聖書のメッセージ

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川越国際キリスト教会の礼拝メッセージです。

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# by ontheway-chapel | 2017-06-21 16:23 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「聖霊に満たされた者」

  1. 大胆に語り始めた

    聖霊に満たされた人物には大きな変化が現れた。それは弟子たちが突然他国の言葉で語り始めたということに見ることができるが、同時に、それまで隠れて過ごしていたような弱さが全く消え失せ、大胆に神について語ることができた。皆が驚くばかりのみわざがなされた。

  2. 聖霊の働き

    聖霊は目に見えない。それだけにその働きを私たちは軽視してしまいがちかもしれない。また、その働きに満たされている人を見ても、あの人は変だ。おかしい、かかわらない方がいい、と思うほどの変化があるかもしれない。それほどに聖霊の力はすさまじく素晴らしい。

Ⅱ・「ペテロのペンテコステ」

  1. イエスに従いきれなかったペテロ

    ペテロは弟子たちの中でも本当にイエス様が大好きだった。それだけに色々と教えられ、また怒られ、最後までイエス様について行こうとしたが、そこでもイエス様に従いきれなかった。私たちにも同じような失敗があり限界がある。だからこそ聖霊の助けが必要である。

  2. 大胆に語るペテロ

    そのペテロが今や、聖霊に満たされて大胆に福音を語った。ユダヤ教の正典でもある旧約聖書のヨエル書を大胆に解釈し、キリスト教化してしまった。どうしてこのような高度な解釈がペテロにできたのだろうか?聖霊に満たされた時、一介の漁師だった者が強く用いられる。

Ⅲ・「みな救われる」

  1. 幻、夢を見る

    最近の人たちはなかなか将来のビジョンを持てない、夢を語れなくなっていると言われている。そしてその中にクリスチャンも含まれているかもしれない。私たちが夢と幻を見て、そして聖霊に満たされて、現代における預言者として力強く神のことばを語る者でありたい。

  2. 主の名を呼び求める

    やがてキリストの再臨が必ず訪れる。その時、とんでもなく恐ろしい天変地異が起こると聖書にははっきりと書かれている。それは実に恐ろしいが、しかし主の名を呼ぶ者は、どのような人であっても救われるという。しかし聖霊の働き無しにそのようなことはできない。

結論:今日はペンテコステ(聖霊降臨日)である。イエス・キリストが十字架につけられ死んで後、3日目によみがえられた日から50日目ということで、この名前が付けられました。その日、聖霊に満たされた弟子たちは酒に酔っていると思われるほどに、人々に受け入れがたいほどの変化がもたされた。すべて神のみわざである。そして聖霊に満たされた時、弱かった弟子たちが大胆にキリストを語り、神の救いのご計画を明確に語った。私たちも聖霊に満たされるとき、大胆にキリストを語ることができる。そしてこの聖霊に満たされて、私たちはキリストを主であると告白することができ、その名を呼び求めることができる。その人はみな救われるのだ。


# by ontheway-chapel | 2017-06-05 09:21 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「ユダヤ人の熱心」

  1. パウロの願い
    神様の願いであるように、パウロもまたすべての人が救いに導かれることを願っていた。そのために、あえてユダヤ人があまりに律法を順守することにおける間違いを指摘し、真実が何かを伝えようとした。

  2. ユダヤ人たちの熱心

    ユダヤ人たちは律法を一字一句守ることに熱心であった。しかしその熱心さは知識に基づくものではないとパウロは指摘した。知識とはイエス・キリストを知る知識である。イエス不在の熱心さはやがて自分自身の義を立てる行いに至る。このキリストへの不従順さがユダヤ人の態度の中心となってしまっていた。熱心さの方向性がずれてしまっていたのだ。

   Ⅱ・「私たちの熱心」

  1. 私たちの熱心はどこに

    私たちも日々、一生懸命神様を見上げ、イエス様の救いに感謝をし、神と共に歩もうと熱心に励んでいる。しかし、それは時に律法主義的な義務的な信仰になってしまう。それは難行苦行となる。私たちは神の愛ゆえに熱心でありたい。喜びと感謝が心から湧き出てくるような、信仰生活を送りたい。それが動機となる時、自分の義よりも神の義が第一となるのだ。

