるかもしれない。

B.災いの霊を用いる神

      主の霊が離れ、サウルに主からの災いの霊がもたらされた。サウルはこれによりおそらく精神

的な病を負わされたか、悪霊により苦痛が与えられ、心身ともに非常に不安定な状態に苦しん

だ。神は全能なるお方でありすべてを支配されている。悪霊をも用いて民をさばかれることが

ある。この神を退けることがどれほどのあやまちであるかをここからも教えられる。

   Ⅱ・「主のご計画」

A.ダビデを王とする

      サウルがイスラエルの王として堕落していったとき、神は新しい王をサムエルに示し、ダビデ

に油注ぎを命じた。最初からダビデではなく、サウルが最初に立てられたことにも意味がある。

主のご計画は実にユニークであり、想像に富んでいる。その一面しか見ないならば、到底理解

することができない。だからこそ日々主との交わりを大切にし、主のご計画に敏感でありたい。

B.ダビデをサウルのもとへ送る

      次の王となるダビデはサウルのもとへと送られた。サウルの癒しのためにダビデと竪琴を主は

用いた。サウルはダビデに感謝し信頼したが、後に嫉妬にかられダビデを殺そうとする。ダビ

デは王となるまでに多くの試練を通された。これも主のご計画にある。思いがけない不当な扱

いを受けることがあるが、主のご計画のうちにある時そこに平安と希望を見出すことができる。

結論:主のご計画のすべてを私たちは知ることができない。だからこそ、時にそのご計画のうちにあることで翻弄され、苦しみを感じ、神を見失ったり、疑ったりしてしまう。しかし、主のご計画のうちに従って歩むならば、私たちの人生は主の最善によって守られ、必ずその恵みに満たされて幸いにして最高の生涯を送ることができる。大切なことは主のご計画をしっかりと受け止め、すべてを理解できないが、信頼して従っていくことである。サウルはそれを退けた。私たちは退けることなく、主と共に歩み続けていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2019-07-09 15:11 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「使命を授ける主」

