聖書のメッセージ

onthewaychapel.exblog.jp

川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

ブログトップ

本論:Ⅰ・「復活に対する理解」

  1. 聖書に記されている事実

    マタイは週の初めの朝にこの復活の出来事が起こったと記している。大きな地震があり、御使いが現れた。墓に埋葬されているはずのイエスはよみがえられたので、そこにはもういなかった。その後マリヤ達は復活の主に出会った。彼女たちは喜んだが、疑った者たちもいた。

  2. 多くの人が抱いている疑問

    当時も、また現代においてもイエスの復活の出来事に対しては様々な疑問が語られている。死んだ者がよみがえるはずなどないとして、実は死んでいなかった節、聖書にもあるように遺体の強奪説なども語られる。いずれにしてもイエスの復活は我々の想像を絶する出来事。

Ⅱ・「イースターの捉え方」

  1. この世的視点

    イースターという言葉を最近よく聞くようになった。あちらこちらで便乗しているかのような宣伝を聞く。しかし多くの人はイースターの意味をなんとなくしか知らない。興味関心もない。自分にとって本当に大切な必要なものであると知らないから。楽しい行事のひとつ。

  2. クリスチャン的視点

    クリスチャンにとってキリストの復活は、信仰の土台でありすべてであると言っても過言ではないほどに大切。これが真実でなければ私たちの信仰はいとも簡単に崩れ落ちてしまう。釈迦尊の骨が全世界に祭られているという。キリストの骨はない。復活されたから。

Ⅲ・「復活の恵みを味わおう」

  1. 私たちの喜び

    死というものは人生の終わりを告げるもので、誰でも避けたく、怖いものである。しかしキリストはその死に打ち勝った。それゆえに、キリストを信じる者たちもまた、この復活の恵みに与り、永遠のいのちが与えられる。これに勝る希望、勝利はない。それをいただいた。

  2. 私たちの喜びをすべての人たちへ

    イースターを祝う行事が増えてきた。これはチャンスでもある。なぜイースターが全世界で祝われているのか?キリストの復活がすべての人の喜びとなるから。私たちだけがこの喜びを味わうのではなく、すべての人がこの素晴らしい喜びを味わい共に祝えるように願う。

結論:イースターの出来事、キリストの復活は多くの人にとって戸惑い、受け入れがたいものである。弟子たちでさえすぐには信じられなかった。復活の出来事は理解することではなく信じることで、この恵みを獲得することができる。この信仰は生きている。生きた信仰をもって、イースターを喜び祝いたい。そして、さらに多くの人たちと喜び祝えるように、宣教の使命を握って歩んでいこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-04-03 09:59 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「すべて神のご計画通りに」

  1. くじを引いて分けた

    十字架刑に付き添ったローマの兵士は期せずして詩篇2218に記されている通り、イエスの着物を取り去りくじを引いて分けた。これはイエスの十字架が人々の思惑通りに行われているのではなく、神の遠大なるご計画の内に成されていることをはっきりと示している。

  2. あざけり罵られた

    イエスは道行く一般の人々、祭司長ら宗教指導者たち、そして囚人に罵られ、嘲りを受けた。これもまた詩篇2278に記されている通りであった。人々は自らの思い通りに事が進み、勝利を喜んだかもしれないが、本当の勝利は目の前で嘲られ、罵られたイエスのものだった。

     

Ⅱ・「神にのみ従ったキリスト」

  1. 十字架から降りなかった

    もしお前が神の子ならば、自分で自分を救ってみろ、十字架から降りてこいと人々はイエスに言った。イエスはそれをすることも可能であった。しかし、あえて簡単な道ではなく、苦しく辛い道を選択された。十字架から降りていたら私たちはイエスを信じられただろうか?

  2. 神に完全に見捨てられた

    神のご計画は、イエスを十字架から不思議な、偉大な力を持って降りることを人々に見せることによってその栄光を現そうとはしなかった。むしろ最後まで神のご計画通りに十字架にとどまり、完全に死ぬことが神のご計画であった。人々ではなく、神のご計画が優先される。

Ⅲ・「キリストの視点に生きる」

  1. サタンに打ち勝つ人生

    私たちは神はどうして御子を見捨てて、十字架上で死に渡されたのか?もっと別の方法で栄光を現すことはできなかったか?と思ってしまいがち。しかしそれはまさにあの荒野での誘惑そのものである。サタンは巧みに私たちを誘導する。それは勝利から遠ざける働きである。

  2. 人の力ではなく愛を見よう

    ユダヤ人たちが期待したことは、イエスが不思議な力を持って、また神の軍勢を用いて十字架から降りることであったかもしれない。人々はイエスの力を見ようとした。しかし、イエスは十字架上から人々に犠牲の愛を通して神の救いのご計画見せた。私たちは何を見るか?

