聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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本論:Ⅰ・「市民として生きる」

  1. キリスト者の義務

    キリスト者としてこの地上に生きるとき、誰もがそれぞれの国、地域のなかで市民としての義務を負って生きている。原始教会においてもこの問題は同じで、そのなかで何に従って生きるのか、その基準がすでに築かれていた。パウロもペテロもこの問題に触れている。

  2. 主のゆえに従う

    それぞれの国地域にある様々な制度は人が作ったものであるが、それらは神によって立てられ、神の御心にかなった人間の秩序であるという。同時に法と権威は神にあるのだから、キリスト者はその制度に従え、と勧められている。イエスも世の制度の中で生きた。

Ⅱ・「自由人として生きる」

  1. 神の奴隷として

    私たちはそれぞれの地域に生かされている。しかし、そもそものいのちを与えられ、生かしてくださるお方は神である。この前提があってはじめて人は本当の自由を獲得することができる。神の奴隷とされることはキリスト者の特権であり、自由人として生きる必要なこと。

  2. 自発的な服従

    ペテロはキリスト者としてこの世の制度に従うとき、自由人であると勧めた。それは、キリスト者が神の奴隷であるという前提において、しかしそこには強制ではなく、主に仕える喜びをもって行う自発的な、積極的な服従であるという。そこにあるのは喜びである。

Ⅲ・「4つの勧め」

  1. 敬い、愛しなさい

    すべての人を敬う。言葉は簡単でもなかなか実践できないのが私たち人間の弱さである。当時のローマには6千万人もの奴隷がいたという。兄弟たちを愛する。キリストの共同体の中では当たり前かもしれない。決して簡単ではないが、本当に神を中心としたとき成し得る。

  2. 恐れ、尊びなさい

    神を恐れる。恐怖ではなく尊敬。主を恐れることは知識の初め。神との関係を正しく知ることがすべての始まりであり基準となる。同時にペテロは王を尊ぶように勧めた。当時の王はネロ?それも神に遣わされているならば、尊ぶべきであり敵をも愛するのがキリスト者。

結論:現代において、この日本において、一市民として私たちもそれぞれの地域に属している。そのなかで、どのように地域に仕えていくのか?キリスト者として生きるなかで、大きな課題となる。この世の悪ばかりを見ていたら、怖くて外にも出られなくなってしまうほど。しかし、私たちは勝利が約束されている。私たちが本当に使えるのは主のみ。すべて主のために、主の栄光のために生きる。この前提をしっかり握っているならば、私たちは自由であり、何も恐れることはない。と同時に、この世の人々を敬い、兄弟を愛し、主を恐れ、王をも尊びながら、生きていくことが求められている。それは喜びであるから。


# by ontheway-chapel | 2017-07-12 15:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「神の力に守られる」

  1. 私たちの日々の生活において

    私たちの日々の生活はまるでジェットコースターのように、目まぐるしく変化する。良い時もあれば、苦しみの時もある。その中で、神の憐みによって自らの歩みに光が当てられ、認罪、悔い改め、信仰告白、救いへと誘われる。それによって新しく生まれ生ける望みを得る。

  2. 終わりの時まで

    信仰の生涯とは、この世界から永遠の世界への旅路である。その生涯すべてにおいて神の保護のもとに生かされている。守られるとは軍事用語。神は私たちを勝利へと導くために、あらゆる誘惑、試練、困難と闘う私たちを最後の最後まで守り通してくださるのだ。

Ⅱ・「試練の先にある栄光」

  1. 喜びを待ち臨む

    あらゆる試練、困難と言った戦いが襲ってくるが、それを忍耐をもって乗り越えることができる。信仰によってそれらが神の御手の中にあることをおぼえ、そこに働く神の助け、慰めを通して人は金が精錬されて純金へと姿を変えて行くようにその信仰が強められていく。

  2. キリストからの称賛

    こうした生涯を歩んでいく先に何が待っているか?どうして信仰によって耐え忍ぶことができるのか?それらすべてがやがての日、イエス・キリストの再臨の時、すべてが称賛とされ、光栄と栄誉となっていくことを信仰をもって確信しているから。信仰の力による。

Ⅲ・「見えないけれども知っている」

  1. キリスト信仰

    ペテロはこの地上において、実際にイエス・キリストと共に生活をし、会話をし、直接学ぶことができた。現代を生きる私たちはこの体験をしていない。しかし、キリストを愛している。目では見たことが無いけれども、信仰の目でイエスを見、体験し、堅く信じている。

  2. 信仰の力

    ペテロはこの信仰に生きるために、心を引き締め、身を慎み、キリストの恵みをひたすら待ち望みなさい、と言った。そのためには試練とも向き合い、キリストの恵みを日々体験し、感謝と喜びに満ち溢れ、その先にある栄光に希望を見つけだし、ひたすらに前進したい。

