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聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「信念が曲げられる試練」

     A.バビロンによる捕囚

       ダニエル達は、神のご計画のうちにあってバビロンに捕囚の民として連れて行かれることに

なった。それはユダヤ人たち、ダニエル達にとっては受け入れがたい屈辱であり、痛み、苦

しみの試練であったかもしれない。しかしこれは主が主権をもってなされたみわざであった。

B.与えられた場所でどう生きるのか

       渡辺和子さんは思いがけず36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に任命された。本

人にとって願っていたものではなく、若さゆえにおかれた境遇をなかなか受け入れることが

できず苦しんだ。しかしある宣教師のことばで変えられた。置かれた場所で咲きなさい、と。

Ⅱ・「ダニエル達の信仰」

A.何を第一とするのか

    ダニエル達は英才教育を受けるため、優遇され王様の食べるような食事が与えられた。しか

し、それらは異教の神にささげられて汚れたものであった。これらを食することは異教の神

を礼拝すること、偶像礼拝に加担することを意味していた。ダニエル達はこれらを拒んだ。

B.この世的な感覚との戦い

    宦官の長は王様から直々にダニエル達の世話役が与えられていた。ダニエル達の言い分を聞

きつつも、王様からの叱責を恐れためらい戸惑っていた。しかし、ダニエルたちの誠実な願

いを、必死の信仰をみて試すことにした。私たちの必死の信仰の姿勢は人の心に必ず届く。

Ⅲ・「仕える者に応える神」

A.人ではなく神に仕える

    ダニエル達は王様から英才教育を受けるが、宦官長のように王様を恐れるのではなく、神を

第一として神を恐れた。ダニエル達は宦官長の立場を理解しつつ、神に仕えぬくことを選択

した。ダニエル達の信仰は主に仕えるだけではなく、人への配慮ももっていた。

B.神の応答

    結果、ダニエル達は野菜と水だけであったが、他の誰よりも健康に満たされ、誰よりも優秀

な者とされた。神に仕える者は、この世的には貧しい状況に置かれているように思えても、

誰よりも主にあって祝福に満たされる。神に仕える者は神によって用いられていくのだ。

結論:この世の多くの人は、目に見えない神よりも、目に見える人(物や価値)を恐れてしまう。しかし、それでは人からは評価されても、本当の祝福をいただくことはできない。人の評価は移ろいやすく、人の価値観によって左右されてしまう。しかし、神の評価は決して移ろうことなく、この世の価値観によって左右されることなく不変である。ダニエル達は信念をもって神に仕え続けた。そして神はそのような民を決して見捨てることなく、祝福し用いてくださる。私たちもおかれた環境は様々で不平不満を抱くことがあるかもしれないが、それでもなお、神を見上げ、神に仕えることを選択するとき、神はいかなる場所にあっても、決して見捨てることなく、祝福で満たしてくださる。