  2. ギデオン協会の熱心

    本日はギデオン協会の働きをおぼえての礼拝。かつて私もお手伝いをしたことがある。その尊い働き、熱心さには頭が下がる。10:1415。ギデオンの方が配った聖書をきっかけに救いに導かれた人がどれくらいいるのだろうか?自分たちの義を立てるためだったら、とっくに諦めて、心折れても仕方ない働き。主への熱心さ、信仰の義ゆえにできる働きである。

結論:私たちには限界がある。それを自覚しないで自らが完全であるかのようにがんばることは、キリストを蔑むことであるとパウロは指摘した。ユダヤ人たちは律法を完全に守ることに熱心であった。しかしそれは不可能なことであった。人間の努力で天に行くことはできない。神の力に頼るしかない。イエス様の十字架を信じるしかない。自分の努力を中心にするとき、それは自分を主とすること。私たちはキリストを主としたい。なぜならば、それしか救われる方法はないから。だれでも、イエスを主と告白するとき、私たちは祖の信仰ゆえに義とされ、救いに与り、天の御国へのチケットをいただくことができるのだ。

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# by ontheway-chapel | 2017-06-01 16:28 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「味方である神」

  1. 神が味方であるならば

    パウロは神が味方であることを前提としている。それは御子を惜しむことなく私たちの救い、勝利のために、無罪となるために、十字架につけられたゆえである。神は私たちを滅び、敗北に向かうことを良しとはされなかったから。だから誰も私たちに敵対することはできない。

  2. 何も怖くない

    神を敵に回すことが一番怖い。天地を創造されるほどの力をもったお方、すべてを支配されているお方。この方に勝利できる存在はない。最強。絶対に負けない。それが決して裏切らずに必ず味方となってくれるならば、何を恐れることがあるだろうか?だから安心できる。

Ⅱ・「引き離されない愛」

  1. キリストについて

    私たちをキリストから引き離すことはできない。キリストは死、復活、神の右の座におられ、私たちをとりなしてくださっている。それは私たちをさばく為ではなく、弁護してくださるゆえに。私たちはそれゆえやがての日、神の前に立つとき、喜びと感謝と平安でいられる。

  2. 神の愛から離れない

    私たちが一番恐ろしいのは何か?この地上における患難、苦しみ、迫害、敵からの攻撃か?そうではない、神の愛から引き離されることである。しかし、イエス様が私たちの痛み、苦しみ、恐れのすべてを十字架上で背負ってくださった。これが神の愛。誰も邪魔できない。

Ⅲ・「圧倒的な勝利者」

  1. 私たちを愛してくださった方

    キリストは十字架にかかって死んだ。それは人から見たら完全な敗北かもしれない。しかし、それは圧倒的勝利であった。そしてその十字架の苦難と死に与る者は、キリストと共に復活の勝利と栄光に与る。これ以上の勝利はない。ビクトリーロードは私たちに示されている。

  2. キリストの愛ゆえに

    この地上で私たちを悩ますものはたくさんある。試練、痛み、悩み、苦しみ、理不尽な出来事、死。それに打ちのめされることもある。しかし、どれほどそれらの攻撃が厳しく、強くても、私たちからキリストを引き離すことはできない。キリストの愛に勝るものはないから。

結論:パウロは私たちは圧倒的な勝利者となる、と断言した。その根拠はどこにあるのか?私たちの努力や、能力によらない。それらには限界がある。しかし、キリストの愛が十字架上で私たちに示された。命を犠牲にした愛。それゆえに、私たちは勝利の道が開かれた。神が必ず私たちの味方となってくださるゆえに、私たちには平安がある。そしてキリストによって示された愛ゆえに、私たちは神から引き離されることなく、その生涯を歩むことができ、地上のみならず、天の御国においても永遠に一緒にいることができる。祖の歩みこそ、誰にも阻止することのできないビクトリーロードであり、キリストの愛ゆえに圧倒的な勝利者となることができるのだ。


# by ontheway-chapel | 2017-05-25 18:14 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「罪と死」

  1. 死と向き合うとき

    パウロは最初にひとりの罪によって人類に死が入ったという。パウロはこの書の中で初めて「死」について語った。パウロは罪についてよりも死について意識を向けて語っている。死は人類にとって決して避けられないもの。死を見つめる。

