聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「サウロによる迫害」

   A.キリスト教最大の迫害者

       サウロはステパノの殉教についても積極的であり、これを機に一気にキリスト教に対する激

しい迫害が起こった。その中心的存在がサウロであり、サウロは信念をもって自分のしてい

ることが正しいと信じていた。すべてに一生懸命であったサウロの迫害は徹底していた。

B.神様のなさる不思議

       神様のご計画はこの最大の敵である迫害者サウロを用いることであった。後のパウロとなる

サウロは信じた道に対して一心不乱に前進し実行する力があった。それが迫害という形でだ

された時には脅威であったが、キリスト者となった瞬間、最大の協力者となった。

Ⅱ・「開いていても何も見えない」

A.天からの光

    サウロがなおも迫害の思いに燃えて、次なるキリスト者を捕らえに意気揚々と旅していると

き、天からの光がサウロを照らした。この光は目を開いていても見えなくする光であった。

目が見えていても何も本質が見えていない時があるが、この光はサウロの心にも刺さった。

B.語られた声

    サウロは続けて「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と復活のイエスに語り掛け

られた。これは心に刺さった光と共に、サウロの心の奥深くに響く声であった。そしてその

声に従って立ち上がった。その時のサウロは出発前の自信に満ち溢れた姿ではなかった。

Ⅲ・「霊の目が開かれた」

A.アナニアとの出会い

    アナニアにとってもサウロは憎き存在であり、脅威の存在であった。できれば顔を合わせた

くないような存在。しかしアナニアは主の言葉に従った。人知を超えた主のご計画が示され

ることがある。その時自分の意思を貫くのか、それとも主に従って行動するのかが問われる。

B.目が見えるようになった

    サウロはアナニアの目が見えるようになり聖霊に満たされるようにと言う祈り。これによっ

てサウロは目が開かれただけではなく、心の目も開かれた。彼が確信をもってしてきたこと

が間違いであったことに気が付いた。霊の目が開かれたときサウロは新しく生まれ変わった。

結論:ここには様々な人間模様が描かれている。私たちも実際の日々の生活で様々な人間模様のただなかに置かれる。それは時に煩わしい関係かもしれない。会いたくないような関係。敵対する関係もある。しかし、その時私たちが自分の考え、自分の思いこそが絶対であるとして、かたくなになるのか。それとも神がそこに働かれていることを感じ取り、その神の導きに従おうとするのか。そこに身をゆだねた時、私たちもまた目から鱗が落ちるかの様に、今まで見えていたようで、見えていなかった世界が広がっていく。そして新しく見えた世界は何と素晴らしく美しいことだろうか。霊の目が開かれたとき、私たちはまた一歩主に近づくことができるようになる。


