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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「呪われたいちじくの木」

     A.解読が難しい

      この箇所は非常に難解であり、私たちの常識に照らし合わせて読むと、理解不能である。まず

イエス様が非常に怒りっぽいというか、自分の都合によってそのみわざをなしたことである。

どのような誘惑にあっても、十字架を前にしても自分の都合で奇蹟をなさらなかった。

B.時期的にも理解不能

 この時期は過ぎ越しの季節であり、季節としては4月中旬であっただろうと思われる。しかし

いちじくの木が実をつけるのは、5月後半から6月であると言われている。いちじくの実がな

らなくておかしくないのに、イエスはそれに対して怒り呪われたことになる。なぜ???

    

Ⅱ・「山をも動かす信仰」

A.弟子たちの反応

   弟子たちはイエスが呪われた木が枯れているのを見て驚いた。しかしイエスはそれに対して、

「神を信じなさい」と伝え、祈りの法則について教えられた。それは時代を超えて私たちに祈

りの素晴らしさを伝えてくれる。山をも動かすお方への信仰の祈りを実践していきたい。

B.主に期待する

   主に不可能な過去とは何一つない。しかし主の御心こそが第一であり、最善である。私たちの

祈りは期待に満ちたものであるかもしれないが、それは自分への期待ではなく、主の最善がな

されることへの期待を失わないように注意したい。主の最善こそが私たちの最善である。

Ⅲ・「イエスを受け入れなければ枯れてしまう」

A.イスラエルへの警告

   イエスが到来した時、救い主を待ち望んでいたはずの神に選ばれしイスラエルの民は、それを

受け入れることができなかった。いちじくの木はイエスがそこにやってきたとき、実を結ばな

かった。そして枯れてしまった。私たちもイエスを受け入れるチャンスを活かしたい。

B.実を結ぶ歩みへと

   いちじくの木は我々の常識に沿って、イエスの到来を前にしても実を結ぶことができなかった。

私たちはいつ、イエス様が到来してもよいように、いつも実を結ぶために備えている必要があ

る。自分の都合、常識ではなくイエス様に合わせた生き方こそが、実を結ぶ生き方となるのだ。

結論:私たちの生活はこの世を中心に回っているかもしれない。もちろん、この地上に生きている以上、それは当然のことである。しかし、私たちは時にこの世のすべての常識を覆してでも、世に逆らい、世を離れて、イエス様をお迎えし、実を結ぶ準備を怠ってはならない。そして、その時が来たとき、いつでも応答できるように備えていたい。イエス様はそのために必要なこととして神を信じなさい、と言われた。そして祈りの大切さを教えられた。日々の祈りを通して、主の最善こそが私の最善であると信じ、期待して祈り続ける歩みをして生きたい。そのような歩みをしているならば、私たちは決して枯れることがない。