B.罪と向き合うとき

       パウロは死と向き合うと同時にそこから救われる喜びを見出した。あれほど恐

ろしい死から救われる。私たちも救いの恵みをより深く味わうためには、自分

の罪と向き合うことが必要であり、そこから赦された恵みに目が向けられる。

Ⅱ・「ひとりの罪とひとりの義」

  1. アダムの罪

    パウロはここでアダムの罪に言及する。アダムは間違いなく人類すべての祖先。そのアダムが犯した罪によった与えられた死が後の全人類にまで及んだ。アダムと全人類との連帯。しかし、私たちもアダムと同じように罪を犯している。

B.イエスの義

    イエス・キリストが私たち全人類の罪の刑罰を身代わりとなって十字架におい

て受けてくださったゆえに人々の罪は赦された。同時にキリストは復活によっ

て死をも克服された。イエスと全人類との連帯。しかし、誰にもできないこと。

Ⅲ・「恵みによるいのち」

  1. 何に支配されるか

    人は必ず死ぬ。決して避けることはできない。だから死に支配されているのか?同時にキリストにあるいのちに支配されることについて言及している。死に支配されるならば死は絶望となり、いのちに支配されるならば死は希望となる。

B.永遠のいのちに至る恵み

    いのちに支配されるとはどういうことだろうか?私たちの生き方の中心を罪

(自分)中心から、いのち(キリスト)中心に変えるということ。自分の努力

ではできない。神の愛と憐みによって一方的に与えられる素晴らしい恵み。

結論:私たちは罪を犯します。心の中でとんでもない恐ろしい思いを抱くことがあります。時にはそれが表に出て、意図的、意図的でないにかかわらず、誰かを傷つけたり、逆に思い切り傷つけられたりもします。それら罪の先には死が待っています。しかし、イエス・キリストの十字架の贖い、復活の恵みによって私たちの罪が赦され、さらに永遠のいのちが与えられます。自らの罪を認め、悔い改めてキリストの支配に身を置くならば、アダム以来の罪と死がこのキリストの恵みによって覆われ、これらから完全に勝利されます。死はもはや恐れ、絶望ではなく、希望、喜びと変えられていくのです。


# by ontheway-chapel | 2017-05-15 08:13 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「信仰の信仰告白」

  1. 福音を恥としない

    私たちが漠然と想像する信仰告白というと、○○を信じます、というものが多いかと思います。しかし、パウロの信仰告白は「福音を恥としない」というものでした。神様を信じ、教会に行っていることを後ろめたく思うかもしれないが、それはイエスを恥じる事であります。

  2. 信仰告白は福音宣教である

    パウロは福音を恥としないと言いました。パウロもかつてキリスト教を迫害していました。色々と後ろ指指されることもあったかもしれません。でもそれはパウロ個人の問題であり、イエス様自身は決して恥ずべき存在ではないから最後まで宣教することができたのです。

Ⅱ・「神の怒り」

  1. 神の怒りを知る

    私たちは意識、無意識のうちに神様の優しさばかりに目を向けてしまいがちです。確かに優しい、信じられないくらい私たちを愛してくださっています。その光がどれほどの恵みであるかを知るために、私たちは闇を知る必要があります。闇から光を見るときそれは美しい。

  2. 不敬虔と不正

    パウロは不義が真理をはばむ、と言いました。私たちの側で神様のことをはばむことをしてしまうとき、神様の働きを拒み、止めてしまうとき、神の怒りが示されるのです。そしてそれはイエス・キリストの十字架です。私たちの罪を放置できない神の思いが十字架なのです。

Ⅲ・「感謝しよう」

  1. 十字架は恵み

    神は人間の不義、不敬虔、不正などの罪なる姿をみて怒られた。その人間を放っておくことができなかった。それゆえに十字架を備えられた。しかしそれはさばきではなく、救いの道を与えるためでした。イエス様は私たちの身代わりとなって神のさばきを受けたのです。

  2. 感謝の信仰に生きる

    パウロは福音を恥としない、イエス様の十字架の恵みを恥としないと告白しました。なぜならば、この十字架には大きな恵みが、愛が、喜びがあるからです。私たちもこの素晴らしい恵みのうちにいます。これ以上の喜びはありません。何も恥じる事はありません。感謝!!