結論:もし、イエス様が十字架から人々の求めるように降りることができたら、人々は果たして本当にイエスを救い主として信じるだろうか?少なくとも現代に生きる私たちは十字架から降りたキリストではなく、十字架にとどまったキリストを信じる。目先の勝利ではなく、永遠の勝利に生きたイエス様の歩みこそ、私たちは真実を見出すことができる。私たちにとっての十字架はイエスの力ではなく、無力さのように見える背後にあって、神の愛を示し、そのご計画に完全に従いきった真の勝利の象徴である。この朝、もう一度私たちの救いのために成就されたキリストの十字架を思い、感謝をもって応答していこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-03-29 11:02 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「静まりを求めたイエス様」

  1. パレスチナから出たイエス様

    ユダヤ人が住む地域ではどこに行ってもイエス様の後を追う人で混雑していた。そのため、静まるためにはパレスチナの地域外に行くしかなかった。ユダヤ人たちは異邦人と接することを嫌っていたので、さすがにそこまで追いかけるユダヤ人はいなかった。

  2. 心備えの時

    イエス様と弟子たちがそこまでして人々から離れようとしたのは、いよいよ十字架の時が近づいていたからであり、イエス様はそのために特に弟子たちのために静まり、心備えるための時を必要としていたためである。それは逃避ではなく心備えのための行動であった。

Ⅱ・「異邦人の女性とイエス様」

  1. カナン人の女

    しかしここでもイエス様のことを知って近づいてきた女性がいた。彼女には重病の娘がいた。そこで真剣に助けを求めた。イエスは最初女性と距離をとろうとした。しかし、弟子たちはあまりにしつこいために何とかしてほしいとイエスに頼み、この女性を追い返すよう願った。

  2. 犬と呼ばれた女

    当時、ユダヤ人たちは傲慢にも自分たち神に選ばれし民であるユダヤ人以外の異邦人を「犬」と呼んで侮辱した。犬とは野良犬で道に捨てたごみをあさる不潔な犬。しかしイエス様は小犬と呼んだ。そこにイエス様の愛を見ることができる。それは野良犬ではなく愛玩犬の意味。

Ⅲ・「立派な信仰の女性」

  1. 愛と信仰を持っていた

    この女性は娘のことを何とかしたい、助けたいという子どもの苦しみを自分のものとする愛を持っていた。また、イエス様を最初は人間として恩恵を求めて近づいた。しかし、イエスに触れた時、彼女の信仰はイエスを主と呼ぶ、生ける神に対する信仰へと変えられた。

  2. 礼拝した

    この女性は最初イエスの後を追いかけた。やがてひざまずいた。必死の願いが、祈りに変わっていった。イエスのもとに行き、主の栄光を賛美し、そこに最大限の信頼と忍耐が育まれていった。単なる期待から、唯一の希望としてイエスを礼拝した。これらが立派な信仰となる。

結論:イエス様の元にやってくる人には、様々な動機があるだろう。実にこの世的な願い事を持ってくる人がいるかもしれない。本当に切なる願いをもってやってくるかもしれない。特に期待もなく、気が付いたらイエスの元にいたということもあるかもしれない。しかし、いずれもイエスと出会い、そこに本物を見出すことができた時、その人の心は大きく変えられる。イエスに期待し、唯一の希望を見出し、そこに生きる確信をいただく。だからこそ、その人の人生は愛と希望と喜びに満ち溢れた幸いなものとなっていく。


# by ontheway-chapel | 2018-03-22 17:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「誰もが持っている弱さ」

  1. 他人に厳しく自分に甘い

    イエスの元に来た律法学者とパリサイ人は一人の女性の罪を訴え出た。一見すると立派な正義感あふれる行動に思える。しかし、彼らの律法に対する熱心さは他人に対してのものであり、自分自身には向けられていなかった。人のことは見えるが自分の欠陥は見えにくいもの。