# by ontheway-chapel | 2018-07-03 10:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神に向かって祈る」

     A.神の主権を認める

       ペテロたちは自らが受けた迫害について、仲間に語った。仲間の窮地を知り、皆が心ひとつ

にして祈り始めた。祈りは天地万物を造られた主権者なる神に向けられて祈られた。私たち

には、天地万物を創造されたお方が共におられ、私たちの祈り、願いを聞いてくださる。

B.みことばを根拠に祈る

       神の主権を認めた後、彼らは詩篇のみことばに基づいて祈り始めた。その内容はイエスこそ

キリストであると理解させるものでした。しかし、みことばの通りに世はイエスを救い主と

認めず、十字架につけて殺した。すべて神の支配のご計画の通りになっている事実を認めた。

Ⅱ・「聖霊に満たされる」

A.目に見えるものにおびえる

    私たちは日々の生活において、どうしても目の前の現実に心奪われ、目に見えることに振り

回されて一喜一憂する。時におびえ、恐れを抱く。自分の力ではどうすることもできない現

実を前に、人は目に見えない何かを求め、頼ろうとする。そして救いを求めようとする。

B.目に見えないものに押し出される

    目に見えるものだけがすべてと思う時、私たちは無力感に襲われる。しかし、目に見えない

お方の守りと導きに思いが向けられたとき、唯一まことの神に従い、助けを求めた時、彼ら

は聖霊の助けに満たされた。その力に押し出されたとき、彼らは大胆に福音を語りだした。

Ⅲ・「つぶされない強さ」

A.心を一つとする

    人はどうしても自分中心に思いを向けがちであるが、父なる神のもとに神の家族としての自

分を自覚することができた時、皆が主にあって一つとなることができる。これは人間中心で

あったら絶対に不可能であるが、神を信じ続け、聖霊が満ち溢れた時に可能となる。

B.乏しい者は一人もいなかった

    神を信じる者にとって神からいただいた恵みは、神の家族で共有することが喜びとなってい

く。うれしいことがあった時誰かに話したくなるように、神様の恵みもみんなで共有したく

なるほどうれしい。だから何があっても、神の家族は決してつぶれない強さをもっている。

結論:この地上で生きるとき、時に思いがけない試練や困難と遭遇する。打ちのめされそうになることもある。しかし、私たちは決してつぶれない。なぜならば、この地上のすべてを創造され、支配されている絶対的主権者である神に祈ることができるから。そして目には見えないけれども、私たちと共にい続けてくださり、私たちの人生に深くご介入してくださる神は、私たちのために聖霊をおくり、新たなる力と勇気を与えて下さる。その時、私たちは信じられないくらいの大胆さをもって、前進していくことができる。この神を中心に心ひとつとなっていくとき、私たちはいつも必要が満たされ、乏しいことなく強く、生きることができるのだ。


# by ontheway-chapel | 2018-06-26 09:22 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「この地上において大切なこと」

    A.身につけておくもの

     パウロは身に着けるべき素晴らしい事柄を挙げている。同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そし

て互いに赦しあうこと。これらを身につけることができた時、私たちの人間関係は実に愛と喜び、

平和に満ちたものとなる。しかし、実際にこれらを実践し続けることには多くの問題が生じる。

B.主が赦されたように

     私たち人間で完全な人など一人もいない。どこかに必ず欠点がある。だから、時に人とぶつかっ

たり、人を傷つけたり、人からダメージを受けて悩み苦しんだりもする。そして人を憎んだり、

怒ったりする。しかし、パウロは主が赦されたように、あなたがもそうしなさいと求める。

   Ⅱ・「さらに成長するために大切なこと」

A.愛を身につけなさい

     パウロはこの地上の人間関係において、大切にすべきに見つけるものを教えた後、それらすべて

の上に愛を置くようにと言った。愛こそが結びの帯として完全であるからだ、という。それはキ

リストから出るものであり、平和を作るものである。その平和が心を支配することが大切である。

B.感謝にあふれる人生を

     本当にうれしいことがあったら、心から素直に感謝することができる。初代教会からずっと、キ

リスト者には感謝があった。そして感謝の源に対して賛美する姿があった。私たちが神の愛、キ

リストの平和を身につけることができた時、人生は感謝にあふれ、正しく成長することができる。

結論:これまでの人生を振り返ってみよう。そしてどのように成長してきたかを振り返ってみよう。正しく成長することができているならば、そのように導かれた神に感謝しよう。また、もし間違っていたなと思うならば、今日、思い切って方向転換して、正しい道へと漕ぎ出してみよう。その先には、感謝と喜びと、平和に満ち溢れた素晴らしい人生が待っている。そのために身につけておくべきものをいただいて、正しく成長することができるよう、主と共に前進しましょう。