# by ontheway-chapel | 2018-09-14 11:25 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「パウロの証し」

     A.神の国について証しした

      私たちも証しをするが、それは自ら経験した神体験を確信をもって主観的に語ること。と同時

に、聖書で語られていることが成就したことを客観的な視点を交えて語る。これらが聖霊の働

きによって、私たちの内において一つとされた時、証しは喜びと感動に満ちたものとなる。

B.イエスについて証しした

      パウロには神の国、イエスについて証しするに十分な時間と環境が与えられた。これもまた神

の不思議な摂理のうちになされたみわざである。いつでも、神とイエスについて証しする機会

が備えられているから、いつでも語れる準備と聖霊に導かれた時を逃さないようにしたい。

Ⅱ・「聞き、見たにもかかわらず」

A.人間的な反応

   パウロの証しを受け入れた者もいれば、信じなかった者もいた。これは人間的な素直な反応で

ある。証しを聞いて感動することはあってもそれですぐに信仰へと導かれるケースは決して多

くはない。人間的な感覚だけに頼っているならば、それは当然の反応であるかもしれない。

B.聖霊による反応

   しかし、聖霊が働く時、私たちの常識、感覚、価値観が一気に崩される。心頑なな者の心は一

瞬で溶かされる。同じ花を見て、ただきれいだなと思うのは人間的な反応。そこに神の創造の

みわざを見て感動できるのは聖霊がそこに働いているから。この反応を大切にしたい。

Ⅲ・「神の救いの大転換」

A.ユダヤ人から異邦人へ

   ユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた民であると自負していた。だから異邦人を見下し、

排斥してきた。しかし、今や神の救いのご計画が異邦人に向けられたと宣言された。心頑なに

またおごり高ぶり、福音を受け入れないならば、神の救いはそこからこぼれてしまう。

B.そして私たちへ

   神の救いは全世界へと向けられた。その恩恵を私たちは今受けている。神の救いはごく限られ

た民族、特定の人にだけ向けられているのではない。かつて軽蔑されたような、人数に数えら

れなかったような人にも神の目は向けられていた。私たちにも確かに神の目は向けられている。

結論:かつてユダヤ人たちは自分たちこそが神に選ばれた誇り高い民族として、他者を見下していた。しかし、聖霊の導きを無視し、心頑なに神の救いを拒絶するならば、その恵みを受け取り損ねてしまう。同時に神の目はユダヤ人だけではなく、全世界に向けられていた。特定の優秀な人、選ばれた民族だけのものではない。全世界が神の救いの対象であり、その愛の目が注がれている。私たちが福音を見聞きしたとき、聖霊の働きにゆだね、自分の思いではなく、心開いて神を受け入れるとき、救いの大逆転が起こる。そのチャンスはすべての人に向けられている。ぜひとも、この恵みを獲得しようではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-08-30 10:30 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「憐れんでくださいと叫んだ10人」

     A.ツァラアトの苦しみ

      この時代、ツァラアトを患った人たちは祭司から癒されたと宣言されないと、普通の生活がで

きず、人目を避けて辛い生活を送らなければならなかった。いつの時代も、本当に苦しい、辛

いなかを通らされることがある。その中で必死にもがき助け、救いを求める。みんな必死。

B.叫びに応答するイエス様

      ツァラアトを患った人たちの叫びにイエス様は応答された。多くの人が彼らを避けるように生

きている中で、イエス様は目を留めて、彼らの声を聞き応答された。イエス様はどのような境

遇の人であっても、その叫びを聞き、苦しみに寄り添ってくださり、救いの道を示される。

   Ⅱ・「戻って来たひとり」

A.癒された10

      彼らはイエス様に言われたとおりに従った。癒されてもいない段階で祭司のところへ行くこと

はなかなかできない。必死にイエス様に従う時、普通ならば有り得ないことが起こる。常識を

超えたすばらしい出来事が私たちの前にも広がっている。10人のツァラアトは癒された。

B.ただ喜ぶだけか?感謝するか?

      癒された10人のうち、たった一人だけがイエス様のところに戻りひれ伏して感謝した。みん

な喜んだと思うが、イエス様に感謝したのはひとりだった。神のみわざを見てもすごいと感じ

てもその恵みに感謝する人は少ない。クリスチャンも恵みに慣れすぎると感謝を忘れてしまう。

結論:私たちも気をつけないと、戻ってこなかった9人の中に含まれる信仰生活を送ってしまう。ほんの小さなか事に感謝できる純粋な信仰を持っていたい。子どもは小さな出来事に目を輝かせて感動するが、大人はそんなこと知っているとわかったような態度をとる。いつの間にか知識が感動を消してしまう。経験が感謝を奪ってしまう。ほんの小さな喜び、恵みをしっかりと拾い上げる姿勢を忘れないようにしたい。そして、その恵みの源である主に感謝することを忘れないようにしたい。