# by ontheway-chapel | 2018-11-28 19:06 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ヘロデヤの問題」

     A.罪と向き合えない

      バプテスマのヨハネはヘロデ一家のねじ曲がった婚姻関係が間違っていることを指摘した。特

にヘロデと兄弟ピリポの妻であるヘロデヤとの関係を指摘していた。ヘロデはこのことでヨハ

ネを拘束していた。しかし、ヘロデヤは自らの問題と正しく向き合うことができなかった。

B.耳に痛いものを排除する

      自らの問題を指摘されたヘロデヤがしたことは、ヨハネを恨み、そのような耳に痛いことを語

る存在を消し去ることであった。私たちも褒めてもらうことは素直に受け入れても、間違いを

指摘されることはなかなか素直に聞き入れることは難しい。そうした声は聞き流そうとする。

Ⅱ・「個人的な感情に生きると」

A.ヘロデヤの要求

   ヘロデヤはヘロデの誕生日という機会を利用して、娘のサロメに祝宴の場で躍らせた。本来、

娼婦の仕事であるにもかかわらず、ヘロデのご機嫌を取るために策を設けた。そして見事に褒

美の約束をいただき、ヨハネの首を目の前に差し出すことを要求することに成功した。

B.ヘロデの弱さ

   ヘロデはヨハネを拘束しつつも、彼の誠実さを尊敬していた。ヨハネの鋭い指摘を恐れつつも、

彼の話を聞くことに喜びをもっていた。みんなの前で褒美の約束をしてしまったゆえに、サロ

メの要求に応えなければいけなくなった。自分の保身だけを顧みた浅はかな弱さがあった。

Ⅲ・「真理のために生きる」

A.偽りよりも真実を

   当時権力を握っていたヘロデ一家に対して避難を公然と語ることは、とても勇気のいることで

あり命がけでもあったが、ヨハネは悪事を見て見ぬふりをすることができなかった。それは個

人的な正義感ではなく、主の前に悪であるからであり、真実に生きることを選択した姿である。

B.神の目に正しい選択を

   様々な問題と向き合う。それは他人の問題もあるし、自分自身の問題でもある。人の問題は比

較的指摘しやすいが、自分の問題と向き合うことは難しい。また時に問題の指摘には勇気が必

要となる。どうしたら正しく生きることができるのか?ただ神を基準にして判断すること。

結論:自分の問題を指摘されたとき、素直に受け入れがたいかもしれない。相手を恨むかもしれない。しかし、黙して神と向き合う時、何が正しいのか、どうすべきかが見えてくる。個人的な感情だけに従うならば、その選択は大きく間違えることがある。しかし、真理のために、神の目に最善を求める時、私たちが本当にすべきこと、向き合うべきこと、生きるべき道が見えてくる。ヨハネは生涯をかけてそのような生き様を私たちに見せた。私たちもヨハネに倣って生きる道を目指していこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-11-22 17:40 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「郷里から驚かれたイエス様」

     A.会堂で教えを聞いた

      イエス様は郷里に戻り、そこで安息日に会堂で教え始めた。イエス様の教えを聞いた人たちは

驚いたという。おそらくこれまでに聞いたことのないような、深い知識と洞察に満ちた教えを

語られたことだろう。人々はその教えを確かに聞き、驚いたが、それ以上ではなかった。

B.力あるわざを見た

      郷里の人たちは、イエス様がなさったみわざを直接見た。少数の病人を癒したと書かれている

が、何ひとつ力あるわざを行わなかったとも書かれている。みわざを見たり、教えを直接聞い

たりしても、人々の心は閉ざされたままであった。何が心を閉ざしていたのか?

     