結論:私たちは信仰を持っている。もちろんその程度の差はあり、強い人もいれば弱い人もいる。でも人と比べるものではない。その人と神様との関係においてどうであるかが大切。私たちはいつも神に守られている。だから安心できる。多くの試練の先には栄光が待ち望んでいる。だから試練と向き合い、乗り越えることができる。キリストを見たこともない私たちがキリストを信じ続けることができるのはどうしてか?信仰の力によって、キリストを味わい、キリストの声を聞き、キリストと共に生きている実感があるから。そしてその先にある栄光の勝利を見ることができているから。なんと素晴らしい信仰の力だろうか。


# by ontheway-chapel | 2017-07-04 17:05 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「父なる神」

  1. 怒りの神

    私たちと神様の関係はかつて、神と敵対するような関係であった。私たちは平気で神様を悲しませることをしていた。神様などいないと本気で思っていた。その関係であるならば私たちは神の敵であり神のさばきの対象であった。神に見捨てられて当然の私たちであった。

  2. アバ(お父ちゃん)と呼べる神

    しかし、神はそのような私たちをそのまま放置するのではなく、壊れた関係を回復できる道を備えてくださった。そして私たちは父なる神を「お父ちゃん」とごく親しい間柄だけが呼ぶことができるような関係へと戻してくださった。本来あるべき関係に戻してくださった。

Ⅱ・「忍耐と慰めの神」

  1. 忍耐

    私たちにはいくつもの試練、理不尽な攻撃にあうことがある。クリスチャンじゃなければ相手に一言文句でも言いたくなる、手を出してやりたくなるほどの思いに駆られることもあるかもしれない。しかし、私たちは耐える。それは我慢とは違うのだとある先生は言う。

  2. 慰め

    私たちが体験する忍耐を要する試練や理不尽と思えることがあても、それが神の許しの中にあるならば、御手の中にあるならば、その先に必ず神の栄光を見ることができる。それまで神は私たちを慰めてくださる。その慰めをいただき私たちも誰かを慰めることができる。

Ⅲ・「喜びと平和の神」

  1. 希望の先にある喜び

    この地上の多くの人が人生に希望や喜びを見出せない。とても悲しいこと。しかし私たちは違う。私たちが神により頼むとき、そこに失望はない。つまり信仰がある時、そこに希望を見出すその信仰が、あらゆる喜びと平安を見出すことができる。それは神から与えられる。

  2. 平和の神

    聖書のいう平和は単に戦争や争いといったものが全くない、ということを意味しているのではありません。神ご自身が私たちの心に平安、心の穏やかさを与えてくださることを指す。クリスチャンでも問題は起こる。しかしその中にいつも神が共におられるから平安がある。

結論:私たちの神は神に敵対しままならば恐ろしいさばきの神であるかもしれない。しかし、神は私たちとの関係を取り戻す道を備えてくださった。それによって私たちはお父ちゃんと呼べるほどの親しい関係を持つようになった。その時、その神が忍耐と慰めを持ち、喜びと平和をもたらしてくださるお方であると知ることができる。私たちの人生、様々な問題があり、悲観してしまうことがある。しかし、主に信頼しより頼むとき、私たちには耐えることができるようになり、神の慰めをいただきながら、その先にある喜びと平和を見出すことができる。私たちの先にあるもの、それは失望や悲しみ、怒りではない。希望に満ち溢れており、喜びと平和が満たされることがはっきりと約束されているのだ。


# by ontheway-chapel | 2017-06-27 09:24 | Comments(0)

# by ontheway-chapel | 2017-06-21 16:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊に満たされた者」

  1. 大胆に語り始めた

    聖霊に満たされた人物には大きな変化が現れた。それは弟子たちが突然他国の言葉で語り始めたということに見ることができるが、同時に、それまで隠れて過ごしていたような弱さが全く消え失せ、大胆に神について語ることができた。皆が驚くばかりのみわざがなされた。

  2. 聖霊の働き

    聖霊は目に見えない。それだけにその働きを私たちは軽視してしまいがちかもしれない。また、その働きに満たされている人を見ても、あの人は変だ。おかしい、かかわらない方がいい、と思うほどの変化があるかもしれない。それほどに聖霊の力はすさまじく素晴らしい。

Ⅱ・「ペテロのペンテコステ」

  1. イエスに従いきれなかったペテロ

    ペテロは弟子たちの中でも本当にイエス様が大好きだった。それだけに色々と教えられ、また怒られ、最後までイエス様について行こうとしたが、そこでもイエス様に従いきれなかった。私たちにも同じような失敗があり限界がある。だからこそ聖霊の助けが必要である。