# by ontheway-chapel | 2018-06-19 15:05 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊を受けたペテロ」

     A.力を受けたペテロ

       かつてのペテロは敵を前にしてイエス様など知らないと言って逃げてしまうような弱い弟

子だった。しかしイエス様の赦しをいただき、聖霊を受けたペテロは説得力がある、活動的

な使徒へと変えた。ここでの堂々とした態度の背後には聖霊のもたらした賜物であった。

B.みんな同じ

       ペテロは特別に素晴らしい働き人であるように思える。私たちもペテロと同じ弱さを持ち、

しかしイエス様によって罪赦され、そして聖霊の時代に生きてその恵みを受けている。私た

ちもまたこの聖霊の導きに委ねていくとき、ペテロのような働きをすることができる。

Ⅱ・「美しの門での出会い」

A.当時の習慣

       ユダヤ人たちは1日3回神殿で祈りをささげる習慣があった。ペテロたちも午後3時にあわ

せて祈るために神殿へと向かっていた。そこに生まれながらに足の不自由な男がいた。人々

は律法によって彼らを支えることになっていたので、人が集まる場所で施しを求めていた。

B.ペテロたちとの出会い

    足の不自由な男とペテロたちが出会った。男は当然何かをもらえる期待をもってペテロたち

を見つめた。一方ペテロたちも別の思いを持って見つめた。かつてイエスに見つめられなが

ら裏切ったペテロは、イエスの慈愛に満ちた目と同じ目をもって男を見つめたことだろう。

Ⅲ・「視点がずらされた先に」

A.イエス・キリストの名によって

    聖霊を受けたペテロはここで大胆にそして威厳に満ちた態度をもってイエス様の名によっ

て命じた。かつてイエスを裏切った弱いペテロはいなかった。聖霊を受け満たされたとき、

人はここまで変えられる。自分ではなく聖霊の力によって私たちは強く生きることができる。

B.金銀から神を見る

    男は最初、生きるために金銀を求めていたが、ペテロを通して聖霊を通して、イエスと出会

い神を賛美する者へと変えられた。そして、神を礼拝するためにペテロたちと一緒に宮に入

った。この世の価値観を追い求めるところから本当に大切なものを求める者へと変えられた。

結論:聖霊を受けていることはなかなか実感できないかもしれない。しかし、その恵み測り知れない。そこに気が付き、その働くことを助長していく生き方をしていくとき、そこにはとんでもない力が与えられ、勇気が与えられ、神の働き人として、証し人として用いられていく。その恵みに与った者は、その人生が一変する。聖霊を受けた先に、私たちも想像できないような素晴らしい世界、喜びと感動に満ちた人生が待っている。この恵みをしっかりといただき、味わって行こうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-05-30 17:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「果たすべき責任」

     A.肉に従うこと

       キリストの十字架によって救われ解放された私たちだからと言って、なんでも好き勝手にし

ていいわけではない。責任が与えられた。それは禁欲主義のように聞こえるかもしれないが、

私たちの内にある御霊を自由に働かせることであり、苦しみよりも喜びが勝るものである。

B.聖霊の火を通す

       責任を果たすために、私たちの内に働く聖霊が、外側化入ってくるあらゆる欲や情に対して

勝利してくださる。旧約の時代には神へのささげものは生ではなく、完全に火を通して昇っ

ていく煙だけが受け入れられた。私たちの生き方も、聖霊の火を通したものでありたい。

Ⅱ・「神の子の確認」

  A.御霊に導かれる

    神の子とされるという事実をあやふやに感じることがあるかもしれない。とても不安に感じ

る。そういう時、私たちは御霊に導かれる、という受け身、主導権をすべて主に預けるとい

うことが大切となってくる。神の御霊が私たちを神の子にしてくださるから。

B.アバと呼べる神

    神様とごく親しい関係になるためには、まず自分自身が神の前に砕かれ、主の愛によって罪

赦されるという関係に立ち返ることが必要。表面上ではない、魂の底からの関係がばれたと

き、御霊によって私たちは神を「アバ」と、日本的にはお父ちゃんと呼べる者とされる。

Ⅲ・「苦難の先にある恵み」

  A.神の子とされる前

    私たちが教会に行くきっかけ、神様を求めるきっかけは何だろうか?自分自身の問題、周り

の問題、世の中の問題と向き合う中で、様々な苦難を通り、悩み、うめいているところに、

点におられるお方がその声のところにまで降りてきて、恩寵によって救ってくださる。

B.神の子とされた後

    クリスチャンになっても不自由さをおぼえることがあるかもしれない。神の子とされ神の家

族とされたが、しかし肉的にはまだこの地上にいて、栄光までの中間地点にいる状態。しか

し、先にある希望を確かに握っている。苦難の先にある希望に期待して歩む者とされたい。

結論:聖霊という目に見えないものの働きは、私たちにとってなかなかつかみにくい、実感しにくいものかもしれない。しかし、私たちの内にあって働いてくださり、私たちがクリスチャンとしてこの地上に生きるとき、果たすべき責任を全うさせてくださる。この御霊を自由に存分に働かすことができた時、私たちは心から神の子とされた恵みを実感することができ、より深い神との関係に導かれ、天の神をお父ちゃんと呼ぶほどに親しく、そして全幅の信頼をもって身をゆだねていくことができる。一方でこの世の現実の世界に生きる私たちは、御霊の導きをいただきながらも様々な苦難に遭遇する。しかし、私たちにはその先にある希望がある。御霊によって私たちはこの先にある恩寵を知ることができ、確かなものであると確信することができる。この希望を握って歩んでいこう。