Ⅱ・「郷里で尊敬されないイエス様」

A.大工ではないか

   人々の心を閉ざしていたのは、イエスは大工であるという視点であった。郷里の人たちにとっ

てイエスは独りの人であり、いち労働者でしかなかった。彼らの目は本当の意味で開かれては

いなかった。外見だけをみて、本質を見ることなしに物事を判断してしまわないようにしたい。

B.マリヤの子ではないか

   イエスは30歳になるまで郷里で生活をし、家族を支える働きをしていた。郷里の人たちにと

ってイエスはそれだけ身近な存在でもあり、それだけの存在であった。近すぎて、その素晴ら

しさを見つけることができなかった。家族伝道の難しさをここからも教えられる。

Ⅲ・「不信仰を打破する」

A.不信仰の現実

   イエスの家族はイエスが身近すぎて、先入観もあってイエス様の本当の姿を見ることができな

かった。目の前にイエス様がいても、そこで何を見聞きしても心が閉ざされていては信じ受け

入れることができない。癒しを拒む者に医者は何もできない。これが不信仰である。

B.使命に生きる

   決して諦める必要はない。イエスは郷里から離れて救われる魂を求めに出て行った。それは神

の使命に生きる姿である。私たちもその時できることに一生懸命でいたい。その先に神の時に

かなって美しい働きがある。諦めず、イエスの働きを助ける歩みをしていこうではないか。

結論:私たちはイエス・キリストの働きに参画し助けることができる一方で、その働きを拒否し妨げることもできるという、大きな責任を負っている。人々の心の扉を開き、不信仰を打破し、一人でも多くの人をイエス様の元へ届けたい。最も身近な家族は、それゆえに難しさをおぼえるかもしれない。イエス様でさえ苦労し、驚かれた。しかし、イエスの弟はやがて救われ素晴らしい働きをした。諦めず、神様から託された使命に生きるお互いでありたい。神は時にかなって、ふさわしい方法で私たちの祈りを聞かれ、家族を救いへと導いて下さることに期待していこう。


# by ontheway-chapel | 2018-11-14 16:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「初穂となられたキリスト」

     A.復活の初穂

      パウロはキリストの復活がなかったら、すべてがむなしいと言った。しかし、実際にはキリス

トはよみがえられたという事実に着目していく。キリストの復活が、キリストに連なる民を導

き、復活の恵みが私たちに確かな約束となって与えられた。キリストの復活が道を開いた。

B.アダムの死から

      多くの人は死を恐れる。なぜならば、その先がわからないから。あの世という漠然とした表現

でそこに行けると何となく期待している。死はすべての人にある。しかし、キリスト者は死の

先にある確かな天の御国を見ることができ、永遠の希望に満ちた死を迎えることができる。

Ⅱ・「終わりが来る」

A.この世の支配の終わり

   私たちは何に支配されているだろうか?この世の価値観、この世の権威…しかし、それらはや

がての日には全く意味をなさなくなるという。なぜならば、この世のすべてを支配されている

お方がおられ、その支配の内に滅ぼされていくから。目に見えない方の権威に従うことが大切。

B.キリストの支配

   聖書には「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置く」とある。そしてその支配は、

死をも支配する。つまり、私たちにとっての恐怖である死をも完全に支配され、死に勝利され

るという。たとえ今、キリストの教えに逆行するものが支配しているように思えても。

Ⅲ・「万物の支配者」

A.すべて神のもとにある

   万物がキリストのもとにある。「神が、すべてにおいてすべてとなられる」と聖書にある。神が

全宇宙の支配者であるという。この事実とキリストの復活が、私たちの最大の恐れである死を

飲み込むほどの力となって、私たちをも勝利へと導かれる。万物を支配する神に従いたい。

B.私たちもこの恵みに与る

   万物を支配されるほどのお方は、私たちを愛しておられる。死に飲み込まれ滅んでいくことを

見過ごされなかった。神の愛と憐みの恵みの内にあって初穂となられたキリストに次いで、天

の御国に行くことが約束されている。だから、死んでも生きる。天国でみんな再会できる。

結論:天国にどうしたら行くことができるか?イエス様の十字架の贖いの死を信じること。そして死からよみがえられた復活のイエス様を信じ受け入れること。神様が私たちに天国行きのチケットを渡す時に、確認することである。これさえあれば、間違いなく天の御国へ行くことができる。そして先に召された方々は、このチケットをいただいて、天の御国へと旅立った。私たちもいつの日か、そこに行くことができる。そしてもうこの地上では会うことができないが、天の御国において再会し、永遠のいのちが与えられた中で、共に喜び、感謝に満ち溢れて主を賛美することができる。


