聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「罪と死」

  1. 死と向き合うとき

    パウロは最初にひとりの罪によって人類に死が入ったという。パウロはこの書の中で初めて「死」について語った。パウロは罪についてよりも死について意識を向けて語っている。死は人類にとって決して避けられないもの。死を見つめる。

B.罪と向き合うとき

       パウロは死と向き合うと同時にそこから救われる喜びを見出した。あれほど恐

ろしい死から救われる。私たちも救いの恵みをより深く味わうためには、自分

の罪と向き合うことが必要であり、そこから赦された恵みに目が向けられる。

Ⅱ・「ひとりの罪とひとりの義」

  1. アダムの罪

    パウロはここでアダムの罪に言及する。アダムは間違いなく人類すべての祖先。そのアダムが犯した罪によった与えられた死が後の全人類にまで及んだ。アダムと全人類との連帯。しかし、私たちもアダムと同じように罪を犯している。

B.イエスの義

    イエス・キリストが私たち全人類の罪の刑罰を身代わりとなって十字架におい

て受けてくださったゆえに人々の罪は赦された。同時にキリストは復活によっ

て死をも克服された。イエスと全人類との連帯。しかし、誰にもできないこと。

Ⅲ・「恵みによるいのち」

  1. 何に支配されるか

    人は必ず死ぬ。決して避けることはできない。だから死に支配されているのか?同時にキリストにあるいのちに支配されることについて言及している。死に支配されるならば死は絶望となり、いのちに支配されるならば死は希望となる。

B.永遠のいのちに至る恵み

    いのちに支配されるとはどういうことだろうか?私たちの生き方の中心を罪

(自分)中心から、いのち(キリスト)中心に変えるということ。自分の努力

ではできない。神の愛と憐みによって一方的に与えられる素晴らしい恵み。

結論:私たちは罪を犯します。心の中でとんでもない恐ろしい思いを抱くことがあります。時にはそれが表に出て、意図的、意図的でないにかかわらず、誰かを傷つけたり、逆に思い切り傷つけられたりもします。それら罪の先には死が待っています。しかし、イエス・キリストの十字架の贖い、復活の恵みによって私たちの罪が赦され、さらに永遠のいのちが与えられます。自らの罪を認め、悔い改めてキリストの支配に身を置くならば、アダム以来の罪と死がこのキリストの恵みによって覆われ、これらから完全に勝利されます。死はもはや恐れ、絶望ではなく、希望、喜びと変えられていくのです。


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# by ontheway-chapel | 2017-05-15 08:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


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# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


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# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「とれなかった魚」

  1. テベリヤの湖での出来事

    テベリヤの湖とはガリラヤ湖のこと。エルサレムで復活のイエス様と出会った弟子たちはガリラヤに戻っていた。そこで漁師だったペテロは必要な食物を求めて漁に出た。かつて彼らはこれから人間をとる漁師になるようにと言われていたが、この夜は全く釣れなかった。

  2. 夜更けと夜明け

    夜中は光のない状態。イエス様無き状態。本来ならば夜は魚を釣るには絶好の時間。しかし釣れなかった。イエス様無き宣教、イエス様に信頼しない宣教は実を結ぶことはない。夜明け、イエス様と一緒の時に魚は釣れた。イエス様に頼ることがどれほど大切なことか。

Ⅱ・「思い出した弟子たち」

  1. イエス様との思い出

    弟子たちはかつて同じような場面に遭遇していた。その時も自分たちの力で頑張ったとき、魚は全く釣れなかった。しかし、イエス様に言われたとおりにしたとき、大漁となった。それを思い出した時、彼らの目が開かれて、目の前にいるのがイエス様であると分かった。

  2. 少しでも速く!