  2. イエスを試そうとした

    律法学者とパリサイ人が女性をイエスの元に連れてきた動機は、イエスを試そうとしたとあるように不純なものであった。それに対するイエスの答えは実にすばらしく、ぐうの音も出ないものであった。人の弱さ、策略をいとも簡単に解決するイエスのすばらしさをみる。

   Ⅱ・「解放されるイエス様」

  1. 女性を解放された

    姦淫の罪で連れてこられた女性は、イエス様とであったことで罪から解放された。人間同士が誰かをさばくことはできない。その権威をもっておられるのはイエス様だけ。そのイエス様が女性を解放された。イエス様の元に女性が行ったとき、この女性の罪は解放された。

  2. 私たちをも解放される

    私たちも同様に、イエス様の元に行くとき罪から解放される。それは罪だけではなく、すべてのしがらみからも解放される。ただ天を見上げ、喜びと感謝と平安に満ち溢れた日々を送ることができるようになる。イエス様の十字架の恵みによってそれが可能となる。

結論:多くの人は自分で必死にがんばって、努力して自分の弱さを克服しようとする。しかしそこには限界がある。人が他人の罪を裁けないのと同じように、自分の罪も裁けないから。様々な困難に対しても同様にである。すべての物事の解決をイエス様の元に持っていくとき、そこに真実の解決があり、私たちはそうした問題、困難から完全に解放される。イエス様だけが私たちの進むべき道を開いてくださるお方。このお方に信頼して歩んでいこう。その人生は最高に素晴らしいものとなる。
# by ontheway-chapel | 2018-03-12 15:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「新しい基準」

  1. モーセ律法の基準

    モーセの時代に与えられた十戒の中に「殺してはならない」とある。これは当然さばきの対象となることは誰もが理解できることである。なぜならば目に見える行為であるから。しかしこれは、人の目だけを意識したなかでそれがさばきの対象であるかという基準ともいえる。

  2. イエス様の言われた基準

    しかし、イエス様がもたらした新しい基準は腹を立てるという人間の内面にまでご存知である神様の視点、心の部分にまで及んでいる。律法は外に現れる罪のみではなく、神の前において心、態度、感情もその対象となっていくという全く新しい基準が示された。

Ⅱ・「人と人との和解」

  1. 知らぬ間の罪もある

    当時、ユダヤ人たちがささげもの一生懸命にささげた理由の一つに、自分の知らないところで犯してしまったかもしれない罪があるならば、このささげものを持って赦しをいただく、和解をいただくというものがあった。罪、神に対して、意識の高さがあるからこその行為。

  2. 思い出したが和解のチャンス

    イエス様はささげものをささげている最中にでも、誰かにしてしまった過ちを思い出したならば、和解を何よりも最優先にしなさいと教えた。神と人との和解の前に、まず張本人との和解を大切にすることが奨められている。私たちは和解すべき人がいるだろうか?

Ⅲ・「神と人との和解」

  1. 神は待っていてくださる

    神と人との和解について、神はいつでも私たちと和解したいと願っておられる。それも表面的な和解ではなく、真実の悔い改めを経ての和解である。たとえどのような罪を犯してしまったとしても真実に悔い改めるならば、神は和解してくださる。神だけがさばき主だから。

  2. 和解なしに希望はない

    神との和解がなされないならば、人は永遠に真実の希望や平安を得ることはできない。なぜならば、神との和解がなされない先には、究極のさばきがあるから。神はすべての人と和解をしたいと願っておられる。神に赦されたならば、これ以上の安心、喜びはない。

結論:イエス様は新しい基準を示すことを通して、真実の神との和解の必要性を教えてくださった。そして、そのために自らが十字架にかかって死んでくださった。この十字架を通らなければ、真実の和解は成立しない。イエス様の血潮によって、私たちは初めて神様と和解をすることができる。そしてその過程において、人は自らの弱さを認め、罪を認め、そして悔い改めてイエス様の十字架の前に立つ。そこで罪赦されたとき、私たちは神様との和解の場へと誘われる。そして本当の平安、喜びを感じて日々の生活を幸いを感じつつ、充実して送ることができる。神との和解をしっかりと果たそうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-03-07 13:39 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「苦しむ者の幸い」

  1. 厳しい現実

    私たちを取り囲む現実に目を向けるとき、当時の迫害と比べたら殉教とは違うが家族に、友人に信仰を告白し、救いへと導くことの難しさにおいては、かなり厳しい道を通らされる。時に家族を失い、友人を失うこともある。しかしそれは義への道であり、栄光への道である。