# by ontheway-chapel | 2018-10-31 17:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪を認める祈り」

     A.私の主と呼べる関係

       クリスチャンは神に向かって私たちの父なる神様、主と呼べる神に向かって祈ることができ

る。それは神が愛と憐みに富み、寛容な心で私たちとの関係を持ってくださるから。ごく親

しい親密な関係でい続けてくださるゆえに、身近に神を感じて祈ることができる。

B.とりなしの祈り

       ダニエルは「私たち」と自分を含めたイスラエル民族の罪を告白している。これはイスラエ

ル民族のためのとりなしの祈りともいえる。自分は正しいから、ではなく、最も正しく歩ん

でいる者でさえ、誰よりも罪を認めて神の許しを求めて祈っている姿に教えられる。

Ⅱ・「神の憐みを求める祈り」

A.憐れみと赦しは神のもの

    ダニエルは真実に罪を認めて、悔い改めつつも、不信の罪による神のさばきの正当性を認め

た。すべての主権が神にあることをダニエルは知っていた。そのなかで現状からの救いを必

死に祈りつつ、罪の赦しを神の憐みにすがるしかないことを認めて神に求めた。

B.神の時を見定める

    ダニエルはすべて神の支配の内に行われていることを確信していた。だから、イスラエルの

罪に対しても、わざわいを下されたのがこの時であると受け止めることができた。自分本位

で罪の赦しを請うのではなく、さばきも赦しも神の時にあることを私たちも受け入れたい。

Ⅲ・「神に訴える祈り」

A.必死なる祈り

    かつてイスラエルはエジプトから救い出されたように、今度も神の愛と憐みの中で私たちを

救い出してくださいと懇願した。今やイスラエルは崩壊寸前であった。今こそ、主ご自身の

ために御顔の光を輝かせてください、とダニエルは神の祝福と顧みを必死に祈った。

B.心からの訴え

    ダニエルはこの祈りの目的が自分たちの正しさによって自分たちの祈りを聞いてください

と訴えているのではなく、自分たちはと覆い隠すことのできないほどの罪を犯している事実

を認め、ただあなたの大いなるあわれみによってのみ、赦しを訴えている。

結論:私たちも日々祈ることができる。その祈りをそれぞれに振り返ってみよう。自分の願うことばかり訴える一方通行の祈りになってはいないだろうか?神は私たちの訴えを聞いてくださるお方であると同時に、語りかけてくださる神でもあり、時にかなって実行してくださる神でもある。神からの語りかけをしっかり聞く祈りをしようではないか。その真実のやり取りの中で、自らの罪を認め、憐れみと赦しを慕い求め、切なる訴えをしていくダニエルのような祈りをしていきたい。神は私たちの祈りを聞いてくださり、語りかけてくださる。私たちも聞き、その導きを信じ、委ねていこう。