    復活のイエス様との出会いはどのような時であっても人の心を喜ばせる。ペテロは湖に飛び込んで少しでも早くイエス様の近くに行きたかった。イエス様が共におられると実感して心躍り、飛び上がるほど喜びと感動があるだろうか?イエスが共におられるとは喜びである。

Ⅲ・「共におられるイエス様」

  1. イエス様を体験する

    彼らはそこにいるのがイエス様であるとわかっていたので、あなたはどなたですかとは尋ねなかった。多くの人はイエス様が共におられることを知らないから必死に色々なところに拝みに行き、助けを求め迷走している。私たちはもう名を尋ねなくても迷わなくてもよい。

  2. 神の大きな愛

    魚の数153匹について様々な解釈があるが、どんなたくさんの魚が入っていてもその網は破れなかった。天の御国もどれほどたくさんの人が救われ、天国に行くことができても十分に受け入れるだけの準備がなされている。私たちも網から零れ落ちることなく天国を目指そう。

結論:十字架の死に勝利した復活のイエス様は「世の終わりまであなたと共にいる」と約束された。そして弟子たちに世界宣教のビジョンを託された。そのおかげで日本に住む私たちも救いの対象となり、素晴らしい恵みを受けることができた。弟子がイエス様を見つけて居ても立っても居られない気持ちで湖に飛び込んだように、私たちもそのイエス様がいつも共におられることを喜び、感謝したい。決して毎日が楽しいわけではない。痛み、苦しみ、悩みもある。しかしイエス様が私たちと共にいてくださる。もうこれから決して離れることはない。死んでも離れない。ずっと一緒。だから安心して毎日を喜びと感謝をもって過ごそう。


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# by ontheway-chapel | 2017-04-23 07:33 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活に見る人々の反応」

  1. 女性たちの反応

    イエスの墓を見に行った女性たちは、空っぽの墓を目撃した。しかも御使いを通してイエスがよみがえられたというではないか!そんなこと信じられない。ごく自然な反応であるが、彼女らは御使いの言われた通り、イエスの復活を大喜びで宣べ伝えに行った。イエスの復活は、人々に大きな喜びをもたらした。

  2. 祭司長たちの反応

    一方、墓からイエスがいなくなったことを知った祭司長たちは、墓の番兵に金を渡して嘘をでっちあげるように命令した。彼らは陰謀をもってイエスを捕らえ、嘘偽りを並べて裁判にかけて、イエスを十字架にかけた。そして復活の事実も捻じ曲げようとした。しかし、そのいずれも失敗に終わっている。どんなに人が知恵を振り絞っても、神のご計画は超えられないのだ。

   Ⅱ・「最後のみことば」

  1. 出て行きなさい

    イエスが弟子たちに現れたのち、弟子たちに「出て行ってキリストの弟子を作るように」と命じられた。それは現代において私たちにも託された命令でもある。たとえその人がどのような過去を持っていたとしても、イエス・キリストの十字架と復活を信じていくならば、全く新しい人生がスタートする。新しいスタートを共に切ろうではないか。

  2. 共におられる

    少し前までイエスの死に落ち込み、逃げ隠れていた弟子たち。そのような状態でどうして出て行ってキリストを伝え、弟子を作ることができるだろうか?しかし、イエスは「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」と約束された。私たちは弱い存在であり、欠けだらけな者。しかし、死をも克服され、勝利されたお方、不可能と思えたことを可能にされた方が共にいてくださるとき、私たちには勇気と力が与えられる。

結論:死んだ人がよみがえる。かつての私は最後の最後までこの事実を受け入れることができなかった。そんなこと有り得ない。証拠を見せて見ろと息巻いていた。しかし、キリストの復活は事実であり、今も生きておられる。だから私たちは死の先にある希望(天国)を見上げて生きることができる。このような本来ならば天国に行くに値しないような者にその切符が与えられている。これほどうれしいことはない。しかも、先に召された方々とそこで互いによみがえって再会できる。この事実を共に喜ぼう。そしてイースターをお祝いしよう。


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# by ontheway-chapel | 2017-04-17 08:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「イエスの死」

  1. 十字架上のイエスのことば

    イエスは十字架上で7つの言葉を発したといわれている。それは赦しであり、祝福であり、旧約聖書に記されていたことの成就でありました。イエスは最後まで神の御旨に従い、その使命に生きた。その目的は私たちの罪の身代わりであり、私たちの救いのためであった。