  2. 大胆に語るペテロ

    そのペテロが今や、聖霊に満たされて大胆に福音を語った。ユダヤ教の正典でもある旧約聖書のヨエル書を大胆に解釈し、キリスト教化してしまった。どうしてこのような高度な解釈がペテロにできたのだろうか?聖霊に満たされた時、一介の漁師だった者が強く用いられる。

Ⅲ・「みな救われる」

  1. 幻、夢を見る

    最近の人たちはなかなか将来のビジョンを持てない、夢を語れなくなっていると言われている。そしてその中にクリスチャンも含まれているかもしれない。私たちが夢と幻を見て、そして聖霊に満たされて、現代における預言者として力強く神のことばを語る者でありたい。

  2. 主の名を呼び求める

    やがてキリストの再臨が必ず訪れる。その時、とんでもなく恐ろしい天変地異が起こると聖書にははっきりと書かれている。それは実に恐ろしいが、しかし主の名を呼ぶ者は、どのような人であっても救われるという。しかし聖霊の働き無しにそのようなことはできない。

結論:今日はペンテコステ(聖霊降臨日)である。イエス・キリストが十字架につけられ死んで後、3日目によみがえられた日から50日目ということで、この名前が付けられました。その日、聖霊に満たされた弟子たちは酒に酔っていると思われるほどに、人々に受け入れがたいほどの変化がもたされた。すべて神のみわざである。そして聖霊に満たされた時、弱かった弟子たちが大胆にキリストを語り、神の救いのご計画を明確に語った。私たちも聖霊に満たされるとき、大胆にキリストを語ることができる。そしてこの聖霊に満たされて、私たちはキリストを主であると告白することができ、その名を呼び求めることができる。その人はみな救われるのだ。


# by ontheway-chapel | 2017-06-05 09:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ユダヤ人の熱心」

  1. パウロの願い
    神様の願いであるように、パウロもまたすべての人が救いに導かれることを願っていた。そのために、あえてユダヤ人があまりに律法を順守することにおける間違いを指摘し、真実が何かを伝えようとした。

  2. ユダヤ人たちの熱心

    ユダヤ人たちは律法を一字一句守ることに熱心であった。しかしその熱心さは知識に基づくものではないとパウロは指摘した。知識とはイエス・キリストを知る知識である。イエス不在の熱心さはやがて自分自身の義を立てる行いに至る。このキリストへの不従順さがユダヤ人の態度の中心となってしまっていた。熱心さの方向性がずれてしまっていたのだ。

   Ⅱ・「私たちの熱心」

  1. 私たちの熱心はどこに

    私たちも日々、一生懸命神様を見上げ、イエス様の救いに感謝をし、神と共に歩もうと熱心に励んでいる。しかし、それは時に律法主義的な義務的な信仰になってしまう。それは難行苦行となる。私たちは神の愛ゆえに熱心でありたい。喜びと感謝が心から湧き出てくるような、信仰生活を送りたい。それが動機となる時、自分の義よりも神の義が第一となるのだ。

  2. ギデオン協会の熱心

    本日はギデオン協会の働きをおぼえての礼拝。かつて私もお手伝いをしたことがある。その尊い働き、熱心さには頭が下がる。10:1415。ギデオンの方が配った聖書をきっかけに救いに導かれた人がどれくらいいるのだろうか?自分たちの義を立てるためだったら、とっくに諦めて、心折れても仕方ない働き。主への熱心さ、信仰の義ゆえにできる働きである。

結論:私たちには限界がある。それを自覚しないで自らが完全であるかのようにがんばることは、キリストを蔑むことであるとパウロは指摘した。ユダヤ人たちは律法を完全に守ることに熱心であった。しかしそれは不可能なことであった。人間の努力で天に行くことはできない。神の力に頼るしかない。イエス様の十字架を信じるしかない。自分の努力を中心にするとき、それは自分を主とすること。私たちはキリストを主としたい。なぜならば、それしか救われる方法はないから。だれでも、イエスを主と告白するとき、私たちは祖の信仰ゆえに義とされ、救いに与り、天の御国へのチケットをいただくことができるのだ。

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http://ontheway-chapel.net/


# by ontheway-chapel | 2017-06-01 16:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「味方である神」

  1. 神が味方であるならば

    パウロは神が味方であることを前提としている。それは御子を惜しむことなく私たちの救い、勝利のために、無罪となるために、十字架につけられたゆえである。神は私たちを滅び、敗北に向かうことを良しとはされなかったから。だから誰も私たちに敵対することはできない。

  2. 何も怖くない

    神を敵に回すことが一番怖い。天地を創造されるほどの力をもったお方、すべてを支配されているお方。この方に勝利できる存在はない。最強。絶対に負けない。それが決して裏切らずに必ず味方となってくれるならば、何を恐れることがあるだろうか?だから安心できる。