  2. 報いは大きい

    厳しい現実の中にあって、私たちには希望がある。迫害は嘆き、悲しみではなく、喜びへとつながっていく。なぜならばその先には栄光の義の冠が待っている。地上においては敗北者のように感じるかもしれないが、天における報いは大きく、そこにこそ本当の価値がある。

Ⅱ・「祝福に伴う責任」

  1. 地の塩である責任

    イエスの時代の人々にとって塩とは「純潔」を連想させるものであった。また、塩は「防腐剤」という役割もあった。そして最大の特質として「味を付ける」という特色があった。私たちは世の人たちに対してこのような存在として生きる責任が与えられている。

  2. 世の光である責任

    光としての役割には「人に見られる」というものがある。また「光は人を導く」役割がある。さらに「光は警告をする」私たちがこのような存在として世に輝く者であるようにという責任がイエス様から託されている。この世のいついかなる時も光を放つ存在でありたい。

Ⅲ・「父があがめられるように」

  1. 父と子の関係

    マタイの福音書の中で初めて神を父として表現しているのがこの箇所。父と子どもの関係は実に親密である。子どもは父親に全幅の信頼をもって接する。素直に感謝する。私たちと神様の関係もそうでありたい。自分の喜びを父が一緒に喜んでくれると信じる幼子でありたい。

  2. すべては父のために

    D.L.ムーディーはかつて徹夜祈祷会が終わった学生たちに「僕たちの顔輝いているでしょう」と言われたとき「モーセは自分の顔が輝いていることを知らなかった」と伝えた。私たちはつい自分を誇ってしまうが、すべて神がなしてくださったと確信して生きていきたい。

結論:私たちの全ての基準が神様に向けられるならば、イエス様をお手本としてイエス様のように生きようとするならば、この地上における様々な苦しみも、喜びへと変えられていく。そのように生きるとき、私たちへの報いは大きな祝福となる。そのためにも祝福に伴う責任を果たしていきたい。地の塩として世の光として生きるとき、私たちは託された責任を果たすことができる。そしてそれらすべては自分のためのように思えても神様のためであることを忘れないようにしたい。自分がほめられ認められるのではなく、父なる神が、イエス様があがめられるためにすべてのことを成していきたい。


# by ontheway-chapel | 2018-02-27 10:10 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「買い戻しの協議」

  1. 律法に基づく交渉

    ボアズは早速行動に出て行く。そしてその進め方は実に律法にかなった正しいものであった。

    買い戻しの筆頭権利を有する者と、町の長老を集めて正式にエリメレクの畑とルツを買い戻すことを協議していった。その結果、ボアズは畑とルツを買い戻すことが正式に決定した。

  2. 背後にあった神の采配

    私たちの視点で聖書を読むと、ルツ記の話はとてもすがすがしい結末によってすべてがうまくいって良かった、となる。しかし背後には神の遠大なる視点があったことを見落としてはいけない。すべてが主の采配のうちにあり、そこに従った信仰者の姿から教えられたい。

Ⅱ・「ルツへの報酬」

  1. モアブ人ルツ

    ルツはモアブ人であり、ナオミの息子と結婚したことによってその人生が大きく変換していく。申命記で「モアブ人は主の集会に加わってはならない」とあるようにイスラエルとの交わりから除外されるような存在であったが、神のご計画において大切な役割が与えられた。

  2. 買い戻されたルツ

    ルツはついにボアズとの結婚が正式に認められた。それはナオミの信じた神を自分の神と宣言するほどに、主と共に歩むことを願い、主に仕え、人に仕えた。思いがけない逆境をも用いて、人の思いを超えて豊かな報酬をもたらす神の姿をこのルツ記に見ることができる。

Ⅲ・「祝福の道を歩もう」

  1. キリストへと続く道

    ボアズとルツの間に生まれた子どもはやがてダビデへと続き、ついに救い主イエス・キリストにまでたどり着く。誰もが願う救い主の系図にモアブ人ルツの名が記されていく。目の前に見える祝福だけが喜びではない。祝福の喜びは神の遠大なる視点を喜ぶことでもある。