# by ontheway-chapel | 2018-08-18 10:29 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「試練の連続」

     A.パウロたちを襲った試練

      パウロは長年願っていた、また主によって約束されていたローマ行きが思わぬ形(囚人)とし

て実現することになった。しかし、船は向かい風で思うように進まず、また季節的にも航行に

危険な状態となっていた。主の道が開かれたと思っても必ずしもスムーズに進むとは限らない。

B.私たちの日常における試練

      私たちの人生も海のように例えられる。向かい風、霧が立ち込め前が見えなくなることもある。

大きな波に自由を奪われ翻弄することもある。時には強い太陽も敵となる。次から次へと試練

が襲ってくる。船は羅針盤や目印となるものを見て進むが、私たちも目印がないと遭難する。

Ⅱ・「試練との向き合い方」

A.謙虚になる

   パウロはこれまでに何度も旅をしてきた。また、徹底して自分ではなく聖霊に導かれる道を選

んだ。その経験をもって航行についてアドバイスをしたが、囚人と言う立場もあって誰も聞く

耳を持たなかった。航海士や百人隊長は様々なプライドが邪魔をして謙虚になれなかった。

B.神により頼む

   結果として、船は大きな痛みを負った。パウロは自分の言うことを聞かなかったことを責める

のではなく、他の人々を励ました。その根拠は神様から託されたみことばであった。パウロは

自分ではなく、神のことばをただ信じ、それを根拠に試練と向き合い、人々を励ました。

Ⅲ・「元気を出そう」

A.神様が守ってくださる

   パウロは神様が必ず守ってくださると約束されたその言葉を信じ、それが成就することを確信

していた。目の前の状況が最悪と思えたとしても、必ずそこから救い出す道を神は用意してい

る。様々な波風、妨害するものが襲ってきても、神が共におられるから私たちは前を向ける。

B.元気の源

   私たちの元気は空元気ではなく、根拠がある。試練を前に絶望している人たちに本物の元気を

与えることができるのが神を信じるクリスチャンのすばらしさ。まず神から元気をいただき、

必要な人に元気を与えることができる。なぜならば、元気の源が全知全能なる神様だから。

結論:試練は誰にも降りかかる。必死にもがいて、がんばって乗り越えていこうとする。しかし、試練は一度きりではなく何度も襲ってくる。自分でがんばろうとするとそのうち人は疲れてしまう。元気の源が自分だと限界があるが、元気の源を神様におく時、そこに信頼し、委ねていくとき、私たちはいつでも主からの元気をいただき、励ましをいただき、みことばをいただき、前を向いてまた一歩踏み出すことができる。そして、自分のことで精一杯になることなく、人を元気にすることもできるようにされていく。「元気を出しなさい。わたしが共にいるから」と主は言われるから、安心して前を向いて歩もう。


# by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:52 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ゆだねる」

     A.パウロの惜別のことば

      パウロはいよいよエペソの教会での働きを終えて導かれる次なる地へ進もうとしていた。おそ

らく二度とエペソに戻ることはないという覚悟が語られた。パウロが伝えたことは伝道につい

て、教会について、そして聖書についてであった。パウロはこの聖書のみことばにゆだねた。

B.何にゆだねるのか?

      エペソの人たちにとって約3年も一緒にいたパウロと会えないのは大きな痛み、損失に思え

た。拠り所を失ってしまうように思えたが、パウロは人ではなく聖書のみことばにすべてをゆ

だねた。人はいつかいなくなるが聖書のみことばは不変であり永遠に失われることが無いから。

Ⅱ・「イエスの教えに生きる」

A.教会を支えたパウロ

   パウロは教会に仕えていたから受けるべき謝礼をもらってもよかった。しかし、まだできたば

かりの経済的にも乏しい教会から受けるのではなく、教会の働いをしながら、同時に自分で働

いて天幕造りをして生計を立てようとしていた。受けるより与える幸いを実践した。

B.みことばに忠実に生きる

   パウロがそのように働いた根拠はどこにあるのか?一部の人たちからパウロがみんなの献金

やささげられた衣服を自分のために使っているという批判があった。しかしそうした批判をか

わすためではなく、イエス様の教えを実践していたに過ぎなかった。みことば中心の生活。

Ⅲ・「教会を建て上げる」

A.祈りによって

   パウロの惜別のことばを聞いたエペソの人たちは、その後パウロと一緒になって祈った。それ

は別れを惜しむ祈りであり、パウロの安全を祈るものでもあった。祈りを聞かれる主はなお、

エペソの教会を愛し、その恵みとみことばと、祈りによって教会をさらに成長させてくださる。

B.キリストの愛によって

   パウロがその生活の中心に据えていたキリストは、パウロと共にエペソを去るわけではない。

エペソ教会の長老たちやその信徒たちと共におられ、彼らを守り、養い、教会の建て上げのた

めに、労してくださる。私たちもパウロのような歩みをしていくとき、教会は成長していく。

結論:パウロは多くのものエペソの人たちに与えた。その生き様を通して、エペソの人たちはキリストに委ねること、キリストの教えに生きること、祈りをもって教会を成長させていくこと。パウロは自ら受けるよりも与える方が幸いであることを実践して見せた。これは世の価値観とは逆のようにも見える。しかし、神の祝福は十分すぎるほどにパウロに注がれた。これこそが、キリスト者が目指す神に喜ばれる生き方であり、それは私たちにとっても喜びに満ち溢れた、最高の人生、幸いなる生き方となっていく。