# by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「主がただ中におられるから」

  1. 心の底から喜び勝ち誇る

    「喜び歌え」「喜び叫べ」「喜び勝ち誇れ」これは決して強制されて与えられる喜びではない。様々な困難が私たちを覆う現実があるが、私たちは無理をしなくとも、心の底から私たちは喜ぶことができ、勝利を誇ることができるようにされる。主が共におられるから。

  2. もう何も恐れなくていい

    「あなたはもうわざわいを恐れない」と主にあって私たちは宣告された。悩み、痛み、苦しみがあったとしても、もうそれらを恐れて下を向く必要はない。なぜならば、主ご自身が私たちを愛しておられ、私たちが喜びの人生を送ることができるように導いてくださる。その主が私たちのただなかにいてくださる。だから安心して、喜ぶことができ、恐れることなく心穏やかに、ほほ笑みを携えて私たち幸いな人生を送ることができる。

   Ⅱ・「主があなたを喜ばれるから」

  1. 主が敵を追い払う

    主は「救いの勇士」であられると記されている。私たちを取り巻く問題と対峙するとき、その大きさに圧倒され時に気力を奪われ、絶望してしまう。私たちの力には限界がある。しかし私たちのただなかにおられる全能なる主が、それらを追い払ってくださる。

  2. 主が回復してくださる

    実際にイスラエルは捕囚の民となる。しかし、主はその民を再び連れ戻して下さり、元通りに回復させてくださる。目の前が真っ暗に感じたとしても、どこにも希望を見出せないと思えても、主が私たちを愛しておられるがゆえに、私たちは回復の道へと誘われていく。主は私たちの存在を喜び、私たちもまたその喜びのみを握って生きることができる。この喜びは地上によってもたらされるものではなく、主によってもたらされるから、永遠に消えることのない本当の喜びである。

結論:この地上にもたくさんの喜びがある。しかし、それらはある日突然奪われてしまうかもしれない、不確かなものと言える。残念ながら多くの人はその喜びを必死に追いかけて生きる。だから時に喜びを失って絶望してしまう。しかし、主がただ中におられるという素晴らしい恵みを知っているならば、この主により頼んで、この主と共に生きることを決心したならば、私たちには本当の喜び、主がただ中におられるゆえに、主が私たちを喜ばれるゆえに、その生涯にわたって、決して消えることのない確かな喜びが私たちには与えられる。そしてこの喜びのみが私たちには最後まで与えられ続けるのだ。


# by ontheway-chapel | 2018-05-25 11:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「エルサレムの堕落」

  1. ゼパニヤの時代

    ゼパニヤが活躍した時代はおそらくヨシヤ王の宗教改革の頃に活躍した預言者ではないかと言われている。(エレミヤと同時代?)ゼパニヤとは「主は隠された」という意味があることからも、表に出て預言したエレミヤに対し、ゼパニヤは神が隠された預言者となるか。

  2. 神から離れた民

    この時代、イスラエル(ユダ)では特に上流階級と言われた宗教指導者たちの堕落、腐敗が顕著であった。また異教の風習が国内に入り霊的姦淫、宗教的無関心が蔓延し、神から離れていく民が増えていった。そうしたなかでゼパニヤは民の滅亡を語り、悔い改めを迫った。

Ⅱ・「神のさばき」

  1. イスラエルへのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへの神のさばきが必ず訪れること、そしてその恐ろしさについて語っていく。悔い改めを迫る一方、その可能性については消極的であり、さばきの日が避け難いことを悟っていたかのようにイスラエルのさばきを警告していく。

  2. 周辺諸国へのさばき

    ゼパニヤはイスラエルへのさばきと同時にペリシテ滅亡への預言を語っていく。しかし同時に回復の希望も語られている。イスラエルは周辺諸国を見て教訓を得ようとしなかった。私たちも聖書を通して神のさばきの厳しさを見ている。だからこそそこから教えられたい。

Ⅲ・「民を救われる神」

  1. 一つとなる

    堕落した国の中にあっても、それでもけなげに信仰を守り通そうと熱心に歩んだ者たち(残りの者)がいた。時代にあって、その風潮に流される方が簡単で楽しいかもしれない。しかしいつの時代も熱心に歩んだ者たちがいたからこそ、神の救いの恵みが明らかにされてきた。

  2. 神の救いに与る

    民の努力で救われるのではない。あくまで神の恩寵によることを忘れてはいけない。自分で自分をきよめることはできない。神が主権をもって救ってくださる。そしてそれはイエス・キリストの十字架によって成就された。それを信じられるよう聖霊を備えてくださった。