  2. 祝福はすべての民に

    モアブ人ルツがキリストの系図に記されることはとんでもないことである。しかし、そこに神の本当の救いのご計画を見ることができる。世から排斥されたか見える存在にまで目を向けてくださり、惜しむことなく祝福を与えてくださる神。私たちも祝福を存分に味わおう。

結論:最初のルツは未亡人となり、異邦人としてイスラエルにやってきた。それは人生においてはどこに希望を見出していいかわからないほどに、辛く過酷な人生であった。にもかかわらず、あなたの神は私の神と主に信頼し、従って歩むことを決心したとき、その道は大きく開かれていった。神の目はすべての人に向けられている。救い主は誰か特定の人種、優れた民だけにものではなく、世から見捨てられ、排除されたと感じるような存在にまで恩寵の御手を差し伸べて下さっている。すべての人を抱き寄せ、愛してくださる神の姿をルツに見ることができる。神はすべての人に祝福を注ごうとしておられる。この祝福をしっかりと抱き寄せ、主と共に歩む者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-02-21 17:07 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「どん底からの希望」

  1. ナオミではなくマラ

    かつてナオミはイスラエルに戻った際(119~)ナオミ(快い)とは呼ばずにマラ(苦しみ)と呼ぶよう訴えた。確かにイスラエルを出てモアブの地において夫と2人の子どもに先立たれ、大きな苦しみを味わった。私たちもそのようなとき、神様を遠く感じるかもしれない。

  2. マラからナオミへ

    1章で苦しみ、卑しくされ、つらいめに会わせられたと感じたナオミ。しかしボアズとルツの出会いに神のしるしを見ることができた時、マラからナオミ(快い者)として扱われていることを再確認した。どん底と思えるところにも神の光は必ず届く。神の恵みを掴もう。

Ⅱ・「買い戻しの恵み」

  1. 買い戻しの権利

    当時の律法においてナオミは夫に先立たれたために、死んだ夫に最も近い親族がその家を買い戻し、未亡人と結婚することができたが、拒否することもできた。もし誰もその未亡人を助けようとしなかった時には、残りの人生を貧困の中で絶望と共に生きねばならなかった。

  2. ナオミを信じたルツ

    ナオミのルツへの申し出は、異邦人のルツには不思議に感じたかもしれない。しかしルツはナオミを信頼し、ナオミの言う通りに従った。ナオミの人柄にもよるが、その背後にある信仰、神の導きに従ったと見ることができる。納得しなくても従う信仰を求めてみよう。

Ⅲ・「買い戻された私たち」

  1. ボアズの誠実さ

    ボアズはルツに対して、とことん誠実であった。決して欲におぼれず律法に対しても忠実であった。そして愛と慰めに満ち溢れていた。私たちにとってのボアズは誰であろうか?一歩間違えばどん底に落とされる絶望から買い戻し愛と慰めと誠実に満ち溢れたお方がいる。

B.キリストによる買い戻し

ルツはボアズという存在と出会うことができた。私たちはキリストという存在と出会うことができ、十字架上の死によって罪による絶望から希望へ、苦しみから喜びへと贖い出し、私たちを買い取ってご自身のものとしてくださった。永遠に消されない財産が保証された。

結論:ナオミはルツの幸せを願った。そして、自らの苦しみの先にある希望を主の導きの中に見つけることができた。それはボアズであり、買い戻しの制度であった。ルツはその恵みの中で異邦人でありながら、この唯一まことの神の導き、神の律法に従い歩んだ。私たちも思いがけない苦難、痛みを覚えることがある。しかし、神は私たちを見捨てることなく、愛と慰めと誠実さをもって私たちを守り、救ってくださる。ルツにはボアズが与えられた。私たちにはキリストが与えられた。このキリストによって私たちは、絶望から希望へ、苦しみから喜びへとその方向を転換させることができ、栄光の勝利に向かう歩みへと誘われている。この恵みをしっかりといただき、存分に味わおうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:01 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「落ち穂拾いに行ったルツ」

  1. 律法に支えられたルツ

    当時イスラエルの律法においては貧しい立場に置かれている人(やもめや在留異国人など)に対して、施しを与えるよう奨められていた。神の目的はすべての人の幸せであり、神がすべての人を愛されたように、私たちにもすべての隣人を愛するよう願っておられる。