    A.神様のご計画に従う

      神様は私たちにビジョンを与えるお方。それは人それぞれ違う。だから比べる必要もない。他

人の目を気にする必要もない。ただ粛々とそのご計画に従う。そのためのルーティンを見つけ

よう。神様のご計画に従うことが習慣になった時その人の人生は間違いなく幸いなものとなる。

 B.すべて最善であることを知ろう

      神様から与えられるご計画は、時に私たちにとって喜ばしくない、受け入れがたいものである

可能性もある。しかしそこに従うとき、その先には主の最善による祝福が待っている。神様と

の関係において間違いはないし裏切りも失望もない。自分が先立つとそれらが揺らいでしまう。

Ⅱ・「主のことばを退けた」

A.主があなたを退けた

   サウルはアマレクとの戦いのなかで主から語られた聖絶せよ、とのことばを守らなかった。そ

れは主の最善よりも自分たちの最善を選んだから。しかも神を欺きサムエルを持欺いた。これ

は神や神に仕える人を退ける行為であり、完全に自分が中心に立ったことを証明した。

B.退けなかったら

   サウルが神を退けたから主もサウルを退けた。言い換えると、私たちが神を退けなければ、主

はずっと私たちと共にい続けてくださる。サウルは様々な言い訳をしながら、自己保身をし続

けた。罪を犯したと言いながら真実の悔い改めをしなかった。その逆を生きる者でありたい。

Ⅲ・「神を利用する」

A.主と共に歩む

   サウルは神様を利用して自分の私腹を肥やしやりたいようにした。それは神を利用する非常に

危険極まりない行為。自己実現のために神に祈ることもあるかもしれないが、大切なことはそ

こに神の栄光が現され御名がほめたたえられること。自分の栄誉のためではない。

B.人を利用する

   サウルはサムエルをも利用し、さらにイスラエルの民からの面目も保とうとした。神と人を利

用して自己満足だけを求めた。そういう生き方ではない、神と共に歩む、神をほめたたえ、主

の喜ばれる歩みをするならば、神は私たちを大胆に用いてくださり主の栄光が現されていく。

結論:サウルを反面教師として私たちが主と共に歩み続けるために何が必要なのかを教えられたい。サウルは主のことばを退けた。私たちが主のみことばを、主からのビジョンを退けることなく、従い続けるならば、主は必ず私たちを見捨てることなく守り祝し続けてくださる。また神を利用し、人を利用して己の栄光を誉れを求めることなく、己をもって主の御名があがめられ、その栄光が現されることに人生の目的を置くならば、主はその方を大いに用いてくださる。そしてそのような歩みができる喜びに私たちは包まれ、さらに楽しい、幸いな人生を送ることができる。


# by ontheway-chapel | 2019-07-02 08:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「誠実でなかったサウル王」

     A.ヨナタンの手柄を横取りした

      イスラエルとペリシテの戦いが本格化していくなか、その前哨戦のような戦いにおいてヨナタ

ンが大活躍した。しかしその手柄をサウルは横取りしてしまう。当時王様が部下の手柄を自分

の手柄として誇ることは普通であったが、神に仕える身としてはふさわしい姿ではなかった。

B.小さなことに忠実に

      たった一つの失敗が後に取り返しのつかないことに発展することがある。小さな罪を見つめな

い人は、徐々に感覚がマヒしていき、気が付いたら罪の虜になってしまうこともある。サウル

は王となり徐々に謙虚さを失っていった。私たちも小さなことを大切にしていく者でありたい。

Ⅱ・「何を見るのか」

  A.ペリシテの反撃

   イスラエルは前哨戦に勝利したが、ペリシテは大軍を率いてイスラエルに反撃してきた。イス

ラエルは大軍を見てパニックに陥った。目に見える敵の大きさと自軍を比較して恐れた。しか

し彼らには全能なる主がついていた。問題や困難を前にして何を見るのかが問われる。

B.サウルの失敗

   この現実を前にサウル王も焦った。サムエルの言いつけを守れず、また神の最善を求めず、自

分で問題を打開していこうと己に頼った。形としては神を礼拝し、神の導きを求めていながら、

実際にはそのやり方も含めて、神優先ではなく、自分勝手な納得する形を選んでしまった。

Ⅲ・「失敗を認めない」

  A.言い訳をしたサウル

   サムエルから間違いの本質を指摘されたとき、サウル王は素直に自分の非を認めようとせず、

仕方なかった、特別な事情があったと言い訳をした。私たちも同じようなことをしてしまう。

しかしそれは神の前において不従順であるかもしれない。大切なことは素直に認めること。

B.弱さと向き合う

   サウルはいろいろな者の間に挟まれて辛かったかもしれない。しかし、そう言う時だからこそ

神に従うべきであった。サウルはすでに謙虚さを失い、神ではなく自分を頼りにしていた。少

しのほころびが破滅へ向かうきっかけとなる。自分の弱さを素直に認め取り扱っていただこう。

結論:私たちは誰もがサウルのような失敗をしてしまう。ここから教えられることは私たちはピンチに陥った時、焦らされる状況に追い込まれたとき、本心が浮き出てくる。しかし自分の中から沸き起こってくる感情に押し流されるのか、全能なる神様の助けに身をゆだねるのか、導きを求めて従うのかが問われてくる。目の前の状況がたとえどんなに困難で、今すぐ対応が必要だとしても、まず神様に助けを求める習慣を身につけたい。神様は弱い私たちを放置せず、見捨てもせず、必ず守ってくださり、助けてくださる。失敗を認めるなら、それを赦してくださり、その傷を癒してくださる。