結論:いつの時代も神を恐れず、神に背を向けて自分の快楽、自分の信じる道を探求しようとする人がいる。その生き方の方が充実して自分らしいと感じるかもしれない。しかし、その先にはむなしさと滅びしかない。神は、そのような堕落したもの、罪に気付かないままに覚えていく人を何とかして救いたいと願っている。神がそのイニシアチブを握っている。神に主権がある。私たちは自分で自分を救うことはできない。罪を贖うことはできない。神はイエス・キリストをもって私たちに救いの道を示し、聖霊をもって私たちにこの事実を知らせ、信じることができるようにと促している。次週はペンテコステ。この聖霊の働きに思いを寄せる1週間とさせていただこう。


# by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:45 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「先が見えない恐怖」

  1. 神からの約束

    神は堕落した南ユダ王国を滅ぼすと語られた。そして神のさばきの器としてカルデヤ人(バビロン)を用いることを約束された。また、その器であるバビロンも神の手によって滅ぼされるという。ハバククは最初は抗議したが、この神の約束を受け入れ、従うことにした。

  2. 目に見えない恐れ

    私たちは明日がどうなるかわからない。それだけに、不安になることもある。その恐れをどのように取り去るのか?ある人は虚勢を張り自力で突破しようとし、ある人は誰かに助けを求め、それが叶わないと諦める。先が見えないということは大きな恐れや不安を与える。

Ⅱ・「静かに待つ」

  1. ハバククの場合

    ハバククは先が見えない恐れに対して、どのように向き合い解決しようとしたか?それは祈りであった。ただ静かに、神に信頼してひたすらに祈った。目に見える現実、目に見えない恐れ、あらゆるものではなく、ただひたすらに神だけに目を注いで祈ることに専念した。

  2. 私たちの場合

    私たちも神に信頼して祈る。信じて待つが時にその結果を見たくて、つい神から目を話して現実(祈りの結果)を見ようとする。そして一喜一憂してしまう。それは神の約束に対して、完全に従いきれていない状態といえるかもしれない。神の約束・保証を喜ぶ信仰を持ちたい。

Ⅲ・「神にあって喜ぼう」

  1. 神の恵みを喜ぶ

    ハバククは神が約束したさばきに対して、恐れを抱き震えつつも、神の約束(バビロンもまた滅ぼす)という絶対的な神の正義に思いを寄せて喜びを抱く。目の前が真っ暗で、どこに神の解決が、救いがあるかわからないとしても、神の保証を信じ、必ず成就すると信じたい。

  2. すべての喜びの源

    すべての権威をもっておられる神様は、私たちをいかようにもすることができるが、信じ従うならば、決して見捨てず、滅ぼさず、救いへと誘われる。神は私たちの全てである。すべての喜びが神から溢れ出てくる。私たちはこの喜びを満喫できる恵みをいただいている。

結論:祈っても、祈っても、何の答えも与えられない。自分の思い願う良い結果が得られない。神様を信じているけれども、現実は私が破滅へと導かれているかのように感じる。そのような辛い時がある。先が見えない、目に見える結果が出ないとき、不安は恐れが私たちを覆うことがある。しかし、そのような時、自力で頑張るのではなく、また諦めてしまうのでもなく、ハバククのように神を信じ、静かに祈り、待つ姿勢を大切にしたい。神は、私たちと共におられ、最善のみわざをもって私たちを愛し、守り、導いてくださる。神の約束、保証、恵みを信じひたすらに従う道を進もうではないか。すべてを主に明け渡した時、私たちの喜びの源が、私たちの全てが神から溢れ出ていることを知り、真の喜び、感謝を味わうことができる。


# by ontheway-chapel | 2018-05-10 15:43 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ハバククの疑問」

  1. ハバククという人物

    預言者ハバククという以外は詳細は記されていない。ハバククとは「からみつく」「抱きつく」と訳すこともできる。ハバククはユダの世界にはびこる悪とそれを見過ごす神に抗議し(からむ)とことん神と向き合い(抱きつく)、信仰をもって従って生きることを求めた。

  2. 悪が支配しているように見える世界

    実際にこの時代、南ユダ王国は神の律法を重んじる姿は薄れ、宗教的道徳は崩壊に向かって堕落していった。国内では対立による内紛、国外からは厳しい干渉を受け、神の民イスラエルの栄光はどこに行ったのかという有様。悪だけがのさばり、悪だけが繁栄している世界。