# by ontheway-chapel | 2018-10-22 09:53 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の芸術作品」

    A.この世のすべては神の芸術作品

      聖書は「初めに、神が天と地を創造した」とある。この世のすべては神が造った作品である。

そして聖書は「神である主は土地のちりで人を形造」ったと記している。人もまた神の造られ

た作品である。つまり、私たちも大切な神の作品であり「高価で尊い」存在であり、その作品

の構造をのすべてを知れば知るほどに素晴らしい、唯一無二の芸術的な存在である。

B.この作品を大切に

      神はご自身の造られた最高傑作である人間を大切にしている。作品が朽ちて、滅びてしまわな

いように、永遠にその輝きを保てるようにと、イエス・キリストをこの地上に送り、人類を救

おうとされた。神はご自身が造られた人間を愛しておられる。その御子の命と引き換えにして

もである。イエスは私たち人間が救われ、永遠の祝福の実を結ぶために必要なことを説いた。

   Ⅱ・「収穫の秋に」

    A.みことばの種を蒔く

      イエスは蒔かれた種が祝されるために、良い地にみことばの種を蒔く必要を語られた。イエス

4つの地を譬え、種を蒔くことの難しさ、タイミングの重要さ、そして実を結ぶに至ること

の難しさを説いた。それは私たちのかつての頑なな心、無関心の状態であったかもしれないし、

伝道した相手の心の状態かもしれない。

B.収穫は確実にある

      イエスがこの譬えを語った中で、はっきりと語っていることは、確かに蒔かれた種の一部は実

を結ばなかったという事実である。しかし、同時にすばらしい収穫があったという事実がある

ということでもある。私たちが伝道するとき、その多くは失望に終わってしまうかもしれない

が、神は必ず収穫の恵みを備えておられる。忍耐を持って種を蒔こう。収穫は神が成すから。

結論:私たちが伝道しようとしている人たち、まだ神の救いの恵みを知らない人たち、イエス・キリストを受け入れようとしていない人たちはたくさんいる。毎日顔を合わせている家族の中にもいるかもしれない。なかなか思うように伝道ができない。福音を伝えても何ら関心を示さない。それどころか拒絶されたり、変な顔をされたりするかもしれない。しかし、イエスはすべての蒔かれた種がそのような失望に終わらないことを約束している。その実りの収穫は30倍にも、60倍にも、100倍にもなるという。イエス・キリストは私たちに行動することを促している。みことばの種を蒔くことを願っておられる。神の芸術作品を滅ぼすことなく、収穫にむけてできることをしていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:49 | Comments(0)

主題:神の守りは私たちの想像をこえた力をもってなされる。神の主権は永遠であり、私達にも適用される。

本論:Ⅰ・「思いがけない攻撃」

     A.王の取り巻きによる陰謀

      ダリヨス王はダニエルを寵愛していた。それに嫉妬した周囲の者たちはダニエルを陥れるため

に策をめぐらした。何の欠点も見いだせないなか、彼らはダニエルの忠実かつ熱心な信仰を攻

撃することにした。王様以外にいかなる神をも礼拝してはならないというものであった。

B.攻撃に対するダニエル

      ダニエルはそのような禁令が出されたことを知りつつも、いつものように神の前に祈りをささ

げた。ダニエルは決して妥協しなかった。自分が罰せられることを知りつつも、王様よりも、

神様を第一とする生活を変えることはなかった。何があっても揺るがない信仰を身につけたい。

Ⅱ・「勢いを増す攻撃」

A.ダニエルを訴える

   ダニエルを訴えようとしている者たちは、自分たちの計画通り忠実な信仰を持ち続けたダニエ

ルを訴えることに成功した。ここだけみると忠実な者が悪に屈しているかのように思える。い

つの時代も忠実ゆえに周囲から受け入れられず困難をおぼえることがあるかもしれない。

B.王様の心の内

   王様はダニエルを信頼し、彼の信仰の素晴らしさを見てきた。王様の心はダニエルを救いたい

と思っていた。王様ではなく神を第一としていたダニエルであったが、信仰によって王様の心

が変えられつつあった。地の塩、世の光として生きる者への大きな希望、励ましとなる。

Ⅲ・「神による助け」

A.ダニエルを守られる神

   かつてダニエルの仲間3人が燃え盛る炎の中から無事に救い出された。そのことを王が知って

いたかわからないが、ダニエルの信じる神が彼を救ってくれるのではないかと期待した。ダニ

エルはいつもと変わらず王様に丁寧なあいさつをした。王はダニエルの無実を喜んで認めた。

B.私たちを守られる神

   ダニエルを訴えた者たちが逆に処刑された。一見勝利を手にしたかに見えたが、神は神を利用

して悪事を働く者ではなく、神に信頼し共に歩む者を救われた。いつの時代も変わらない事実。

神の主権は永遠に続く。私たちは恐れることなく、神に信頼し続ける信仰をもって歩みたい。

結論:幾多の攻撃、試練が私たちを襲ってくる。人間的に見たら逃げられない、あきらめてしまう、絶望してしまうように感じることもある。しかし、うろたえることなく、いつもと変わらず神を信頼し、神とともに歩むことを選択したい。周囲から見たら愚かで負け組のように見えるかもしれない。自分でもそう感じるかもしれない。しかし、最後には主の守りの中、永遠の主権の中で私たちは勝利へと導かれる。妥協して一時的な勝利ではなく、信仰を貫いて永遠の勝利を目指していこうではないか。その主権は永遠であり、私たちを救い出し、私たちを永遠の勝利へと誘う主に期待して歩ませていただこう。