結論:私たちの心の中に、奥深くのどこかに福音を恥じる思いがあるかもしれない。堂々と教会に行っていること、信仰を持っていることを宣言できない思いがあるかもしれません。イエス様には何一つ恥じる事はありません。私たちは感謝こそすれ、恥じる事はありません。堂々と恥じる事のない福音を伝えていくお互いとさせていただきましょう。闇のどん底から救い出されたときの光のまぶしさ、感動を改めて思い出して、感謝の信仰に行きましょう。


# by ontheway-chapel | 2017-05-08 17:27 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「とれなかった魚」

  1. テベリヤの湖での出来事

    テベリヤの湖とはガリラヤ湖のこと。エルサレムで復活のイエス様と出会った弟子たちはガリラヤに戻っていた。そこで漁師だったペテロは必要な食物を求めて漁に出た。かつて彼らはこれから人間をとる漁師になるようにと言われていたが、この夜は全く釣れなかった。

  2. 夜更けと夜明け

    夜中は光のない状態。イエス様無き状態。本来ならば夜は魚を釣るには絶好の時間。しかし釣れなかった。イエス様無き宣教、イエス様に信頼しない宣教は実を結ぶことはない。夜明け、イエス様と一緒の時に魚は釣れた。イエス様に頼ることがどれほど大切なことか。

Ⅱ・「思い出した弟子たち」

  1. イエス様との思い出

    弟子たちはかつて同じような場面に遭遇していた。その時も自分たちの力で頑張ったとき、魚は全く釣れなかった。しかし、イエス様に言われたとおりにしたとき、大漁となった。それを思い出した時、彼らの目が開かれて、目の前にいるのがイエス様であると分かった。

  2. 少しでも速く!

    復活のイエス様との出会いはどのような時であっても人の心を喜ばせる。ペテロは湖に飛び込んで少しでも早くイエス様の近くに行きたかった。イエス様が共におられると実感して心躍り、飛び上がるほど喜びと感動があるだろうか?イエスが共におられるとは喜びである。

Ⅲ・「共におられるイエス様」

  1. イエス様を体験する

    彼らはそこにいるのがイエス様であるとわかっていたので、あなたはどなたですかとは尋ねなかった。多くの人はイエス様が共におられることを知らないから必死に色々なところに拝みに行き、助けを求め迷走している。私たちはもう名を尋ねなくても迷わなくてもよい。

  2. 神の大きな愛

    魚の数153匹について様々な解釈があるが、どんなたくさんの魚が入っていてもその網は破れなかった。天の御国もどれほどたくさんの人が救われ、天国に行くことができても十分に受け入れるだけの準備がなされている。私たちも網から零れ落ちることなく天国を目指そう。

結論:十字架の死に勝利した復活のイエス様は「世の終わりまであなたと共にいる」と約束された。そして弟子たちに世界宣教のビジョンを託された。そのおかげで日本に住む私たちも救いの対象となり、素晴らしい恵みを受けることができた。弟子がイエス様を見つけて居ても立っても居られない気持ちで湖に飛び込んだように、私たちもそのイエス様がいつも共におられることを喜び、感謝したい。決して毎日が楽しいわけではない。痛み、苦しみ、悩みもある。しかしイエス様が私たちと共にいてくださる。もうこれから決して離れることはない。死んでも離れない。ずっと一緒。だから安心して毎日を喜びと感謝をもって過ごそう。


# by ontheway-chapel | 2017-04-23 07:33 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「復活に見る人々の反応」

  1. 女性たちの反応

    イエスの墓を見に行った女性たちは、空っぽの墓を目撃した。しかも御使いを通してイエスがよみがえられたというではないか!そんなこと信じられない。ごく自然な反応であるが、彼女らは御使いの言われた通り、イエスの復活を大喜びで宣べ伝えに行った。イエスの復活は、人々に大きな喜びをもたらした。

  2. 祭司長たちの反応

    一方、墓からイエスがいなくなったことを知った祭司長たちは、墓の番兵に金を渡して嘘をでっちあげるように命令した。彼らは陰謀をもってイエスを捕らえ、嘘偽りを並べて裁判にかけて、イエスを十字架にかけた。そして復活の事実も捻じ曲げようとした。しかし、そのいずれも失敗に終わっている。どんなに人が知恵を振り絞っても、神のご計画は超えられないのだ。