# by ontheway-chapel | 2018-08-07 08:50 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「伝道旅行へ」

     A.再びバルナバと共に

      2年前に行われたエルサレム会議の決定事項を伝えながらの第1回目の伝道旅行はパウロとバ

ルナバにとってもすばらしい旅であった。決して楽なものではなかったが、各地に新しい信徒、

教会を生み出すことができたという、大いなる祝福を見ることができた素晴らしい旅であった。

B.小さな教会を思いやる

      今回の旅の一つの目的は、先に主のことばを伝えたすべての町々を尋ねてどうしているかを確

認するものであった。それは埋まれたばかりの教会が、その後どのように成長しているか、間

違った方向に進んでいないか?小さな教会を思いやる気持ちから出たものであった。

Ⅱ・「マルコを思いやる」

A.パウロの主張

   共に伝道旅行へと話し合ったパウロとバルナバがマルコの存在をめぐって意見が対立した。第

1回伝道旅行の際に、マルコも同行したが途中で宣教の働きから離れて行った事に対して、不

信感を持ち、宣教の働きに足手まといとなるとマルコは連れていくべきではないと主張した。

B.バルナバの主張

   一方バルナバはマルコとはいとこの関係にもあり、マルコのことはパウロよりもよく知ってい

た。かつて敵であったパウロをも受け入れた寛容なバルナバから見たら、マルコの過去の失敗

は許されるものであった。切り捨てるよりもむしろ回復のチャンスを与えたいと願った。

Ⅲ・「相手を思いやる」

A.人間的視点で見る

   結果、パウロはシラスと、バルナバはマルコとそれぞれの伝道旅行へと旅立った。それぞれに

気ごころの合う仲間を選択し、気持ちよく旅に出たいと思うことはよくある。確かに関係のよ

くない仲間との旅をするよりも、結果も良好になっていくように思える。

B.神様の視点で見る

   しかし、この結果は人間的な視点ではなく神の視点で見ていくとき、人間の思いではなくそれ

ぞれにふさわしく働かれる聖霊に促されていくことが神の願い、ご計画であったという視点に

立ちたい。神は相手を思いやる人の思いをも用いられ、すべてを最善へと導きてくださる。

結論:人が人を思いやることはすばらしい。しかし人間のすることには限界がある。うまくいっていても、ほんのちょっとの視点の違いや、自分の精神状態などで相手を思いやることができないという時もある。大切なことは、自分の感情や価値観だけを判断材料とするのではなく、聖霊の導きにこそ、自分の判断材料を求めていくことではないだろうか。そうするとき、人知を超えた主の導きの中で、神の愛をもって、イエスの真心をもって相手を思いやることが可能となっていくのではないだろうか。


# by ontheway-chapel | 2018-07-24 08:33 | Comments(0)

7月15日「門を開く神」

本論:Ⅰ・「熱心に祈り続ける」

     A.捕らえられたペテロ

       キリスト教に対する迫害はヘロデ王という強大な国家権力からの厳しい弾圧という形で進

められていった。ヘロデ王はヤコブを剣で殺した際の住民の反応が良いことを見て、勢いづ

いて今度はペテロを捕らえ、過ぎ越しの祭りにおいてペテロを処刑しようとした。

B.勝利を呼ぶ祈り

       ペテロが捕らえられ、厳重な監視体制のもとに置かれた。普通に考えたらもうペテロの先は

見えていた。しかし、キリスト者たちはペテロのために熱心に祈った。たとえ絶望と思える

ような状況に置かれても、私たちは全能なる神に向かい希望をもって祈りことができるのだ。

Ⅱ・「祈りの結果」

  A.不可能が可能となる

    ヘロデ王による国家的軍事力対教会の祈りによる霊的武力。どう考えてもヘロデ王の勝利。

ペテロがここから勝利することは不可能に思えたが、教会はこの戦いに勝利した。なぜ勝利

することができたのだろうか?どうして不可能と思えたことが可能となったのだろうか?