# by ontheway-chapel | 2018-10-18 11:47 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の憐みの中で」

     A.憐れみとは

      憐れみとはラテン語で「惨めさ、悲惨」と「心」という二つの言葉で構成されている。ヘブル

語では「内臓」を意味する。他人の苦しみや悲しみを、自分の心の中で深く感じること、母親

がお腹を痛め子どもに対する愛のようなものが憐れみであるという。神の憐みはそれ以上。

B.憐れみを信じる

      神の憐みはすべての人に向けられている。イエス様は苦しみ人や悲しむ人を見て、深く心を動

かされ、まさに内臓に至るほどの深いところで激しい痛みを感じられる。そして、深い憐れみ

をもって私たちに接してくださり、決して見捨てることなく守ってくださるのだ。

Ⅱ・「ダニエルたちを守られた神」

  A.とんでもない試練

   ダニエル達は燃えさかる炉に投げ込まれることになった。しかし、そこから神は必ず救い出し

てくださるとダニエル達は確信していた。どのような試練にあっても決して負けない。なぜな

ら主が共におられ、私たちを守ってくださるからだという信仰がダニエル達を支えた。

B.共におられる主

   ダニエル達は実際に火の中に投げ込まれた。しかし、王はそこに4人の存在を見た。そこには

主が共におられた。私たちの信仰は単なる迷信でも希望的観測でもない。真実である。私たち

は様々なことを心配するが、その先に主の守りがあることを決して忘れないようにしたい。

Ⅲ・「私たちを守り導かれる神」

A.教団を守られる神

   今年で65周年を迎える東京フリー・メソジスト教団の歩みも、決して順風満帆ではなかった。

様々な試練を通らされたと思われるが、主が共におられここまで守り導いてこられた。そこに

はたくさんの信仰の先輩方の祈りがあり、次世代による祈りがさらに積まれていく。

B.教会、個人を守られる神

   そしてこの神は川越教会にも、さらにはそこに連なる私たちにも共にいてくださり、守り導か

れる。だから私たちは決して恐れることはない。信頼して、安心して、主と共に歩み続けよう

ではないか。様々な試練が襲うかもしれないが、主の守りの中にいるならば決して負けない。

結論:主の守りの内に歩むことは、決して簡単ではない。それをはばもうとする様々な試練、誘惑が襲ってくる。時に負けそうになるかもしれない。でも、主に信頼し続けて歩むとき、主は私たちを憐れんでくださり、最後の最後まで守り導いて下さる。それはこれまでも、そして今も、さらにこれからも決して変わることはない。神の守りの中で勝利の歩みを、喜びと感謝の歩みをさせていただく者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-09-27 08:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ネブカデネザルの夢」