   Ⅱ・「最後のみことば」

  1. 出て行きなさい

    イエスが弟子たちに現れたのち、弟子たちに「出て行ってキリストの弟子を作るように」と命じられた。それは現代において私たちにも託された命令でもある。たとえその人がどのような過去を持っていたとしても、イエス・キリストの十字架と復活を信じていくならば、全く新しい人生がスタートする。新しいスタートを共に切ろうではないか。

  2. 共におられる

    少し前までイエスの死に落ち込み、逃げ隠れていた弟子たち。そのような状態でどうして出て行ってキリストを伝え、弟子を作ることができるだろうか?しかし、イエスは「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」と約束された。私たちは弱い存在であり、欠けだらけな者。しかし、死をも克服され、勝利されたお方、不可能と思えたことを可能にされた方が共にいてくださるとき、私たちには勇気と力が与えられる。

結論:死んだ人がよみがえる。かつての私は最後の最後までこの事実を受け入れることができなかった。そんなこと有り得ない。証拠を見せて見ろと息巻いていた。しかし、キリストの復活は事実であり、今も生きておられる。だから私たちは死の先にある希望(天国)を見上げて生きることができる。このような本来ならば天国に行くに値しないような者にその切符が与えられている。これほどうれしいことはない。しかも、先に召された方々とそこで互いによみがえって再会できる。この事実を共に喜ぼう。そしてイースターをお祝いしよう。


# by ontheway-chapel | 2017-04-17 08:26 | Comments(0)

本論:Ⅰ・「イエスの死」

  1. 十字架上のイエスのことば

    イエスは十字架上で7つの言葉を発したといわれている。それは赦しであり、祝福であり、旧約聖書に記されていたことの成就でありました。イエスは最後まで神の御旨に従い、その使命に生きた。その目的は私たちの罪の身代わりであり、私たちの救いのためであった。

  2. わが神、どうして見捨てるのか

    十字架上における第4のことば。私たちにとって神に完全に見捨てられるほど恐ろしいことはない。人類すべての罪を背負ったイエスはその恐怖をも背負ってくださった。しかしこれによって私たちには神との真実の和解の道が開かれた。その中心にはイエスの愛がある。

Ⅱ・「勝利に向かって」

  1. 幕が裂けた

    イエスが息を引き取った時、神殿の幕が裂けた。この幕の奥には大祭司だけが年に一度だけ入ることができる神と人との隔ての幕であった。しかし、イエスが人類すべての罪を負って身代わりとなったことで、この隔てが取り去られた。古き時代の終わりの瞬間であった。

  2. 墓が開いた

    幕が裂かれた後に幕が開いた。これはまさに新しい時代の幕開けであった。つまり、イエスが死を克服された象徴でもある。イエスが死に勝利した、つまり私たちにも完全なる勝利の道が開かれたことを意味している。イエスを信じる者たちの未来への希望が開かれたのだ。

Ⅲ・「葬られたキリスト」

  1. 勇気をもって

    アリマタヤのヨセフというイエスを十字架につけた側のグループに属していた一人の人物が、勇気をもってイエスの埋葬を申し出た。それは自らのこれからの立場を危うくしかねない行為であったが、彼は人々の目よりもイエスのためにできる最善の道を選んだ。

  2. 死んで葬られた

    イエスは十字架上で完全に死に、そして墓に葬られた。これは間違いのない完全な事実である。なぜならば、私たちの罪が完全に赦されるためには完全に死ななければならなかった。他の人々と同じように墓に葬られた。しかしこれは敗北ではなく完全な勝利への道であった。

結論:イエス様は十字架上で何を考えていたのでしょうか?痛みから早く楽になりたい、この苦しみから逃げ出したい、どうしてこんな目に合わなければならないのか、などなど自分のことだけを考えていたのでしょうか?いや、おそらくご自身を通して神様が示そうとされた神の人類に対する愛を思っていたのではないかと思うのです。では、神が御子イエス様を通して示された犠牲の愛に対して、私たちはどのように応答すべきでしょうか?私たちがこの愛を知って、この愛によって生かされる。これまで培ってきた自分中心の自分を捨てて、全く新しい神の愛に生きる生き方を目指していこうではありませんか。


# by ontheway-chapel | 2017-04-11 15:11 | Comments(0)