B.祈りのパワー

    勝利の秘訣は「彼のために熱心に祈り続けた」ということにあった。祈るということは自分

の弱さを認め、さらけ出すことでもある。自分の手に負えない、あとは祈るのみ。しかし、

もっとも弱そうな者が熱心に祈る時、もっとも強い者へと変えられていくのだ。

Ⅲ・「祈りの応える主」

本論:Ⅰ・「熱心に祈り続ける」

     A.捕らえられたペテロ

       キリスト教に対する迫害はヘロデ王という強大な国家権力からの厳しい弾圧という形で進

められていった。ヘロデ王はヤコブを剣で殺した際の住民の反応が良いことを見て、勢いづ

いて今度はペテロを捕らえ、過ぎ越しの祭りにおいてペテロを処刑しようとした。

B.勝利を呼ぶ祈り

       ペテロが捕らえられ、厳重な監視体制のもとに置かれた。普通に考えたらもうペテロの先は

見えていた。しかし、キリスト者たちはペテロのために熱心に祈った。たとえ絶望と思える

ような状況に置かれても、私たちは全能なる神に向かい希望をもって祈りことができるのだ。

Ⅱ・「祈りの結果」

  A.不可能が可能となる

    ヘロデ王による国家的軍事力対教会の祈りによる霊的武力。どう考えてもヘロデ王の勝利。

ペテロがここから勝利することは不可能に思えたが、教会はこの戦いに勝利した。なぜ勝利

することができたのだろうか?どうして不可能と思えたことが可能となったのだろうか?

B.祈りのパワー

    勝利の秘訣は「彼のために熱心に祈り続けた」ということにあった。祈るということは自分

の弱さを認め、さらけ出すことでもある。自分の手に負えない、あとは祈るのみ。しかし、

もっとも弱そうな者が熱心に祈る時、もっとも強い者へと変えられていくのだ。

Ⅲ・「祈りの応える主」

  A.幻に従う

    ペテロは御使いの導きに対して、現実のことと思えずに幻を見ているようであったという。

人間的な理解力をはるかに超えた神の導きを前に、私たちも同じような思いになるかもしれ

ない。しかし、良くはわからないけど、従うという姿勢が求められているのかもしれない。

B.気付きが与えられた

    ペテロは主の御手によって、門が開かれたその道を進んだ。到底不可能と思われた門を主が

開かれる。そこに従う時、自分ではなく、主ご自身が私たちの人生を最善へと導き、すべて

の災いから私たちを救い出してくださる、ということに気付き、心の目が開かれていく。

結論:自分の力でどうにかなると思えることがたくさんある。実際に何とかなったと思えた時には、神の助けを必要としないで平気だと思っている。だから、実はそこにある神の助けに目が向けられない。しかし、絶体絶命、もうどう考えても不可能と思えることが目の前に広がった時、自分の手に負えない何かが目の前に迫った時、人は自分の無力さを思い知り、ようやく自分以外の偉大なる存在をおぼえて祈る。神の前にひれ伏し祈る時、不可能が可能となる。神に逆らう勢力は敗れ去る。神は私たちの祈りに応えてくださる。その導きに素直に従う時、私たちは栄光の勝利を手にすることができる。  