     A.神からのメッセージ

      ネブカデネザル王は夢を見た。その内容によって王は心騒ぎ眠れなくなったという。神様から

のメッセージは人の心に深く突き刺さる。しかしその内容を王は理解することができなかった。

多くの人が神からの語り掛けを受けているが、それをただしく受け取ることができずにいる。

B.神は隠される

      神様からのメッセージがもっとわかりやすく、単純であればいいと思う時がある。しかし神は

あえて隠されることがある。神の遠大なるご計画、偉大なるみわざを前に私たちはそのすべて

を理解することはできない。だからこそ、へりくだって神のメッセージを受け取る必要がある。

Ⅱ・「不安と恐れ」

A.真理を求める

   ネブカデネザル王は夢の解き明かしを求めた。神からの語り掛けの意味を知りたいと思う姿勢

はとても大切。自分でわかったようなつもりにならず、真剣に求め、素直に受け取ろうとする

姿勢が大切。神様は今日も私たちに何かを語りかけて下さっているから、しっかり求めよう。

B.真理のない不安

   王は夢の内容がわからず心騒がした。真理がわからない、真理を見出せないことは人を不安に

させる。現代ではその不安を様々なものに転換させてごまかそう、見なかったことにしようと

真理と向き合うことを避ける。そこには不安と恐れがずっとつきまとい平安のない日々がある。

Ⅲ・「ピンチを迎えた時に」

A.王の思わぬ命令

   誰も夢を解き明かすことができないことに王の怒りはバビロンにいる知者すべてを滅ぼすと

いう命令を下した。とんでもない命令が下され、それはダニエル達にも届けられた。思いがけ

ないピンチは誰にでもやってくる。その時、私たちはどう対処するだろうか?

B.ダニエル達はどうしたか?

   ダニエル達は知恵と思慮をもって応対したとある。ダニエルは仲間たちと共にこの危機に対し

て、まず祈りをささげた。自分たちの知恵に頼らず、神に助けを求めた。全知全能なるお方に

助けを求めることは実に理にかなっている。なぜならば神は絶対に間違いを犯さないから。

結論:人生の思いがけないピンチを前にして、多くの人はそのピンチに対してどういう意味があるのか?自分自身とピンチにしか目を向けようとしない。しかし、本当に知恵と思慮に満ちた人は、まず神に目を向ける。そして全能なる神に信頼し、そのお方が解決の方法を教えてくださり、道を示されることを確信して祈り求めたい。ダニエル達はそれを実践した。その時、神はダニエル達の祈りに応え、夢の解き明かしを示された。神に真理を求める時、神はそれを与えて下さる。ピンチの時、神を信頼し、神に目を向けてすべての解決を求めていこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-09-20 11:31 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ザアカイに声をかけたイエス」

     A.仲間を裏切り搾取していたザアカイ

      ザアカイは取税人で。当時、ローマの支配下にあったイスラエルではローマに税金を支払わな

ければなりませんでした。それをザアカイがしていた。ローマの手下のようにユダヤ人からお

金を集め、時には多めの金額を徴収して自分の懐に入れていた。裏切り者として嫌われていた。

B.嫌われ者に目を留めるイエス

      そのようなザアカイを見て、イエスは直接名前を読んで声をかけてくれる。イエスは私たち一

人一人の名前をも知っていて、そのすべての良い点、悪い点を知ってなお声をかけてくださる。

たとえすべての人が嫌い、咲けられているようなどうしようもない存在であっても。

   Ⅱ・「救いがザアカイに来た」

A.搾取する者から与える者へ

      ザアカイはイエスとの触れ合いによって、これまで自分のしてきたことの非を認めることがで

き、それまで搾取する側にいたが、今度は余分に与える者へと変えられた。誰も失敗はある。

しかしイエスとの出会い、触れ合いによって非を認めて新しく変わることができる。

B.ありのままを受け入れるイエス

      イエスはザアカイのありのままを知っていて受け入れてくださった。真珠貝は異物を入れられ

ることによって涙し、素敵な真珠を造りだす。イエスを受け入れることは苦しみを伴い涙する

かもしれないが、思わぬ素敵な輝きを手にすることになる。喜んでイエスを迎えよう。

結論:今、素直になって自分の心に手を当ててみよう。自分自身に正直になって、自分を見つめてみよう。素晴らしいところもあれば、誰にも言えないような痛み、傷、苦しみ、消し去りたい過去、今抱えている罪。色々あると思う。イエスはそのすべてを知っておられる。そのうえで、私たち一人一人の名前を呼んで声をかけてくださる。そのイエスとの交わりに入るならば、私たちの人生は劇的に変化することができる。その過程では辛いこともあるだろう。イエスを異物と感じて吐き出そうとするかもしれない。しかし、イエスを受け入れるとき、私たちの涙とイエスの十字架の血潮とによって、私たちの中に光り輝く信仰の果実が生まれてくる。それは何物にも代えがたい美しいものである。


# by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:26 | Comments(0)