  2. わが神、どうして見捨てるのか

    十字架上における第4のことば。私たちにとって神に完全に見捨てられるほど恐ろしいことはない。人類すべての罪を背負ったイエスはその恐怖をも背負ってくださった。しかしこれによって私たちには神との真実の和解の道が開かれた。その中心にはイエスの愛がある。

Ⅱ・「勝利に向かって」

  1. 幕が裂けた

    イエスが息を引き取った時、神殿の幕が裂けた。この幕の奥には大祭司だけが年に一度だけ入ることができる神と人との隔ての幕であった。しかし、イエスが人類すべての罪を負って身代わりとなったことで、この隔てが取り去られた。古き時代の終わりの瞬間であった。

  2. 墓が開いた

    幕が裂かれた後に幕が開いた。これはまさに新しい時代の幕開けであった。つまり、イエスが死を克服された象徴でもある。イエスが死に勝利した、つまり私たちにも完全なる勝利の道が開かれたことを意味している。イエスを信じる者たちの未来への希望が開かれたのだ。

Ⅲ・「葬られたキリスト」

  1. 勇気をもって

    アリマタヤのヨセフというイエスを十字架につけた側のグループに属していた一人の人物が、勇気をもってイエスの埋葬を申し出た。それは自らのこれからの立場を危うくしかねない行為であったが、彼は人々の目よりもイエスのためにできる最善の道を選んだ。

  2. 死んで葬られた

    イエスは十字架上で完全に死に、そして墓に葬られた。これは間違いのない完全な事実である。なぜならば、私たちの罪が完全に赦されるためには完全に死ななければならなかった。他の人々と同じように墓に葬られた。しかしこれは敗北ではなく完全な勝利への道であった。

結論:イエス様は十字架上で何を考えていたのでしょうか?痛みから早く楽になりたい、この苦しみから逃げ出したい、どうしてこんな目に合わなければならないのか、などなど自分のことだけを考えていたのでしょうか?いや、おそらくご自身を通して神様が示そうとされた神の人類に対する愛を思っていたのではないかと思うのです。では、神が御子イエス様を通して示された犠牲の愛に対して、私たちはどのように応答すべきでしょうか?私たちがこの愛を知って、この愛によって生かされる。これまで培ってきた自分中心の自分を捨てて、全く新しい神の愛に生きる生き方を目指していこうではありませんか。


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# by ontheway-chapel | 2017-04-11 15:11 | Comments(0)
本論:Ⅰ・「二人の息子の話」
  1. 口だけで従った者

    兄は父の願いに快く返事はしたが、実際には従わなかった。これはまさに表面的には宗教的敬虔さを装っていながら、実際には自らの名声を求めていた当時のユダヤ教指導者たちの姿である。彼らは「先の者」であり、イエスを救い主と認めることができなかった者たち。

  2. 実際に従った者

    一方、はじめは拒んだものの、悪いと思い出かけていったのは、取税人や遊女であった。彼らはカイザル(ローマ)に仕え、または姦淫を犯して神に背いていた人たちであった。しかし、彼らはヨハネの悔い改めを受け入れ、イエスに従うことができた「あとの者」であった。

Ⅱ・「ぶどう園の譬え」

  1. 譬えにおける登場人物

    この譬えにおいて、ぶどう園はイスラエルの民を、ぶどう園の主人は神ご自身を、農夫はイスラエルの宗教的指導者。しもべは預言者たちであり、息子はイエス様であった。そしてこの譬えは当時のパレスチナにおいてはごくありふれた身近な光景であったという。

  2. 譬えから教えられること

    この譬えにおいて神、人、キリストという3つのことについて教えられる。神は人を信頼し、忍耐された。人は特権と自由が与えられたが、同時に罪と清算が与えられていた。キリストは神の子であること、そして犠牲を負うという神のご計画と福音が明確に語られている。