# by ontheway-chapel | 2019-06-24 17:18 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「王様を求めたイスラエル」

     A.神ではなく身近な人に頼る

      神は目に見えない存在であるだけに私たちは時にその存在を遠くに感じたり、存在そのものを

疑ったりしてしまう。そして神の不在による孤独を感じる時、つい目に見えない神ではなく目

に見える存在を頼ろうとしてしまう。イスラエルは神よりも身近な王を立てることを選らんだ。

    B.周囲の成功に思いを寄せる

      当時イスラエルの周辺の国々は王制を敷いていた。そしてそれによって強力な軍をもち、戦い

に勝利していた。イスラエルはそれまで神に頼り、祈り、そして神に信頼して戦っていたが、

周りの成功に目を奪われ、自分たちも王制を敷けば強くなると期待してしまった。

Ⅱ・「立てられたサウル」

   A.聖霊が下ったサウル

   サウルに主の霊が下ったことが聖書に記されている。しかし、そのような者が後に悪事を働く

ことになる。大切なことはその聖霊の導きにしっかりと身をゆだね、従うことである。しかし

それをおろそかにし、退けるならば聖霊もまた去って行くということをサウルから学ぼう。

 B.謙虚だった?サウル

   最初にサウルはくじで王様に選ばれたとき、荷物の間に隠れていたことが記されている。様々

な人物像(謙虚、荷物番程度の人物、忠実に番をする)が挙げられていたが、謙遜な姿勢はと

もすると自分への疑い、自信のなさを現すこともある。後のサウルが垣間見えるかもしれない。

Ⅲ・「何を拠り所として生きるか」

   A.目に見える世界

   日々生活をしているとき、私たちは目に見える世界を中心に物事を考える。もちろんそれも大

切なことである。イスラエルは過去に働かれた神様のみわざを知っていながら、目に見える世

界を拠り所として生きることを選択した。現代の多くの人もまた同じ生き方を選択している。

 B.目に見えない世界

   現代の多くの人が目に見えない神を押しのけて、目に見えるものを手にすることに必死である。

そしてその目に見えるものこそに人生を託そうとしている。私たちはそのような生き方ではな

く、目に見えない神、聖霊の働きにこそ信頼し、人生の拠り所を見出して歩んでいきたい。

結論:
目に見える世界は華やかであり、魅力的である。でもそれだけがすべてであるならばそれらはいつか消えてなくなる。しかし、目に見えない神は永遠であり、決して朽ちない。裏切らない。目に見えないだけにその存在を疑い、見ようとしない、求めない。私たちはイスラエルの失敗から、サウルの失敗から、目に見えるものだけではなく、見えないものにこそ信頼して生きることの大切さを教えられるお互いでありたい。


# by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:23 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「罪を犯した女」