  2. ナオミに仕えたルツ

    ルツが働いた動機の一つには、自分の生活を守ることと同時にナオミの生活を守るためでもあった。ルツはあなたの神は私の神というほどに主を真摯に愛し、同時に自分の隣人であるナオミをも真摯に愛した。ルツの生き方は神(縦)と人(横)の関係においてお手本となる。

Ⅱ・「一生懸命働いたルツ」

  1. 重労働に励んだルツ

    落ち穂拾いの働きは、身分の低い人たちがする仕事であり、大変な重労働であった。身も心もくじけてしまいそうな働き。しかし、ルツは自ら出て行き、休みもせずに一生懸命働いた。私たちも本意ではない働きに召された時、このルツのような姿勢が求められていく。

  2. ひたすらに生きる

    私たちに与えられている働きは何だろうか?その動機は自分がしたいことなのか、神様から与えられているものなのか確認したい。いやだと思う働きでも、それが主から与えられているものであるならばそこに従いたい。その先には思いがけないチャンスが広がっている。

Ⅲ・「主の恵みをいただいたルツ」

  1. ボアズとの出会い

    ルツとボアズとの出会いは、偶然行った先の畑の持ち主という関係ではなかった。主が与えてくださった祝福であった。ボアズは律法に定められている以上の行為をもってルツをもてなした。ルツが神様と共にいることを願ったとき、神様は喜びをもってルツを祝福した。

  2. どうしてこんなに親切に

    ルツはボアズにこのような自分に対する過剰なほどの施しに対して戸惑いと感謝の意を示した。神様は求める者には惜しむことのない恵みを与えて下さる。真摯に人に尽くし、真摯に働き、真摯に主を求めたルツに神は最高の(後のイエスにまでつながる)恵みを与えた。

結論:ルツの落ち穂拾いの話は絵画などでも有名である。しかし、その背後にある素晴らしい神様の恵みについては、見落とされてしまいがちである。落ち穂拾いができる環境を与えたのも主ご自身であり、ボアズとの出会いを演出されたのも主ご自身である。そして惜しみない恵みを注がれたのも主ご自身である。そこにルツの真摯な姿勢が加わる時、あまりにも美しい世界が広がっていく。私たちにも同じチャンス、恵みが備えられている。真摯に主を待ち望む者とさせていただこうではないか。


# by ontheway-chapel | 2018-02-06 17:00 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「キリスト不在の希望」

  1. 希望とは

    多くの人が希望とは何か?と問われたら「将来的に何か良いことが起こるのではないかという期待」というものを漠然と思い描くだろう。そしてすべての人がこうした希望を胸に抱く。しかし聖書に記されている希望とは、神を信じて救われた者に与えられる賜物である。

  2. 漠然とした希望

    こうした希望を抱く中で、その希望の根拠はどこにあるかと問う時、大きく二つに分かれる。それはキリストがそこにあるかないかである。キリスト不在の希望は無知であり、欲に満ちたもの(14節)であり、自分中心の虚しい、先のないものとなってしまう。

   Ⅱ・「キリストに満ちた希望」

  1. 聖なるお方から与えられた

    ペテロは私たちの信仰と希望は神にかかっている(21節)という。つまり、その根拠は神にあるとしている。神は聖なるお方であり、その神がなしたキリストの復活によって生ける望みが与えられた(3節)とあるように、地上のみならず永遠に約束された希望を握っている。

  2. キリストを信じる

    イエス・キリストを信じるという信仰、神に対する畏敬を希望の源とするとき、その人の人生は希望に満ち溢れたものとなり、喜びと感謝が心に迫って来る。神はすべての人に希望を求める思いを与えている。その根拠をどこに置くかが問われている。本物の希望を求めよう。

結論:目の前の小さな希望、遥か彼方にある大きな希望。誰もが抱く希望の根拠をどこに置くかによって、その希望の先にある大きな喜び、感謝にたどり着くか否かに分かれる。キリストによる希望は最終的には終末的な希望とつながっていくが、将来的なことに限らず、この地上においてもすでにこの希望によって私たちの日々の生活、人生がより豊かにされ、確かな根拠をもって希望を見据えて喜び、感謝して生きることができるようにされている。将来の希望が見出せない時代にあって、私たちは本当の希望をいただいている。確かな根拠をもって希望をはっきりと見出すことができている。この希望の光は、決して消えることなく、失われることがない。それが聖書の教えであり、神を源とした希望の確かさである。


# by ontheway-chapel | 2018-02-06 16:59 | Comments(0)