A.幻に従う

    ペテロは御使いの導きに対して、現実のことと思えずに幻を見ているようであったという。

人間的な理解力をはるかに超えた神の導きを前に、私たちも同じような思いになるかもしれ

ない。しかし、良くはわからないけど、従うという姿勢が求められているのかもしれない。

B.気付きが与えられた

    ペテロは主の御手によって、門が開かれたその道を進んだ。到底不可能と思われた門を主が

開かれる。そこに従う時、自分ではなく、主ご自身が私たちの人生を最善へと導き、すべて

の災いから私たちを救い出してくださる、ということに気付き、心の目が開かれていく。

結論:自分の力でどうにかなると思えることがたくさんある。実際に何とかなったと思えた時には、神の助けを必要としないで平気だと思っている。だから、実はそこにある神の助けに目が向けられない。しかし、絶体絶命、もうどう考えても不可能と思えることが目の前に広がった時、自分の手に負えない何かが目の前に迫った時、人は自分の無力さを思い知り、ようやく自分以外の偉大なる存在をおぼえて祈る。神の前にひれ伏し祈る時、不可能が可能となる。神に逆らう勢力は敗れ去る。神は私たちの祈りに応えてくださる。その導きに素直に従う時、私たちは栄光の勝利を手にすることができる。
# by ontheway-chapel | 2018-07-16 09:36 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「語りかける神」

     A.わたしが示す地へ行きなさい

      神は突然、アブラハムにとんでもない要求をされた。そこに従うならば祝福されるという。神

のご計画は常に最善である。時に私たちの思い願うこととタイミングとかけ離れていることが

ある。この神から命令、語り掛けに従うのか、それとも拒否するのか。人生の分岐点となる。

    B.地上のすべての民族が祝福される

      神はアブラハムを祝福すると同時に、地上のすべての民族がアブラハムの信仰によって祝福さ

れるという。神はイスラエル民族だけを祝福されるのではなく、アブラハムの子孫を通して地

上の他の国民をも祝福されると約束され、現在私たちはその恵みに与っている。感謝!

   Ⅱ・「応答するアブラハム」

     A.お告げになった通りに

      神の突然の語りかけに対して、アブラハムはその通りに従った。人間的に思うならば、75歳と

いう年齢、どこに行けと具体的に言われたわけでもなく、その先に何があるのか何の保証もな

いなかで第一歩を踏み出すことはとんでもないこと。アブラハムはその保証を神自身に見た。

    B.祭壇を築いたアブラハム

      アブラハムはカナンの地に入ったとき、祭壇を築いた。それは祈りと崇拝のためであり、神の

祝福の約束を思い起こすためであった。アブラハムはこの祭壇を通して常に神に対する愛と献

身を新たにしていた。霊的いのちを保つためにとても大切なこと。私たちの礼拝も同様である。

結論:アブラハムは自分自身の思う人生の旅路を歩むのではなく、神を中心とした、神の示す地に向かって、人生の旅路を歩んだ。それは、神の目に良しとされることであり、大いに祝福されることであった。私たちは自分の目に美しい道を選んでしまいがち。しかしそこには一時的な喜びはあっても、永遠の祝福はない。アブラハムのような人生の旅路を選ぶとき、神は必ず祝福されると約束されたことを成就される。その旅路こそが、その人に本当の幸せ、本当の喜びを与え、何よりも最高の生涯を送ることができるだけではなく、その先の永遠のいのちまでも保証されているのである。