     A.罪を指摘した人

      律法学者とパリサイ人たちは自分たちこそ正しいと自負していた。人の不正、欠点、罪を指摘

するとき、自分こそが正しいと思う傾向は誰にでもある。実際にはどうだろうか?私たちも他

人の欠点はよく目につきやすい。しかし意外と自分のことは見えないのではないだろうか。

    B.指摘した人たちの思惑

      女性を利用して実際にはイエスをさばこう、殺そうと考えていたのが律法学者やパリサイ人で

あった。誤った正義が救い主をも抹殺しようとしていた。恐ろしい勘違いである。この女性は

実際に罪を犯した。誰もが罪人であるならば誰もがこの女性のように扱われるかもしれない。

Ⅱ・「罪を赦したお方」

   A.罪の自覚

      イエスは「罪のない者から石を投げるように」と答えた。それを聞いた律法学者たちは年長者

からその場を離れて、誰も石を投げなかったという。彼らはここで初めて自らの罪と向き合う

ように導かれた。果たして誰も罪のない者がいなかった。誰も人をさばくことなどできない。

   B.イエスの赦し

      イエスはここで女性に「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた。イエスは罪を一切犯さ

なかった唯一の人である。にもかかわらず罪に定めない。あなたの罪を赦すことのできるお方

である。罪を自覚してイエスに出会うとき、私たちはその罪をイエスによって赦されるのだ。

結論:
私たちは他人の罪を見つけることは簡単だが、自分の罪を見つめることは難しい。気づいてもなかなかそれを認めたくない。しかし、自分の罪を正直に認めることができた時、その先、どうしたらこの罪が赦されるかを思うことができるようになる。その時、罪を赦してくださるお方と出会うことができる。これまでの人生を大きく変える出会いがそこにある。人の罪を気にして、人の欠点を見つけて、自分は正義であるかのように生きていた人生が、自分の欠点ばかり気にして、自分はダメな人間だと生きてきた人生が、このお方と出会うとき、すべて赦されそうした窮屈な人生から解き放たれる。なぜなら、イエスがあなたを罪に定めない、とおっしゃってくださるから。


# by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:21 | Comments(0)

本論:
Ⅰ・「敗戦の原因を暴くサムエル」

     A.自らの罪を認める

       先の戦いにおいて、イスラエルはペリシテに敗戦した。エリの二人の息子は戦死し、エリも

また死んでしまった。さらに契約の箱まで奪われてしまった。結果取り戻すことはできたが、

それは神の一方的なみわざによるものであり、イスラエルはまだ罪と向き合っていなかった。

    B.偶像を取り除く

       サムエルはイスラエルに向けて、心を尽くして主に帰り、偶像を取り除き心を主に向け、主

にのみ仕えるならば、主ご自身がイスラエルをペリシテから救い出される、と言った。ここ

で初めて、彼らは先の敗戦が偶像を見上げ、主により頼まなかったことを示された。

Ⅱ・「祈りをささげるサムエル」

   A.悔い改めの祈り

    サムエルは士師であり祭司でもあった。彼はイスラエルの罪を民に知らせ、主に悔い改めの

祈りをささげた。これこそが、イスラエルに最も必要とされていたことであった。大切なこ

とは今何が必要であるかを主から聞き、それを素直に受け入れ速やかに実行することである。

  B.祈りをやめない

    ペリシテ軍が再び攻めてきた。イスラエルはそれを知って恐れた。前回は敵を前にして契約

の箱のゆえに彼らは強気になれたが、己の罪を知っていただけに、イスラエルは恐れをおぼ

えた。彼らはサムエルに祈りをやめないでくれと頼んだ。主に頼るように変えられていた。

Ⅲ・「祈りに応える神」

   A.叫びを聞かれる神

    サムエルは叫びをやめなかった。そして全焼のいけにえをささげた。主はその叫びを聞かれ、

敵を蹴散らした。主は私たちの必死の祈りを聞いてくださる。大切なことは私たちが祈りを

やめない、叫びをやめないことである。最後まで主に信頼し、期待を持って祈り続けよう。

  B.神をほめたたえる

    イスラエルの民は神の偉大なるみわざを体験した。神の守り、神の強さ、真実な祈りに応え

てくださる神を知った。彼らは主の良くしてくださった事を忘れないようにした。この姿勢

が大切。主は日々私たちに奇しいみわざをなして導いておられる。毎日が記念日である。

結論:
ただやみくもに叫ぶだけではなく、明確な意思をもって主に祈りたい。真実な神様に向かって、こちらもまた真実な姿をもって祈りたい。神はその私たちの祈りを聞いておられる。そして時にかなって応答してくださる。それは私たちにとって都合がいいか悪いかではなく、主の最善がなされる形での応答である。私たちはそれこそが主のみわざと信じ、そこに従って歩みたい。そしてその主の良くしてくださった数々のみわざを決して忘れないようにしたい。その感謝の積み重ねが、私たちをさらに主に近づけ、主に喜ばれる歩みへとつながっていくのである。それこそが、私たちの人生を豊かにする最大の秘訣である。


# by ontheway-chapel | 2019-06-21 10:19 | Comments(0)