Ⅱ・「神の応答」

  1. カルデヤ人を用いられる神

    ハバククのどうしてこのような悪を神は見過ごしているのか?という問いに対して、神は、決してこの状況を見過ごすのではなくこの不義と王望に満ちたユダに対し、カルデヤ人を審判の器として用いて、バビロンによるユダへのさばきが行われていくことを明らかにされた。

  2. 神の応答に対するハバククの訴え

    この神の答えに対するハバククは、そのバビロンもまた不義な器ではないか、と抗議する。正しくない者が、同じく正しくない者の審判の器として用いられることは果たして正しいことなのかと訴える。どうして神はそのようなことを許されるのか。いつの時代にも同じ疑問が私たちを覆っているように思える。

Ⅲ・「信仰をもって従う」

  1. 義人は信仰によって生きる

    いつの時代においても、悪がのさばり正しく謙虚に生きる者が損をしているように見えることがある。そうした曲がった時代だからこそ、揺るがない信仰をもって生きることだけが、義人が生きうる唯一の道であると神は語る。信仰に生きることこそが私たちを守る手段。

  2. アーメン(その通り)と生きる

    ヘブル語で信仰とはアーメン(その通り)と同じ言葉として使われる。つまり、真実、誠実であることこそが、神の御前において正しいと認められる。神中心の信仰。人間の側に救いの根拠は見出せない。神中心に生きるとき、その人の人生は喜びと栄光と勝利を得る。

結論:ハバククの生きた時代も、現代も同じ問題が私たちを包み込む。なぜ神はこのような時代、腐敗した状態をお許しになっているのか?いつになったら彼らはさばかれるのか?むしろ彼らの方が栄えているように見える。確かにこの世に焦点を当てて、この世を基準に見たらそうした矛盾とぶつかる。しかし、神に焦点を当てて、神を基準に物事を見ていくとき、私たちの人生の本当の正解が見えてくる。何が本当の喜びか、何が本当の幸せか。信仰によって生きる者とされた時、その答えは自然と見えてくるのではないだろうか。


# by ontheway-chapel | 2018-04-17 09:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活のイエスと出会う」

  1. イエスとの再会

    弟子たちにとってイエスの死は大きなショックであり、絶望を示すものであった。また同時に自分たちの危機をもたらすものでもあった。そのような時にイエスの復活を聞き、指示された山へ向かいそこでイエスと再会した。復活のイエスとの再会が彼らには必要だった。

  2. 一切の権威がある

    復活のイエスは自らについて天においても地においても、一切の権威が与えられていると言われた。私たちが信じ、従うお方は天においても、地においても絶対の力を持っておられる。このお方が私たちに託した願いに私たちは耳を傾け、全力で従っていきたい。

   Ⅱ・「イエスの願い」

  1. 大宣教命令

    当初の宣教の場はイスラエルの境界内に限定されていた。救い主の十字架と復活が成就したいま、ついにその制約は完全に取り払われて、宣教の場は全世界へと広がった。これは、当初からのご計画の通りであり、聖書の各所にグローバルな宣教の視点をみることができる。ワールドビジョン、素敵な名前である。私たちも広い視野をもっていきたい。

  2. いつも共にいます

    弟子たちはイエスの大宣教命令を聞いてどう感じただろうか?途方に暮れたかもしれない。現代に生きる私たちにとっても、福音を語り一人の人を救いへと導くことはものすごく大変である。私たちでは力不足で不可能と思われても、主が共におられるから大丈夫なのだ。

   

結論;私たちに託された責任は、時に大きすぎて私たちには負担と思えることもある。無理と感じることもある。しかし、死をも克服されたお方と私たちが出会う時、私たちは絶望の淵から立ちあがり、前に進む力をいただくことができる。一切の権威を持つお方が私たちに託した責任に対して、私たちは全力で従っていきたい。神のご計画は最初から全人類の救いにあった。聖書は至る所で神のグローバルな視点をダイナミックに語っている。そしてその成就として私たちもいま、救いの恵みに与っている。しかし、私たちがゴールではない。私たちに託された責任を果たしたい。それにはあまりに障害が大き過ぎると感じるかもしれない。でも、私たちには復活の主がいつも共におられ、助けてくださる。必要な力を、助け人を、語る言葉を惜しげもなく与えて下さる。だから、感謝と喜び、そして自信をもって世に出て行こうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-04-12 17:56 | Comments(0)