# by ontheway-chapel | 2018-07-11 16:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「サウロによる迫害」

   A.キリスト教最大の迫害者

       サウロはステパノの殉教についても積極的であり、これを機に一気にキリスト教に対する激

しい迫害が起こった。その中心的存在がサウロであり、サウロは信念をもって自分のしてい

ることが正しいと信じていた。すべてに一生懸命であったサウロの迫害は徹底していた。

B.神様のなさる不思議

       神様のご計画はこの最大の敵である迫害者サウロを用いることであった。後のパウロとなる

サウロは信じた道に対して一心不乱に前進し実行する力があった。それが迫害という形でだ

された時には脅威であったが、キリスト者となった瞬間、最大の協力者となった。

Ⅱ・「開いていても何も見えない」

A.天からの光

    サウロがなおも迫害の思いに燃えて、次なるキリスト者を捕らえに意気揚々と旅していると

き、天からの光がサウロを照らした。この光は目を開いていても見えなくする光であった。

目が見えていても何も本質が見えていない時があるが、この光はサウロの心にも刺さった。

B.語られた声

    サウロは続けて「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と復活のイエスに語り掛け

られた。これは心に刺さった光と共に、サウロの心の奥深くに響く声であった。そしてその

声に従って立ち上がった。その時のサウロは出発前の自信に満ち溢れた姿ではなかった。

Ⅲ・「霊の目が開かれた」

A.アナニアとの出会い

    アナニアにとってもサウロは憎き存在であり、脅威の存在であった。できれば顔を合わせた

くないような存在。しかしアナニアは主の言葉に従った。人知を超えた主のご計画が示され

ることがある。その時自分の意思を貫くのか、それとも主に従って行動するのかが問われる。

B.目が見えるようになった

    サウロはアナニアの目が見えるようになり聖霊に満たされるようにと言う祈り。これによっ

てサウロは目が開かれただけではなく、心の目も開かれた。彼が確信をもってしてきたこと

が間違いであったことに気が付いた。霊の目が開かれたときサウロは新しく生まれ変わった。

結論:ここには様々な人間模様が描かれている。私たちも実際の日々の生活で様々な人間模様のただなかに置かれる。それは時に煩わしい関係かもしれない。会いたくないような関係。敵対する関係もある。しかし、その時私たちが自分の考え、自分の思いこそが絶対であるとして、かたくなになるのか。それとも神がそこに働かれていることを感じ取り、その神の導きに従おうとするのか。そこに身をゆだねた時、私たちもまた目から鱗が落ちるかの様に、今まで見えていたようで、見えていなかった世界が広がっていく。そして新しく見えた世界は何と素晴らしく美しいことだろうか。霊の目が開かれたとき、私たちはまた一歩主に近づくことができるようになる。


# by ontheway-chapel | 2018-07-03 10:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神に向かって祈る」

     A.神の主権を認める

       ペテロたちは自らが受けた迫害について、仲間に語った。仲間の窮地を知り、皆が心ひとつ

にして祈り始めた。祈りは天地万物を造られた主権者なる神に向けられて祈られた。私たち

には、天地万物を創造されたお方が共におられ、私たちの祈り、願いを聞いてくださる。

B.みことばを根拠に祈る

       神の主権を認めた後、彼らは詩篇のみことばに基づいて祈り始めた。その内容はイエスこそ

キリストであると理解させるものでした。しかし、みことばの通りに世はイエスを救い主と

認めず、十字架につけて殺した。すべて神の支配のご計画の通りになっている事実を認めた。

Ⅱ・「聖霊に満たされる」

A.目に見えるものにおびえる

    私たちは日々の生活において、どうしても目の前の現実に心奪われ、目に見えることに振り

回されて一喜一憂する。時におびえ、恐れを抱く。自分の力ではどうすることもできない現

実を前に、人は目に見えない何かを求め、頼ろうとする。そして救いを求めようとする。

B.目に見えないものに押し出される

    目に見えるものだけがすべてと思う時、私たちは無力感に襲われる。しかし、目に見えない

お方の守りと導きに思いが向けられたとき、唯一まことの神に従い、助けを求めた時、彼ら

は聖霊の助けに満たされた。その力に押し出されたとき、彼らは大胆に福音を語りだした。

Ⅲ・「つぶされない強さ」

A.心を一つとする

    人はどうしても自分中心に思いを向けがちであるが、父なる神のもとに神の家族としての自

分を自覚することができた時、皆が主にあって一つとなることができる。これは人間中心で

あったら絶対に不可能であるが、神を信じ続け、聖霊が満ち溢れた時に可能となる。

B.乏しい者は一人もいなかった

    神を信じる者にとって神からいただいた恵みは、神の家族で共有することが喜びとなってい

く。うれしいことがあった時誰かに話したくなるように、神様の恵みもみんなで共有したく

なるほどうれしい。だから何があっても、神の家族は決してつぶれない強さをもっている。

結論:この地上で生きるとき、時に思いがけない試練や困難と遭遇する。打ちのめされそうになることもある。しかし、私たちは決してつぶれない。なぜならば、この地上のすべてを創造され、支配されている絶対的主権者である神に祈ることができるから。そして目には見えないけれども、私たちと共にい続けてくださり、私たちの人生に深くご介入してくださる神は、私たちのために聖霊をおくり、新たなる力と勇気を与えて下さる。その時、私たちは信じられないくらいの大胆さをもって、前進していくことができる。この神を中心に心ひとつとなっていくとき、私たちはいつも必要が満たされ、乏しいことなく強く、生きることができるのだ。


# by ontheway-chapel | 2018-06-26 09:22 | Comments(0)