Ⅱ・「引き離されない愛」

  1. キリストについて

    私たちをキリストから引き離すことはできない。キリストは死、復活、神の右の座におられ、私たちをとりなしてくださっている。それは私たちをさばく為ではなく、弁護してくださるゆえに。私たちはそれゆえやがての日、神の前に立つとき、喜びと感謝と平安でいられる。

  2. 神の愛から離れない

    私たちが一番恐ろしいのは何か?この地上における患難、苦しみ、迫害、敵からの攻撃か?そうではない、神の愛から引き離されることである。しかし、イエス様が私たちの痛み、苦しみ、恐れのすべてを十字架上で背負ってくださった。これが神の愛。誰も邪魔できない。

Ⅲ・「圧倒的な勝利者」

  1. 私たちを愛してくださった方

    キリストは十字架にかかって死んだ。それは人から見たら完全な敗北かもしれない。しかし、それは圧倒的勝利であった。そしてその十字架の苦難と死に与る者は、キリストと共に復活の勝利と栄光に与る。これ以上の勝利はない。ビクトリーロードは私たちに示されている。

  2. キリストの愛ゆえに

    この地上で私たちを悩ますものはたくさんある。試練、痛み、悩み、苦しみ、理不尽な出来事、死。それに打ちのめされることもある。しかし、どれほどそれらの攻撃が厳しく、強くても、私たちからキリストを引き離すことはできない。キリストの愛に勝るものはないから。

結論:パウロは私たちは圧倒的な勝利者となる、と断言した。その根拠はどこにあるのか?私たちの努力や、能力によらない。それらには限界がある。しかし、キリストの愛が十字架上で私たちに示された。命を犠牲にした愛。それゆえに、私たちは勝利の道が開かれた。神が必ず私たちの味方となってくださるゆえに、私たちには平安がある。そしてキリストによって示された愛ゆえに、私たちは神から引き離されることなく、その生涯を歩むことができ、地上のみならず、天の御国においても永遠に一緒にいることができる。祖の歩みこそ、誰にも阻止することのできないビクトリーロードであり、キリストの愛ゆえに圧倒的な勝利者となることができるのだ。


# by ontheway-chapel | 2017-05-25 18:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と死」

  1. 死と向き合うとき

    パウロは最初にひとりの罪によって人類に死が入ったという。パウロはこの書の中で初めて「死」について語った。パウロは罪についてよりも死について意識を向けて語っている。死は人類にとって決して避けられないもの。死を見つめる。

B.罪と向き合うとき

       パウロは死と向き合うと同時にそこから救われる喜びを見出した。あれほど恐

ろしい死から救われる。私たちも救いの恵みをより深く味わうためには、自分

の罪と向き合うことが必要であり、そこから赦された恵みに目が向けられる。

Ⅱ・「ひとりの罪とひとりの義」

  1. アダムの罪

    パウロはここでアダムの罪に言及する。アダムは間違いなく人類すべての祖先。そのアダムが犯した罪によった与えられた死が後の全人類にまで及んだ。アダムと全人類との連帯。しかし、私たちもアダムと同じように罪を犯している。

B.イエスの義

    イエス・キリストが私たち全人類の罪の刑罰を身代わりとなって十字架におい

て受けてくださったゆえに人々の罪は赦された。同時にキリストは復活によっ

て死をも克服された。イエスと全人類との連帯。しかし、誰にもできないこと。

Ⅲ・「恵みによるいのち」

  1. 何に支配されるか

    人は必ず死ぬ。決して避けることはできない。だから死に支配されているのか?同時にキリストにあるいのちに支配されることについて言及している。死に支配されるならば死は絶望となり、いのちに支配されるならば死は希望となる。

B.永遠のいのちに至る恵み

    いのちに支配されるとはどういうことだろうか?私たちの生き方の中心を罪

(自分)中心から、いのち(キリスト)中心に変えるということ。自分の努力

ではできない。神の愛と憐みによって一方的に与えられる素晴らしい恵み。

結論:私たちは罪を犯します。心の中でとんでもない恐ろしい思いを抱くことがあります。時にはそれが表に出て、意図的、意図的でないにかかわらず、誰かを傷つけたり、逆に思い切り傷つけられたりもします。それら罪の先には死が待っています。しかし、イエス・キリストの十字架の贖い、復活の恵みによって私たちの罪が赦され、さらに永遠のいのちが与えられます。自らの罪を認め、悔い改めてキリストの支配に身を置くならば、アダム以来の罪と死がこのキリストの恵みによって覆われ、これらから完全に勝利されます。死はもはや恐れ、絶望ではなく、希望、喜びと変えられていくのです。


# by ontheway-chapel | 2017-05-15 08:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)