Ⅲ・「キリストのさばき」

  1. さばきを与える主

    旧約聖書には石について語られている個所がいくつかある。(イザヤ書8章、28章、ダニエル書2章)そしてそれらはすべてイエス・キリストを指している。イエスはすべての礎となる石であり、すべてを組み合わせる石となり、拒む者にはさばきの砕く石となる。

  2. 罪に光を当てる主

    イエスはこれらの譬え話のなかで、人々に自らの罪を認めることができるようにと促し、気づきの機会を与えてくださっている。神の深い憐みと恵みに感謝しよう。このキリストの光に対して、罪を認めて悔い改めるのか、なお逆らい続けるのか。私たちは問われているのだ。

結論:私たちは神の恵みと憐れみを存分に受けているが、実は多くの人がそこに気づいていない。だから、イエス様の十字架も他人事で、自分には関係ない、必要ないと感じている。でもそのままでは、人間はやがて神のさばきにあって滅びの道に進んでしまう。そうならないために、神はイエス・キリストを通して、私たちが罪を認め、悔い改めて救いの道に進むことができるように道を備えてくださった。その道に進むのか、拒んで滅んでいくのかは私たち人間に託されている。自らの罪を認め、救いの道へ、天の御国を目指そうではないか。





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# by ontheway-chapel | 2017-04-02 21:16 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「福音の奥義」
A. 賢く知恵のある者たち
イエスは知恵を否定しているわけではない。知的な誇りを非難した。福音を阻止するのは誇りであるという。律法学者やパリサイ人たちは知的には優れていた。しかし、彼らはそれを誇ってしまったので目がくらみ、イエスがメシアであることを認めることができなかった。
B. 幼子たち
一方で単純で心開いた者たちに福音が掲示されることをイエスは示された。そこにはプライドや意地はなく、全面的にイエスに従うという姿勢が求められているという。イエスの言った「ほめたたえる」とは全面的に同意するという意味。幼子は全面的に親を信頼する。

Ⅱ・「イエスの招き」
A. 重荷を負っている人たちへ
当時のユダヤ社会において、律法主義的な戒律が重荷であると感じている人が多くいた。それは彼らを多いに苦しめていた。また、自らの罪という重荷に苦しんでいる人たちもいた。自分ではどうすることもできない重荷を解決してくれる場所があるとイエスは招いた。
B. 疲れ果てている人たちへ
イエスはさらにこうした重荷を負って、人生に疲れ果ててしまっている人、悩み多きなかで、どうすることもできずに絶望するしかないと思っている人たちに対して、自分のところに来るならば、心身ともに解放され、ゆっくりと休み癒すことができると招いてくださった。

Ⅲ・「イエスのくびき」
A. イエスのくびきとは
くびきとは耕作するときに牛や馬の首にかける道具。きままに歩むときには邪魔となるが、主人の命令に従うには必要なものであった。イエスのくびきは私たちの負担とはならない。なぜならばイエス自身が共に負ってくださり、私たちにとっては祝福、勝利につながるから。
B. イエスに学ぶ
イエスに学ぶとは知的に何かを学ぶというよりは、イエスに見習うという意味。現代において疲れ悩んでいる人たちが、イエスに目を向けるとき、それらを解決する唯一の道を知ることができる。イエスの歩みを学び求めるとき、私たちの重荷はすべて解放されるのだ。

結論:この世には私たちを煩わせる多くの悩み、痛み、苦しみ、重荷がある。そしてそれらと向き合いながら、しかしそこから逃げることもできず、もがき疲れてしまう。一時しのぎを繰り返しながらかろうじて保つ生活は終わりがなく、辛い。しかし、イエスの招きに従うとき、イエスを見てイエスの生涯を求めるとき、私たちは休むことができ、疲れが癒される。そして抱えている重荷すら解き放たれる。なぜならばイエスが私たちのくびきを追ってくださり、絶望ではなく希望と喜びの道へと誘ってくださるから。




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# by ontheway-chapel | 2017-03-19 01:17 | Comments(0)